余命半年の小笠原先輩は、いつも笑顔なんです

 電話で話し始めてすぐ、わたしはベロニカさんが小笠原先輩の言っていた「サボテンを育てているメキシコ人」であることに気づきました。

 亡くなった小笠原先輩のお母さんの親友で、小笠原先輩の親代わりみたいなところもある人。小笠原先輩が語っていた背景をベロニカさん自身から語られ、いったいどんな試練が用意されているのだろうと話しながら緊張していました。ところが言い渡された試練は、ベロニカさんの家で一泊すること。わたしは「それだけですか?」と尋ね、ベロニカさんは「それだけよ」と答えました。

 ベロニカさんの家は、海岸のすぐ傍にありました。海があり、砂浜があり、背の低い堤防があり、その奥に家が建っている形です。玄関の前には大きな丸いサボテンの鉢植えが置かれていて、家の中にもあちこちに色々な種類のサボテンが飾られていました。一階のリビングは広々としており、海を臨むテラスに出るための大きなガラス戸を通して、夕日に輝く水平線が綺麗に見えました。

「私は夕食の準備をするから、適当にくつろいで」

 ベロニカさんがそう言ってキッチンに引っ込みます。わたしたちは少しリビングで雑談をした後、ガラス戸を開けてテラスに出ました。テラスにも家を守る緑色の兵士みたいに、縦に長い大きなサボテンの鉢植えがいくつか並んでいます。

「綺麗だね」

 海風にたなびく髪を抑えながら、長野先輩がうっとりと目を細めます。アウターのファーコートを脱いでしまったので少し寒く、わたしはセーターの首元を軽く上げました。船井先輩がテラスの手すりに身を乗り出します。

「毎日この景色を見られるの、すげえいいな」
「そうかな。砂とか塩害とか大変そうだし、僕はあまり住みたくない」

 安木先輩の言葉に、船井先輩がむっと顔をしかめました。

「ロマンのないやつだな」
「でも僕の思考の方が普通だと思うよ」
「そうとも言えないだろ。なあ」
「私もたまに来るのはいいけど住みたくはない」

 賛同を求めて話を振った長野先輩から否定を返され、船井先輩が怯みました。そしてわたしに助けを求めて来ます。

「どっち派?」
「わたしはどっちでも……ただ」

 わたしは海を見やりました。そしてこの家を訪れて、リビングから夕焼け色の大海原が見えた時に真っ先に考えたことを口にします。

「小笠原先輩は、こういうの好きだと思います」

 シンと、場が静まり返りました。みんなが同じ意見であることがその反応から伝わります。もしこの場に小笠原先輩がいたら、わたしたちは今ごろ砂浜に立っているでしょう。そこに海があるのに見ているだけなのは勿体ないとか、そんなテキトーな理由で。

「最後の試練」安木先輩。「一体、何なんだろうね」

 波の音が、少し大きくなった気がしました。船井先輩が口を挟みます。

「この家に一泊しろって試練なんだから、一泊させたいんだろ」
「それって試練なの?」
「今までの試練もクリアは別に必要なかったって、お前が言ったんじゃねえか」
「でも何かに挑ませる形ではあった。それに僕は言ったのはミッションをクリアする必要がないって話であって、クリア条件がないってことじゃないよ。長久保さんも場合によっては再試合だったって言ってたでしょ」
「じゃあ、最後の試練にクリア条件があるとして、達成できなかったらもう一泊するのか?」
「分からない。終わりは迎えるけど、真のエンディングにはたどり着けなかったみたいな感じになるんじゃないかな」
「真のエンディングねえ」

 船井先輩がちらりとわたしを見やりました。最後の試練がその名の通り何かの試練だとして、はっきりしていることが一つだけあります。プレイヤーは間違いなく、他の試練に挑戦していないわたしです。

「ま、考えすぎてもしょうがないでしょ」

 長野先輩が話を締めました。考えすぎないでいいよ。そう言って貰えているのが分かり、嬉しさと申し訳なさを同時に感じます。いつの間にか、海を覆う夕焼けはほとんど夕闇になっていて、黒く染まる空に水平線が溶けかけていました。
 夕ご飯は、タコスパーティでした。

