もう寝ると、不機嫌そうに口にした帷様であったが、耳を澄ましてみても寝息が一向に聞こえてこない。
(夫婦関係なんて、他人が口出していいことじゃなかったかな)
私の父、服部半蔵正秋には妻がいない。何故なら正輝のおまけで産まれてきた私が、父や兄二人から奪ったから。
(そんな私が人並みの夫婦はこうであるべきだなんて、述べる資格はないか)
私は時折、北風が戸に当たりガタガタと鳴らす音を聞きながら「言い過ぎた、立ち入りすぎた」と反省する。
しかし今更、「ごめんなさい」を口にする雰囲気でない事は確かだ。
となれば頑固で真面目と称された私がやるべき事は一つ。
「伊桜里様の乳母であった夏目様が書簡を隠した。けれどその書簡の在処は未だ不明」
先程明かされた話を整理しようと、小声で言葉にしてみる。
「そもそも夏目様が書簡を隠したのは、残された書簡に伊桜里様にとって都合の悪い事が書かれていたからだとしたら……」
(もう二度と表に出て来ないかも知れない)
そもそも、亡き人の名声を貶めるような可能性がある。そんな物を掘り返していいのかと、今更ながら私は気付く。
「もしその書簡が残されているのだとしたら、そこに書かれていた事は伊桜里が、私達に伝えたかった事だ。その内容が良くも悪くも、あいつは覚悟の上で残したのだろう」
突然私の独り言に乱入してきた帷様。驚きつつも、次の言葉を静かに待つ。
「口のきけぬ者となった伊桜里が何を思い書簡を残し、それをどうして欲しかったのか。その事は書簡を見つけぬ限り、真相は闇のままとなる」
帷様はそう言うと、小さくため息をついた。
「書簡が残されていたという証言がある以上、伊桜里には何かしら伝えたい事があったはずだと俺は思う。たとえそれが不都合なことであろうとも、伊桜里は白日の元に晒される事を理解した上で残した。だから俺は伊桜里の書簡を探し出す事を間違っているとは思えない」
帷様の声色は力強く、確固たる意思を感じさせた。確かにその意見は間違っていないと私も思う。そして書簡を探し出していい物なのかどうか、先程浮かんだ迷いも消えた。
(そしてもう、帷様の機嫌はそこまで悪くないかも?)
私は確信する。
「もし貴宮様が書簡を先に見つけていたとしたら、美麗様にその手紙が渡っていない可能性もありますよね?」
先程帷様の機嫌を損ねた原因の一つ「貴宮様」の名だけ声を落とし、私は自らの推測を恐る恐る口にする。
「そうだな。そう思いたいが、未だ書簡の所在は不明だ。それどころか、これだけ噂で溢れた大奥で、誰もその書簡の行方について話しをしない。まるで最初からその手紙など存在していないかのように、だ」
「でも現実には見たと口にした人がいる」
「あぁ、多聞や夏目局だけではない。伊桜里の遺体を発見した時にいた、合之間の一人もそう証言している」
「つまり、書簡の所在に関する信憑性は高いと」
それにしても何故噂好きの大奥で、全く書簡の件が話題にあがらないのか。
私は謎に思う。
(合之間も見たんだもんな)
だから確実に書簡はあるのだろう。
そもそも書簡を見たと口にした者達は、私達御火乃番のように公儀採用者ではない。大奥でも御目見得以上である、上級女中が私的に雇う者達だ。
特に御年寄である岡島様などには、秘書代わりの局を筆頭に、合之間、小僧、それに多聞など、ざっと二十人ほどの部屋方を抱えているようだ。
このほか、部屋子と呼ばれる有望株の少女を預かり、見習いとして礼儀作法を教えたり、遊芸の稽古をさせたりもしているという。
これら部屋方の賃金は、すべて上級女中の自腹。そして部屋方は私達よりずっと、主人と密な関係を築いているとのこと。
(もしかして、残された書簡の存在が噂にならないのは)
忠誠心の高い部屋方だけが目撃したから。だから口が固く、外に漏れなかった。そして書簡の存在を知っているであろう貴宮様は、言わずもがな、御殿で京から連れてきた面々と引き篭もり生活を送っている。
(だから私達とも顔を合わせる事がない)
そう考えると、書簡の噂が口外されないこと。その理由が解明されたように思えた。
(となると、美麗様が書簡の存在を知っていたかどうか)
やはりそれが気になるところだ。
「そもそも伊桜里様の事件があった時。美麗様も今の所に住んでいらしたんですよね?」
私は自分で問いかけながら、情けない気持ちになる。
(料理に精を出してみたり、幽霊騒ぎに振り回されたり)
今まで私は伊桜里様の残した書簡の件を積極的に探っていたとはいい難い。
(帷様に教えてくれなかったなんて偉そうに言ったけど)
自ら、率先して大奥を思いの外満喫していたようだ。その事に気づき、拗ねた挙句、帷様に愚痴ってしまった事を後悔する。
「そうなるだろうな。ただ、記憶が正しければ美麗がお手付きになったのは、伊桜里の妊娠発覚後だったはずであるから、共に二之側に並んで居を構えていたのは短い期間だっただろうな」
(記憶が正しければ?)
