伊賀男衆、と組との乱痴気騒ぎによって汚れた着物の埃を払った私。
「ほら、急げ」
何故か慌てた様子の兄に連れられ、廊下を走るようにして奥座敷に向かった。
そして父がいるであろう奥座敷に辿り着く前。控の間から黒袴姿のお侍様が出て来た所に偶然居合わせてしまう。
「おっと、失礼」
ぶつかりそうになった私を華麗に避ける目付きの鋭いお侍様。見廻りなのか何なのか。頭を軽く下げると、廊下を歩いて行ってしまったが。
(え、今のって帷様付きの近衛の、ええと)
確か吉良と呼ばれていた人のような。
だとすると、父の元を訪れたお客様として思い当たる人物は……。
(もしかして帷様?)
私の心は浮き立つ。
(でもまさかそんなわけないか)
すぐに浮き立つ心を封印するために、「多分他人のそら似だろう」と自分に言い聞かせる。何故なら期待して、違ったらガッカリする。だったら最初から期待しないに限るからだ。
「琴葉、早く来なさい」
「あ、はい」
私は兄に急かされ、慌てて後を追う。そして奥座敷の襖の前に到着すると、兄と仲良く並んで正座した。
「衝撃に備え、一応頭を下げておいたほうがいい」
(え、どう言う意味?)
衝撃とは一体何だろうと思いつつ、言われた通り私は頭を下げておく。
当たり前だが、檜の床しか見えない。
「父上、正澄でござる。琴葉を連れて参りました」
「うむ、入れ」
座敷の中から、改まった父の声がして、私は檜の木目と睨めっこしたまま、体を強張らせる。
そしてすぐに襖が開く音がし、兄が隣で私と同じように即座に頭を下げた。
「そんな所で畏まるでない。早く入ってこい」
どこかで聞いたような、懐かしいような、そんな声が耳に届く。
「邪魔するでござる。琴葉もほら行くぞ」
兄のお許しが出たので、私は顔をあげる。
するとそこにいたのは、年配男性を背後に控えさせ、江戸紫色の紋付き袴姿で堂々たる佇まいを見せる帷様だった。
その姿を目にし、まず思ったのは。
(え、どうして?)
それからじわじわと嬉しい気持ちが込み上げた。そして自分が砂埃を払っただけの、紅掛花色に染めた、縦縞模様の小袖姿に身を包んでいる事に気付き、恥ずかしい気持ちになった。
(こんな姿で失礼じゃない?)
ついうっかり普段着。それだけでも後ろ暗い気持ちになるのに、現在の私は空太と取っ組みあったせいで、着崩れている。
久々に顔を合わせる事が出来た帷様だ。だから完璧……とまではいかなくとも、せめてもう少し身綺麗な格好でお会いしたかった。
(兄上の意地悪)
私は自分が空太と組み合った事はさておき、兄が着替えの時間もくれなかった事に頬を膨らませる。
「何をしている。入りなさい」
少し不機嫌そうな父の声に促され、私はおずおずと部屋に入る。
そして当たり前のように、出入り口近く。下座に腰を下ろしかける。するとすかさず父から声が飛んできた。
「私の隣に来なさい」
そう口にする父は、ピシリと確かに自分の横を指差している。
(え!そうなの?なんで?)
溢れ出す疑問。しかし、兄がわざとらしく空咳をしたので、私は遠慮がちに父の隣に座る。
そんな私を見届けたのち、今度は兄が私の背後に控えるように腰を下ろしたものだから、ますます私は混乱する事となった。
通常女であり、双子でもある私が兄を差し置いて父の隣に座る事などあり得ない。
そんな普段では考えもつかぬ不可解な状況に思うのは。
(えっと、私ってば何かしたっけ?)
その思いに尽きる。
ビクビクした気持ちを抱きつつ、私は堪えきれず帷様の顔を確認する。
「久しいな」
帷様は私と目が合った瞬間、とても優しげに微笑んだ。
その瞬間、私は嬉しい気持ちを通り越し、何故か違和感を覚えた。
(しばらく見ないうちに、雰囲気がかわった?)