 トルティーヤと呼ばれる薄焼きパンの皮に、ひき肉や野菜やエビやチーズを具材として包み、サルサソースやアボカドのディップを加えて食べる。海苔と酢飯と魚介を用意して好きに手巻き寿司を作って食べるようなものです。ちなみにサルサにはスペイン語でソースという意味があるらしく、つまりサルサソースという呼び方はソースソースということになってしまうそうです。サルサ・メヒカーナと呼べばメキシコのソースという意味になるとベロニカさんが教えてくれました。

 パーティの後は、ロテリアというメキシコのゲームを遊ぶことになりました。小笠原先輩がベロニカさんにわたしたちにロテリアをプレイさせるよう頼んだらしく、わたしはいよいよ試練が来たと思って身構えました。しかしルールを聞いてみるとどうも違いそうで、軽く肩透かしをくらいました。

 まず、プレイヤーは四×四で十六枚の絵が描かれた台紙を受け取ります。次に親が台紙とは別に用意された山札から絵札を一枚引き、プレイヤーはめくられた絵札と同じ絵の上にコインや小物を乗せてマーキングをします。そして一列マーキングが揃ったら「ロテリア!」と宣言をして勝利。一列ではなく外周や内周、十六枚全部のマーキングなどを勝利条件にしても良いそうですが、要は絵を使ったビンゴです。あまりにも運要素が強すぎて、人を試すのに相応しいとは思えません。

「どうして小笠原は、これを私たちにやらせたいんでしょうか」

 ひとしきりルールを聞き、長野先輩がベロニカさんに問いかけました。わたしの代わりに探りを入れてくれているのでしょう。しかしベロニカさんは「さあ」と肩をすくめます。

「小さい頃、嫌がる弟くんを無理やり巻き込んでやらせるぐらい好きだったから、あなたたちにも体験して貰いたいんじゃないかしら」
「俊樹くんは苦手だったんですね」
「運で決まっちゃうからね。何が面白いのか分からなかったみたい。お兄ちゃんの方が好きだったのもゲームというより詩だし」
「詩?」
「親が絵札を場に出す時に詩を詠むの。絶対ではないけどね。私は小さい頃に覚えた詩が好きだから詠むことにしてる」

 ベロニカさんが山から絵札を一枚引きました。そしてわたしたちに札の裏を向けながら、大きな唇を開きます。

「Cotorro, cotorro, saca la pata y empiezame a platicar」

 ベロニカさんが、絵札を表にしてテーブルの中央に置きました。

 絵札にはオウムが書かれていました。きっと詩もオウムに関係のあるものなのでしょう。意味は分かりませんし、音も雰囲気でしか聞き取れません。だけどベロニカさんの声は鳥の囀りのように澄んでいて、とてもぴったりだと思いました。小笠原先輩は好きだろうな。何も分からないのに、それだけははっきりと分かります。

 わたしの台紙にはオウムの絵があったので、その上に一円玉を置きました。次に引かれたのは悪魔の絵で、ベロニカさんはおどろおどろしい雰囲気を作って詩を詠んでいました。サソリ、太陽、サボテン。次から次へと絵札がめくれ、みんなの台紙にマーキングが乗っていきます。

「ロテリア!」

 勝利宣言がリビングに響きました。声を上げたのは、わたしです。ベロニカさんがテーブルに頬杖をついて柔らかく笑います。

「おめでとう」
「運が良かったです」
「ご褒美に、あの子のことを何か一つ答えてあげる。どんなセンシティブな質問でもいいから、なんでも聞いて」

 小笠原先輩のことを、何か一つ。

 いきなり突きつけられた話を上手く噛み砕けず、わたしの頭の中がパニックになります。小笠原先輩について知りたいこと。何があるでしょう。何が――

「――別に、いいです」

 ベロニカさんがまぶたを上げました。大きなブラウンの瞳がわたしを捉えます。

「いいの?」
「はい。小笠原先輩が生きているなら何か聞いたかもしれませんけど、今は遺品のパソコンの中を勝手に覗いているみたいで、イヤだなって思っちゃって」

 ベロニカさんがふむと小さく頷きました。そして手元に置いてあるメキシコビールの瓶を掴んで口をつけます。ライムを入れた瓶から直接ラッパ飲みがメキシコビールの飲み方――なのは日本の話で、メキシコではグラスに注いだ上で塩やライムを加えて飲むそうです。わたしはまず日本の飲み方を知りませんでしたが、船井先輩がタコスパーティ中に通ぶって訂正されて恥ずかしそうにしていました。