私はその言い方にもやっとする。
「帷様は美麗様に未練やお情け、そう言った感情は湧かないのですか?」
一度は男女の関係になった人だ。
様々な事情があるとは言え、そんなに簡単に割り切れるのだろうか。
「俺は美麗に情など湧かないが」
「えっ、そうなんですか?」
あっさりと返され拍子抜けする。
「でも、一度は男女の関係になられたんですよね?」
「男女の……」
「え、違うんですか?」
(男女のそれをしないで、子どもって出来るの?だって)
私は遥か昔にあった、鍛錬場での一件を思い出す。
その日、くノ一連い組の仲間が「いいものを発見した」と喜々とした表情で私達に知らせてきた。
『何だと思う?』
『次の任務の割り振り表を発見したとか?』
『鍛錬をサボる方法が書かれた巻物を発見したとか?』
『いい人が出来たとか?』
思い思いに口走る、い組の面々。
『違う、違う。何かさ、あっちの茂みの掃除をしたてたら、こんなものを発見したの』
そう言って喜々とする彼女が懐から取り出したのは柿色の表紙がついた一冊の本。その本は重ねた紙束の、右側に開けられた小さい穴に、糸を通し綴じられた、いわゆるよく見る和装本だった。
『何その本?』
『何でそんな物が茂みに落ちてるの?』
『まさか禁書じゃないよね』
『表紙に題箋がついてないのが怪しい』
輪になった私達は興味津々といった感じで、その本に注目する。
『見て、これ』
そう言って彼女が本をめくると、そこには男女が睦み合う姿が描かれていたのである。
(あの時の私達は幼かったし、無知だった)
しかしながら、私達はそれが公にしていいものではないと直感で悟り、内容をじっくり見聞したのち、茂みにそっと戻しておいた。
そして私達は「一体誰が茂みに隠したのか」という素朴な疑問に突き当たる。そもそも素朴な疑問を抱いてしまう事はくノ一として、日々諜報訓練をする者達のサガなので仕方がない。よって私達は茂みに来る者を、二班に分かれしっかりと見張った。
(そしたら正輝達が取りに来て)
『あいつらは最低』
満場一致で私達の意見はまとまる。そしてしばらく、正輝を筆頭とする男子とは口を聞かなかった。
その後年頃を迎えた私達は姉弟子から、女であることを利用した戦術を教わる過程において、教材として春画を見せられた。そして正輝達の行動に納得する事となり、今に至る。
(あの頃の私達は若かった……)
私はその時の事を鮮明に思い出し、つい薄目になる。
「確かに美麗とそうなってしまったことをあいつは後悔していた……している」
突然帷様が言葉を発し、私はまだこの話が終わっていなかった事を思い出す。
しかも。
(あいつは後悔していた、ってどういうこと?)
先程から何だかおかしいなと、腑に落ちない気持ちが大きくなる。
「何でそんなに他人事なんですか?」
「……それは、その、過去の事だからだ」
「過去の事って」
(それはあんまりな言い方ではないだろうか)
私は衝撃を受けた。
(つまりは大奥の女性を、子を生み出すための、使い捨ての道具としか見てないってこと?)
