パタンと扉が閉まる音と共に、しわがれた声がした。
玲燕は入り口のほうを振り返る。そこには、濃い紫色の袍服に身を包んだ壮年の男性が立っていた。顎には立派な髭を蓄えている。
「甘殿自らがここにお越しになるとは。ついにこちらの意見に賛成してくれるということかな?」
天佑はその男を見て、にっこりと笑みを浮かべた。
「これは、高殿。あいにくですが、新任の官吏のリストを届けに来ただけです」
「そんな雑用を吏部侍郎であられる甘殿自らがなさるとは、よほど吏部はお暇らしい。いやいや、羨ましい限りですな」
きつい皮肉を織り交ぜ、男は天佑の隣にいた玲燕に視線を移した。
「見慣れない顔だが、若手の官吏か? 君もそんな閑職ではなく、礼部に来たらどうかね」
玲燕は目の前にいる男を、まっすぐに見返す。
年齢は五十代だろうか。髪や髭にはだいぶ白髪が混じっていた。
濃い紫色の袍服はかなりの高位であることを表わしており、腰帯には帯銙(たいか)と呼ばれる飾りがたくさん付いていた。
(礼部でかなりの高位で高氏というと──)
玲燕の知識から導き出される人物はひとり。礼部のトップ、礼部向書である高(こう)宗平(そうへい)だ。
「大変ありがたいお話ではありますが、私は甘様を尊敬しておりまして是非その下で働きたいと思っております。人事を扱う吏部では人脈こそ最大の宝。どんなに忙しくとも、足を運ぶ手間を厭うべきではありません」
きつい皮肉にひるむことなく、玲燕はにっこりと微笑む。
高宗平はぴくりと眉を動かした。
「甘様、戻りましょう」
玲燕は天佑に声をかける。
「そうだな」
ふたりは一礼し、その場をあとにした。
自分の執務室に戻った天佑は、椅子にどさりと座った。
玲燕はその様子を、静かに見つめる。
「天佑様は高様とあまり仲がよろしくないのですか?」
「仲がよくないというか……、あの嫌みは疲れるだろう。立場的に聞かぬわけにもいかぬ」
「そういうことですか」
玲燕は相づちを打つ。
礼部のトップである高宗平の品位は天佑より上だ。天佑の言うとおり、彼を無碍にするわけにはいかないだろう。
ねちねちとした嫌みは聞いているだけで精神的な体力をそぎ取るものだ。
「先ほど高様か仰っていた〝こちらの意見〟とはなんですか?」
玲燕は尋ねる。先ほど礼部で出会った高宋平は、天佑に向かって『ついにこちらの意見に賛成してくれるということかな?』と言っていた。
「例の鬼火騒ぎを沈めるために、国家を挙げて大規模な祈祷を行うべきだと主張している」
「ああ、なるほど……」
玲燕は肩を竦める。
鬼火があやかしの仕業であるならば、祈祷で沈めるほかない。
そして、もしも祈祷をするならば、取り仕切るのは礼部の役目だ。
実際には鬼火はあやかしの仕業ではないが、犯人捜しをするためにそれは公にはされていない。
高宗平はきっと、あの鬼火はあやかしの仕業であると信じているのだろう。
(高様としては、皇帝陛下を心配してそのような進言をしているのかもしれないわね)
けれど天佑からすると、それを認めると『潤王が皇帝として相応しくないと天帝が怒っている』という噂話を天佑も信じていると周囲から捉えかねられない。なので、同意するわけにはいかないのだろう。
ちょうどそのとき、部屋の扉をノックする音がした。
「失礼いたします。軽食の甘味をお持ちしました」
声がけと共に入室した女官はおやつの載った盆を持っていた。部屋を与えられるほどの高品位になると、昼食以外に一日二回の甘味が運ばれるのだ。
「そこに置いてくれ」
天佑が机の端を指さす。
「はい」
しっかりと化粧をした女官は顔を見ることもなく要件のみを言う天佑をうっとりと見つめ、頬を染める。そして、同じ部屋にいる玲燕に視線を移したので、玲燕はにこりと微笑み返した。女官は目をぱちくりと瞬かせると、にこりと笑った。
女官は皿を言われた場所に置くと、頭を下げて部屋を出る。
そのタイミングを見計らい、天佑が口を開く。
「玲燕もあのような顔をするのだな」
「あのような顔?」
「にこりと笑っていた」
「私をなんだと思っているのです。笑うことだってあります」
「ふうん。俺には見せない」
「見せる必要がないので」
玲燕は素っ気なく言い放つ。
「そう言われると、見たくなるな」
「天邪鬼ですか」
玲燕がじろっと睨むと、天佑はふっと笑って先ほど女官が用意した皿を視線で指す。
「先ほど茘枝を取ってしまったから、代わりにそれは好きなだけ食べるとよい」
「本当ですか?」
玲燕は思わぬ申し出に目を輝かせる。
皿に載せられていたのは、胡麻餡がたっぷりと詰まった胡麻餅と乾燥した棗(なつめ)が二つだった。
「あ、でも……」
玲燕は胡麻餅に伸ばしかけた手を引く。この胡麻餅と棗はそれなりの値が張る物のはずだ。ライチ一粒に対する礼としては、貰いすぎな気がする。
「なんだ、遠慮しているのか?」
「貰いすぎなのではないかと」