「じゃあ、次のイベントに移りましょうか」

 ベロニカさんが意味深な笑いを浮かべました。試練の始まる気配を感じ、わたしの背筋に緊張が走ります。

 右の親指を立て、ベロニカさんが海の方を示しました。

「花火しましょう」
 水平線の向こうに、おびただしい量の星たちが輝いています。

 流れ星がひらりと夜空を舞いました。あまりにも一瞬の出来事で、消える前に三回も願いごとをする難しさをしみじみと感じます。こんな無茶をしないと聞いてくれない神さまに頼むぐらいなら、自力で頑張った方がいい。あれはそういう意味の迷信なのかもしれません。

「できた!」

 砂浜に屈み、厚紙とろうそくで燭台を作っていた船井先輩が声を上げました。長野先輩がさっそく花火セットの袋からススキ花火を一本抜き取り、その先端をろうそくの火に近づけます。数秒後、黄色い火花が勢いよく飛び散り、長野先輩がはしゃぎながら船井先輩を呼びました。

「船井! 早く! 次!」
「ちょっと待てって!」

 船井先輩が別の花火を手に取り、長野先輩の花火に近づけます。すぐに火が移って船井先輩の花火からも光の洪水があふれ出しました。わたしも安木先輩もそれぞれ花火を持って火を分けてもらい、海岸がにわかに明るくなります。

「花火って、ただ派手で綺麗ってだけで何の意味もないのに、なんかテンション上がるからすごいよな」
「派手で綺麗なら意味はあるでしょ。安木みたいなこと言うね」
「言わないよ。僕にだって好きな食べ物ぐらいはあるから」
「……どういうこと?」
「美味しいものを食べることに意味があるなら、楽しいことをするのにだって意味があるはずだ。そして僕は美味しいものを食べたいという気持ちで美味しいものを食べることがある。じゃあ楽しいことをするのを意味がないとは言えないよ」

 先輩たちの会話を聞きながら、わたしは花火を暗い海の方に向けてみます。するとコートのポケットに手を入れて、波打ち際に佇んでいるベロニカさんの姿が目に入りました。わたしは消えた花火を水の入ったバケツの中に刺し、ベロニカさんに歩み寄って声をかけます。

「花火、やらないんですか?」

 ベロニカさんが振り向き、首を小さく横に振りました。

「あの子が花火をして欲しいのは、あなたたちだから」
「小笠原先輩がそう言ってたんですか?」
「はっきりとは言ってないわね」
「じゃあ、分からないじゃないですか。ベロニカさんだって小笠原先輩の大事な人だったんだから、一緒に楽しんで欲しいかもしれませんよ」
「……そうかもね」

 ベロニカさんがまた海の方を向きました。わたしもベロニカさんの左隣に立って同じ方角を見やります。空には光の粉を散りばめたような星々が輝いているのに、海にはひたすら深い闇が続いていて、眺めていると飲み込まれそうになります。

「さっき、何を言いかけたの?」

 波音の隙間から、ベロニカさんの声が届きました。

「聞きたいこと、あったんでしょう。言うだけ言ってみたら? 本当に遺品のパソコンを勝手に覗くような下世話な質問だったら、私は答えないから」

 ――バレていました。わたしは大きく息を吸い、潮の匂いがする空気で肺を満たします。

「小笠原先輩が、わたしと出会ったことを全く後悔していなかったか、聞きたいなって思いました」

 口を閉じます。ベロニカさんは動きません。「まだあるでしょう」と言いたげな態度を前にして、わたしは再び口を開きます。

「ベロニカさんもご存じの通り、わたしたちは色々な試練を受けてからここに来ています。そしてそれがめちゃくちゃで楽しかった。ベロニカさんと会ってからも、タコスパーティをしたり、メキシコのゲームをしたり、海岸で花火をしたり、すごく楽しいです。小笠原先輩は本当にわたしたちを楽しませたいんだろうなって思います。でも――」

 自分の考えたゲームをみんなに楽しんでもらいたかった。小笠原先輩は一体何をしたいのかと長野先輩に聞かれて、わたしはそう答えました。ただ、あの時に言わなかったことが一つあります。

