ラーメン屋『小池亭』は、小笠原先輩が通っていた高校の近くにありました。
土曜日なので店内に学生服の子はいませんでしたが、普段はそういう子たちで賑わっているのでしょう。入口近くの本棚に置いてある漫画本のラインナップや、学生証提示で受けられるサービス一覧を書いた張り紙からそれが分かります。店の造りはカウンターとテーブル席に分かれたどこにでもあるラーメン屋で、食券機はなし。素朴でエネルギーのある、小笠原先輩の好きそうな店です。
四人がけのテーブルに座り、メニュー表を見てわたしと長野先輩と安木先輩の頼むものを決めます。船井先輩が頼むものはもう決まっています。そわそわと小刻みに身体を揺らし、定期的に深呼吸をする船井先輩は、はっきり言って挙動不審でした。大丈夫かな。素直にそう思ってしまいます。
「いらっしゃい」
いかつい顔に口ひげとあごひげを生やし、頭に店名の入ったバンダナを巻いた男性が話しかけて来ました。ラーメン屋店主という情報から想像していた通りの人が現れて、わたしはちょっと笑ってしまいそうになります。長野先輩もそうだったのでしょう。目の前の人が電話の相手だと決まったわけではないのに、確認を飛ばして話を進めました。
「はじめまして。小笠原くんの友人の長野です。よろしくお願いします」
「君が長野さんか。じゃあそっちが小笠原の彼女ってことだな」
男性が長野先輩から、その隣のわたしに視線を移しました。そして続けてわたしの向かいに座る安木先輩を見やります。
「お前が安木だな?」
「はい」
「ということは……」
「俺が、チャレンジャーの船井です」
安木先輩の隣で、船井先輩が自分の胸をどんと叩きました。威勢の良さを見せつけたつもりなのでしょう。しかし男性は乗ってくることなく、苦笑いを浮かべて長野先輩に話を振ります。
「じゃあ、注文頼む」
「私は味噌ラーメンでお願いします」
「わたしは醤油で」
「僕も」
長野先輩、わたし、安木先輩の順に注文を済ませます。男性がボールペンで伝票を書き込みながら、わたしたちの注文を繰り返しました。
「味噌一つ、醤油二つ」男性が船井先輩を見やります。「ジャンボ一つ」
船井先輩が無言で大きく頷きました。男性は特に何の反応もせず、伝票を持ってカウンターの中に引っ込みます。長野先輩が船井先輩に「もうちょっとリラックスしたら?」と声をかけ、船井先輩は「してる」と表情筋を動かさずに答えました。少なくともわたしの目には、とてもリラックスしているようには見えません。
第一の試練は、ジャンボラーメンチャレンジでした。
電話の相手は小笠原先輩が高校生の時に通っていたラーメン屋の店主で、小池さんという方でした。ラーメン大好き小池さんという有名なキャラクターがいて、そのキャラクターと絡めて周りから色々言われているうちにラーメンを意識し、気がついたらラーメン屋の店主になっていたという不思議な経歴の持ち主。小笠原先輩はそのエピソードがとても気に入ったらしく、「小池さんには小池さんに生まれて良かったと思って貰いたい」と友達を何人もお店に連れてきていたそうです。
そしてその小池さんのお店『小池亭』の名物が、三十分で食べきったら無料になるジャンボラーメンです。完食したら名前が店に張り出される名誉を求めて男の子たちが次々と挑戦し、大半は見るも無残に散っていったとのこと。小笠原先輩も散った戦士の一人でした。そして時は流れ、大学生になってお店に現れた小笠原先輩は、普通の醤油ラーメンを食べながら小池さんに言いました。
俺の今の友達なら、あのジャンボラーメンをクリアできると。
その時は、それ以上の発展はありませんでした。話が進んだのはつい最近、小笠原先輩が再び現れてから。自分の命が残り少ないことを語り、没後に友人を寄越すから対応して欲しいと頼まれたそうです。小池さんはその頼みを一も二もなく引き受けました。頼み事だけをして、ラーメンを食べないで帰って行ったのが本当に悔しかったと、今にも泣きそうな声で語っていました。
「お待ちどう!」
小池さんが戻ってきて、ラーメンをテーブルに置き始めました。まずはわたしと安木先輩の醤油ラーメン。そして長野先輩の味噌ラーメン。最後に、船井先輩のジャンボラーメンです。
長野先輩が「バカじゃないの?」と率直な感想を述べました。
四つ並んだラーメンの器を見て、わたしは太陽系をイメージしました。船井先輩のジャンボラーメンが太陽、それ以外が火星とか地球とかです。初めにジャンボラーメンがあり、その周りを普通のラーメンが回っている。そんな普通ラーメン動説を唱えたくなるような主従関係を器のサイズ差から感じました。わたしと長野先輩と安木先輩のラーメンを全て足しても、船井先輩のジャンボラーメンの量に到底届きそうもありません。
「食べられる?」
安木先輩が素朴な疑問を口にしました。船井先輩は固まって答えません。今になって考えてみると、船井先輩ならいけると判断したのは小笠原先輩です。何の根拠もない適当な判断という可能性は事前に考慮しておくべきでした。
「スープは飲み干さなくていい。じゃあ今から三十分、始めるぞ」
小池さんがラーメンと一緒に持ってきたデジタルタイマーを動かしました。船井先輩が割り箸をスープの海――本当に、海と呼ぶに相応しい量です――に沈めます。わたしは船井先輩を応援したい気持ちはありつつ、応援したところで何がどうなるわけでもないので、とりあえず自分の醤油ラーメンに箸をつけました。
五分後。
わたしたちはまだ、誰も食事を終えていませんでした。ジャンボラーメンに至っては減っているか減っていないかも分かりません。長野先輩が「味噌おいしいよ」と言うので少しシェアし、本当においしかったので幸せな気分になりました。
十分後。
長野先輩がラーメンを食べ終えました。男性の安木先輩より早いですが、安木先輩が遅いだけで長野先輩が特別に早いわけではないと思います。わたしは安木先輩と同じぐらいのペースで食べ進めていました。ジャンボラーメンは見ていて「減ってきたかな?」と感じる具合の進行度でした。
十五分後。
わたしと安木先輩がラーメンを食べ終えました。長野先輩は一足先にラーメン屋の漫画本を読んでいます。船井先輩は顔を真っ赤にしてジャンボラーメンをすすっていました。時間を考えると半分は食べ進めていないとマズいのですが、わたしの目には八割ほど残っているように見えました。
