江戸城内に勤めているらしきお侍さんが、すれ違いざまに、並んで歩く帷様と私に微笑ましい視線を送ってくる。
現在江戸城内に敷かれた砂利道を歩く私達の背後には、立派な駕籠と、私の荷物を持った五菜が数人。それから帷様の近衛が二名ほど後をつけてきている。
そして私が歩いて来たこの道をたどれば、大奥女中が宿下がりといって休暇を取る時などに利用する道と繋がっているわけで。
(あぁ、勘違いされてる……)
きっと奥勤めを終えたであろう女中と、それを迎えにきた許嫁。
帷様と私はそんな関係に見えてしまうのだろう。
私は恥ずかしさのあまり俯く。
許されるならば、野を越え、山を越える飛脚のごとく、今すぐ走り出しここを去りたい気分だ。
「それで、貴宮からの伝言とは何だ?」
帷様が私に尋ねる。
(きたっ!)
全身に緊張が走る。
私は、天啓を受けたがごとく勢いよく顔をあげる。
「これは、私なんかが申し上げる事ではないかもしれませんが」
一応前置きをしておく。
「良い。言ってみろ」
「貴宮様は、ご自身が子を産まないほうが国の為になると、仰っておりました」
「ふむ」
帷様の眉間に僅かな皺が寄る。
この問題は根が深いものであり、こんな風に気軽に散歩がてらに口にして良いものではない。それを重々承知しながらも私は話を続ける。
「貴宮様は伊桜里様のお力になれなかった事を、見捨てたと表現され、とても後悔しておりました」
「それは残された者、みながどこかで感じている罪悪感だろう」
「はい」
だからどうしたと言わんばかり。
すげなく言い返され、困惑する。
(人の気持ちを伝えるって難易度高いんですけど……)
ここで私が間違った伝え方をしたら、貴宮様に申し訳が立たない。
(そもそも自分の気持ちすら、うまく言い表せない事が多いのに)
安請け合いをしてしまったと少しだけ後悔する。
けれど私はおこがましくも自分と似た境遇の貴宮様のお気持ちに共感できる、数少ない人間だと自覚している。
だからしっかりと帷様に伝えたい。
それが貴宮様には一生かなわぬ、「大奥から出た」という自由を得た私が唯一、彼女にしてあげられる事だと思うから。
私はまっすぐ前を向いて歩く、帷様の整った横顔を見つめながら口を開く。
「伊桜里様と帷様はお互い想い合った仲であること。それは誰もが認めております。けれど、お二人は出会ったから、想いあった訳で、つまりその、そういうのって、貴宮様にだって当てはまると思うんです」
「…………」
帷様が黙ったままなので、私は続ける。
「こんなに沢山の人がいる世で、貴宮様と帷様は政治的な繋がりとは言え、夫婦になられた。それって、言葉にすると安っぽいですけれど、運命だと思うんです」
「…………」
相変わらず沈黙を貫く帷様。
だけど私の言葉に耳を傾けてくれているのは分かる。
「それに町方で見かける夫婦って、よく浮気だ何だと痴話喧嘩もするし、決して傍目から見て想いあっているように見えないんです。でも何だかんだ二人で狭い長屋に住んでいるのが、ずっと不思議な気もしていたんですけど」
「……」
「でも、喧嘩したって、ちゃんと一緒にいるんですよね」
「……」
「それで私は、今回の任務で畏れ多くも帷様と寝食を共にし、家族以外でおかえりと迎えてくれる。もしくはただいまと言いあえる人が待つ家があること。それはとても心が満たされる事なんだと気づきました」
「……」
「だから、そういう「おかえり」「ただいま」を言い合う存在が、政務を頑張ってらっしゃる帷様にも必要で、つまり何が言いたいかというと、帷様にとっては大奥にいる貴宮様がそうなればいいなと、私は思ったということです」
言い終えると私は口を閉じた。
(一方的に話しちゃったけど、伝わっただろうか……)
不安になりながらも帷様の様子をうかがう。
帷様は何かを考えるかのように目を伏せていた。
程なくして、私の視線に気づくと帷様はゆっくりとこちらを向いた。
「ふむ。お前の想いはしかと伝えておこう……伝わった」
(でた!!)