「小笠原先輩も、一緒に楽しみたかっただろうなとも思います」

 小笠原先輩は好きそう。小笠原先輩は喜びそう。そう感じる瞬間が今日はたくさんありました。安木先輩や長野先輩は小笠原先輩が好きそうな流れを作るため、自分の推測をあえて黙ったりもしていました。でも、どれほど小笠原先輩が好きそうな展開を作っても、小笠原先輩はもういない。いないのです。

「今日会った人たちはみんな、小笠原先輩はわたしたちと一緒にいて楽しかったはずだと言ってくれました。わたしもそうだと信じています。でもそれは残酷だとも思います。楽しければ楽しいほど、もっと生きたくなってしまうから」

 花火を続けている先輩たちを見やります。船井先輩と長野先輩は笑顔、安木先輩は無表情ですが口は動いています。試練の下準備をしている時、小笠原先輩がこういう光景を想像しなかったとは思えません。そして想像すればきっと、自分もこの場にいたいと考えてしまう。

「それに気づいた時、わたしの存在は小笠原先輩にとってプラスだったのかなって思ったんです。人生が終わりかけている中で一生を共にしたい相手と出会うことは、本当に幸せなのかなって。だからもし、小笠原先輩がベロニカさんにそういうことを話していたなら、聞きたいと思いました。だけど聞いてもどうしようもないし、何より先輩たちには『出会わない方が良かったんじゃないか』なんて思って欲しくない。だから、あの場では黙りました」

 今度こそ、全てを語りました。わたしは口をつぐみます。海風がベロニカさんの髪がふわりと巻き上げ、整った横顔がよく見えるようになります。

「あの子からは、聞いていないわ」

 あの子からは。一呼吸置いて、ベロニカさんが語りを続けます。

「でも、あの子のお母さんからは聞いたことがある。今のあなたと同じことを私も考えて、彼女に言ってしまったの。私の存在がこの世への未練になるなら、出会わない方が良かったのかもねって。彼女から『そんなことない』と言ってもらいたい。不安を取り除いてもらいたい。そんな身勝手な気持ちを押し付けた」

 ベロニカさんの目尻が大きく下がりました。悔やむ気持ちも、それでも言ってしまった気持ちも分かります。わたしも小笠原先輩が生きている間に気づいたら、きっと同じことを聞いてしまったでしょう。

「でも彼女は否定しなかった。むしろ『そうかもね』と肯定したわ。出会わない方が良かった可能性はある。でも私たちは出会ってしまった。だったら出来る限り楽しんだ方がいいじゃないって言って、笑っていた」

 ベロニカさんが目を細めました。そしてわたしに向かって語りかけます。

「あの子もきっと、同じことを言うんじゃないかしら」

 ――言うでしょう。あったかもしれない世界に想いを馳せるより、今ここにある世界を存分に楽しむ。その姿勢はとても小笠原先輩らしいです。例えそれが、自分を消し去ろうとする世界だとしても。

「そうですね」

 ベロニカさんの表情がほんの少し翳りを帯びました。自分は出来る限り楽しめばそれでいいけど、遺されるわたしたちの気持ちも考えて欲しいわよね。視線でそう語りかけながら、口では違う言葉をかけてきます。

「目をつむって」

 意味が分かりません。でも目をつむります。まぶたを下ろして、星や月の灯りもない本当の暗闇を作り出します。

「あの子の姿を想像して」

 想像します。髪を薄い茶色に染めていて、袖の長いゆるゆるな服を着ていて、なんか眠そうな目をしていて――

「どんな顔をしてる?」

 わたしは、迷うことなく、はっきりと答えました。

「笑っています」

 もうちょっと分かりやすく喋れよ!

 船井先輩の大声が、風に乗ってわたしの耳に届きました。安木先輩へのツッコミでしょう。今さら、それ言うんだ。おかしくなって含み笑いを浮かべてしまいます。

「目を開けて」

 目を開けます。ベロニカさんが海の方を向き、さっきのわたしと同じようにまぶたを下ろしました。全身で海風を受けながら、透き通った声で語ります。

「みんなの思い出に笑顔で残りたい。あの子のお母さんはそう言っていたわ。そしてわたしが彼女のことを思い返す時、彼女はいつも笑っている」

 ベロニカさんのまぶたが上がりました。水平線の向こうに輝く星空の、そのまたさらに向こうを見つめる目をして、噛みしめるように呟きます。

「素敵よね」

 はい。声に出さずそう答え、わたしも夜の海を眺めます。遠くの空でまた一つ、流れ星が音もなく瞬き、幻のように消えていました。
 日付が変わる頃、わたしたちは空き部屋に布団を敷いて眠りました。