二十分後。
船井先輩は何だか泣きそうになっていました。ラーメンを食べて泣く人は今まで見たことがなく、わたしはハラハラしながら船井先輩の様子を見守っていました。長野先輩は変わらず漫画を読んでいました。安木先輩はスマホでラーメン早食いの情報を調べ、船井先輩に「序盤の熱いうちはペース落とした方がいいらしいよ」と今さらすぎるアドバイスを送っていました。
二十五分後。
「……はあ……はあ……」
ジャンボラーメンの器を見つめ、汗だくの船井先輩が肩で息をしています。雰囲気はマラソン後のランナー。つまり、走っていません。しかし右手は割り箸を離しておらず、まだ走る意志は消えていないのも伺えます。
「もうちょっとですよ!」
立ち止まった船井先輩を鼓舞します。実際、もうちょっとではあります。そのもうちょっとでもわたしが十五分かけて食べた量を越えていそうですが、その点に目を瞑ればクリアは目前です。目を瞑れる話ではないという点にも目を瞑り、わたしはひたすら漫画を読み続けている長野先輩に声をかけました。
「マイさんも応援してあげて下さい」
「えー」
漫画本から顔を上げ、長野先輩が露骨に嫌そうな顔をしました。そして刻一刻とゼロに近づいているタイマーのデジタル表記とジャンボラーメンの残りを見比べ、あっさりと結論を下します。
「無理じゃない?」
「そんなこと言わないで下さいよ!」
「そう言われても、頑張ってどうにかなることとならないことが……」
「無理じゃない」
船井先輩の低い声が、わたしたちの会話を遮りました。
タイマーが残り三分を切りました。船井先輩が深く息を吸い、そして吐きます。厚い胸板が上下し、ただでさえ大きな船井先輩の身体がより大きく見えます。
「無理じゃない。俺はやれる。小笠原、見ていてくれ」
死ぬんですか? そんな不謹慎なことを聞きたくなるぐらい、船井先輩の表情は鬼気迫っていました。船井先輩が箸を構えて大声で叫びます。
「行くぞおおおおおお!」
箸がスープに沈みました。大声に釣られ、店中の視線が船井先輩に集まります。中には自分の席を立って見に来ている人もいました。恥ずかしくなって肩をすくめるわたしをよそに、船井先輩は一心不乱にラーメンを食べ進めます。
「兄ちゃん、頑張れ!」
「もう少しだぞ!」
ギャラリーから声援が上がり始めました。そうしている間にもタイマーの時間は減り続けています。残り十、九、八、七、六、五、四、三、二、一。
ピピピピピピ。
電子音が、戦いの終わりを告げました。船井先輩がゆっくりと顔を起こします。そして右の拳を高々と掲げ、雄叫びを上げました。
「食ったああああああ!」
ギャラリーから歓声と拍手が上がりました。洗面器のようなジャンボラーメンの器には、まるで飲み物のように茶色いスープだけが並々と注がれています。正確に言うとモヤシやネギの切れ端のようなものは浮かんでいますが、クリア判定を出しても問題なさそうな程度です。
「おめでとさん」
小池さんが船井先輩にねぎらいの言葉をかけました。そしてズボンのポケットから封筒を取り出して手渡します。
「小笠原からだ。受け取れ」
「第二の試練ですか」
「知らん。開けてないからな。ただ、俺の役割はここまでだ」
小池さんが満足そうにあご髭を撫でました。そしてわたしたち全員を見やり、大きく顔を崩して笑います。
「小笠原は昔から、何をしていても楽しそうなやつだったけど」ほんの少し、声量が下がりました。「君たちの話をしている時は、特に楽しそうだったよ」
ちくりと胸が痛みました。小池さんがタイマーをポケットにしまい、ジャンボラーメンの器を抱えて厨房に戻ります。ギャラリーの方たちも同じようにわたしたちの周りから離れる中、船井先輩が席に座り直して封筒をわたしに差し出しました。
「はい」
「……わたしが開けるんですか?」
「俺、不器用だから」
わたしだって器用ではありません。文句を言いたくなりましたが、ジャンボラーメンチャレンジを達成した船井先輩の功績に免じて引き下がります。とはいえ二通目ともなると、遺書とはいえ扱う側の気持ちもだいぶ楽です。封筒を開いて中から紙を取り出し、テーブルの上に広げます。
『第二の試練』
予想通りの文言の下に、前とは違う十一桁の番号が続いています。長野先輩が「今度はわたしが電話するね」と言ってスマホを取り出しました。その役割はちゃんと交代するんだと、微妙に納得のいかないものを感じます。
さんざん騒いでおいて今さらではありますが、お店の中なのでスピーカーモードにしてみんなで話を聞くことは出来ません。長野先輩にやりとりを任せます。見る限り話は通じているようでした。小笠原先輩の名前がちょくちょく出てきて、特に引っかかっている様子もありません。
「はい。では、今から伺います。よろしくお願いします」
長野先輩が電話を切りました。誰が出たのか。相手は小笠原先輩とどういう関係だったのか。第二の試練はいったい何なのか。無数にある聞きたいことの中から、船井先輩は自分たちがこれからやるべきことを一番に尋ねます。
「どこに行けばいいんだ?」
長野先輩が振り向き、質問に答えました。
「ゲーセン」
カラフルに輝くバーが、画面の上から雨あられと降ってきます。
バーが落ちてくるのに合わせて、長野先輩がゲーム筐体のボタンを素早く押していきます。押しているようです。ボタンの数がたくさんあり、落ちてくるバーの量と速度もとんでもなさすぎて、長野先輩がバーの落下に合わせてきちんとボタンを押しているかどうか分かりません。でたらめに連打していると言われたら、それはそれで信じてしまいます。
「船井先輩。これ今、上手くいってるんですか?」
声をひそめ、傍に立っている船井先輩に話しかけます。船井先輩はジャンボラーメンの詰まったお腹をさすりながら、少し苦しそうな表情で答えてくれました。
「分からない。音ゲーほとんどやったことないから。安木は分かるか?」
「コンボは繋がってるから、失敗はしてないんじゃないかな」
「それぐらいなら俺だって分かるわ」
「よしっ!」
長野先輩が筐体のボタンを強く叩き、大きな声を上げました。よく分かりませんがクリアしたのでしょう。わたしたちと同じように長野先輩を見守っていた女性店員の高崎さんが、盛大な拍手を長野先輩に送ります。