私は帷様に対し、幻滅する気持ちに襲われた。
「帷様は先程、後悔しているとおっしゃいました。それなのにどうして伊桜里様が一番傷ついている時に、そういう関係になってしまったんですか?」
口にしながら抑えられない気持ちが込み上げる。
「男の人って、心と体は別だって言うけど、そういうものなんですか?」
「俺は違う!」
突然帷様が大きな声を出すと、布団を跳ね上げて起き上がった音が響く。
その音にふと、我に返る。
「ご、ご無礼を失礼しました」
私も慌てて布団から半身を起こし、頭を下げる。
確かに今のは失言だ。
つい頭に血が上ったが、そもそもここはそういう場所だ。
「ここは帷様に用意された大奥。その事を失念しておりました。私もお世継ぎが必要だという事は|重々承知しております。ですから美麗様との事は喜ぶべき事であり、その、美麗様が駄目なら、他にも素敵な娘は沢山おりますし、お渡りをされてもいいと、全然良いと思います……」
私は失言を挽回しようと焦ったあまり、もはや何が言いたかったのか訳がわからなくなる。もしかしたら、表向き理解したフリをしているが、実際のところ私は、集められた女性に対し、子を産む道具としか見ていない、大奥という体制自体に不満があるのかも知れない。
(だからもう、よくわからない)
伊桜里様が流産されて、一番つらい時に他の女性に手を出せる。そんな帷様のお気持ちの底に隠れるものが、一体何なのか。それから、正妻である貴宮様に歩み寄ろうとしないことも。
帷様の行動原理が常人である私には理解不能すぎる。
(でも、帷様は光晴様で公方様)
これだけは確かな事実だ。
そして子が流れたら、次の胤を残すため、お心がどうであれ、お世継ぎを残す努力をしなければならない。よって、私には理解不能でも、帷様が美麗様と関係を持った事。それはここでは正しい事なのだ。
「みつ……俺だって、好きでそういう流れになったわけではない。ただ、それをお前に責められるのは気分が悪い」
帷様の声が棘のあるものとなる。
「出過ぎた真似をいたしまして、申し訳ありません」
私は体を折り、布団に頭を擦り付ける。
「いや、いい。お前の言う事も一理ある。ただ、周囲から「世継ぎを」と圧をかけられ、それに応えようと一人にばかり寵愛の心を向ければ、今度は貴宮の立場を考えろと言われる」
冷静な口調で告げる帷様。
「そういうしがらみばかりの中、一時の欲に身を任せてしまったこと。それを俺は責める事は出来ない。だが、女であるお前から見たら許せない事なのだろう。その気持もわからなくはない」
帷様はそう呟くと、深いため息をついた。
「周囲の助言に従い、平等に胤を残そうとしても、結局は誰かを傷つける事になる。そもそも自分が一番寵愛する者に子が出来ねば、周囲からはその想いすら邪魔だと忠告される」
思いを吐きだすように、帷様は続ける。
「しかし伊桜里でなければ意味がない。だから大奥になど足を運ばぬ。そう思ってしまうのは人であるが故に抱く自然な気持ちだ。だとしたら、やはり無理強いをするのは間違っているのかも知れんな。御三家から世継ぎを選出するというのも、考えるべきなのかも知れん」
ついには黙り込んでしまう帷様。
(何だか不思議だ)
帷様がたった今口にした言葉は、心にくるものがある。
けれど、なんというか。
(他人事みたい)
私はまたもや違和感を覚える。
(もしかしてご自分を客観的に捉える事で、お気持ちを冷静に保とうとしている?)