 一日中イベント続きで疲れていたのか、びっくりするぐらい早く眠れました。そして翌朝は気持ちよく起きられました。小笠原先輩がいなくなってから寝入りも寝起きもすっきりしないものだったので、久しぶりに身体が軽くなりました。

 全員が起きたら、リビングでベロニカさんが用意してくれた朝食を頂きます。トルティーヤを切って揚げてチップスにしたものをトマトソースと一緒に煮込んだ、チラキレスと呼ばれる料理。メキシコの朝食の定番で、ベロニカさんが作ったものには目玉焼きが乗っていましたが、他にも色々な具材が乗ることがあるそうです。とても美味しくて、いつも食べている朝食よりだいぶ量は多かったのですが、綺麗に平らげてしまいました。

 食後はベロニカさんがコーヒーを出してくれました。至れり尽くせりです。船井先輩が椅子の背もたれに身体を預け、大きく息を吐きました。

「こういうメキシコ流の健康的な朝を過ごしているから、ベロニカさんはとても美人なんですね」
「そんなことないわよ。私だって普段はパンだもの。今日みたいな休日は昼まで寝て食べないこともよくあるわ」
「え?」
「今日はおもてなしだから特別。外国人だから変わった生活を送っているはずだと思い込むのは、あまり良くない偏見ね」

 船井先輩が肩をすくめて縮こまりました。わたしは、口にはしなかったけれど船井先輩と同じようなことを考えていたので、同じように小さくなります。ベロニカさんが両肘をテーブルに乗せ、組んだ手の裏に顎を隠しました。

「さて、これで試練は終わったけど」ぐるりと、テーブルに座っているみんなを見回します。「どうだった?」

 試練という言葉を聞き、わたしは主旨をようやく思い出します。完全に旅行気分になっていました。ベロニカさんの隣に座っている安木先輩が声を上げます。

「ただの感想でもいいですか」
「どうぞ」
「楽しかったです。小笠原が僕たちを楽しませたいなら、それは成功していると思いました」

 安木先輩らしからぬシンプルな言葉を聞き、安木先輩の向かいに座っている船井先輩が目を見開きました。ベロニカさんがそんな船井先輩を見やって尋ねます。

「あなたはどう?」
「どうって言われても……俺も安木と同じです」
「私もです。楽しかったなっていうのがやっぱり一番ですね」

 船井先輩の言葉に、長野先輩も乗っかります。残るはわたしだけ。いきなりハードルが急上昇したのを感じながら、わたしをじっと見つめる正面のベロニカさんに向かって口を開きます。

「わたしも、楽しかったです」

 考えていないわけではない。きちんと考えて、こうなった。それを伝えるため、わたしはベロニカさんの大きな瞳をしっかりと見やりました。ベロニカさんがわたしから目を逸らし、コーヒーを一口飲んで独り言のように呟きます。

「なら良かったわ」

 椅子を引き、ベロニカさんが立ち上がりました。そしてそのままリビングを出て行きます。船井先輩がわたしにねちっこい視線を送ってきました。

「……やっちまったか?」
「わたしのせいみたいに言わないで下さいよ」
「でも一番責任が重いのは確かじゃない?」
「そもそも僕たちは試練のプレイヤーじゃないからね」

 長野先輩と安木先輩まで。さすがにひどくないですかと思いつつ、何も言い返せずに黙りました。やがてベロニカさんがリビングに戻ってきてわたしはまず安堵し、次に両手で抱えているものを見て驚愕します。

 ベロニカさんが椅子に座りました。そして持ってきたものをテーブルに置き、固まっているわたしに微笑みかけます。

「これが、宝よ」

 ベロニカさんが持ってきた、ファンタジーに出てくるような宝箱を模した玩具を手に取ります。サイズは両手に収まるぐらい。材質はプラスチックで塗りはところどころ甘く、正直とても安っぽいですが、その安っぽさにリアリティを感じます。小笠原先輩はそういうところは拘らなさそうです。

「大丈夫だと思ったら渡して、って頼まれたの」

 ベロニカさんが、テーブルに頬杖をつきました。

「その時は意味が分からなかった。でもあなたたちに会ってよく分かった。若い頃はそれだけで不安定なものよね。二十歳そこそこの頃の少しバランスが崩れたらどうにかなりそうな感じなんて、とっくに忘れていたわ」
「わたしたちはバランスを崩しそうにないから大丈夫、ということですか?」
「いいえ」