私の知る帷様は、今のように穏やかさや親しみやすさといった雰囲気を前面に出すような事は滅多になかった。
(照れ隠しで不機嫌そうな顔か、心情を読み取るのが難しい無表情か)
とにかく今目の前にいる帷様のように、柔和な雰囲気を全面に押し出すような、そんな姿は見た事がない。
私は何がどう違うのか見極めようと、帷様の顔を見つめる。すると帷様は慈愛深く口元を緩めた。その姿を目の当たりにし、何かを企んでいるように思えてしまい、もはや警戒しなければと思う有様だ。
(もしかして、恋する気持ちは幻だったとか?)
時が経ち……といっても、十日程度ではあるけれど、大奥という特殊な環境を離れ、私の心は熱から覚めた。だから久しぶりにお会いできて嬉しいはずの帷様に対し、違和感を感じてしまうのかもしれない。
それは言い換えるならば。
(風邪が治るみたいな感じなのかも知れない)
一人納得していると人当たりの良い笑みを浮かべた帷様が、待ちきれないと言った感じで口を開く。
「今日はお主に美麗の件、その顛末を話そうと思ってな」
「お心遣い、痛み入ります」
私は頭を下げながら思う。
(確かに美麗様がどうなったか。それは気になるところだけれど)
そもそも大奥内で起こった事件が口外される事はない。
だから私は帷様からうかがわなければ、美麗様のその後を知る事は一生ないだろう。
(だからありがたい事なんだけど)
その為だけに我が家にわざわざ訪れたのだとしたら、何て律儀な人なのだろうと好感度大ではある。一方で公方様ともあろう御方がその為だけに私の元を訪れるなんてことある?と帷様の行動を不信に感じる気持ちも抱く。
(だって控えの間にはやたら、お侍様がいたし)
以前半蔵門まで見送って頂いた時に比べ、今回は警護に当たる人数が明らかに多い。
(同じお忍びでも、外に出るからかな)
半蔵門から徒歩数分といった距離でも、確かに江戸城から外である事には変わりない。
(考え過ぎなのかな)
色々と腑に落ちない違和感を感じつつ、私は帷様を見つめる。
「伊桜里は美麗を大奥に閉じ込めておくこと。それを望んでいたようだが、数々の罪を犯した者を大奥にこのまま置いていくわけにはいかない」
帷様はそこで言葉を区切ると、打って変わって厳しい目つきになった。
「よって。入れ墨のち、奴刑。つまり吉原にて年季なしの遊女奉公に処するものとした」
「え?」
思いもよらぬ沙汰に、私は言葉を失う。
そもそも奴刑とは女性に対してのみ科せられる刑罰だ。
内容的には人別帳から除き、個人に下げ渡し奴婢身分とするもの。
てっきり私は、お夏さん殺しの罪で美麗様は死罪になると思っていた。
(殺人を犯しておいて、奴刑だなんて)
実に生ぬるいとしか言いようがない。
「勘違いするでない。情けをかけたわけではないぞ」
帷様が私の顔に浮かぶ疑問を察したのか答える。
「では何故」
(死罪になさらないのですか)
私は喉まで出かかったその問いを飲み込む。
それを尋ねてしまえば、公方様が決めた沙汰に対し「異議あり」と申立をしているように思われそうだからだ。
「この度の一件。打首獄門がふさわしい。正直私はそう思うほど、美麗を憎んでおる」
帷様は眉間にシワを寄せ、重々しい口調で続ける。
「しかし、殺してしまえばそれで終わり。それに吉原に放り込んでおき、私の為に働かせるのも悪くない。伊桜里もまた、あやつが生きて苦しむ事を望んでおったのだからな」
「生きて苦しむ……」
私は思わず復唱する。
「そうであろう。二度と出られぬ点においては大奥も遊郭も同じこと。ただ、大奥にいれば、それなりの夢は見られただろうが」
何処か自嘲的に言い放つ帷様。
「それでは美麗様はこれからずっと、吉原で暮らされるのでしょうか」
「まぁ、そうなるな」
「あの……その、お仕事とかもされるって事ですか?」
美麗様がうっかり口を滑らせ、大奥の情報を漏らす。