感じる違和感に私はそう解釈をつけ、自分を納得させようとした。そして何となく落ち込んでいる様子の帷様を元気づけなくてはと思った。
何故なら。
(だって、私が余計な事を言ったばっかりに、一生伊桜里様に操を立てた状態となるのはまずい、非常にまずいよ、それは)
もしこのまま私が何気なく放った言葉をきっかけとし、帷様が一生奥泊まりをされなかったとしたら、大奥の女性に余計なおせっかいを働いてしまったという事になる。
何より私は伊桜里様の事件の謎を解く事で、お世継ぎ問題を解決する。その為にこの場にいるはずだ。それなのに、帷様を大奥から遠ざけるような事を口にするだなんて言語道断。
(まずい、そんな事が正輝に知られたら、父上に告げ口されちゃう)
そして私は江戸から離れた場所で諜報任務をするよう言いつけられてしまう。その結果、私は名も知れぬ土地で朽ち果てるのだ……。
私は老婆となった自分が野ざらしで一人、行き倒れになった情景を思い浮かべ、青ざめたのであった。
(夫婦関係なんて、他人が口出していいことじゃなかったかな)
私の父、服部半蔵正秋には妻がいない。何故なら正輝のおまけで産まれてきた私が、父や兄二人から奪ったから。
(そんな私が人並みの夫婦はこうであるべきだなんて、述べる資格はないか)
私は時折、北風が戸に当たりガタガタと鳴らす音を聞きながら「言い過ぎた、立ち入りすぎた」と反省する。
しかし今更、「ごめんなさい」を口にする雰囲気でない事は確かだ。
となれば頑固で真面目と称された私がやるべき事は一つ。
「伊桜里様の乳母であった夏目様が書簡を隠した。けれどその書簡の在処は未だ不明」
先程明かされた話を整理しようと、小声で言葉にしてみる。
「そもそも夏目様が書簡を隠したのは、残された書簡に伊桜里様にとって都合の悪い事が書かれていたからだとしたら……」
(もう二度と表に出て来ないかも知れない)
そもそも、亡き人の名声を貶めるような可能性がある。そんな物を掘り返していいのかと、今更ながら私は気付く。
「もしその書簡が残されているのだとしたら、そこに書かれていた事は伊桜里が、私達に伝えたかった事だ。その内容が良くも悪くも、あいつは覚悟の上で残したのだろう」
突然私の独り言に乱入してきた帷様。驚きつつも、次の言葉を静かに待つ。
「口のきけぬ者となった伊桜里が何を思い書簡を残し、それをどうして欲しかったのか。その事は書簡を見つけぬ限り、真相は闇のままとなる」
帷様はそう言うと、小さくため息をついた。
「書簡が残されていたという証言がある以上、伊桜里には何かしら伝えたい事があったはずだと俺は思う。たとえそれが不都合なことであろうとも、伊桜里は白日の元に晒される事を理解した上で残した。だから俺は伊桜里の書簡を探し出す事を間違っているとは思えない」
帷様の声色は力強く、確固たる意思を感じさせた。確かにその意見は間違っていないと私も思う。そして書簡を探し出していい物なのかどうか、先程浮かんだ迷いも消えた。
(そしてもう、帷様の機嫌はそこまで悪くないかも?)
私は確信する。
「もし貴宮様が書簡を先に見つけていたとしたら、美麗様にその手紙が渡っていない可能性もありますよね?」
先程帷様の機嫌を損ねた原因の一つ「貴宮様」の名だけ声を落とし、私は自らの推測を恐る恐る口にする。
「そうだな。そう思いたいが、未だ書簡の所在は不明だ。それどころか、これだけ噂で溢れた大奥で、誰もその書簡の行方について話しをしない。まるで最初からその手紙など存在していないかのように、だ」
「でも現実には見たと口にした人がいる」
「あぁ、多聞や夏目局だけではない。伊桜里の遺体を発見した時にいた、合之間の一人もそう証言している」
「つまり、書簡の所在に関する信憑性は高いと」
それにしても何故噂好きの大奥で、全く書簡の件が話題にあがらないのか。
私は謎に思う。
(合之間も見たんだもんな)
だから確実に書簡はあるのだろう。
そもそも書簡を見たと口にした者達は、私達御火乃番のように公儀採用者ではない。大奥でも御目見得以上である、上級女中が私的に雇う者達だ。
特に御年寄である岡島様などには、秘書代わりの局を筆頭に、合之間、小僧、それに多聞など、ざっと二十人ほどの部屋方を抱えているようだ。
このほか、部屋子と呼ばれる有望株の少女を預かり、見習いとして礼儀作法を教えたり、遊芸の稽古をさせたりもしているという。
これら部屋方の賃金は、すべて上級女中の自腹。そして部屋方は私達よりずっと、主人と密な関係を築いているとのこと。
(もしかして、残された書簡の存在が噂にならないのは)
忠誠心の高い部屋方だけが目撃したから。だから口が固く、外に漏れなかった。そして書簡の存在を知っているであろう貴宮様は、言わずもがな、御殿で京から連れてきた面々と引き篭もり生活を送っている。
(だから私達とも顔を合わせる事がない)
そう考えると、書簡の噂が口外されないこと。その理由が解明されたように思えた。
(となると、美麗様が書簡の存在を知っていたかどうか)
やはりそれが気になるところだ。
「そもそも伊桜里様の事件があった時。美麗様も今の所に住んでいらしたんですよね?」
私は自分で問いかけながら、情けない気持ちになる。
(料理に精を出してみたり、幽霊騒ぎに振り回されたり)
今まで私は伊桜里様の残した書簡の件を積極的に探っていたとはいい難い。
(帷様に教えてくれなかったなんて偉そうに言ったけど)
自ら、率先して大奥を思いの外満喫していたようだ。その事に気づき、拗ねた挙句、帷様に愚痴ってしまった事を後悔する。
「そうなるだろうな。ただ、記憶が正しければ美麗がお手付きになったのは、伊桜里の妊娠発覚後だったはずであるから、共に二之側に並んで居を構えていたのは短い期間だっただろうな」
(記憶が正しければ?)
