私が流しかけた、よくわからない感情の涙。
それを拭い、私はひとまず目の前の事に意識を集中する。
(だって私は伊賀者、くノ一連い組だから)
いつも通り励まし、冷静になろうと頭の中にある辞書から今の状況にケリをつける、最適な言葉を呼び覚ます。
『人相は当たらない事が多い、しかし心相は良く当たるので、読み間違えてはならない』
これは『正忍記』という秘伝書の、読唇術の項目に記されている一文だ。
つまり私には泣きたい気持ちの意味がわからなくとも、周囲に泣いている姿を見られたら、私の気持ちが誰かに見破られてしまう可能性があるということ。
(そんなの絶対嫌)
自分の気持ちは誰に教わる事なく、自分でちゃんと理解したい。だから今は、メソメソしている場合ではないと、任務に意識を集中させる事にした。
現在人払いをした部屋の中……といっても帷様と私だけがいるわけではない。
なぜか正輝もいるし、帷様が連れている御広敷添番の男性役人もいる。それから普段から将軍付きで警護に当たっているであろう、羽織袴共に黒無地の、厳つい侍がしっかりと、私を見張っている。
見張られた私の向かいに座るのは、勿論帷様だ。
ただし、今日は落武者でもなく、女装した綺麗な帷ちゃんでもない。
本日の帷様は褻)の日と言われる、いわゆる普段着の装いとなる紫色の紋付き袴姿。
肩衣の両胸と背中に白抜きで東雲家の家紋「丸に三つ重ねの雲」がしっかりと抜かれている。
私は帷様がきちんと髷を結っている姿を初めて目の当たりにし、その凛々しさに少しドキリとする。
けれど将軍のみに許される紫色をしっくり着こなしている姿を目の当たりにすると、やはり「私なんかが気軽に話しかけていい御人」だとは到底思えず、見知らぬ人と初めて対面した時のように、緊張してしまう。
「色々とあるだろうが、それで、話と言うのは」
私以上に気まずい雰囲気を醸し出している帷様が口火を切る。
「先程まで私は御殿を夜廻りしておりました。その時に、私と共に見廻っていた者が、幽霊を見たと申しております」
帷様の顔から力が抜け、明らかに安堵したものに変わる。
(そりゃ色々言いたいけど、ここでは言えないし)
どんな事情があって、光晴様が帷様と名乗っているのかわからない。けれどそれはきっと、何か理由あっての事だろう。流石にそれくらいは想像出来る。
(だからここでは問い詰めない)
帷様の背後に控える正輝が私に小さく頷く。それはつまり私の選択が正しいという事だろう。
「幽霊を見た。そう申している者はどこにいるのだ?」
「色々と不運が重なり、体調を崩しております」
「なるほど。ところで先程のあれは何なのだ?」
帷様が言う「あれ」とは、私が取り囲まれていた状況のことだろう。
(原因はお仙ちゃんと私が大きな声を出していたからっぽいけど)
正直それを今ここで短く説明するのは難しい。
私はしばし考えた挙げ句、しっかりと帷様に視線を合わせる。
「御台様が申しあげていた通りでございます」
貴宮様の思いを知った今、私は嘘をつくことにした。
(だって私も気持ちはわかるから)
伊桜里様の汚名をすすぎたい。だから私もこうして光晴様が帷様だったという事実に動揺しつつも、職務を優先している。よって「御台様の言う通り」と答えるのが、正しいと思った。
「あの部屋に漂う様子は、おかしなもの。そう感じたが、まぁいい。そなたを信じよう」
「ありがとうございます」
礼を口にし、大袈裟に、それこそ畳におでこが付くくらい深く頭を下げる。
何故なら、すこしばかり仕返しをするためだ。
「そのようにかしこまらなくとも良い。おもてをあげろ」
帷様が少しだけ慌てた様子で前のめりになると、私に手を差し出そうとした気配を感じる。
(ほら、動揺してる)
私は仕返しが成功したと、しっかりほくそ笑んでから顔をあげる。
「それで、そなた自身は幽霊を見たのか?」
「いいえ、見ておりません。けれど、手燭に刺した蝋燭の炎が不自然に揺れました」
「それは一体」
「どこかの部屋の扉が開き、空気の流れが変わった時の揺れのように感じました」
「ふむ、正輝、お前はどう思う?」
帷様が尋ねる。
「そうですね。この者の言う言葉を信じる、信じないは別として、現場を確認してみるべきかとは、思います。まだ時間もありますし」
正輝は偉そうに意見する。
(ちょっとまって。帷様が公方様だったら、正輝は公方様付きの忍びってこと?)
