(さかのぼ)る事数日前。

 『一筆啓上(いっぴつけいじょう)今夜半(こんやはん)、例の場所にてお待ち申しております』

 まるで恋文(こいぶみ)のような内容が書かれた、差出人が(しる)されていない書簡が一通、俺の元に届けられた。

 俺は見覚えのある流れるような文字を見て思わずため息をつく。

 (人目を忍び逢引をする相手が女性ならば、もっと浮かれた気分にもなれるのだが)

 生憎今の俺にはそのような事を楽しめる相手はいないし、時間もない。
 しかも、その書簡を俺によこしたのは五十を越えるという、(じじい)であって、幼い頃から俺と光晴(みつはる)が世話になっている、大老(たいろう)柳生(やぎゅう)宗範(むねのり)なのだから、どうしたって気が乗らない。

 (なんだかな……)

 がっかりしつつも、無下(むげ)にする事は出来ない。
 俺は目的を果たすため、夜中にこっそり長局(ながつぼね)を抜け出したのであった。


 ***


 (後をつけられている)

 自分が立てる音の他に、わずかだがもう一つ音が聞こえる。その音に気付かないフリをして俺は秘密の抜け道となる井戸へと向かう。

 (正輝(まさき)の報告通りだな)

 最初の一回は不覚ながら、尾行されている事に気付かなかった。よって、正輝より報告を受け、まんまと尾行されていたと知り、「しまった」と思ったし、自分の不甲斐なさをも反省した。
 しかし現在。よくよく気配を探れば、確かに抜け出す俺の後をつける者の気配を感じる。

 間違いない、服部琴葉(はっとりことは)だ。

 となれば、簡単に尾行出来ると思われたままなのも悔しい。だから意地悪く、わざと立ち止まり、振り返ってみる。するとピタリと人の気配がなくなった。ぐるりと辺りを見回すが、僅かな息遣いすら感じ取れない。

 (こういう時は、確か)

 俺は辺りを注意深くもう一度、ゆっくりと見回す。そしてよくよく目を凝らすと、ようやく見つけた。

 長局(ながつぼね)の塀に立てかけられたままの竹箒(たけぼうき)の間に、彼女はひっそりと隠れていた。しかも彼女は竹箒に同化するよう、箒の背丈(せたけ)に合わせ、微動(びどう)だにしない。

 (流石、教本通り。見事だな)

 忍びの知識なき者であれば、気付かないだろう。

 鮮やかな変化の姿を堪能した所で、これ以上いじめてやるのも可哀想になり、俺は歩き出す。最近重くなりがちな、光晴の所へ向かう足取りが、この時ばかりは、軽いものになった気がしたのであった。


 ***


 カビ臭い秘密の通路を通り抜け、江戸城本丸郭内(かくない)中奥(なかおく)と呼ばれる場所にある、秘密の部屋に無事辿り着く。

 既に待ち構えていたのは光晴(みつはる)と大老、柳生宗範。気心知れた面々ではあるが、表情から察するに良い話ではないと悟る。

 (あのことが伝わったか)

 幽霊騒ぎを不安がる大奥中の声を受け、貴宮(たかのみや)が光晴に書簡(しょかん)を出した。その一件がすぐに脳裏をよぎった。

「いいから、すわれ」

 言われるがまま腰を下ろすと、光晴が待ってましたとばかり口を開く。

「貴宮から書簡が届いた。伊桜里(いおり)(たた)りを払えという、実にくだらんものだ」

 光晴は手にした書簡を俺の前に置く。
 俺はその書簡を手に取ると、パラリと広げる。

 大奥の御右筆(ごゆうひつ)にでも書かせたのか、恐ろしく整った文字が目に飛び込んできた。

 (整いすぎて、心根(こころね)が文字から読み取れん)

 内心不満に思いつつも、ひとまず内容を確かめようと文字に目を落とす。

 そこには大奥で幽霊騒ぎが起きていること。その幽霊は子を無くし、成仏できない伊桜里だと言われていること。そしてこれ以上混乱させない為にもお(はら)いをして欲しい。
 そんな内容が時候(じこう)の挨拶と共に書かれていた。

 俺は光晴が差し出した書簡を折りたたみ元に戻す。

「これが例の書簡なのですね」
「何だ、もう噂になっているのか」

 光晴が不機嫌そうにたずねる。

「そうですね」
「秘密も何もあったもんじゃないな」
「大奥では楽しみが少ないようですから」

 (あん)に光晴のせいだと、(にお)わせた。

「実にくだらんし、けしからんだろう?」
「確かに我々からするとくだらん。その一言で済みますが、大奥内では大層な騒ぎになっております。そろそろ何か手を打つべきかとは思います」
「らしいな」