帷様お得意『忍法他人事の術』が御目見得し、私の気持ちは一気に軽くなる。正直、眉一つ動かさない帷様は、何を考えているか読み取るのが難しい。
(だけど、他人事が出た時は、ご自身の中で直面する問題を考察している時間)
私はそう勝手に解釈している。つまり今、帷様のお心の中で貴宮様という存在がしっかりと刻まれたという事だ。
(それが吉と転ぶかどうかはわからないけど)
少なくとも、今までのように無視し続ける事はないと信じたい。
「ありがとうございます」
安堵のため息をつきつつ礼を言う。
「お前はどうして貴宮にそこまで肩入れするのだ」
「それは……」
(貴宮様と同じような境遇だから)
それは寸分たがわぬ、私の思いだ。けれど皇女であられる貴宮様と私を同じだと一括りにするのは大変失礼なこと。しかも自分の境遇なんて、話したところで楽しいものではない。むしろ、不幸自慢するみたいで嫌だ。
何より最後はすっきりと笑顔でお別れがしたい。
そう思うものの、私はうまい返答の仕方が思いつかず、俯く。
「まぁいい」
戸惑う私を見て、帷様は小さくため息をつく。
「だが、これだけは覚えておけ」
一体何だと私は小首を傾げる。
「俺は、貴宮を想ってなどいない」
「えっ?」
「俺には誰も幸せになど出来ぬからな」
帷様はそれ以上何も言わず、まるで逃げるように先へ進む。
私は慌ててその後を追う。
(どういう意味だろう……)
やはり伊桜里様への想いが強すぎて、この先誰かを慕う事など出来ないという事だろうか。
(でもそんなの、時間が経てばきっと薄れていく)
現に私はかなわぬ願いをいつもそうやって諦めてきた。
それはきっと誰にでも当てはまるもの。だから、帷様がこの先誰かを幸せにできないなどと悲観するのはまだ早い。
しかし私の考えが正しいかどうか。
その答え合わせは、帷様にしか出来ないわけで。
(そして影で生きる私には、公方様の行く末を遠くから見守る事しか許されない)
その事に改めて気付いた私は、今しかないと、顔をあげる。
「帷様は誰も幸せに出来ない、そうおっしゃいましたけど」
私は先を歩く帷様の背中に声をかける。
「少なくとも私は、帷様の「うまい」の一言で幸せになれましたよ」
勇気を出して、自分の気持ちを明かすと、ピタリと帷様が立ち止まる。
「だから少なくとも、帷様は私を幸せにしてくれました」
私は帷様の横に追いつき、笑顔で告げる。
すると、帷様は決まりの悪そうな顔をして「そうか」とぶっきらぼうに呟くと、再び歩き出す。
しかも私から逃げるように大股で。
(もしかして、恥ずかしいとか?)
私は帷様の耳が桜色に染まるのを見て、口元を緩ませる。そして私も帷様に後れを取らないように歩みを進める。
何だか色々と誤魔化されている気がしないでもない。
(いつか、帷様のお心に貴宮様が寄り添ってくれますように)
密かに祈り、何故か心に小さな縫い針がチクリと刺さったような痛みを感じた。その正体が何なのか分からぬまま、私は帷様の横を歩く。
ほどなくして、私達は江戸城本丸の背面を守る位置となる半蔵門に到着してしまう。半蔵門へとまっすぐ続く道の両脇にある小土手には、高さを揃えた背の低い黒松が規則正しく植えられている。
門を超えれば、すぐに服部家の屋敷だ。
(目と鼻の先なのに)
何だか、とても遠くにある場所へ旅していたようだ。
