作者となる者が家業の呉服屋で用いた着物の型紙を下書きに描いたという、美しい杜若(かきつばた)が描かれた屏風(びょうぶ)を挟んだ向こう側から、すやすやと小さな寝息が聞こえ始めた。

 それからしばらくして、俺はひっそりと布団から抜け出す。

 (忍び相手だと、気が気じゃないな)

 いつも以上につま先にまで気を張り、気配を消す。

 衝立の向こう、寝息を立てる者は本職だ。空気の僅かな揺れだけで、こちらの気配を察知され、目覚めてしまうかも知れない。
 そろりそろりと動き、土間で草履(ぞうり)にそっと足の指を通す。息を殺し目を閉じ、僅かな動きがないか確認する。

 彼女は変わらず寝静まっている。

 (俺もそこそこ動けるという事か)

 幼い頃から兄である光晴(みつはる)の影となるよう、御庭番(おにわばん)である伊賀者(いがもの)達の手ほどきをそれなりに受け育った。

 (それがまさかこんな形で役立つとはな)

 伊賀者達をまとめる男の娘を誤魔化す羽目になるとは。人生とは、何が起きるかわからない。

 そんな事を思いながら、慎重に部屋の扉を開け、素早く部屋の外に出る。

 ほぅと一息つくと、白く湯気が立つ。肩を降ろすと、建物の隙間から吹き込む風が体を一気に冷やしにかかる。

 (夜風が身に染みるとは、まさにこのことだな)

 ブルリと震えながら、手拭いを頭に巻き、そそくさとその場を立ち去る。

 江戸城には公にされていない、秘密の通路がいくつかある。勿論大奥も例外ではない。
 大奥内に数多く点在する井戸。その中のいくつかは、一見すると朽ち果てた井戸にしか見えない。しかしそのうちの一つが、実は地下へと続く抜け穴となっている。その井戸の鉄蓋には、からくりを組み込んだ錠前がかけられており、七個ある鍵穴は正しい順番で鍵を差し込まないと解錠しない仕組みとなっている。

 俺は周囲を確認し、首から下げた鍵を差し込む。するとほどなくして、カチャリという音と共に錠前が解錠された。

 ゆっくりと、井戸の蓋をずらす。

「さて、気は乗らないが、行くとするかな」

 呟いてから、井戸の中に下がる縄梯子(なわばしご)に足をかけ、数段ほどゆっくりと降りる。そして木蓋をずらし、井戸に内側から錠前をしっかりとかけておく。

 地上からの明かりが遮られ、縄を握る手元すら見えないほどの暗闇が俺を襲う。

「まるで奈落(ならく)の底に自ら落ちているようだな」

 思わず出た言葉に苦笑いをしつつ、どうにか下まで到達する。

 地面に足をつけると、懐に入れていた蝋燭(ろうそく)を取り出し、火打石(ひうちいし)で火をつけた。暗闇の中、ポッと灯った橙色(だいだいいろ)の炎を頼りに、周囲を確認する。

 そこは洞窟のような場所であり、開けた場所となっていた。四方に道が伸びているが、正しい道は一本のみ。
 抜け道があるということは、同時に、敵に攻め込まれる危険もあるということ。よって蜘蛛の巣のように張り巡らされた地下通路は、迷路のようになっている。そのため、正しい道順を知る者以外が迷い込んでしまえば、容易に脱出できない作りになっているのだ。

「全く、出来ればこのような場所には足を運びたくないものだ」

 ぽつりと言葉を漏らしながら、記憶を呼び起こす。間違えれば二度と出る事がかなわない。それだけは勘弁だ。

「よし、こっちだ」

 壁に手を這わせながら、記憶を頼りに進んだのであった。


 ***


 江戸城の表と呼ばれる場所。そこには歴代の将軍と、わずかばかりの数人のみが知らされた隠し部屋がある。

 普段は双子の兄と本音で語る事が出来る唯一の場として、その部屋に向かう事に抵抗はなかった。

 しかし。

 (今日はすこぶる機嫌が悪そうだ)

 許されるのであれば、今すぐ大奥に戻りたい。密かに願い、俺は兄である光晴(みつはる)の前に正座した。

(とばり)よ、お前は大奥で一体何をしている」
「…………」

 チラリと俺の後ろに控える大老(たいろう)柳生(やぎゅう)宗範(むねのり)の顔を確認する。すると宗範は力なく項垂(うなだ)れ、もはや三途(さんず)の川がそこまで迫っているといった、(うつろ)な目をしていた。