「すごーい!」
「スコアは微妙ですけどね」
「これ微妙なんだ。すごいねー、さすが小笠原くんのお友達だわ」
「小笠原は下手ですよ?」
「規格外ってこと。じゃあこれ、渡しとくね」
高崎さんが白い封筒を長野先輩に渡しました。長野先輩は受け取った封筒を流れるように「はい」と手渡してきて、高崎さんとゲームの話で盛り上がります。別にいいですが、どうやらまたわたしが封筒を開けることになりそうです。
小笠原先輩がよく行っていたゲームセンター、『シリウス』の女性店員である高崎さんが、わたしたちの第二の試練の相手でした。
試練の内容は、音楽に合わせてタイミングよくボタンを押す音ゲーと呼ばれるゲームで、ものすごく難易度の高い曲をクリアすること。わたしは長野先輩が音ゲーをプレイすることをまず知りませんでしたが、わたし以外の三人は一緒にゲームセンターに行ったこともあるらしく、当然のように知っていました。もちろん小笠原先輩も知っていて、だから第二の試練が音ゲーになったわけですが、長野先輩が言うには「私の腕と曲の難易度のバランスは絶対に分かっていない」そうです。つまりまたジャンボラーメンのような無茶ぶりが待っている可能性があったわけで、あっさりとクリアできたのは運が良かったと思います。
「長野さん、DTMもやるんだよね?」
「はい。というか、そっちが先で音ゲーが後ですね」
「今度、作った曲聞かせてくれない?」
「いいですよ。さっき交換した連絡先に後で音源送ります」
いいのかな。いつか聞いた『雌豚音頭』のメロディを思い出し、勝手に心配になります。長野先輩が音ゲーの筐体を見やりました。
「小笠原、なんであんなマニアックな曲を指定してきたんだろ。高崎さんは理由分かります?」
「分かるよ。たぶんそれが、第二の試練が音ゲーになった理由だから」
目を細め、髙崎さんが音ゲーの筐体をじっと眺めます。
「去年の春ぐらいだったかな。若い男性二人組のお客さんがそこの筐体でゲームを交代でプレイしていて、わたしはその横を通りかかったの。そうしたらプレイしてない方に話しかけられた。ナンパみたいな感じで」
「あー、うざいですね」
「普通に話しかけてくれるなら、それはそれでいいんだけどね。小笠原くんなんてゲームしに来てるのか店員と話しに来てるのか分からないぐらいで、ゲームしてもらえないとお金が落ちないんだって店長から怒られてたから」
高崎さんが苦笑いを浮かべました。わたしたちも釣られて笑ってしまいます。
「その時のお客さんも小笠原くんみたいな相手なら良かったんだけど、そんなことはなかった。とにかく見下してくるの。私も店員だから『音ゲーが上手い人ってすごいですよね。私もやろうかな』みたいに話を合わせるんだけど、そうしたら『女に音ゲーは無理』とか返されるわけ」
「うわー、鬼ムカつく」
「でしょ? 私もカチンと来ちゃってさ。音ゲーが上手い女性もいるかもしれないと主張するわたしと、絶対ありえないと主張するその男で軽い口論になったの。そこに小笠原くんが通って、プレイしてる男の方を指さしてこう言った」
音ゲーの筐体を指さし、髙崎さんが得意げに笑いました。
「『こいつより上手い女、知ってるよ』って」
長野先輩の瞳が、大きくぶるりと揺らぎました。
「その男がプレイしていたのが、さっき長野さんがクリアした曲。小笠原くんから曲名を聞いた時、私はそのことを思い出せなかった。ああ見えて記憶力いいよね。忘れちゃいけないことと忘れていいことの区別を、はっきりとつけてる気がする」
そうかもしれません。どうしてもいいことは一瞬で忘れるし、大事なことは一生忘れない。その在り方はとても小笠原先輩らしいです。高崎さんの語った思い出が、大事なことの方に入っているのも含めて。
「なるほどねえ」
長野先輩が筐体の前に立ちました。そしてモニターを見つめながら語ります。
「さっきの曲、その男はクリアしてたんですか?」
「してなかった。だからチャレンジしてたみたい」
「そっか。まあ、でも、チャレンジしたらクリアできるかも程度ではあったってことですよね」
長野先輩が振り返り、デモプレイが流れているモニターを背景に笑いました。
「どうりで、簡単だったわけだ」
それが本音なのか強がりなのか、わたしには判断できません。でも、どっちでもいいと思いました。長野先輩が満足している。それ以外はどうでもいいです。
「じゃあ私たち、次があるので」
「はい。また遊びに来てください」
高崎さんと手を振りあい、ゲームセンターを離れます。外に出てすぐ、わたしたちは高崎さんから貰った封筒を開けて中を確認しました。ここまでと同じように『第三の試練』という文言と電話番号の書かれた紙が現れ、安木先輩が「流れ的に僕の番だから」と言って電話をかけます。
第三の試練の相手は、長久保さんという七十歳近いおじいさんでした。
数か月前に足の骨を折って入院したところ、病院の休憩室で先に入院していた小笠原先輩と知り合って仲良くなったそうです。入院中、小笠原先輩が自分の半分以下の年齢の男の子と仲良くなっているのは見ましたが、それとは別に自分の三倍以上の年齢のおじいさんとも仲良くなっていました。すさまじい人たらし力です。
小笠原先輩とは将棋を打っており、「友達に将棋の強いやつがいるからいつか会わせたい」と言われていたとのこと。しかしその前に自分が退院してしまい、約束は無かったことになったと思いきや、第三の試練の話が来て変則的な形で実現することになったという流れです。ちなみに、安木先輩が将棋を打てることはわたしたちの中では小笠原先輩しか知らず、その理由は安木先輩いわく「家に遊びに来た時に打ったから」だそうです。すると今度は小笠原先輩が安木先輩の家に遊びに行ったことを誰も知らなかったので、みんなそれに驚いていました。
「行きたいっていうから、呼んだだけだよ」
安木先輩はさらりとそう言い、それ以上は語りませんでした。わたしたちも聞きません。いきなり家に遊びに行きたいという小笠原先輩が想像できるからです。おそらく説明されたことが全てなので、聞いても意味がありません。
「それで、将棋は勝てるのか?」