「足が棒だ」
正輝が恨みがましい視線を私に向けたのち、門を通行する為の手続きをするために、半蔵門の詰め所に向かった。
江戸城の出入りを取りしまる門番役は、基本的には参勤交代で江戸にいる大名など、二家が一組となり担当し、交代で警固に当たっている。
「ご苦労だったな」
門番と話す正輝をぼんやりと見つめていると、帷様に声をかけられた。
(そう言えばまだちゃんとお礼を言ってないや)
その事に気づいた私は、改めて帷様に向き直る。
「短い間でしたが、貴重な経験をさせて頂きありがとうございました」
私は感謝の思いを込め、深々と頭を下げる。
「こちらこそ。色々と迷惑をかけたな」
「いえ、色々ありましたが楽しかったです」
人との別れの瞬間に必ずと言っていいほど訪れる独特の、何処かしんみりとした空気が流れる。これで最後なのだから、もっと気の効いた事を言わなければと思うが、生憎何も思いつかない。
「琴葉、いくぞ」
詰め所の前にいる正輝から容赦なく声がかかる。
「では、達者で暮らせ」
「はい。帷様もどうかお元気で」
帷様と私はしばし顔をしっかりと見つめ合う。
私は心の何処かで以前帷様にかけられた、「縁があればまた」という言葉を待つ。
「おーい、行くぞ」
正輝の急かす声がして、私は未練がましい気持ちを手放す。
「お世話になりました」
「うむ」
いつも通り、何かを隠したような無表情な帷様の顔を心に焼き付ける。
そして私は、笑顔のまま踵を返す。ジャリジャリと土を踏みしめ、門に向かって歩く。私は何度も後ろを振り返りたい気持ちと葛藤する。
もう二度と会うことはない人。
そう思うと、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
(あぁ、これが、誰かをお慕い申しあげるという気持ちなんだ)
今更ながらに気づく。
私はきっと、この先ずっと、あの人の事を忘れないだろう。私は唇を噛み、こみ上げてくる涙を必死でこらえ、前を向く。
(さようなら)
そっと、心の中で呟く。
そして半蔵門を通り抜けようとしたその時。
「服部琴葉、お前に良く似合っている」
背後から、帷様の声がかかる。
それは今私の髪を艶やかに飾る、帷様に貰った簪と根掛のことか。それとも滅多に呼ばれぬ私の名のことか。
私は足を止め、最後にもう一度だけ振り返る。
私の視界には、まるで雪化粧をした富士山のような立派な天守閣に負けないくらい、堂々と佇む帷様の姿が映る。
(帷様、どうかお幸せに)
そう願いを込めて、深々と頭を下げた。
そして私は江戸城と帷様に背を向け、半蔵門の外に踏み出したのであった。
現在江戸城内に敷かれた砂利道を歩く私達の背後には、立派な駕籠と、私の荷物を持った五菜が数人。それから帷様の近衛が二名ほど後をつけてきている。
そして私が歩いて来たこの道をたどれば、大奥女中が宿下がりといって休暇を取る時などに利用する道と繋がっているわけで。
(あぁ、勘違いされてる……)
きっと奥勤めを終えたであろう女中と、それを迎えにきた許嫁。
帷様と私はそんな関係に見えてしまうのだろう。
私は恥ずかしさのあまり俯く。
許されるならば、野を越え、山を越える飛脚のごとく、今すぐ走り出しここを去りたい気分だ。
「それで、貴宮からの伝言とは何だ?」
帷様が私に尋ねる。
(きたっ!)