「遠慮するな。玲燕はおかしなところで気を使うのだな。先ほどは高氏にあれだけ堂々と言い返し、視線を送る女官に笑顔で会釈を返していたのに」
「高様の件は、ああ言わないとずっと話が続きそうだったではありませんか。それに、目が合ったら挨拶するのは、最低限の礼儀でございます」
「そのとおりだな。だから、私は話す必要がない人間とは目を合わせない。これからは、女官への挨拶役は全て玲燕に任せよう」
天佑は愉快そうに笑う。
どこかからかっているような様子に玲燕が言い返そうとしたそのとき、第三者の声が割り込んできた。
「これは、楽しそうだな。俺も混ぜてくれ」
ふと見れば、部屋の入口に見知らぬ人影があった。片手を扉枠に預け、こちらを見つめている。
玲燕は突然現れたその人物を呆けたように見上げた。
しっかりとした上がり眉、まっすぐに人を射貫くような目つき、えらの張った顎は男らしい凜々しさがある。背が高くがっしりとしたその姿はまるで軍人のようだが、服装は上衣下裳を着ている。その少しくすんだ黄色の上衣下裳の全体に細やかな文様が入っており、一目で絹の高級品だとわかった。
男は玲燕と目が合うと、少し意外そうに片眉を上げ、上から下まで視線を移動させる。
「本当に、若いな。それに、女だ。どんな仙人のような老師が現れるのかと思っていたが」
「だから、若い女性だと言ったではないですか」
「実際にこの目で見るまでは信じられなかったのだ」
男はつかつかと部屋に入ると、おもむろに椅子を引き玲燕と同じ机に向かった。
「力試しをしてみたい」
「力試し?」
玲燕は男を見返す。
「そうだな──」
男は周囲を見回し、たまたま目に入った皿に載った胡麻餅に手を伸ばした。
「角度計を使わずしてこの胡麻餅を喧嘩がないようにきっちりと三等分にせよと言われたら、どのように分ける?」
玲燕は丸い胡麻餅をじっと見つめてから顔を上げ、男を見た。
「棒は三本ありますか?」
「これでよいか?」
男は近くにあった竹ひごを三本、玲燕に手渡した。
「ありがとうございます。正確に切るならば、こうです」
玲燕は二本の竹ひごを胡麻餅のちょうど中心辺りで直角に交差させるように置き、もう一本は餅の縁と中心のちょうど中間地点に、既に置かれた竹ひごの一本と平行になるように置く。そして、最後に置いた竹ひごと餅の縁が接する二点を指さした。
「この二点から中央に向かって切り、最後にこの鉛直に置かれた竹ひごに沿って中心まで切れば、綺麗な三等分です」
天佑はそこからその胡麻餅を覗き込む。確かに玲燕の言うとおりに切れば、美しい三等分になる。
「ただ、この方法は道具──今で言うと竹ひごが必要で面倒なので、私ならやりませんね」
「ほう。では、どのように切る?」
男は興味深げに玲燕に聞き返す。
「では、試しにあなた様が三分の一を切りとってみてください」
「こうか?」
男はナイフで胡麻餅に二カ所切れ目を入れて、目寸の三分の一を切り取った。
「では、今度は天佑様。大きい方を二等分して下さい」
「わかった」
玲燕に促された天佑は、ナイフを手に取るとそれを半分に切る。
三つに切られた胡麻餅はほぼ等分に見えるが、よく見ると微妙に大きさが違う。
「では、私はこれを頂きます」
そういうと、玲燕はその中で一番大きい胡麻餅を手に取り、口に放り込む。
そして、玲燕の行動に唖然とする男ににこりと笑いかけた。
「では、次は陛下がお取り下さい。ご自分達で三等分に切り分けたのだから、不満などないでしょう?」
それを聞いた途端、男は耐えきれぬ様子で笑いだした。
「ははっ! なるほど、これは面白い奴だ。それに、よく俺が皇帝だと気付いたな?」
「見ればわかります」
「どの辺で? わざわざ、普通の袍服を着てきたのに」
男──変装姿の潤王は自分の来ている袍服を指さす。
「まず、吏部侍郎であられる天佑様の部屋にノックもなしに入ってきたこと。すぐに高位の身分だとわかりますが、そのくせ高い身分を表わす色の袍服を着ているわけでなければ、腰に革帯もしていらっしゃらない。なのに、刀をぶら下げるというちぐはぐさ。さらに、髪に薄らと冕冠(べんかん)を被っていた後が付いている。もう、『私は皇帝です』と言っているようなものです。そして決定的なことがひとつ。天佑様にしか言っていないはずの私が錬金術師であるという事実を、あなた様は知っていました。そうでなければあのようなおかしな質問を突然したりはしないでしょう?」
淡々とした玲燕の解説に潤王は目を丸くしたが、再び声を上げて笑い出す。
「これは見事だ。さすがは天佑が連れてきただけある」
そのやりとりを眺めていた天佑は、会話が一旦途切れたタイミングを見計らっておもむろに口を開く。
「英明様。改めてご紹介いたします。こちらが錬金術師の葉(ヨウ)玲燕殿です」
英明とは、潤王の真名だ。それを呼ぶことを許されるとは、よほど天佑は皇帝の覚えめでたいのだろうと玲燕は悟った。
一方の潤王は、ふむと頷いた。