 光晴はそこで深くため息をつく。

美麗(みれい)が怪我をしたとも聞いた。しかし伊桜里のせいにするのはどうかと思うが。そもそもなぜ、伊桜里が化けて出たと、そのような馬鹿気(ばかげ)た話がまかり通っているのだ」
「幽霊に化けた女の背格好が、伊桜里に似ていること。そして最初にこの騒ぎを()き付けた美麗が、「伊桜里の幽霊」だと公言したからでしょう」

 俺は運良く遭遇した、《《幽霊もどき》》を思い出しながら答える。

「更に言えば、まるで(めん)を被っているように、白いおしろいを顔に塗りたくっていました。暗闇に突然現れれば、皆が幽霊だと疑うのは自然かと」
「用意周到というわけか。それでこの騒ぎの犯人の目星はついているのか?」

 単刀直入に問われ、書簡を畳に戻しながら、何と答えていいものかと悩む。

 (状況から見て、一連の犯人は美麗だろう)

 その理由は至って簡単。光晴に構ってもらいたいからだ。だから伊桜里の名を出した。しかしそれは逆効果だ。伊桜里の名を、死してなおこのように(けな)すような事をすれば、光晴は許さない。

 (そんな事は誰だってわかるだろうに。一体何故)

 犯行動機となる、肝心な部分が掴めていない。それが美麗に未だ詰め寄れない原因の一つだ。

「美麗なのだろう?」

 俺の返事を待ちきれなかったのか、光晴が結論を急ぐように口にした。

「状況から見て、そうなのだろう?」

 再度問われ、渋々頷く。

「確かにその可能性は高いかと」

 美麗が怪しい。その事を認める。

「ならば、御広敷御用人(おひろしきごようにん)に取り調べをさせ、口を割らせれば良い。さすればこの問題は解決するのだな?」

 光晴がこれで万事解決と言った調子で口にする。

 (そうであればいいのだが)

 現実はそこまで甘くはないだろう。

「恐れながら、美麗が簡単に口を割るとは思えません」
「何故だ」
「まず、確固たる証拠がありません。その上、もし犯行を認めれば、二度と大奥に立ち入る事が叶わなくなる。それどころか、光晴の沙汰(さた)によっては島流しになる可能性もありますから」
「しかし、既に物言えぬ者となった、伊桜里の名を悪事に利用したのは許されん事だ」

 眉間(みけん)(しわ)を寄せ、光晴は厳しい声をだす。

 正直、幽霊騒ぎをけしかけたくらいで島流しにはならないだろう。光晴が暴君(ぼうくん)たる判断をする前に、俺や宗範が止めるし、他の重臣(じゅうしん)達も許さない筈だ。

「とにかく、彼女は罪を認めた瞬間、人生が終わるも同然です。よって簡単に口を割るような事はないかと」

 伊桜里の事となると、すぐに頭に血が上る光晴。それに対し、念を入れ忠告しておく。

「そうですな。庶民であった美麗様にとってみれば、御中臈(おちゅうろう)となった今、何もせずとも切米(きりまい)十二(こく)合理金(ごうりきん)四十両、そして食費となる扶持(ふち)までもが公儀(こうぎ)より支給されます。言い方は悪いですが、()(ぜん)()え膳の生活を簡単に手放すとは考えにくい。よって、しっかりとした証拠固めは必要でしょうなぁ」

 宗範が補足しつつ、やんわりと俺の肩を持つ。

「だったら何故、幽霊騒ぎなど起こした。静かに過ごしていればいいではないか」
「そこは光晴様を想う女心で、と言いたい所ですが、状況からすると、今の地位を安泰にすべく、御生母(ごせいぼ)になろうとする欲にかられた。そんな気がしますな」

 宗範が穏やかな(つら)で、我に返るような事を口にした。

 (そうか)

 美麗はお手付きされた御中臈(おちゅうろう)である。

 (しかしそれは、後にも先にも一度きり)

 大奥では「公方様の気まぐれでお情けをもらった女」だと、密かに美麗を馬鹿にしている者すらいる。今後光晴に寵愛(ちょうあい)する妃が現れれば、その風潮(ふうちょう)は更に強くなり、誰も美麗に見向きもしなくなる。

 (そうなる事を恐れ、自ら動いた)

 それが彼女が幽霊騒ぎを起こした、真の理由なのかも知れない。

 ようやく俺はその事に気付いた。

「宗範の言う事を思いつきそうな、そんな(したた)かな女である事は確かだ。なんせ御湯殿(おゆどの)で私に色仕掛けをする度胸があるのだからな」

 光晴は苦々しい表情になる。

 (御湯殿の一件か)

 それを耳にした時は、特に何も思わなかった。むしろようやく、心と身体は別物だと、割り切れたのだなと、光晴に感心すらした。

 (それがまさかこのような事になるとは)