全身に緊張が走る。
私は、天啓を受けたがごとく勢いよく顔をあげる。
「これは、私なんかが申し上げる事ではないかもしれませんが」
一応前置きをしておく。
「良い。言ってみろ」
「貴宮様は、ご自身が子を産まないほうが国の為になると、仰っておりました」
「ふむ」
帷様の眉間に僅かな皺が寄る。
この問題は根が深いものであり、こんな風に気軽に散歩がてらに口にして良いものではない。それを重々承知しながらも私は話を続ける。
「貴宮様は伊桜里様のお力になれなかった事を、見捨てたと表現され、とても後悔しておりました」
「それは残された者、みながどこかで感じている罪悪感だろう」
「はい」
だからどうしたと言わんばかり。
すげなく言い返され、困惑する。
(人の気持ちを伝えるって難易度高いんですけど……)
ここで私が間違った伝え方をしたら、貴宮様に申し訳が立たない。
(そもそも自分の気持ちすら、うまく言い表せない事が多いのに)
安請け合いをしてしまったと少しだけ後悔する。
けれど私はおこがましくも自分と似た境遇の貴宮様のお気持ちに共感できる、数少ない人間だと自覚している。
だからしっかりと帷様に伝えたい。
それが貴宮様には一生かなわぬ、「大奥から出た」という自由を得た私が唯一、彼女にしてあげられる事だと思うから。
私はまっすぐ前を向いて歩く、帷様の整った横顔を見つめながら口を開く。
「伊桜里様と帷様はお互い想い合った仲であること。それは誰もが認めております。けれど、お二人は出会ったから、想いあった訳で、つまりその、そういうのって、貴宮様にだって当てはまると思うんです」
「…………」
帷様が黙ったままなので、私は続ける。
「こんなに沢山の人がいる世で、貴宮様と帷様は政治的な繋がりとは言え、夫婦になられた。それって、言葉にすると安っぽいですけれど、運命だと思うんです」
「…………」
相変わらず沈黙を貫く帷様。
だけど私の言葉に耳を傾けてくれているのは分かる。
「それに町方で見かける夫婦って、よく浮気だ何だと痴話喧嘩もするし、決して傍目から見て想いあっているように見えないんです。でも何だかんだ二人で狭い長屋に住んでいるのが、ずっと不思議な気もしていたんですけど」
「……」
「でも、喧嘩したって、ちゃんと一緒にいるんですよね」
「……」
「それで私は、今回の任務で畏れ多くも帷様と寝食を共にし、家族以外でおかえりと迎えてくれる。もしくはただいまと言いあえる人が待つ家があること。それはとても心が満たされる事なんだと気づきました」
「……」
「だから、そういう「おかえり」「ただいま」を言い合う存在が、政務を頑張ってらっしゃる帷様にも必要で、つまり何が言いたいかというと、帷様にとっては大奥にいる貴宮様がそうなればいいなと、私は思ったということです」
言い終えると私は口を閉じた。
(一方的に話しちゃったけど、伝わっただろうか……)
不安になりながらも帷様の様子をうかがう。
帷様は何かを考えるかのように目を伏せていた。
程なくして、私の視線に気づくと帷様はゆっくりとこちらを向いた。
「ふむ。お前の想いはしかと伝えておこう……伝わった」
(でた!!)
帷様お得意『忍法他人事の術』が御目見得し、私の気持ちは一気に軽くなる。正直、眉一つ動かさない帷様は、何を考えているか読み取るのが難しい。
(だけど、他人事が出た時は、ご自身の中で直面する問題を考察している時間)
私はそう勝手に解釈している。つまり今、帷様のお心の中で貴宮様という存在がしっかりと刻まれたという事だ。
(それが吉と転ぶかどうかはわからないけど)
少なくとも、今までのように無視し続ける事はないと信じたい。
「ありがとうございます」
安堵のため息をつきつつ礼を言う。
「お前はどうして貴宮にそこまで肩入れするのだ」
「それは……」
(貴宮様と同じような境遇だから)
それは寸分たがわぬ、私の思いだ。けれど皇女であられる貴宮様と私を同じだと一括りにするのは大変失礼なこと。しかも自分の境遇なんて、話したところで楽しいものではない。むしろ、不幸自慢するみたいで嫌だ。
何より最後はすっきりと笑顔でお別れがしたい。
そう思うものの、私はうまい返答の仕方が思いつかず、俯く。
「まぁいい」
戸惑う私を見て、帷様は小さくため息をつく。
「だが、これだけは覚えておけ」
一体何だと私は小首を傾げる。
「俺は、貴宮を想ってなどいない」
「えっ?」
「俺には誰も幸せになど出来ぬからな」
帷様はそれ以上何も言わず、まるで逃げるように先へ進む。
私は慌ててその後を追う。
(どういう意味だろう……)
やはり伊桜里様への想いが強すぎて、この先誰かを慕う事など出来ないという事だろうか。
(でもそんなの、時間が経てばきっと薄れていく)
現に私はかなわぬ願いをいつもそうやって諦めてきた。
それはきっと誰にでも当てはまるもの。だから、帷様がこの先誰かを幸せにできないなどと悲観するのはまだ早い。
しかし私の考えが正しいかどうか。
その答え合わせは、帷様にしか出来ないわけで。
(そして影で生きる私には、公方様の行く末を遠くから見守る事しか許されない)
その事に改めて気付いた私は、今しかないと、顔をあげる。
「帷様は誰も幸せに出来ない、そうおっしゃいましたけど」
私は先を歩く帷様の背中に声をかける。
「少なくとも私は、帷様の「うまい」の一言で幸せになれましたよ」
勇気を出して、自分の気持ちを明かすと、ピタリと帷様が立ち止まる。
「だから少なくとも、帷様は私を幸せにしてくれました」
私は帷様の横に追いつき、笑顔で告げる。
すると、帷様は決まりの悪そうな顔をして「そうか」とぶっきらぼうに呟くと、再び歩き出す。
しかも私から逃げるように大股で。
(もしかして、恥ずかしいとか?)