「分からない。ただ、小笠原ははっきり言って強くなかったから、あいつと楽しく打てる相手ならまず負けないと思う」
長久保さんが待っている家に向かうため、話しながら駅へと歩きます。もう春も近く、凍えるような寒さはありませんが、外気はまだ冷たいです。白いタートルネックのニットの上に羽織っているファーコートを前に引っ張り、ふわふわした襟と首を密着させて肌を守ります。そして自分の履いているタイトスカートと長野先輩の履いているワイドパンツを見比べ、これだけ移動するならもっと動きやすい格好をしてくれば良かったかなとぼんやり考えます。
「小笠原は、何がしたいんだろうね」
水色の空を見上げ、安木先輩が呟きをこぼしました。長野先輩が答えます。
「会わせたかったけど会わせられなかった人に会わせてるんじゃないの?」
「そうかな。あいつは自分で話をつけて試練の準備をしていた。だったらその時に僕たちも連れて行けば、会わせることはできたと思うよ」
「……確かに」
長野先輩が顔を伏せました。そうやってしばらく一人で考え込んだ後、わたしの方を向きます。
「小笠原のしたいこと、分かる?」
分かりません。小笠原先輩のやりたいことは、小笠原先輩にしか分からない。小笠原先輩はそういう人です。だけどわたしはそう答えませんでした。小笠原先輩が自分の言葉で語れるならばそれでもいい。でも今は違う。だったら、ちゃんと考える必要があると思いました。
「みんなを楽しませたかったんじゃないですか」
風が吹きました。声が散らされないよう、わたしはボリュームを上げます。
「最初の一枚に『宝探しの旅に出かけよう!』って書いてあったじゃないですか。じゃあ、宝探しの旅をさせたいんですよ。小さい子どもが自分で作ったすごろくを家族に遊んでもらうように、自分の考えたゲームをみんなに楽しんでもらいたかった。それだけなんじゃないかなと思います」
唇から舌先を覗かせる、小笠原先輩が嘘をつく時の癖。結局、小笠原先輩の誕生日以降、あの癖を見る機会はほとんどありませんでした。言いたいことは言いたいように言うし、やりたいことはやりたいようにやる。だったらこの宝探しの旅もやらせたいからやらせているのでしょう。そう考えるのが自然な気がします。
ただ――
「子どもが自分で作ったすごろくを家族に遊ばせてる、ねえ。そう言われるとしっくり来るわ」
長野先輩がしみじみと呟きました。船井先輩が唇の端をニヒルに歪めます。
「じゃあ、ちゃんと楽しまないとな」
そうですね。そう言おうとした矢先に船井先輩がうっと小さく呻き、ジャンボラーメンで膨らんだお腹を抑えます。安木先輩が「クソゲーならクソゲーだって言っていいと思うよ」と言い、ほんの少し薄い唇の端をつり上げました。
わたしは、将棋のルールはよく分かりません。
それでも音ゲーよりはずっと分かります。駒を取り合うゲームであることや、取った駒は自分で使えるという基本的なルールだけではなく、それぞれの駒の名称やどの駒が強いのかも何となく知っています。だから何もかも分からなかった長野先輩の音ゲーと違い、どっちが勝っていてどっちが負けそうなのか、ぼんやりとですが判断することが出来ます。
だから今、安木先輩が劣勢なのも、盤面を見れば何となく分かります。
「時に」
パチン。長久保さんが金将を盤面に打ちました。しっかりとした高さのある直方体の将棋盤に、気品のある木材の駒。今わたしたちがいる和室には額縁に入った将棋の大会の賞状があちこちに飾ってあり、これはあまり関係ないかもしれませんが、長久保さんの服装は和服です。間違いなくこのおじいさん、小笠原先輩と楽しく将棋をするレベルの人ではありません。
「君は亡くなった子から、私のことをどのように聞いていたのかな」
「何も聞いていません。今日初めて存在を知りました」
「ほう」
長久保さんが顎をさすりました。安木先輩が自分の王将を逃がすと、すさかず長久保さんがそれに対応して駒を動かします。
「なら、私が彼と八枚落ちでやっていたことも知らなかったというわけだ」
「そうですね」
「『話が違う』と思ったかな?」
「思いました。でもあいつはそういうやつですから」
パチン。パチン。駒が盤面を叩く音が短いスパンで続きます。だいぶ前からずっとそうです。安木先輩が打ってすぐ長久保さんが自分の手を進める。勝ちへの道筋が見えているのでしょう。
「そういうやつ、というのは?」
「人を振り回すのが好きなやつということです」
「そんな子と一緒にいて、イヤになることはなかったのかな」
「ありましたよ。でもそれ以上に、楽しかった」
パチン。久しぶりに駒を打つ音が一つで止まりました。盤面を覗き込む長久保さんに向かって、安木先輩は淡々と語ります。
「あいつは人を振り回すのが好きだけど、人を振り落とすのが好きだったわけではありません。どこまでついてくるか試されているとは思わなかった。だから僕は安心して振り回されていました。ここにいる全員、そうだと思います」
安木先輩の言葉を聞き、わたしは姿勢を正します。長久保さんがじろりと横で観戦しているわたしたちを見やりました。そして右腕をゆっくりと上げ、手を盤面に伸ばします。
パチン。
安木先輩が眉をぴくりと上げました。そして手を顎に当てて考え込みます。水を打ったような静寂がしばらく続いた後、安木先輩が頭を大きく起こし、そして――大きく下げました。
「まいりました」
船井先輩が細く息を吸いました。長久保さんが和服の左袖に右の手を、右袖に左の手を入れる形で腕を組みます。
「もう一戦やるかい?」
「いいえ。何戦やっても同じです」
「そうだな。まあ、筋は悪くなかったよ」
長久保さんの右手が袖から出てきました。親指の腹とひとさし指の横腹でつまんでいる、袖に手を入れる前は持っていなかったものを目にして、わたしは「あ」と声を上げます。
「受け取りなさい」
「ありがとうございます」
「ちょっと待って!」
長久保さんから封筒を受け取った安木先輩に向かって、船井先輩が意義を唱えました。安木先輩は顔色一つ変えず船井先輩に尋ねます。
「どうしたの」
「お前、負けただろ! なにしれっと手紙受け取ってるんだよ!」
「勝つまで貰えない方が良かった?」
「いや、そうなるとずっと貰えねえから困るけど……」
「それ」
「それ?」