私は脳裏で正輝の鈍臭さを思い出し、途端に不安になる。
私の片割れ。双子の兄である正輝は幼い頃から、隙きあらば鍛錬をサボり、隠れて本を読んでいる。そういう人間だった。しかもその本というのが難解なものばかりで、儒学書やら歴史書。それから辞書など、どこか面白みに欠けるような、そんな背伸びした本ばかり好んでいたと記憶している。
(大丈夫なのかな)
服部の名に傷がつかなければ良いのだけれど、と私は心配になる。
「そうか。では確認してみよう。場所はどの辺なんだ」
「宇治の間付近です」
私が口にすると、明らかに不自然に男性陣が固まった。
「宇治の間だと?」
「はい」
再度確認するように問われ、私は肯定する。
すると今までだんまりを決め込んでいた、御広敷添え番の男性役人達がざわつきはじめた。
「しかしあそこは」
「あまり近づかないほうが」
「老女となった御年寄の亡霊が出るとか何とか」
「いい噂を聞きませんからな」
「そうだな、あそこに公方様をお連れするわけにはいかんだろう」
「確かにな」
何となく及び腰になる男性陣。
(え、まさか怖いの?)
たしかに聞いた話によるとこうだ。
かつて御台所の居間であった宇治の間は、ある時から開かずの間とされた。それは次々に側室を娶る第五代将軍に恨みを抱いていた正妻が、奥女中と共謀し夫である将軍を暗殺した部屋だから。
(そりゃ、そうなるよ。恨んで出るよ)
女の恨みは怖いのである。ましてや夫婦仲が冷え切ったとしても、正妻となる者は死ぬまで世俗とは隔離された世界で生き続けなければならないから。
(御台様もまだお若そうなのに)
私は薮椿の良い香りのする市松人形のような、貴宮様の事を思い出す。
(京から江戸に来て、彼女は幸せなのだろうか)
そんな疑問が浮かび、貴宮様の夫となる人は帷様であるという事実に突き当たる。
(杜若柄の豪華な屏風を立ててるとは言え、お布団を隣に敷いて寝た仲なのに)
それが誰かの夫だったなんて、かなり衝撃的だ。
(まるで私が側室みたい……)
となると、貴宮様から夫を奪う悪い女だと、そんな風に自分が思えてきた。同時に料理まで作ってあげて、何だか「老夫婦のようだ」と笑いあった記憶まで思い出す。
(駄目、何か悶々としちゃうから、今は駄目)
私はふさぎ込みそうになる思いを、無理矢理封じ込める。
「行かないのですか?」
私は待ちきれないとばかり立ち上がる。
「行く、に決まってるだろう。お前達も行くぞ」
立ち上がる帷様の腰は重そうだ。
(多分、ちょっと怖がってる)
確信し、私をまんまと騙した仕返しがもう一つ出来たとほくそ笑むのであった。
***
宇治の間はその名の通り、宇治郷の茶摘の絵が襖に描かれた部屋のことだ。千利休という著名な茶人の要望により、渋みを抑えた茶葉が作られるようになったという宇治の茶は、桃源国でも有名な茶葉の産地である。
現に公儀へ献上する茶は茶壺道中と称し、行列を整え江戸へ向かうほど。
そんな初夏の風物詩となる新茶摘みの情景が描かれた、素晴らしい襖絵の部屋の前に立つ私。
両隣には帷様と、正輝。
御広敷添え番の男子役人達は少し離れている場所に待機している。周囲を警戒している風を装っているが、ただの怖がりだと私は見抜いた。
そして帷様の背後には、黒無地の羽織袴を身につけた、いかつい侍が二名控えている。こちらは開かずの間への恐怖よりも、忠誠心が優っているようだ。
(流石お侍さま)
私は心で拍手喝采をおくる。
「では開けますよ?」
何故か私より半歩ほど下がる帷様と正輝に声をかける。
「お、おう」
「やっぱ開けちゃうのか?」
正輝が馴れ馴れしい声を出す。
「あら、お侍様の胸元にホコリが」
私はグイと正輝の肩衣を引っ張り、自分の方に引き寄せる。
「色々と、秘密でしょ」
「わかってる」
「取れましたわ、完璧でございます」