その危険性はないのだろうかと心配になる。
「大奥の事を口外しないかどうか。その事を案じておるなら、心配無用だ。あやつを預けた妓楼は、牡丹屋だからな」
「牡丹屋ですか?」
思わず帷様の口から飛び出た言葉を繰り返す。
(それって、弥助様の店じゃない)
私は見知った店の名前が飛び出した事に驚くものの。
(あぁ、でもあそこなら監視の目が届くからか……)
すぐに帷様の言わんとする事を理解する。
というのも、吉原遊廓内にある大店と呼ばれる店のひとつ牡丹屋は、情報収集のため公儀が隠密に経営している妓楼だからだ。
そして情報の受け渡し場所として、伊賀忍が良く出入りしている店の一つでもある。
「牡丹屋の主人、弥助はそなたが知っての通り、忘八を地で行く男だ。あやつに任せておけば、美麗も大奥について流石に口を割らんだろう」
「確かにそうですね」
私は世間から忘八と蔑まれる弥助様の事を思い浮かべる。
そもそも忘八とは、「仁・義・礼・智・忠・信・孝・貞」の八徳を失った者のこと。
妓楼の楼主は、遊女達に対し情に流される事なく、商品として扱える冷酷さを持っている。よって人々から「忘八」と蔑称されているのである。
(だけど仕事だものね、そうならざるを得ないのよ、たぶん)
私個人としては、弥助様の事を既にこの世の酸いも甘いも噛み分けるような、老成した雰囲気を醸し出している人物だと評している。
「まぁ、あの場で出世するのも、朽ち果てていくのも、全ては美麗次第だという事だ」
自分の手を離れたと言わんばかり。帷様はあっけらかんとした様子で話を締め括りにかかる。
「そうなりますよね……」
返事をしつつ、内心複雑な気持ちを抱く。
正直自分でも、美麗様にどのような罪を課すのが正しいのか、それはさっぱりわからない。
(でもそっか。遊女として生きていく)
それは御中臈として、大奥にいた時よりずっと大変な事だけは確かだ。
私は美麗様の辿る未来に思いを馳せ、改めて彼女が犯した罪の重さを実感するのであった。
「ほら、急げ」
何故か慌てた様子の兄に連れられ、廊下を走るようにして奥座敷に向かった。
そして父がいるであろう奥座敷に辿り着く前。控の間から黒袴姿のお侍様が出て来た所に偶然居合わせてしまう。
「おっと、失礼」
ぶつかりそうになった私を華麗に避ける目付きの鋭いお侍様。見廻りなのか何なのか。頭を軽く下げると、廊下を歩いて行ってしまったが。
(え、今のって帷様付きの近衛の、ええと)
確か吉良と呼ばれていた人のような。
だとすると、父の元を訪れたお客様として思い当たる人物は……。
(もしかして帷様?)
私の心は浮き立つ。
(でもまさかそんなわけないか)
すぐに浮き立つ心を封印するために、「多分他人のそら似だろう」と自分に言い聞かせる。何故なら期待して、違ったらガッカリする。だったら最初から期待しないに限るからだ。
「琴葉、早く来なさい」
「あ、はい」
私は兄に急かされ、慌てて後を追う。そして奥座敷の襖の前に到着すると、兄と仲良く並んで正座した。
「衝撃に備え、一応頭を下げておいたほうがいい」
(え、どう言う意味?)
衝撃とは一体何だろうと思いつつ、言われた通り私は頭を下げておく。
当たり前だが、檜の床しか見えない。
「父上、正澄でござる。琴葉を連れて参りました」
「うむ、入れ」
座敷の中から、改まった父の声がして、私は檜の木目と睨めっこしたまま、体を強張らせる。
そしてすぐに襖が開く音がし、兄が隣で私と同じように即座に頭を下げた。
「そんな所で畏まるでない。早く入ってこい」
どこかで聞いたような、懐かしいような、そんな声が耳に届く。
「邪魔するでござる。琴葉もほら行くぞ」
兄のお許しが出たので、私は顔をあげる。
するとそこにいたのは、年配男性を背後に控えさせ、江戸紫色の紋付き袴姿で堂々たる佇まいを見せる帷様だった。
その姿を目にし、まず思ったのは。
(え、どうして?)