 はっきりと否定を返されました。ベロニカさんが目だけを動かして、わたしたち全員をざっと見やります。

「バランスを崩して、派手に転んでも、また立ち上がる強さがあると思った。そういうことよ」

 温かい言葉が、耳から胸にすとんと落ちました。わたしは宝箱を持つ手に力を込めて、明るく返事をしようとします。

「ありが――」
「あ、そうだ。もう一つ伝言」

 出鼻をくじかれました。黙るわたしを意に介さず、ベロニカさんはマイペースに話を進めます。

「宝箱を開ける時のシチュエーションには気をつけて、だそうよ」
「シチュエーションですか?」
「そう。あの子の考えではその宝箱を開けるとエンディングらしいの。だから帰りの電車の中とかじゃなくて、エンディングを迎えるのに相応しい場所で開けて欲しいみたい」
「相応しい場所……」

 わたしの頭の中に、一つの候補がパッと浮かびました。宝箱をテーブルに置き、安木先輩、船井先輩、長野先輩を順番に見やって息を吸います。

「皆さん」

 わたしは右腕を上げ、朝日を受けて輝く海をガラス戸越しに指さしました。

「海、行きません?」
 砂浜に立ってすぐ、ここを選んで正解だと思いました。

 目覚めたての太陽が青空の低い位置に浮かんでいて、波立つ大海原に光の欠片をまき散らしています。夜は空が輝いていて海は静かでしたが、今は逆です。あの星々が全て彗星となって流れ落ちても絶対に足りない量の輝きが、水面をキラキラと埋め尽くしています。

「エンディングにはちょうど良さそうだね」

 長野先輩がしみじみと呟きました。船井先輩がひとさし指で空を示し、そのままその指を垂直に下ろしていきます。

「こう、スタッフロールが流れてきそうだよな」
「そうだね」
「そんで俺らは砂浜を走って」
「それは分かんない。何そのイメージ。アニメとか?」
「いきなりハシゴ外すなよ」
「分かんないものは分かんないんだからしょうがないでしょ」

 いつもの下らない言い争いが始まりました。宝箱を抱えてどうしたものかと立ちすくむわたしに、安木先輩が声をかけてきます。

「洋楽でも流そうか?」
「……どうしてですか?」
「宝箱を開けるきっかけが掴めないんだよね。だったら何か区切りのあるものを使って合図にすればいい。この場合、雰囲気のある洋楽を流して終わったら開けるのが綺麗かなと思って」

 AのためのBのためのC。みんながみんなであることが嬉しくなり、わたしは笑ってしまいました。そして顔を上げて海を見やり、高らかに宣言します。

「開けます」

 船井先輩と長野先輩の口論が止まりました。わたしの手元に三人分の視線が集まります。わたしは宝箱の蓋に手をかけて、ゆっくりと上に引っ張りました。

 宝箱が開きます。紫色のクッションが敷き詰められた上に、四つ折りの紙が置かれています。紙を手に取り、宝箱を砂浜の上に置いて、後ろから見ているみんなに見えるようにしながら震える手で紙を開きます。

 背後から、誰のものか分からない盛大なため息が聞こえました。


『おめでとう! ここまで辿り着いた友情が君たちの宝だ!』


「……っざけんな!」

 船井先輩が砂浜に右足を叩きつけました。そして砂浜に座ってがっくりと肩を落とし、長野先輩と安木先輩もその両脇に腰を下ろします。三人とも、昨日の試練にかけた労力を一気に思い出したように、疲れ切った顔をしていました。

「何がシチュエーションに気をつけろだよ。これならどこでも一緒だろうが」
「いや……電車でこれ出てきたらヤバいでしょ。どうすんのよ、この脱力感」
「僕は正直こんなものじゃないかなとは思ってたけど……こんなものであって欲しくはなかったよね」

 三人が口々に小笠原先輩の文句を言い合います。わたしは小笠原先輩をフォローしたい気持ちはありつつ、みんなが文句を言いたくなる気持ちもわかるのでひたすらに戸惑いました。とりあえず紙をまじまじと眺め、最初に目にしたメッセージ以外は何も記されていないことを改めて確認し、紙を畳み直して砂浜から拾い上げた宝箱に戻そうとします。