私は正輝が着た肩衣の肩に入る、服部家の紋についた埃を払うように叩くと、ニコリとほほえむ。そして最後に念押しとばかり、軽く正輝を突き飛ばしておいた。
「では改めて」
襖に近づこうと一歩ほど足を進めた時。
「いたっ」
何か小さい者を踏みつけたのか、足の裏に小さな痛みが走る。
「大丈夫か?」
帷様が私に声をかけてくれた。
「有難きお言葉。けれど大丈夫でござります」
「…………」
微妙な顔を返された。多分、慣れない将軍様向けの敬語を私が使ったからだろう。
(気にしない、気にしない)
私は足を上げ、先程踏みつけたと思われる物を拾い上げる。それは小さな丸い塊で、色は桃色のようだ。
もう少し良く見えるようにと、手燭を持った手を持ち上げる。
「持っててやろう」
帷様が私の持つ手燭を持ってくれた。そして私の手元を明るく照らす。
「これは根掛っぽい大きさですね。紐を通す穴が空いてるし。それに蝶みたいな模様が入って……」
私は自分で口にした言葉にハッとする。
「まさかお前が無くしたという根掛なのか?」
「はい。ここに蝶の模様が入っているんですけど」
私は帷様に拾った根掛けの玉を見せようとして顔をあげる。すると思いのほか、私の手元を覗き込んでいた帷様の顔が近くにあり驚いた。そしてつい、根掛をぽろりと床に落としてしまう。
「あっ」
カンカンと数回ほど音を立て、軽快に床を転がる根掛けを拾ったのは正輝だ。
「あ、これはお前が自分で自分の為に買った、悲しいやつじゃないか」
呑気な声をあげる正輝。
口にした内容も腹立たしいが、今はそれより私達が知り合いだと周囲に露見するほうがまずい。
(さっき注意したばかりじゃない!!)
私は三歩進む前に忘れる正輝を鶏以下、いやむしろ鶏と比べることすらおこがましい、鶏に失礼だと、内心罵る。
「ありがとうございます」
私は礼をいいながら正輝から根掛を奪い取る。ついでに足を思い切り踏みつけておいた。
「いてっ。暴力反対」
(こういうところが、ほんと心配なんだけど)
私は正輝できちんとお勤めが果たせているのだろうかと、思わず帷様を見つめる。
「言いたい事はわかる。しかし役に立っているから安心しろ」
流石寝食を共にした帷様である。私の無言の問いかけが、きちんと伝わったようだ。
(あまり嬉しくないけど)
帷様の肩にある、立派な丸に三つ重ねの雲を見て再びどんよりとした気分になった。私はその気持を振り払おうと、つまんだ珊瑚の根掛を見つめる。
「一体何故、ここにこれが落ちているんだろう」
「一体、何故ここに落ちているんだ?」
帷様とうっかり同じ言葉を発してしまう。
「なんか、ふたりとも息があってるな」
また、正輝が余計な事を口走る。そんな正輝をキッと睨み、私は先程口にした疑問について思考を巡らせる。
(しかも、なんでバラけているんだろう)
何だか嫌な予感がする。
私はこの時初めて襖を引くのを怖いと感じた。
(だけど、ここまでみんなを連れて来ちゃったわけだし)
私は思い切って、萌黄色の房飾りがついた襖の取っ手に手をかける。
「いい、私が開けよう」
帷様が声を上げる。すると、背後に黒子のように控えていた、いかついお侍様が動いた。
「なりませぬ。私が」
流石近衛と言った感じ。
役立たずの正輝を押し退け、前に歩み出た。
「では、参ります。よろしいですか?」
帷様が頷く。そしてついに、開かずの間が私達の前で開かれたのであった。
それを拭い、私はひとまず目の前の事に意識を集中する。
(だって私は伊賀者、くノ一連い組だから)
いつも通り励まし、冷静になろうと頭の中にある辞書から今の状況にケリをつける、最適な言葉を呼び覚ます。
『人相は当たらない事が多い、しかし心相は良く当たるので、読み間違えてはならない』
これは『正忍記』という秘伝書の、読唇術の項目に記されている一文だ。