 色々な意味で、欲とは、女とは恐ろしいものだ。改めて思う。

「美麗を問い詰めても無駄。ならばこの騒ぎをどう収めればいい。大奥では私が悪いと、そのような事になっているらしいじゃないか」

 (全くその通りなのだが)

 悪いのは大奥に立ち入らない光晴。

 (お前だ)

 俺は心の中でしっかりと指摘する。

「美麗様の目的は光晴様を自分の元にお渡りさせること。となると、これは一度光晴様に大奥にお渡りをしてもらい、本人にさりげなく」
「いかぬ」

 宗範の言葉を光晴が(さえぎ)る。

「しかし、大奥は光晴様のお世継ぎを残す為だけに存在する場所です。そしてあの場所に閉じ込められている奥女中達はそれを誇りに思い、特殊な環境に耐えているのですよ」

 反撃とばかり、宗範が強い口調で(さと)す。

「本当にあの場は必要なのだろうか?」

 光晴がついに、本音を漏らした。

「そもそも、これだけ長く続く東雲(しののめ)家だ。相当な愚か者でなければ、誰が上に立とうとも、世は正しくまわる。私の子である必要はもはやないだろうに」

 肩を落とし、ただの人になった光晴。この姿は、この部屋だけのもの。弱音を吐けるのは、俺達の前だからだ。

「光晴様のお(たね)であれば、無用な血を流さずに済む可能性が高い。様々な思惑を持った者に付け入る(すき)を与えない為にも、先ずは血筋で守られた、貴方様(あなたさま)の子である事が必要なのです」

 宗範が血統の重要性を説く。

「しかし、私に子が恵まれなかった場合。それを踏まえ、御三家(ござんけ)の存在がある。特に尾張(おわり)東雲家の五郎太(ごろうた)は幼きながら、才知に()け、容色(ようしょく)輝く子であると耳にしたぞ」
「東雲家の血筋を引く、利発な子というだけで将軍となれるのであれば、紀州(きしゅう)家の長福丸(ながとみまる)様もまた、利発な上に人の魅力に満ちているそうですよ」

 宗範がツラツラと吐き出した言葉に、明らかにギョッとする光晴。

「だとすると悩ましいな。上に立つには人を掌握(しょうあく)する力も必要だ。それを生まれつき(そな)えた子となると、長福丸に軍杯が上がるような気もするが、容色輝く五郎太も捨てがたい……ううむ」

 光晴は真剣な表情で悩み始める。

「けれど、五郎太様も長福丸様も、共にまだ二歳の童子(どうじ)です」
「は?二歳だと!?それで何故、利発だのなんだとわかるのだ」

 光晴が傍に置かれた脇息(きょうそく)をパチンと扇子(せんす)で叩く。

「つまりそういう事です」

 愉快そうな声で、宗範が答える。

「なるほど。我が子を悪く言うものなどいないということか」

 光晴が肩を落とす。

「ええ。それに加え、子の評判というのは、大人の政治的思惑も含まれたもの。ですから正しくは利発かどうかなど、育ってみなければわからぬものなのです。そして優れ者にしたければ、育て方や環境次第でどうとでもなります」

 そこで言葉を切ると、宗範はしっかり光晴の顔を見つめる。

「唯一後付けできないものは、その身に流れる血筋なのです」

 流石宗範だ。話をうまくまとめた。

「ならば、もう数年ほど待てば良い。私が預かり、見極めよう」

 何があっても大奥に行くものか。そんな強情な意思を持つ光晴は譲らない。

「子を育てた経験のない光晴様に、果たして見極められるでしょうか」
「うるさい。育児書に書かれた事は頭に入っているんだ。ただ、その子が産まれて来なかっただけで……」

 伊桜里との間に授かったばかりの、亡くした我が子を思い出した光晴は、(こら)えたように(ひざ)に置いた手を強く握る。

「申し訳ございません。出過(です)ぎた真似を」

 流石にやり過ぎたと思っているのか、部が悪そうな表情で、宗範が頭を下げた。

「気にするな。今更だ」

 力なく吐き捨てた光晴は苦悶に満ちた表情だ。宗範に、というよりは自分を責めているのだろう。

 無音がその場を支配し、部屋の空気が途端に重苦しいものとなる。

 (気持ちはわかるが)

 今は問題が山積みだ。特にいつの間にか大きくなってしまった幽霊騒ぎは、早期に解決すべき案件。もしこのまま手を打たなければ、大奥で策を取らぬ、光晴への憎悪が更に増す事は間違いない。それに光晴の行いにより、既に朝廷側とは亀裂が入ってしまっている。

 (なんとかせねば)

 俺は状況を改善せねばと、焦る気持ちになったのであった。