美麗様の抱える想い、それから岡島様の肩に乗る「お世継ぎ」という重圧。それらを知った今。私は、複雑な気持ちを抱えこの場に立っている。

「お主は自分が愛されておらん。(だま)されたとそれを恨み、身重(みおも)となった伊桜里(いおり)物である、下駄(げた)鼻緒(はなお)を細工したのか?」

 感情を押し殺したような(とばり)様の冷たい声が響く。

「私はやってない。鼻緒を切ったのはお(なつ)だもの」

 美麗様がケロリとした表情で否定する。

 (でも、鼻緒を切った事は知っていると認めた)

 私の記憶が正しければ、伊桜里様が流産してしまった理由を知っている者は多くないはずだ。

「ではお夏さんは、どうしてそんな事をしたのでしょう?」

 私は美麗様が嘘をついていると知りながらも質問した。

「わからないわよ。きっとお夏もそれなりの顔をしていたから、公方(くぼう)様狙いだったんじゃない?それか、伊桜里様だけが幸せそうな姿が許せなかったのよ」

 美麗様が投げやりに答える。しかし最後に付け足した言葉にはやけに感情がこもっているように感じた。

「しかし、お前も私とその、まぁ、そういう関係になったではないか。それはお前の望む寵愛を受けた事にはならぬのか?」

 言いにくそうに言葉を濁しつつも、帷様は(なさけ)をかけたのか、美麗様に少しだけ優しく問いかける。

「本気で言ってるのですか?」

 美麗様は憎悪に満ちた、燃え上がるような目で帷様を(にら)みつける。

 (え、どうして?)

 私には美麗様から発せられる、帷様への「怒り」のような感情の意味が咄嗟に理解できなかった。

「公方様が私を抱いたのは、伊桜里様から頼まれたからでしょう?」

 美麗様は吐き捨てるように言う。

「身籠っているから、伊桜里様が公方様のお相手が出来ない。だから私に情けをかけろと、そう伊桜里様に言われたくせに」
「言われただと?」

 帷様が戸惑う顔で呟く。

「そうよ、確かに最初に仕掛けたのは私。だけど、あの女は慈愛(じあい)に満ちた顔をして、いい子ぶって、けれど心は鬼に魂を売った女に違いないわ」

 (伊桜里様が、鬼に魂を売った女?)

 私はいまいちどころか、全然ピンとこなかった。何故なら私の記憶の中でも、ここ大奥でも。伊桜里様は正義感に溢れ、誰にも分け隔てなく優しさを振り撒く。四方八方から見て、欠点のない、素晴らしく完璧な女性だからだ。

 そんな人が憎しみや嫉妬の念に囚われ鬼となった。そんな戯言(たわごと)は、到底信じられるものではない。

 衣擦れの音がして、正輝(まさき)が一歩前に進みでる。

「お前の話は聞き捨てならない。そもそも伊桜里様と公方様は深い繋がりのあったお二人だ。だからお前を抱けと伊桜里様が公方様に頼む訳がないだろう。もっとマシな嘘がつけないのか」

 いつも通り、明らかに男性の声で正輝が美麗様を問い詰める。

 (これは正輝、相当怒ってる……)

 人よりサボり気味ではあるが、幼い頃から続けていた忍びの鍛錬(たんれん)のおかげか、正輝の表情は目に見てわかるほど、大きく歪んだりはしていない。しかし(わず)かに眉が下がり、口元に力が入っている。

 私は涼しい顔の下に、激しい怒りを押し込めた正輝を前にし、背筋(せすじ)が凍るような思いがした。同時に、正輝の中でも私同様、伊桜里様は般若(はんにゃ)の面をつけた存在とは程遠いと、そう認識されているのだなと悟り、どこか安心する。

「もっとマシな嘘をつけるならついてるわよ。真実だからタチが悪いんじゃない。いい?伊桜里様の鼻緒を切るよう、お夏に命令したのは私」

 興奮した様子で、美麗様がついに己の罪を自白した。

「そしてそんな私に仕返しをするためだけに、あの女は公方様に私を抱くよう仕向けたの。本人がそう言っていたんだから間違いないわ」

 美麗様が堂々と胸を張り反論する。

「何故かわかる?それはね」

 美麗様は口元を、まるで可憐な花が咲く瞬間と言った感じでふわりと優しく緩める。

「公方様に一度でも抱かれた女は、翼をもがれた鳥と同じ。大奥という鳥籠(とりかご)から二度と出られないからよ」

 美麗様はそういい終えると、「ふふふふ」と自嘲的(じちょうてき)に微笑む。

「伊桜里はそのような事はしない、するはずがない!!」

 帷様が声を荒らげた。

 (ということは、やっぱり美麗様が嘘をついているってこと?)