私は帷様の耳が桜色に染まるのを見て、口元を緩ませる。そして私も帷様に後れを取らないように歩みを進める。
何だか色々と誤魔化されている気がしないでもない。
(いつか、帷様のお心に貴宮様が寄り添ってくれますように)
密かに祈り、何故か心に小さな縫い針がチクリと刺さったような痛みを感じた。その正体が何なのか分からぬまま、私は帷様の横を歩く。
ほどなくして、私達は江戸城本丸の背面を守る位置となる半蔵門に到着してしまう。半蔵門へとまっすぐ続く道の両脇にある小土手には、高さを揃えた背の低い黒松が規則正しく植えられている。
門を超えれば、すぐに服部家の屋敷だ。
(目と鼻の先なのに)
何だか、とても遠くにある場所へ旅していたようだ。
「足が棒だ」
正輝が恨みがましい視線を私に向けたのち、門を通行する為の手続きをするために、半蔵門の詰め所に向かった。
江戸城の出入りを取りしまる門番役は、基本的には参勤交代で江戸にいる大名など、二家が一組となり担当し、交代で警固に当たっている。
「ご苦労だったな」
門番と話す正輝をぼんやりと見つめていると、帷様に声をかけられた。
(そう言えばまだちゃんとお礼を言ってないや)
その事に気づいた私は、改めて帷様に向き直る。
「短い間でしたが、貴重な経験をさせて頂きありがとうございました」
私は感謝の思いを込め、深々と頭を下げる。
「こちらこそ。色々と迷惑をかけたな」
「いえ、色々ありましたが楽しかったです」
人との別れの瞬間に必ずと言っていいほど訪れる独特の、何処かしんみりとした空気が流れる。これで最後なのだから、もっと気の効いた事を言わなければと思うが、生憎何も思いつかない。
「琴葉、いくぞ」
詰め所の前にいる正輝から容赦なく声がかかる。
「では、達者で暮らせ」
「はい。帷様もどうかお元気で」
帷様と私はしばし顔をしっかりと見つめ合う。
私は心の何処かで以前帷様にかけられた、「縁があればまた」という言葉を待つ。
「おーい、行くぞ」
正輝の急かす声がして、私は未練がましい気持ちを手放す。
「お世話になりました」
「うむ」
いつも通り、何かを隠したような無表情な帷様の顔を心に焼き付ける。
そして私は、笑顔のまま踵を返す。ジャリジャリと土を踏みしめ、門に向かって歩く。私は何度も後ろを振り返りたい気持ちと葛藤する。
もう二度と会うことはない人。
そう思うと、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
(あぁ、これが、誰かをお慕い申しあげるという気持ちなんだ)
今更ながらに気づく。
私はきっと、この先ずっと、あの人の事を忘れないだろう。私は唇を噛み、こみ上げてくる涙を必死でこらえ、前を向く。
(さようなら)
そっと、心の中で呟く。
そして半蔵門を通り抜けようとしたその時。
「服部琴葉、お前に良く似合っている」
背後から、帷様の声がかかる。
それは今私の髪を艶やかに飾る、帷様に貰った簪と根掛のことか。それとも滅多に呼ばれぬ私の名のことか。
私は足を止め、最後にもう一度だけ振り返る。
私の視界には、まるで雪化粧をした富士山のような立派な天守閣に負けないくらい、堂々と佇む帷様の姿が映る。
(帷様、どうかお幸せに)
そう願いを込めて、深々と頭を下げた。
そして私は江戸城と帷様に背を向け、半蔵門の外に踏み出したのであった。