つまり私には泣きたい気持ちの意味がわからなくとも、周囲に泣いている姿を見られたら、私の気持ちが誰かに見破られてしまう可能性があるということ。
(そんなの絶対嫌)
自分の気持ちは誰に教わる事なく、自分でちゃんと理解したい。だから今は、メソメソしている場合ではないと、任務に意識を集中させる事にした。
現在人払いをした部屋の中……といっても帷様と私だけがいるわけではない。
なぜか正輝もいるし、帷様が連れている御広敷添番の男性役人もいる。それから普段から将軍付きで警護に当たっているであろう、羽織袴共に黒無地の、厳つい侍がしっかりと、私を見張っている。
見張られた私の向かいに座るのは、勿論帷様だ。
ただし、今日は落武者でもなく、女装した綺麗な帷ちゃんでもない。
本日の帷様は褻)の日と言われる、いわゆる普段着の装いとなる紫色の紋付き袴姿。
肩衣の両胸と背中に白抜きで東雲家の家紋「丸に三つ重ねの雲」がしっかりと抜かれている。
私は帷様がきちんと髷を結っている姿を初めて目の当たりにし、その凛々しさに少しドキリとする。
けれど将軍のみに許される紫色をしっくり着こなしている姿を目の当たりにすると、やはり「私なんかが気軽に話しかけていい御人」だとは到底思えず、見知らぬ人と初めて対面した時のように、緊張してしまう。
「色々とあるだろうが、それで、話と言うのは」
私以上に気まずい雰囲気を醸し出している帷様が口火を切る。
「先程まで私は御殿を夜廻りしておりました。その時に、私と共に見廻っていた者が、幽霊を見たと申しております」
帷様の顔から力が抜け、明らかに安堵したものに変わる。
(そりゃ色々言いたいけど、ここでは言えないし)
どんな事情があって、光晴様が帷様と名乗っているのかわからない。けれどそれはきっと、何か理由あっての事だろう。流石にそれくらいは想像出来る。
(だからここでは問い詰めない)
帷様の背後に控える正輝が私に小さく頷く。それはつまり私の選択が正しいという事だろう。
「幽霊を見た。そう申している者はどこにいるのだ?」
「色々と不運が重なり、体調を崩しております」
「なるほど。ところで先程のあれは何なのだ?」
帷様が言う「あれ」とは、私が取り囲まれていた状況のことだろう。
(原因はお仙ちゃんと私が大きな声を出していたからっぽいけど)
正直それを今ここで短く説明するのは難しい。
私はしばし考えた挙げ句、しっかりと帷様に視線を合わせる。
「御台様が申しあげていた通りでございます」
貴宮様の思いを知った今、私は嘘をつくことにした。
(だって私も気持ちはわかるから)
伊桜里様の汚名をすすぎたい。だから私もこうして光晴様が帷様だったという事実に動揺しつつも、職務を優先している。よって「御台様の言う通り」と答えるのが、正しいと思った。
「あの部屋に漂う様子は、おかしなもの。そう感じたが、まぁいい。そなたを信じよう」
「ありがとうございます」
礼を口にし、大袈裟に、それこそ畳におでこが付くくらい深く頭を下げる。
何故なら、すこしばかり仕返しをするためだ。
「そのようにかしこまらなくとも良い。おもてをあげろ」
帷様が少しだけ慌てた様子で前のめりになると、私に手を差し出そうとした気配を感じる。
(ほら、動揺してる)
私は仕返しが成功したと、しっかりほくそ笑んでから顔をあげる。
「それで、そなた自身は幽霊を見たのか?」
「いいえ、見ておりません。けれど、手燭に刺した蝋燭の炎が不自然に揺れました」
「それは一体」
「どこかの部屋の扉が開き、空気の流れが変わった時の揺れのように感じました」
「ふむ、正輝、お前はどう思う?」
帷様が尋ねる。
「そうですね。この者の言う言葉を信じる、信じないは別として、現場を確認してみるべきかとは、思います。まだ時間もありますし」
正輝は偉そうに意見する。
(ちょっとまって。帷様が公方様だったら、正輝は公方様付きの忍びってこと?)