 突風が、わたしの手から宝箱を落としました。

「あっ!」

 千円以下で買えそうな玩具の宝箱とはいえ、小笠原先輩が遺してくれた大切なものです。わたしは慌てて宝箱を拾い上げようとしました。落とした拍子に中から飛び出したクッションをつまみ、宝箱に戻そうとして――

「――えっ?」

 宝箱を抱えて固まります。長野先輩が「どうしたの?」と言って立ち上がり、宝箱を覗いてわたしと同じように固まりました。船井先輩と安木先輩もわたしのところに寄ってきて、言葉を失い立ちすくみます。

『誕生日おめでとう』

 メッセージの書かれたポストカードと、サイズ差のあるシルバーリングが二つ。左手で宝箱を支えながら右手で小さい方のリングを摘まみ上げると、内側にわたしのイニシャルが刻んであるのが見えました。大きい方はどうか。わざわざ、確認するまでもありません。

「そっか、誕生日だったね。おめでとう」

 長野先輩がお祝いの言葉をくれました。安木先輩がポツリと呟きます。

「これ、弟くんは宝がプレゼントだって知ってたね」
「だろうな。一日で試練を全部クリアして、ドンピシャ誕生日になったのはたまたまだろうけど、さすがにタイミングが良すぎるわ」

 船井先輩が腕を組んで頷きます。長野先輩が横から宝箱を奪い取り、わたしの左手をフリーにしました。

「指輪、嵌めてみたら?」

 促されるまま、シルバーリングを左手の薬指に合わせます。リングはぴったりと指に嵌りました。まるで生まれた時から身に着けていたみたいな金属の輪を前に、わたしはベロニカさんの言葉を思い出します。

 ――大丈夫だと思ったら渡して、って頼まれたの。

 海に身体を向けます。左手を水平に突き出し、指を大きく開きます。薬指と小指の間に見える太陽の光を受け、キラキラと輝くリングを眺めながら、海風を胸いっぱいに吸い込みます。

 大丈夫。

 わたしは、大丈夫です。

「おがさわらせんぱーーーーーーーい!」

 お腹にグッと力を入れ、わたしは、水平線に向かって大声で叫びました。

「シェイシェ――――――――――――イ!!」

 肺の中の空気を全て使い果たすまで、ずうっと声を出し続けます。使い果たした後は両腕を大きく広げ、背中から後ろに倒れ込みます。船井先輩が倒れたわたしを覗き込んできました。

「なんで中国語なんだよ」
「最後の言葉がそれだったんです」
「……マジで?」
「あいつ、ほんと……」

 長野先輩が額に手をやりました。砂の混ざった風に顔を撫でられ、わたしは目をつむります。再びまぶたを上げたわたしの目に映った空は、どこまでも限りなく澄んでいて、このまま空を泳いで飛んでいけるような、そんな気がしました。









『中国の小笠原先輩へ』




 お久しぶりです。

 中国に行ったのかも、まだ中国にいるのかも分かりませんが、とりあえず中国宛に手紙を書かせてもらいます。前に言っていたように、なんか垂れてきた蜘蛛の糸にノリで捕まり、糸が切れて勢いで地獄まで行ってしまったのなら、別の糸に捕まって中国まで戻ってきてください。あれから『蜘蛛の糸』を読みましたが、人を殺して家に火をつけても蜘蛛一匹助けただけでお釈迦様に糸を垂らしもらえるようなので、数えきれないぐらい垂れているんだろうなと勝手に思っています。

 小笠原先輩が中国に行ってから、現世では長い時が経ちました。船井先輩も長野先輩も安木先輩もわたしも職に就いたので、何をやっているか軽く語らせて下さい。あと俊樹くんも就職したみたいですが、お盆に実家に帰っているなら知っているでしょうし、そこは省きます。ロクに帰ってなさそうな気もしますけど、それはシンプルに小笠原先輩のせいなので、気になるなら帰ってあげてください。

 船井先輩は公務員になりました。浄水場で水質管理の仕事をしているそうです。わたしは堅実な船井先輩らしくていいと思ったので、公務員になったと聞いた時に誉め言葉のつもりで「船井先輩らしいですね」と言いました。そうしたら「面白味が無くてごめんね……」と落ち込まれました。理不尽ですよね。そんなことに負い目を感じるなら、面白い仕事に就けばいいのに。