 (なるほど。既に兄上に問い詰められたというわけか)

 となると、嘘八百を口にしたところで時間の無駄。正直に質問に答えた方が良い。

「老中を初めとする、重臣達の命を受け、大奥にて潜入捜査をしております」
「そのようなことは必要ない。今すぐやめろ」
「しかし、このままでは兄上の評判が下がってしまいます」
「いらぬお世話だ!!」

 パシリと手にした扇子で肘掛けを叩きつけ、光晴は怒りをあらわにする。

 (これはまた随分とご立腹の様子だな)

 それに少しやつれているような気もする。まぁ無理もないが。

「兄上、しっかりと食事はなさっていますか?」

 こんな踏み込んだ質問はきっと俺か宗範くらいしか出来ぬ。

 (どうせろくに食べていない)

 見た目の様子からわかりきってはいたが()えて尋ねる。

「光晴様は、(はし)で突くばかりでございます」

 背後からここぞとばかり、宗範の声が飛んでくる。

「うるさい。死なない程度には食べている。それに、食欲が湧かぬのだから、仕方あるまい」
「しかし、死なれたら困るのですが」
「その時はその時だ。お前が俺の代わりになれば良い。同じ顔をした者同士だ、どうせ誰も気づかん」

 (重症だ……)

 思わず天を仰ぐ。まさかここまで追い詰められているとは。

「まさかまだ、伊桜里(いおり)の件で御自分を責めていらっしゃるのですか?」
「……それは」

 言葉に詰まる様子からして、正解のようだ。

「いいですか、兄上。美麗(みれい)にうっかり(ほだ)され、手を出した。その事を後悔するのはおやめ下さい。向こうだってその気で仕掛けてきているんです。誰だってそうなります。俺だって御湯殿(おゆどの)で迫られたら断る自信はない。宗範だってそうだろう?」

 背後にいる宗範に同意を求める。すると宗範は、静かに首を縦に振った。

「私も今でこそ老いぼれとなり、女子(おなご)から全く相手にされませんが、というか、嫁すら孫ばかりに愛情を注ぎ、私を(ないがし)ろにしている、そんな様子でありますが」

 話が横道に()れたため、俺は咳払いを一つする。すると宗範はハッとした表情になり、背筋を伸ばした。

「とにかく伊桜里様は幼い頃より賢い御方でした。それに加え、光晴様の側室となるべく、太田(おおた)忠敬(ただたか)が厳しくお育てになった。ですから光晴様がお世継ぎを残すべく、自分以外の者と(ねや)を共にすることくらい、覚悟した上で大奥入りされていたと思われます」
「そうだな。宗範の言う通りだ。それが嫌であれば、伊桜里はそもそも大奥入りはしなかったはず。断る機会は何度も与えていたのだから」

 西大平藩(にしおおひらはん)の藩主であり、江戸町奉行(まちぶぎょう)に勤める、太田忠敬の娘、伊桜里。彼女は光晴と俺の幼馴染だ。勿論周囲の策略を含み、顔を合わせた仲ではあったが、光晴にとって彼女は初恋の相手でもあった。

 だからこそ、光晴は誰よりも伊桜里を大事にしてきたし、自分が次期将軍となる自覚を持ち始めてから、彼女の自由を奪うくらいならばと、早々に伊桜里の縁談相手を探そうともしていた。けれど、伊桜里は光晴と人生を共に歩む道を選んだ。それはきっと誰かにそうしろと言われたからではない。

 (色恋なんて、くだらぬもの。そう思ってはいたが)

 母を病でなくしてからは特に、伊桜里は光晴を精神的に支えてきた。

 ――若いながらも聡明で武勇に優れ、さらに政治手腕も優れている天与(てんよ)の人。

 光晴がそう民に慕われるようになったのも、伊桜里という存在が大きい。

 (だからこそ、今の状況はまずい)

 俺で力になれる事があれば、何でもするつもりだ。しかし、どうあがいても、伊桜里の代わりにはなれぬ。

 そして、光晴が弱っているところを見せれば見せるほど、家臣達は不安になる。それはやがて、大きな波紋となり、この世を混乱に導く事になりかねない。

「私が伊桜里に恋慕(れんぼ)したばかりに、忠敬も大事な娘を失う羽目になってしまった。美麗に手をつけたのも、伊桜里の悩みを見抜けなかったことも、そして愛する者を同時に失ったことも、全て私のせいだ」