「小笠原にクリアできるかできないか、ギリギリを狙ったバランス調整なんてできるわけがない。ラーメンも、音ゲーも、クリアを必須にしたら詰む可能性がある。だから次の試練に進む条件はクリアじゃないんだよ。小笠原がどう説明しているかは分からないけど、たぶん『真剣に挑む』とか、そんなものだと思う」
船井先輩が目と口を開いて呆けます。わたしも表情は違いますが、気持ちはおそらくほぼ同じです。だけど長野先輩は違いました。
「まあ、そうだよねえ」
「お前も気づいてたのかよ!」
「だって私の音ゲーはともかく、船井のジャンボラーメンは努力でどうにかなるものじゃないから。食べ切れなくても『よく頑張った』とか言って手紙はくれるんだろうなって思ってたよ」
ラーメン屋でひたすら漫画を読み、船井先輩をあまり応援していなかった長野先輩を思い返します。船井先輩が納得いかないとばかりに声を荒げました。
「だからそういうのは先に言えよ! 死ぬ気で食っちまっただろ!」
「クリアしてくれるならその方が間違いないもん。それにクリアしなくていいやって気持ちで手を抜いたのがバレたら、それは再チャレンジだったんじゃない?」
「……いや、だから、そうかもしれねえけどさあ」
がっくりとうな垂れる船井先輩を見て、長久保さんが声を上げて笑い出しました。そしてひとしきり笑った後、安木先輩に話しかけます。
「私は『渡してもいいと思ったら渡して下さい』と言われた。君が格上相手に一縷の望みをかけるような戦い方をしていなかったら、きっと渡さずに再試合を要求しただろうな」
「全く通じませんでしたけどね」
「大事なのは過程だよ。亡くなった子もそれが言いたかったんじゃないか。生き死によりも、どう生きたかが自分にとっては大事だと」
長久保さんが目を細めました。あちこちにしわを浮かべて優しく笑います。
「彼のことはほとんど何も知らないが、いい人生を歩んだのだろう。君たちを見ているとそう思うよ」
安木先輩が長久保さんに笑い返しました。そして「ありがとうございます」とお礼を言い、わたしのところに来て封筒を差し出します。やっぱり、わたしが開けるようです。もうこれはそういうものだと諦めて封筒の糊を慎重に剥がし、中から出てきた紙を畳の上に広げます。
その場の全員が、息を呑んだのが分かりました。
『最後の試練』
いよいよ、次でラストのようです。そして船井先輩、長野先輩、安木先輩は試練を越えているから、最後はわたしでしょう。緊張に震える手でスマホを取り出し、畳の上に置きます。
電話番号を押します。通話を飛ばしつつ、家の中だからいいだろうとスピーカーモードをオンにします。コール音が響く中、わたしはすうはあと呼吸を整え、自分が言うべき言葉を頭の中でまとめます。
もしもし。初めまして。小笠原さんがあなたに頼んだことについてお聞きしたく、連絡させて頂きました。わたしは――
コール音が止まりました。機械を通してざらついた声が和室に広がります。
「Hola!」
電車を降りて駅のロータリーに出る頃には、時刻は午後五時を回っていました。
小笠原先輩の実家で遺書を受け取って、小池さんのラーメン屋でジャンボラーメンを食べて、髙崎さんのゲームセンターで音ゲーをプレイして、長久保さんの家で将棋を打った割には早いのかもしれませんが、それでも日は落ちかけています。都会を離れた海に近い駅の小さなロータリーで、人気はなく車もタクシーが一台停まっているだけなのも寂しさを煽ります。一日が終わる。それを意識してしまいます。
「やっぱり、別の日に改めて来れば良かったでしょうか」
不安げに呟きます。すさかず長野先輩と船井先輩が、二人がかりでわたしの不安を払拭してくれました。
「今日でいいでしょ。あそこで止めるのもなんか気持ち悪いし」
「そうそう。どうせ止めたら止めたで気になってしょうがねえんだから、早めに片づけちまった方がいいって」
確かに、それはそうです。聞かされた試練の内容から言っても朝や昼から出向く必要はありませんし、何なら日を改めたところで似たような時間に来る可能性は大いにあります。結局は、単にわたしの心の準備ができていないだけで、そしてそれは時間をかければ解決するようなものでもありません。流れに任せて一気に来てしまったのはむしろ正解とも言えるでしょう。
「あれかな?」
安木先輩が、ロータリーに侵入するナイトブルーカラーの車を指さしました。その予感通り、車がわたしたちの目の前で止まります。中にいるのは運転手一人で、座っているのは左前方のシート。つまり左ハンドルです。
運転席の窓が下り、女性が顔を出しました。色素の薄い白い肌に、ウェーブのかかった黒髪に、彫りの深い目鼻立ちに、艶やかで大きな唇。やはりパッと見て分かる程度にはモンゴロイドと人種が違い、そしてパッと見て分かる程度には美人です。おそらく四十は越えているはずで、確かに若々しさはそんなに感じませんが、その分わたしではどう頑張っても出せなさそうな色気が溢れています。
「お待たせ。乗ってちょうだい」
女性が顎で後部座席を示しました。早速、船井先輩がドアを開けて奥に入り、安木先輩と長野先輩が後に続きます。余ったわたしは車道側から助手席に座りました。シートベルトをするわたしの背後で、船井先輩が声を弾ませます。
「BMWに乗れるの、テンション上がりますね」
「そんな大したものじゃないわよ。リラックスして」
女性がバックミラー越しにスマイルを後部座席に送り、そのままわたしに話しかけて来ました。
「電話、スペイン語で受けてごめんなさいね。最近は変な営業の電話が多くて、ああするとすぐに切ってくれるから楽なの」
「いいですよ。挨拶だけでしたから」
「でもだいぶ混乱させたみたいだから。いきなりWho are you? はちょっとびっくりしたわ。こっちの台詞だって思っちゃった」
「……How are you? とか、How do you do? とか、色々混ざっちゃって」
「とりあえずHelloじゃない?」
女性がくすくすと笑いました。そして開いた右手をふくよかな胸の上に乗せ、よく通る声を車内に響かせます。
「じゃあ改めて。私はVerónicaGuadalupeLópezGarcía。ベロニカって呼んで。あの子もそう呼んでいたから」