 長野先輩は弁護士になりました。今は弁護士事務所に雇われて働いていますが、将来は自分の事務所を設立したいと思っていて、そのために資金と人脈と実績を積み上げているそうです。ちなみに事務所に持ち込まれる仕事はインターネット上のトラブル解決が多いらしく、わたしも「ムカつくやつがいたら追い込むから相談して」と言われました。弁護士というより、ヤクザみたいだと思ってしまいました。

 安木先輩は大学に残って研究者の道を歩んでいます。何かの菌の研究をしているそうですが、やっていることの複雑さと安木先輩の説明の回りくどさで何も分かりませんでした。とりあえず人を救うための研究ではあるようですが、一歩間違えると世界を滅ぼす可能性もあるそうです。そうなったらさすがに地獄行きでしょうから、小笠原先輩が助けてあげて下さい。

 わたしは、小学校の先生になりました。

 ちびっ子たちはみんな、自由で、ワガママで、手に負えない――なんてことはありませんでした。もちろん中にはそういう子もいますけど、こっちが不安になるぐらい大人しい子もたくさんいます。激しい子でも小笠原先輩ぐらいです。わたしは小笠原先輩のおかげで耐性がついていたので、最初からそれなりに上手くあしらうことが出来ました。ありがとうございます。

 ただ逆に、元気のない子や引っ込み思案な子の対処は苦労しました。そういう子への対応が上手い、わたしと同じ年ぐらいの先生が同僚にいたので、その人にアドバイスを貰ったりしていました。その人は小笠原先輩と船井先輩を足して二で割ったような男の人で、アクティブに他人を振り回すタイプではあるけれど、根っこはちゃんと常識人でした。小笠原先輩が生き続けていたら、こういう社会人になったのかもしれない。話していてそう思いました。

 告白をされたのは、先生になって二年目の夏でした。

 わたしは驚きませんでした。大人の告白って、確認ですよね。お互いがお互いをどう思っているかうっすら分かっていて、間違いありませんよねと確認する行為。だからわたしはその人の想いを理解していて、その人もわたしの想いをきっと理解していました。惹かれていることを、見透かされていました。

 それでも、お互いに好きなら付き合いましょうという気分にはなれなくて、わたしは煮え切らない返事をしました。そしてその理由を話しました。小笠原先輩と付き合って、結婚して、同棲して、死別したこと。小笠原先輩は自分がいなくなった後、自分のことは忘れて前に進んで欲しいと思っていたこと。だけど忘れられなくて、結局は小笠原先輩の懸念通りになってしまっていること。全部、話しました。

 そうしたらその人は、忘れないでいいと言ってくれました。

 忘れないで、進めばいい。進んでいるうちに忘れてしまうかもしれないし、どこまでも進んでも覚えているかもしれない。でも、どちらにせよ、進んでいることには変わりはない。それが一番大事なんじゃないかなと語ってくれました。わたしは気持ちがすごく楽になりました。忘れて進むことに捉われていたわたしに、忘れないで進むという道を示してくれた。それならばと踏み出す気力が起きました。

 わたしの周りにはまだ、小笠原先輩の生きていた痕跡があちこちに残っています。

 誕生日プレゼントの指輪は玩具の宝箱と一緒にしまってあります。ゴールデンバニーのサボ太郎は実家ですくすくと育っています。そもそも、わたしが今こうしていること自体が、小笠原先輩の遺してくれたものです。小笠原先輩の生き様に触れて、ふにゃふにゃだったわたしに芯が通ったからこそ、わたしは人を導く先生をちゃんとやれているのだと思います。

 だからわたしはこれからも、小笠原先輩のことを永遠に忘れないでしょう。でも前に進むため、きちんと区切りはつけたいと思います。宝物を愛でるように思い出を眺めることはあっても、今もそこにいるように思い出に話しかけることはない。そういうのはこの手紙で最後にします。

 最後に何を言うべきか、たくさん考えました。山ほどの言葉が頭の中に浮かびました。その中から三つだけ、残します。ちゃらんぽらんでテキトーでゆるゆるな小笠原先輩が、いつか中国から再び現世に旅立つその時まで覚えておけるよう、選びに選んだ三つです。絶対に忘れないでください。わたしは忘れません。忘れないまま、前に進みます。

 ありがとう。

 さようなら。

 また、来世。




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