それからじわじわと嬉しい気持ちが込み上げた。そして自分が砂埃を払っただけの、紅掛花色に染めた、縦縞模様の小袖姿に身を包んでいる事に気付き、恥ずかしい気持ちになった。
(こんな姿で失礼じゃない?)
ついうっかり普段着。それだけでも後ろ暗い気持ちになるのに、現在の私は空太と取っ組みあったせいで、着崩れている。
久々に顔を合わせる事が出来た帷様だ。だから完璧……とまではいかなくとも、せめてもう少し身綺麗な格好でお会いしたかった。
(兄上の意地悪)
私は自分が空太と組み合った事はさておき、兄が着替えの時間もくれなかった事に頬を膨らませる。
「何をしている。入りなさい」
少し不機嫌そうな父の声に促され、私はおずおずと部屋に入る。
そして当たり前のように、出入り口近く。下座に腰を下ろしかける。するとすかさず父から声が飛んできた。
「私の隣に来なさい」
そう口にする父は、ピシリと確かに自分の横を指差している。
(え!そうなの?なんで?)
溢れ出す疑問。しかし、兄がわざとらしく空咳をしたので、私は遠慮がちに父の隣に座る。
そんな私を見届けたのち、今度は兄が私の背後に控えるように腰を下ろしたものだから、ますます私は混乱する事となった。
通常女であり、双子でもある私が兄を差し置いて父の隣に座る事などあり得ない。
そんな普段では考えもつかぬ不可解な状況に思うのは。
(えっと、私ってば何かしたっけ?)
その思いに尽きる。
ビクビクした気持ちを抱きつつ、私は堪えきれず帷様の顔を確認する。
「久しいな」
帷様は私と目が合った瞬間、とても優しげに微笑んだ。
その瞬間、私は嬉しい気持ちを通り越し、何故か違和感を覚えた。
(しばらく見ないうちに、雰囲気がかわった?)
私の知る帷様は、今のように穏やかさや親しみやすさといった雰囲気を前面に出すような事は滅多になかった。
(照れ隠しで不機嫌そうな顔か、心情を読み取るのが難しい無表情か)
とにかく今目の前にいる帷様のように、柔和な雰囲気を全面に押し出すような、そんな姿は見た事がない。
私は何がどう違うのか見極めようと、帷様の顔を見つめる。すると帷様は慈愛深く口元を緩めた。その姿を目の当たりにし、何かを企んでいるように思えてしまい、もはや警戒しなければと思う有様だ。
(もしかして、恋する気持ちは幻だったとか?)
時が経ち……といっても、十日程度ではあるけれど、大奥という特殊な環境を離れ、私の心は熱から覚めた。だから久しぶりにお会いできて嬉しいはずの帷様に対し、違和感を感じてしまうのかもしれない。
それは言い換えるならば。
(風邪が治るみたいな感じなのかも知れない)
一人納得していると人当たりの良い笑みを浮かべた帷様が、待ちきれないと言った感じで口を開く。
「今日はお主に美麗の件、その顛末を話そうと思ってな」
「お心遣い、痛み入ります」
私は頭を下げながら思う。
(確かに美麗様がどうなったか。それは気になるところだけれど)
そもそも大奥内で起こった事件が口外される事はない。
だから私は帷様からうかがわなければ、美麗様のその後を知る事は一生ないだろう。
(だからありがたい事なんだけど)
その為だけに我が家にわざわざ訪れたのだとしたら、何て律儀な人なのだろうと好感度大ではある。一方で公方様ともあろう御方がその為だけに私の元を訪れるなんてことある?と帷様の行動を不信に感じる気持ちも抱く。
(だって控えの間にはやたら、お侍様がいたし)
以前半蔵門まで見送って頂いた時に比べ、今回は警護に当たる人数が明らかに多い。
(同じお忍びでも、外に出るからかな)
半蔵門から徒歩数分といった距離でも、確かに江戸城から外である事には変わりない。
(考え過ぎなのかな)
色々と腑に落ちない違和感を感じつつ、私は帷様を見つめる。