 口から出まかせを得意とする美麗様だ。死人に口なしを利用し、全て伊桜里様のせいにしている可能性は大いにある。

 (そう思うけど)

 美麗様の表情からは忍術書(にんじゅつしょ)に示されたような、嘘をついている人特有の緊張や瞳孔(どうこう)の拡大。それから肩をすくめるような動作などが見受けられない。

 そこがどうにも引っかかる。

 (美麗様を信じていいのか、帷様を信じるべきなのか)

 私の中に迷いが生じる。

「公方様も見事あの女に騙されていたってことなのね」

 美麗様はフッと鼻で笑い、(さげ)むような視線を帷様に送る。

「だけど公方様。あなたは私を抱いたじゃないですか。それは何故?思い出して下さいな。一時の気の迷いを起こしたのは、伊桜里様に促されたからでしょう?そうじゃなければ、伊桜里様だけを愛してらした公方様が他の女を抱くもんですか」

 美麗様は小馬鹿にしたように言い放つ。

「事実、私はもうこの大奥から出ることはかなわない。そして公方様、あなたは二度と私を奥泊りの相手に指名しないでしょう。つまり私はあの聖人君子(せいじんくんし)たる女に復讐のため、死ぬまでここに閉じ込められたってわけ」

 何処か(うつ)ろな目をした美麗様はゆっくりと立ち上がる。

「どこへ行く気だ?」
「決まってるじゃない。こんな場所、出て行ってやるわ。私は町方でやり直すのよ」

 美麗様がよろよろとしながら、部屋の出口へと歩き出す。

「お待ち下さい!!」

 私は美麗様の腕をつかむ。

「伊桜里様の下駄に細工するようお夏に指示したのは私。そして秘密を知るお夏を殺したのも私。あの根付も私のもの。認めるから、だからその手を離してちょうだい」

 美麗様が冷たく言い放ち、私の手を振り払う。

「い、嫌です!美麗様はその罪を(つぐな)わないといけません」

 私は美麗様を逃がすまいと必死に腕を掴む。

「罪?」

 美麗様が不機嫌そうな顔でこちらを振り返る。

「だってそうでしょう?美麗様がお夏さんに伊桜里様の鼻緒を切れと命じたのであれば、美麗様のしたことは殺人です。それはどんな理由があっても許されない行為です」

 私はきっぱりと言い切る。

「そう、だったら今すぐここで私を殺してくれても構わないわよ」

 美麗様は私を睨みつけながら、不自然に自らの(ふところ)の合わせに手を伸ばす。

 (まさか、刃物を隠してる!?)

 自害するつもりだろうかと、私は咄嗟に美麗様の腕をつかむ。
 するとやはり懐に入れた手のひらに、小刀の柄が握られていた。

「……っ!」

 ざっと見た所、その小刀は小さなもので、自決するにはあまりにも心もとなかった。

「離しなさいよ!!」

 私が掴んだ腕を振り払おうとしてか、それともこの場から逃げ出すためか、美麗様が暴れる。
 しかし私は美麗様の腕をひねりあげ、床に押し倒した。そしてそのまま押さえつけるように馬乗りになり、美麗様の手から(さや)に納まったままの小刀を奪う。

「……どうしてこんなことを?」

 美麗様は私の下で悔しげに顔を歪めていた。
 その瞳には涙を浮かべている。

「……嫌だからよ」

 ぽつりとつぶやくような声が聞こえる。

「ここで一生を終えるだなんて、そんなの嫌なのよッ!!」
「だからって自害する事は許されません」
「死ぬのは誰にでも与えられた権利のはずよ」
「ここでは、それさえも公方様の許しが必要です」

 (だってここは大奥だから)

 私は最終通告といった感じ。
 淡々と告げる。

「では公方様に「殺して」とお願いすればいいのかしら?あらでも、寵愛されていたくせに、勝手に死んだ女がいたわよね。あの女はいいわよね。死ねば綺麗なまま、みんなの記憶に刻みこまれるのだから」

 帷様に顔を向けた美麗様が意地悪く微笑む。

吉良(きら)、この者をひっ捕らえろ」

 帷様は部屋の外で待つ近衛(このえ)に聞こえるように声をあげる。すると黒無地の羽織袴(はおりばかま)を身につけた、いかつい侍が二名ほど素早く部屋に侵入してきた。

 (あ、この前の人たちだ)

 帷様が公方様であることが判明した日。
 帷様の後ろにまるで影のように控えていた二名で違いない。

「神妙にお縄につけ」

 うつ伏せになる美麗様の横に片膝を付いた、近衛の一人が言い放つ。
 私は無抵抗となった美麗様の上から退く。

「わかってるってば」

 美麗様は観念したのか、起き上がると、ため息をつきながら近衛に両手を差し出した。私は無表情な侍が美麗様の手に縄をかけるのを見つめる。
 そしてガタイの良い二人に挟まれ、とても小さく、頼りなく見える美麗様の背中を見送った。

「これで、終わったのか」

 正輝がぽつりと呟く。

「そう、だよね」

 私は隣に並ぶ正輝と共に美麗様が出て行った扉をじっと見つめた。

「伊桜里様の(かたき)は取れたのかな」

 私が言うと、正輝が複雑そうな表情を浮かべる。

「一体どちらが、鬼に魂を売った女なのか」

 帷様の言葉が胸に刺さる。

「なんだか」
「後味が悪いな」

 正輝がまた私の言葉を奪ったのであった。