 光晴は悲しげに目を伏せる。

「兄上のせいではない、とは言いません。伊桜里のことだ。兄上が抱える責務の重要を理解し、自分が重荷にならぬよう思い悩む事があっても、明るく振る舞っていたのかも知れません。それに彼女は懐妊(かいにん)し、心が不安定になっていたとも考えられます。それらに気付けなかったのは兄上の失態。けれど、賢い女であればあるほど、本音を隠すのが良くも悪くもうまいものです」
「…………」

 光晴は視線を落とし、唇を噛み締める。

「光晴様、帷様のおっしゃる通り、御自分を責めるのはどうぞおやめ下さい」

 宗範が懇願(こんがん)する。

「妻にも子にも先立たれた。私にはもう何も無い。自分でもこのままではいかん。そう思うのだが、いかんせん気力が沸かぬのだ」

 ここまで弱気な光晴を初めて見たせいか、何も言えなくなる。

 (これ以上言葉をかけたとしても、今の光晴には届かない)

 きっと今の光晴は、(まゆ)に包まれた(かいこ)のようなものだ。

 (いや、違うな)

 蚕は孵化(ふか)する為に繭に籠るが、光晴は罪悪感という糸を吐き出し、その身を覆い、周囲を遮断している。

 (待っているだけでは、()にすらなれぬ、か)

 光晴を覆う繭を破るには、もはや伊桜里が残した書簡を見つけるしかなさそうだ。そしてその書簡に光晴が前向きになれるような言葉が残されていればいいのだが。

(もはやそれに賭けるしかないという状況。となると、残るはもう一つの問題)

 兄上にきちんと食事を取ってもらわねばならぬ、ということだ。

 (無理矢理にでも口の中に、魚でも押し込みたい所だが)

 流石にそこまで鬼にはなれない。

 (そもそも、食事を楽しいと思えない状態だからな)

 先ずは生きる為に仕方なく食べるのではなく、食事が楽しい時間であることを思い出させる必要がありそうだ。

 (となると……)

 俺は考えた末に、ふとある事を思い出す。

「兄上、きんぴらごぼうはお好きでしたよね?」
「何だ、突然」
「うまいきんぴらごぼうを作る者がおりまして、是非兄上にも召し上がって頂きたいのです」
「一体どうした」
「今度お持ちしますので、一緒に食べましょう。あ、勿論宗範にもわけてやるぞ」

 宗範に笑みを向ける。

「いいですねぇ。久しく三人で食事などしておりませぬからな。帷様が太鼓判(たいこばん)を押すきんぴらも楽しみですなぁ」

 宗範は俺の意図を()んだのか、話をあわせてくれた。

「確かにきんぴらは好物だが、今はそんな気分になれぬ。せっかくの誘いだが、遠慮しておく」

 光晴は首を横に振る。

「いえ、必ずお持ち致します」
「しつこいぞ」
「そうだな。兄上の息抜きも兼ね、今度三人できんぴらをつまみながら、酒でも飲み交わし、語らうとしましょう」
「何を企んでいるんだ?」

 訝しげな視線を光晴が俺に寄越す。

「伊桜里の死を嘆き、悲しむ。それは兄上が一人で思う存分すればいい」

 ゆっくりと告げる。

「しかし、伊桜里の思い出を懐かしみ、思いを()せ、忘れないように語り合うこと。それは一人では出来ないことです」
「それは……」
「伊桜里と共に過ごした時間は消えることのない、宝物のような日々だったはずだ。兄上は、それら全てを苦しい思いで上書きなさるおつもりですか」

 あえて厳しい口調で問うと、光晴はハッとしたように目を見開く。

 (やっと気づいたか)

 俺は内心ホッとする。食欲を戻すための強引な作戦だったが、意外にも後ろ向きな気持ちに少しは歯止めを効かせられたようだ。

(しのぶ)ぶ気持ち。それはまさに、残された者が出来る、旅立った者への供養ですからな」

 宗範が俺の言いたいことをまとめてくれる。年老いた宗範が言うと、言葉の重みが増すような気がする。

「あぁ、そうだな。無くしたくはない、そんな記憶は多くある。たまには三人で昔話もいいかも知れんな」

 光晴がようやく前向きな発言をしてくれた。

「ま、本当は俺が寂しいんですよ。一人きりでいると。だからたまには兄上と飲みたいなと、そう思ったわけです」
「相変わらずお前は嘘が下手だな」

 光晴が苦笑いを浮かべる。

「えぇ、本当に」

 宗範も同調する。

「でも、きんぴらごぼうは本当にうまいので、期待していてください」

 そこだけは、しっかりと念を押したのであった。