私はその言い方にもやっとする。
「帷様は美麗様に未練やお情け、そう言った感情は湧かないのですか?」
一度は男女の関係になった人だ。
様々な事情があるとは言え、そんなに簡単に割り切れるのだろうか。
「俺は美麗に情など湧かないが」
「えっ、そうなんですか?」
あっさりと返され拍子抜けする。
「でも、一度は男女の関係になられたんですよね?」
「男女の……」
「え、違うんですか?」
(男女のそれをしないで、子どもって出来るの?だって)
私は遥か昔にあった、鍛錬場での一件を思い出す。
その日、くノ一連い組の仲間が「いいものを発見した」と喜々とした表情で私達に知らせてきた。
『何だと思う?』
『次の任務の割り振り表を発見したとか?』
『鍛錬をサボる方法が書かれた巻物を発見したとか?』
『いい人が出来たとか?』
思い思いに口走る、い組の面々。
『違う、違う。何かさ、あっちの茂みの掃除をしたてたら、こんなものを発見したの』
そう言って喜々とする彼女が懐から取り出したのは柿色の表紙がついた一冊の本。その本は重ねた紙束の、右側に開けられた小さい穴に、糸を通し綴じられた、いわゆるよく見る和装本だった。
『何その本?』
『何でそんな物が茂みに落ちてるの?』
『まさか禁書じゃないよね』
『表紙に題箋がついてないのが怪しい』
輪になった私達は興味津々といった感じで、その本に注目する。
『見て、これ』
そう言って彼女が本をめくると、そこには男女が睦み合う姿が描かれていたのである。
(あの時の私達は幼かったし、無知だった)
しかしながら、私達はそれが公にしていいものではないと直感で悟り、内容をじっくり見聞したのち、茂みにそっと戻しておいた。
そして私達は「一体誰が茂みに隠したのか」という素朴な疑問に突き当たる。そもそも素朴な疑問を抱いてしまう事はくノ一として、日々諜報訓練をする者達のサガなので仕方がない。よって私達は茂みに来る者を、二班に分かれしっかりと見張った。
(そしたら正輝達が取りに来て)
『あいつらは最低』
満場一致で私達の意見はまとまる。そしてしばらく、正輝を筆頭とする男子とは口を聞かなかった。
その後年頃を迎えた私達は姉弟子から、女であることを利用した戦術を教わる過程において、教材として春画を見せられた。そして正輝達の行動に納得する事となり、今に至る。
(あの頃の私達は若かった……)
私はその時の事を鮮明に思い出し、つい薄目になる。
「確かに美麗とそうなってしまったことをあいつは後悔していた……している」
突然帷様が言葉を発し、私はまだこの話が終わっていなかった事を思い出す。
しかも。
(あいつは後悔していた、ってどういうこと?)
先程から何だかおかしいなと、腑に落ちない気持ちが大きくなる。
「何でそんなに他人事なんですか?」
「……それは、その、過去の事だからだ」
「過去の事って」
(それはあんまりな言い方ではないだろうか)
私は衝撃を受けた。
(つまりは大奥の女性を、子を生み出すための、使い捨ての道具としか見てないってこと?)