私は脳裏で正輝の鈍臭さを思い出し、途端に不安になる。
私の片割れ。双子の兄である正輝は幼い頃から、隙きあらば鍛錬をサボり、隠れて本を読んでいる。そういう人間だった。しかもその本というのが難解なものばかりで、儒学書やら歴史書。それから辞書など、どこか面白みに欠けるような、そんな背伸びした本ばかり好んでいたと記憶している。
(大丈夫なのかな)
服部の名に傷がつかなければ良いのだけれど、と私は心配になる。
「そうか。では確認してみよう。場所はどの辺なんだ」
「宇治の間付近です」
私が口にすると、明らかに不自然に男性陣が固まった。
「宇治の間だと?」
「はい」
再度確認するように問われ、私は肯定する。
すると今までだんまりを決め込んでいた、御広敷添え番の男性役人達がざわつきはじめた。
「しかしあそこは」
「あまり近づかないほうが」
「老女となった御年寄の亡霊が出るとか何とか」
「いい噂を聞きませんからな」
「そうだな、あそこに公方様をお連れするわけにはいかんだろう」
「確かにな」
何となく及び腰になる男性陣。
(え、まさか怖いの?)
たしかに聞いた話によるとこうだ。
かつて御台所の居間であった宇治の間は、ある時から開かずの間とされた。それは次々に側室を娶る第五代将軍に恨みを抱いていた正妻が、奥女中と共謀し夫である将軍を暗殺した部屋だから。
(そりゃ、そうなるよ。恨んで出るよ)
女の恨みは怖いのである。ましてや夫婦仲が冷え切ったとしても、正妻となる者は死ぬまで世俗とは隔離された世界で生き続けなければならないから。
(御台様もまだお若そうなのに)
私は薮椿の良い香りのする市松人形のような、貴宮様の事を思い出す。
(京から江戸に来て、彼女は幸せなのだろうか)
そんな疑問が浮かび、貴宮様の夫となる人は帷様であるという事実に突き当たる。
(杜若柄の豪華な屏風を立ててるとは言え、お布団を隣に敷いて寝た仲なのに)
それが誰かの夫だったなんて、かなり衝撃的だ。
(まるで私が側室みたい……)
となると、貴宮様から夫を奪う悪い女だと、そんな風に自分が思えてきた。同時に料理まで作ってあげて、何だか「老夫婦のようだ」と笑いあった記憶まで思い出す。
(駄目、何か悶々としちゃうから、今は駄目)
私はふさぎ込みそうになる思いを、無理矢理封じ込める。
「行かないのですか?」
私は待ちきれないとばかり立ち上がる。
「行く、に決まってるだろう。お前達も行くぞ」
立ち上がる帷様の腰は重そうだ。
(多分、ちょっと怖がってる)
確信し、私をまんまと騙した仕返しがもう一つ出来たとほくそ笑むのであった。
***
宇治の間はその名の通り、宇治郷の茶摘の絵が襖に描かれた部屋のことだ。千利休という著名な茶人の要望により、渋みを抑えた茶葉が作られるようになったという宇治の茶は、桃源国でも有名な茶葉の産地である。
現に公儀へ献上する茶は茶壺道中と称し、行列を整え江戸へ向かうほど。
そんな初夏の風物詩となる新茶摘みの情景が描かれた、素晴らしい襖絵の部屋の前に立つ私。
両隣には帷様と、正輝。
御広敷添え番の男子役人達は少し離れている場所に待機している。周囲を警戒している風を装っているが、ただの怖がりだと私は見抜いた。
そして帷様の背後には、黒無地の羽織袴を身につけた、いかつい侍が二名控えている。こちらは開かずの間への恐怖よりも、忠誠心が優っているようだ。
(流石お侍さま)
私は心で拍手喝采をおくる。
「では開けますよ?」
何故か私より半歩ほど下がる帷様と正輝に声をかける。
「お、おう」
「やっぱ開けちゃうのか?」
正輝が馴れ馴れしい声を出す。