「あの子って、小笠原先輩ですか」
「Sí」
ベロニカさんが首を縦に振りました。そして前を向き、車を発進させます。
「あなたたちのことはあの子からよく聞いているわ。もてなしてくれって言われてるから、存分にもてなされてちょうだい」
「あの、電話でも聞きましたけど、本当にそれでいいんですか?」
「本当にそれでいいの」
車がロータリーを出ました。ベロニカさんがアクセルを踏み込み、加速による慣性で背中がシートに押し付けられます。
「最後の試練は、私の家で一泊することよ」
電話で話し始めてすぐ、わたしはベロニカさんが小笠原先輩の言っていた「サボテンを育てているメキシコ人」であることに気づきました。
亡くなった小笠原先輩のお母さんの親友で、小笠原先輩の親代わりみたいなところもある人。小笠原先輩が語っていた背景をベロニカさん自身から語られ、いったいどんな試練が用意されているのだろうと話しながら緊張していました。ところが言い渡された試練は、ベロニカさんの家で一泊すること。わたしは「それだけですか?」と尋ね、ベロニカさんは「それだけよ」と答えました。
ベロニカさんの家は、海岸のすぐ傍にありました。海があり、砂浜があり、背の低い堤防があり、その奥に家が建っている形です。玄関の前には大きな丸いサボテンの鉢植えが置かれていて、家の中にもあちこちに色々な種類のサボテンが飾られていました。一階のリビングは広々としており、海を臨むテラスに出るための大きなガラス戸を通して、夕日に輝く水平線が綺麗に見えました。
「私は夕食の準備をするから、適当にくつろいで」
ベロニカさんがそう言ってキッチンに引っ込みます。わたしたちは少しリビングで雑談をした後、ガラス戸を開けてテラスに出ました。テラスにも家を守る緑色の兵士みたいに、縦に長い大きなサボテンの鉢植えがいくつか並んでいます。
「綺麗だね」
海風にたなびく髪を抑えながら、長野先輩がうっとりと目を細めます。アウターのファーコートを脱いでしまったので少し寒く、わたしはセーターの首元を軽く上げました。船井先輩がテラスの手すりに身を乗り出します。
「毎日この景色を見られるの、すげえいいな」
「そうかな。砂とか塩害とか大変そうだし、僕はあまり住みたくない」
安木先輩の言葉に、船井先輩がむっと顔をしかめました。
「ロマンのないやつだな」
「でも僕の思考の方が普通だと思うよ」
「そうとも言えないだろ。なあ」
「私もたまに来るのはいいけど住みたくはない」
賛同を求めて話を振った長野先輩から否定を返され、船井先輩が怯みました。そしてわたしに助けを求めて来ます。
「どっち派?」
「わたしはどっちでも……ただ」
わたしは海を見やりました。そしてこの家を訪れて、リビングから夕焼け色の大海原が見えた時に真っ先に考えたことを口にします。
「小笠原先輩は、こういうの好きだと思います」
シンと、場が静まり返りました。みんなが同じ意見であることがその反応から伝わります。もしこの場に小笠原先輩がいたら、わたしたちは今ごろ砂浜に立っているでしょう。そこに海があるのに見ているだけなのは勿体ないとか、そんなテキトーな理由で。
「最後の試練」安木先輩。「一体、何なんだろうね」
波の音が、少し大きくなった気がしました。船井先輩が口を挟みます。
「この家に一泊しろって試練なんだから、一泊させたいんだろ」
「それって試練なの?」
「今までの試練もクリアは別に必要なかったって、お前が言ったんじゃねえか」
「でも何かに挑ませる形ではあった。それに僕は言ったのはミッションをクリアする必要がないって話であって、クリア条件がないってことじゃないよ。長久保さんも場合によっては再試合だったって言ってたでしょ」
「じゃあ、最後の試練にクリア条件があるとして、達成できなかったらもう一泊するのか?」
「分からない。終わりは迎えるけど、真のエンディングにはたどり着けなかったみたいな感じになるんじゃないかな」
「真のエンディングねえ」
船井先輩がちらりとわたしを見やりました。最後の試練がその名の通り何かの試練だとして、はっきりしていることが一つだけあります。プレイヤーは間違いなく、他の試練に挑戦していないわたしです。
「ま、考えすぎてもしょうがないでしょ」
長野先輩が話を締めました。考えすぎないでいいよ。そう言って貰えているのが分かり、嬉しさと申し訳なさを同時に感じます。いつの間にか、海を覆う夕焼けはほとんど夕闇になっていて、黒く染まる空に水平線が溶けかけていました。
夕ご飯は、タコスパーティでした。
トルティーヤと呼ばれる薄焼きパンの皮に、ひき肉や野菜やエビやチーズを具材として包み、サルサソースやアボカドのディップを加えて食べる。海苔と酢飯と魚介を用意して好きに手巻き寿司を作って食べるようなものです。ちなみにサルサにはスペイン語でソースという意味があるらしく、つまりサルサソースという呼び方はソースソースということになってしまうそうです。サルサ・メヒカーナと呼べばメキシコのソースという意味になるとベロニカさんが教えてくれました。
パーティの後は、ロテリアというメキシコのゲームを遊ぶことになりました。小笠原先輩がベロニカさんにわたしたちにロテリアをプレイさせるよう頼んだらしく、わたしはいよいよ試練が来たと思って身構えました。しかしルールを聞いてみるとどうも違いそうで、軽く肩透かしをくらいました。
まず、プレイヤーは四×四で十六枚の絵が描かれた台紙を受け取ります。次に親が台紙とは別に用意された山札から絵札を一枚引き、プレイヤーはめくられた絵札と同じ絵の上にコインや小物を乗せてマーキングをします。そして一列マーキングが揃ったら「ロテリア!」と宣言をして勝利。一列ではなく外周や内周、十六枚全部のマーキングなどを勝利条件にしても良いそうですが、要は絵を使ったビンゴです。あまりにも運要素が強すぎて、人を試すのに相応しいとは思えません。
「どうして小笠原は、これを私たちにやらせたいんでしょうか」
ひとしきりルールを聞き、長野先輩がベロニカさんに問いかけました。わたしの代わりに探りを入れてくれているのでしょう。しかしベロニカさんは「さあ」と肩をすくめます。
「小さい頃、嫌がる弟くんを無理やり巻き込んでやらせるぐらい好きだったから、あなたたちにも体験して貰いたいんじゃないかしら」