私は帷様に対し、幻滅する気持ちに襲われた。
「帷様は先程、後悔しているとおっしゃいました。それなのにどうして伊桜里様が一番傷ついている時に、そういう関係になってしまったんですか?」
口にしながら抑えられない気持ちが込み上げる。
「男の人って、心と体は別だって言うけど、そういうものなんですか?」
「俺は違う!」
突然帷様が大きな声を出すと、布団を跳ね上げて起き上がった音が響く。
その音にふと、我に返る。
「ご、ご無礼を失礼しました」
私も慌てて布団から半身を起こし、頭を下げる。
確かに今のは失言だ。
つい頭に血が上ったが、そもそもここはそういう場所だ。
「ここは帷様に用意された大奥。その事を失念しておりました。私もお世継ぎが必要だという事は|重々承知しております。ですから美麗様との事は喜ぶべき事であり、その、美麗様が駄目なら、他にも素敵な娘は沢山おりますし、お渡りをされてもいいと、全然良いと思います……」
私は失言を挽回しようと焦ったあまり、もはや何が言いたかったのか訳がわからなくなる。もしかしたら、表向き理解したフリをしているが、実際のところ私は、集められた女性に対し、子を産む道具としか見ていない、大奥という体制自体に不満があるのかも知れない。
(だからもう、よくわからない)
伊桜里様が流産されて、一番つらい時に他の女性に手を出せる。そんな帷様のお気持ちの底に隠れるものが、一体何なのか。それから、正妻である貴宮様に歩み寄ろうとしないことも。
帷様の行動原理が常人である私には理解不能すぎる。
(でも、帷様は光晴様で公方様)
これだけは確かな事実だ。
そして子が流れたら、次の胤を残すため、お心がどうであれ、お世継ぎを残す努力をしなければならない。よって、私には理解不能でも、帷様が美麗様と関係を持った事。それはここでは正しい事なのだ。
「みつ……俺だって、好きでそういう流れになったわけではない。ただ、それをお前に責められるのは気分が悪い」
帷様の声が棘のあるものとなる。
「出過ぎた真似をいたしまして、申し訳ありません」
私は体を折り、布団に頭を擦り付ける。
「いや、いい。お前の言う事も一理ある。ただ、周囲から「世継ぎを」と圧をかけられ、それに応えようと一人にばかり寵愛の心を向ければ、今度は貴宮の立場を考えろと言われる」
冷静な口調で告げる帷様。
「そういうしがらみばかりの中、一時の欲に身を任せてしまったこと。それを俺は責める事は出来ない。だが、女であるお前から見たら許せない事なのだろう。その気持もわからなくはない」
帷様はそう呟くと、深いため息をついた。
「周囲の助言に従い、平等に胤を残そうとしても、結局は誰かを傷つける事になる。そもそも自分が一番寵愛する者に子が出来ねば、周囲からはその想いすら邪魔だと忠告される」
思いを吐きだすように、帷様は続ける。
「しかし伊桜里でなければ意味がない。だから大奥になど足を運ばぬ。そう思ってしまうのは人であるが故に抱く自然な気持ちだ。だとしたら、やはり無理強いをするのは間違っているのかも知れんな。御三家から世継ぎを選出するというのも、考えるべきなのかも知れん」
ついには黙り込んでしまう帷様。
(何だか不思議だ)
帷様がたった今口にした言葉は、心にくるものがある。
けれど、なんというか。
(他人事みたい)
私はまたもや違和感を覚える。
(もしかしてご自分を客観的に捉える事で、お気持ちを冷静に保とうとしている?)
感じる違和感に私はそう解釈をつけ、自分を納得させようとした。そして何となく落ち込んでいる様子の帷様を元気づけなくてはと思った。
何故なら。
(だって、私が余計な事を言ったばっかりに、一生伊桜里様に操を立てた状態となるのはまずい、非常にまずいよ、それは)
もしこのまま私が何気なく放った言葉をきっかけとし、帷様が一生奥泊まりをされなかったとしたら、大奥の女性に余計なおせっかいを働いてしまったという事になる。
何より私は伊桜里様の事件の謎を解く事で、お世継ぎ問題を解決する。その為にこの場にいるはずだ。それなのに、帷様を大奥から遠ざけるような事を口にするだなんて言語道断。
(まずい、そんな事が正輝に知られたら、父上に告げ口されちゃう)
そして私は江戸から離れた場所で諜報任務をするよう言いつけられてしまう。その結果、私は名も知れぬ土地で朽ち果てるのだ……。
私は老婆となった自分が野ざらしで一人、行き倒れになった情景を思い浮かべ、青ざめたのであった。