「あら、お侍様の胸元にホコリが」
私はグイと正輝の肩衣を引っ張り、自分の方に引き寄せる。
「色々と、秘密でしょ」
「わかってる」
「取れましたわ、完璧でございます」
私は正輝が着た肩衣の肩に入る、服部家の紋についた埃を払うように叩くと、ニコリとほほえむ。そして最後に念押しとばかり、軽く正輝を突き飛ばしておいた。
「では改めて」
襖に近づこうと一歩ほど足を進めた時。
「いたっ」
何か小さい者を踏みつけたのか、足の裏に小さな痛みが走る。
「大丈夫か?」
帷様が私に声をかけてくれた。
「有難きお言葉。けれど大丈夫でござります」
「…………」
微妙な顔を返された。多分、慣れない将軍様向けの敬語を私が使ったからだろう。
(気にしない、気にしない)
私は足を上げ、先程踏みつけたと思われる物を拾い上げる。それは小さな丸い塊で、色は桃色のようだ。
もう少し良く見えるようにと、手燭を持った手を持ち上げる。
「持っててやろう」
帷様が私の持つ手燭を持ってくれた。そして私の手元を明るく照らす。
「これは根掛っぽい大きさですね。紐を通す穴が空いてるし。それに蝶みたいな模様が入って……」
私は自分で口にした言葉にハッとする。
「まさかお前が無くしたという根掛なのか?」
「はい。ここに蝶の模様が入っているんですけど」
私は帷様に拾った根掛けの玉を見せようとして顔をあげる。すると思いのほか、私の手元を覗き込んでいた帷様の顔が近くにあり驚いた。そしてつい、根掛をぽろりと床に落としてしまう。
「あっ」
カンカンと数回ほど音を立て、軽快に床を転がる根掛けを拾ったのは正輝だ。
「あ、これはお前が自分で自分の為に買った、悲しいやつじゃないか」
呑気な声をあげる正輝。
口にした内容も腹立たしいが、今はそれより私達が知り合いだと周囲に露見するほうがまずい。
(さっき注意したばかりじゃない!!)
私は三歩進む前に忘れる正輝を鶏以下、いやむしろ鶏と比べることすらおこがましい、鶏に失礼だと、内心罵る。
「ありがとうございます」
私は礼をいいながら正輝から根掛を奪い取る。ついでに足を思い切り踏みつけておいた。
「いてっ。暴力反対」
(こういうところが、ほんと心配なんだけど)
私は正輝できちんとお勤めが果たせているのだろうかと、思わず帷様を見つめる。
「言いたい事はわかる。しかし役に立っているから安心しろ」
流石寝食を共にした帷様である。私の無言の問いかけが、きちんと伝わったようだ。
(あまり嬉しくないけど)
帷様の肩にある、立派な丸に三つ重ねの雲を見て再びどんよりとした気分になった。私はその気持を振り払おうと、つまんだ珊瑚の根掛を見つめる。
「一体何故、ここにこれが落ちているんだろう」
「一体、何故ここに落ちているんだ?」
帷様とうっかり同じ言葉を発してしまう。
「なんか、ふたりとも息があってるな」
また、正輝が余計な事を口走る。そんな正輝をキッと睨み、私は先程口にした疑問について思考を巡らせる。
(しかも、なんでバラけているんだろう)
何だか嫌な予感がする。
私はこの時初めて襖を引くのを怖いと感じた。
(だけど、ここまでみんなを連れて来ちゃったわけだし)
私は思い切って、萌黄色の房飾りがついた襖の取っ手に手をかける。
「いい、私が開けよう」
帷様が声を上げる。すると、背後に黒子のように控えていた、いかついお侍様が動いた。
「なりませぬ。私が」
流石近衛と言った感じ。
役立たずの正輝を押し退け、前に歩み出た。
「では、参ります。よろしいですか?」
帷様が頷く。そしてついに、開かずの間が私達の前で開かれたのであった。