「伊桜里は美麗を大奥に閉じ込めておくこと。それを望んでいたようだが、数々の罪を犯した者を大奥にこのまま置いていくわけにはいかない」
帷様はそこで言葉を区切ると、打って変わって厳しい目つきになった。
「よって。入れ墨のち、奴刑。つまり吉原にて年季なしの遊女奉公に処するものとした」
「え?」
思いもよらぬ沙汰に、私は言葉を失う。
そもそも奴刑とは女性に対してのみ科せられる刑罰だ。
内容的には人別帳から除き、個人に下げ渡し奴婢身分とするもの。
てっきり私は、お夏さん殺しの罪で美麗様は死罪になると思っていた。
(殺人を犯しておいて、奴刑だなんて)
実に生ぬるいとしか言いようがない。
「勘違いするでない。情けをかけたわけではないぞ」
帷様が私の顔に浮かぶ疑問を察したのか答える。
「では何故」
(死罪になさらないのですか)
私は喉まで出かかったその問いを飲み込む。
それを尋ねてしまえば、公方様が決めた沙汰に対し「異議あり」と申立をしているように思われそうだからだ。
「この度の一件。打首獄門がふさわしい。正直私はそう思うほど、美麗を憎んでおる」
帷様は眉間にシワを寄せ、重々しい口調で続ける。
「しかし、殺してしまえばそれで終わり。それに吉原に放り込んでおき、私の為に働かせるのも悪くない。伊桜里もまた、あやつが生きて苦しむ事を望んでおったのだからな」
「生きて苦しむ……」
私は思わず復唱する。
「そうであろう。二度と出られぬ点においては大奥も遊郭も同じこと。ただ、大奥にいれば、それなりの夢は見られただろうが」
何処か自嘲的に言い放つ帷様。
「それでは美麗様はこれからずっと、吉原で暮らされるのでしょうか」
「まぁ、そうなるな」
「あの……その、お仕事とかもされるって事ですか?」
美麗様がうっかり口を滑らせ、大奥の情報を漏らす。
その危険性はないのだろうかと心配になる。
「大奥の事を口外しないかどうか。その事を案じておるなら、心配無用だ。あやつを預けた妓楼は、牡丹屋だからな」
「牡丹屋ですか?」
思わず帷様の口から飛び出た言葉を繰り返す。
(それって、弥助様の店じゃない)
私は見知った店の名前が飛び出した事に驚くものの。
(あぁ、でもあそこなら監視の目が届くからか……)
すぐに帷様の言わんとする事を理解する。
というのも、吉原遊廓内にある大店と呼ばれる店のひとつ牡丹屋は、情報収集のため公儀が隠密に経営している妓楼だからだ。
そして情報の受け渡し場所として、伊賀忍が良く出入りしている店の一つでもある。
「牡丹屋の主人、弥助はそなたが知っての通り、忘八を地で行く男だ。あやつに任せておけば、美麗も大奥について流石に口を割らんだろう」
「確かにそうですね」
私は世間から忘八と蔑まれる弥助様の事を思い浮かべる。
そもそも忘八とは、「仁・義・礼・智・忠・信・孝・貞」の八徳を失った者のこと。
妓楼の楼主は、遊女達に対し情に流される事なく、商品として扱える冷酷さを持っている。よって人々から「忘八」と蔑称されているのである。
(だけど仕事だものね、そうならざるを得ないのよ、たぶん)
私個人としては、弥助様の事を既にこの世の酸いも甘いも噛み分けるような、老成した雰囲気を醸し出している人物だと評している。
「まぁ、あの場で出世するのも、朽ち果てていくのも、全ては美麗次第だという事だ」
自分の手を離れたと言わんばかり。帷様はあっけらかんとした様子で話を締め括りにかかる。
「そうなりますよね……」
返事をしつつ、内心複雑な気持ちを抱く。
正直自分でも、美麗様にどのような罪を課すのが正しいのか、それはさっぱりわからない。
(でもそっか。遊女として生きていく)
それは御中臈として、大奥にいた時よりずっと大変な事だけは確かだ。
私は美麗様の辿る未来に思いを馳せ、改めて彼女が犯した罪の重さを実感するのであった。