「俊樹くんは苦手だったんですね」
「運で決まっちゃうからね。何が面白いのか分からなかったみたい。お兄ちゃんの方が好きだったのもゲームというより詩だし」
「詩?」
「親が絵札を場に出す時に詩を詠むの。絶対ではないけどね。私は小さい頃に覚えた詩が好きだから詠むことにしてる」
ベロニカさんが山から絵札を一枚引きました。そしてわたしたちに札の裏を向けながら、大きな唇を開きます。
「Cotorro, cotorro, saca la pata y empiezame a platicar」
ベロニカさんが、絵札を表にしてテーブルの中央に置きました。
絵札にはオウムが書かれていました。きっと詩もオウムに関係のあるものなのでしょう。意味は分かりませんし、音も雰囲気でしか聞き取れません。だけどベロニカさんの声は鳥の囀りのように澄んでいて、とてもぴったりだと思いました。小笠原先輩は好きだろうな。何も分からないのに、それだけははっきりと分かります。
わたしの台紙にはオウムの絵があったので、その上に一円玉を置きました。次に引かれたのは悪魔の絵で、ベロニカさんはおどろおどろしい雰囲気を作って詩を詠んでいました。サソリ、太陽、サボテン。次から次へと絵札がめくれ、みんなの台紙にマーキングが乗っていきます。
「ロテリア!」
勝利宣言がリビングに響きました。声を上げたのは、わたしです。ベロニカさんがテーブルに頬杖をついて柔らかく笑います。
「おめでとう」
「運が良かったです」
「ご褒美に、あの子のことを何か一つ答えてあげる。どんなセンシティブな質問でもいいから、なんでも聞いて」
小笠原先輩のことを、何か一つ。
いきなり突きつけられた話を上手く噛み砕けず、わたしの頭の中がパニックになります。小笠原先輩について知りたいこと。何があるでしょう。何が――
「――別に、いいです」
ベロニカさんがまぶたを上げました。大きなブラウンの瞳がわたしを捉えます。
「いいの?」
「はい。小笠原先輩が生きているなら何か聞いたかもしれませんけど、今は遺品のパソコンの中を勝手に覗いているみたいで、イヤだなって思っちゃって」
ベロニカさんがふむと小さく頷きました。そして手元に置いてあるメキシコビールの瓶を掴んで口をつけます。ライムを入れた瓶から直接ラッパ飲みがメキシコビールの飲み方――なのは日本の話で、メキシコではグラスに注いだ上で塩やライムを加えて飲むそうです。わたしはまず日本の飲み方を知りませんでしたが、船井先輩がタコスパーティ中に通ぶって訂正されて恥ずかしそうにしていました。
「じゃあ、次のイベントに移りましょうか」
ベロニカさんが意味深な笑いを浮かべました。試練の始まる気配を感じ、わたしの背筋に緊張が走ります。
右の親指を立て、ベロニカさんが海の方を示しました。
「花火しましょう」
水平線の向こうに、おびただしい量の星たちが輝いています。
流れ星がひらりと夜空を舞いました。あまりにも一瞬の出来事で、消える前に三回も願いごとをする難しさをしみじみと感じます。こんな無茶をしないと聞いてくれない神さまに頼むぐらいなら、自力で頑張った方がいい。あれはそういう意味の迷信なのかもしれません。
「できた!」
砂浜に屈み、厚紙とろうそくで燭台を作っていた船井先輩が声を上げました。長野先輩がさっそく花火セットの袋からススキ花火を一本抜き取り、その先端をろうそくの火に近づけます。数秒後、黄色い火花が勢いよく飛び散り、長野先輩がはしゃぎながら船井先輩を呼びました。
「船井! 早く! 次!」
「ちょっと待てって!」
船井先輩が別の花火を手に取り、長野先輩の花火に近づけます。すぐに火が移って船井先輩の花火からも光の洪水があふれ出しました。わたしも安木先輩もそれぞれ花火を持って火を分けてもらい、海岸がにわかに明るくなります。
「花火って、ただ派手で綺麗ってだけで何の意味もないのに、なんかテンション上がるからすごいよな」
「派手で綺麗なら意味はあるでしょ。安木みたいなこと言うね」
「言わないよ。僕にだって好きな食べ物ぐらいはあるから」
「……どういうこと?」
「美味しいものを食べることに意味があるなら、楽しいことをするのにだって意味があるはずだ。そして僕は美味しいものを食べたいという気持ちで美味しいものを食べることがある。じゃあ楽しいことをするのを意味がないとは言えないよ」
先輩たちの会話を聞きながら、わたしは花火を暗い海の方に向けてみます。するとコートのポケットに手を入れて、波打ち際に佇んでいるベロニカさんの姿が目に入りました。わたしは消えた花火を水の入ったバケツの中に刺し、ベロニカさんに歩み寄って声をかけます。
「花火、やらないんですか?」
ベロニカさんが振り向き、首を小さく横に振りました。
「あの子が花火をして欲しいのは、あなたたちだから」
「小笠原先輩がそう言ってたんですか?」
「はっきりとは言ってないわね」
「じゃあ、分からないじゃないですか。ベロニカさんだって小笠原先輩の大事な人だったんだから、一緒に楽しんで欲しいかもしれませんよ」
「……そうかもね」
ベロニカさんがまた海の方を向きました。わたしもベロニカさんの左隣に立って同じ方角を見やります。空には光の粉を散りばめたような星々が輝いているのに、海にはひたすら深い闇が続いていて、眺めていると飲み込まれそうになります。
「さっき、何を言いかけたの?」
波音の隙間から、ベロニカさんの声が届きました。
「聞きたいこと、あったんでしょう。言うだけ言ってみたら? 本当に遺品のパソコンを勝手に覗くような下世話な質問だったら、私は答えないから」
――バレていました。わたしは大きく息を吸い、潮の匂いがする空気で肺を満たします。
「小笠原先輩が、わたしと出会ったことを全く後悔していなかったか、聞きたいなって思いました」
口を閉じます。ベロニカさんは動きません。「まだあるでしょう」と言いたげな態度を前にして、わたしは再び口を開きます。
「ベロニカさんもご存じの通り、わたしたちは色々な試練を受けてからここに来ています。そしてそれがめちゃくちゃで楽しかった。ベロニカさんと会ってからも、タコスパーティをしたり、メキシコのゲームをしたり、海岸で花火をしたり、すごく楽しいです。小笠原先輩は本当にわたしたちを楽しませたいんだろうなって思います。でも――」
自分の考えたゲームをみんなに楽しんでもらいたかった。小笠原先輩は一体何をしたいのかと長野先輩に聞かれて、わたしはそう答えました。ただ、あの時に言わなかったことが一つあります。
「小笠原先輩も、一緒に楽しみたかっただろうなとも思います」
小笠原先輩は好きそう。小笠原先輩は喜びそう。そう感じる瞬間が今日はたくさんありました。安木先輩や長野先輩は小笠原先輩が好きそうな流れを作るため、自分の推測をあえて黙ったりもしていました。でも、どれほど小笠原先輩が好きそうな展開を作っても、小笠原先輩はもういない。いないのです。
「今日会った人たちはみんな、小笠原先輩はわたしたちと一緒にいて楽しかったはずだと言ってくれました。わたしもそうだと信じています。でもそれは残酷だとも思います。楽しければ楽しいほど、もっと生きたくなってしまうから」
花火を続けている先輩たちを見やります。船井先輩と長野先輩は笑顔、安木先輩は無表情ですが口は動いています。試練の下準備をしている時、小笠原先輩がこういう光景を想像しなかったとは思えません。そして想像すればきっと、自分もこの場にいたいと考えてしまう。
「それに気づいた時、わたしの存在は小笠原先輩にとってプラスだったのかなって思ったんです。人生が終わりかけている中で一生を共にしたい相手と出会うことは、本当に幸せなのかなって。だからもし、小笠原先輩がベロニカさんにそういうことを話していたなら、聞きたいと思いました。だけど聞いてもどうしようもないし、何より先輩たちには『出会わない方が良かったんじゃないか』なんて思って欲しくない。だから、あの場では黙りました」
今度こそ、全てを語りました。わたしは口をつぐみます。海風がベロニカさんの髪がふわりと巻き上げ、整った横顔がよく見えるようになります。
「あの子からは、聞いていないわ」
あの子からは。一呼吸置いて、ベロニカさんが語りを続けます。
「でも、あの子のお母さんからは聞いたことがある。今のあなたと同じことを私も考えて、彼女に言ってしまったの。私の存在がこの世への未練になるなら、出会わない方が良かったのかもねって。彼女から『そんなことない』と言ってもらいたい。不安を取り除いてもらいたい。そんな身勝手な気持ちを押し付けた」
ベロニカさんの目尻が大きく下がりました。悔やむ気持ちも、それでも言ってしまった気持ちも分かります。わたしも小笠原先輩が生きている間に気づいたら、きっと同じことを聞いてしまったでしょう。
「でも彼女は否定しなかった。むしろ『そうかもね』と肯定したわ。出会わない方が良かった可能性はある。でも私たちは出会ってしまった。だったら出来る限り楽しんだ方がいいじゃないって言って、笑っていた」
ベロニカさんが目を細めました。そしてわたしに向かって語りかけます。
「あの子もきっと、同じことを言うんじゃないかしら」
――言うでしょう。あったかもしれない世界に想いを馳せるより、今ここにある世界を存分に楽しむ。その姿勢はとても小笠原先輩らしいです。例えそれが、自分を消し去ろうとする世界だとしても。
「そうですね」
ベロニカさんの表情がほんの少し翳りを帯びました。自分は出来る限り楽しめばそれでいいけど、遺されるわたしたちの気持ちも考えて欲しいわよね。視線でそう語りかけながら、口では違う言葉をかけてきます。
「目をつむって」
意味が分かりません。でも目をつむります。まぶたを下ろして、星や月の灯りもない本当の暗闇を作り出します。
「あの子の姿を想像して」
想像します。髪を薄い茶色に染めていて、袖の長いゆるゆるな服を着ていて、なんか眠そうな目をしていて――
「どんな顔をしてる?」
わたしは、迷うことなく、はっきりと答えました。
「笑っています」
もうちょっと分かりやすく喋れよ!
船井先輩の大声が、風に乗ってわたしの耳に届きました。安木先輩へのツッコミでしょう。今さら、それ言うんだ。おかしくなって含み笑いを浮かべてしまいます。
「目を開けて」
目を開けます。ベロニカさんが海の方を向き、さっきのわたしと同じようにまぶたを下ろしました。全身で海風を受けながら、透き通った声で語ります。
「みんなの思い出に笑顔で残りたい。あの子のお母さんはそう言っていたわ。そしてわたしが彼女のことを思い返す時、彼女はいつも笑っている」
ベロニカさんのまぶたが上がりました。水平線の向こうに輝く星空の、そのまたさらに向こうを見つめる目をして、噛みしめるように呟きます。
「素敵よね」
はい。声に出さずそう答え、わたしも夜の海を眺めます。遠くの空でまた一つ、流れ星が音もなく瞬き、幻のように消えていました。
日付が変わる頃、わたしたちは空き部屋に布団を敷いて眠りました。
一日中イベント続きで疲れていたのか、びっくりするぐらい早く眠れました。そして翌朝は気持ちよく起きられました。小笠原先輩がいなくなってから寝入りも寝起きもすっきりしないものだったので、久しぶりに身体が軽くなりました。
全員が起きたら、リビングでベロニカさんが用意してくれた朝食を頂きます。トルティーヤを切って揚げてチップスにしたものをトマトソースと一緒に煮込んだ、チラキレスと呼ばれる料理。メキシコの朝食の定番で、ベロニカさんが作ったものには目玉焼きが乗っていましたが、他にも色々な具材が乗ることがあるそうです。とても美味しくて、いつも食べている朝食よりだいぶ量は多かったのですが、綺麗に平らげてしまいました。
食後はベロニカさんがコーヒーを出してくれました。至れり尽くせりです。船井先輩が椅子の背もたれに身体を預け、大きく息を吐きました。
「こういうメキシコ流の健康的な朝を過ごしているから、ベロニカさんはとても美人なんですね」
「そんなことないわよ。私だって普段はパンだもの。今日みたいな休日は昼まで寝て食べないこともよくあるわ」
「え?」
「今日はおもてなしだから特別。外国人だから変わった生活を送っているはずだと思い込むのは、あまり良くない偏見ね」
船井先輩が肩をすくめて縮こまりました。わたしは、口にはしなかったけれど船井先輩と同じようなことを考えていたので、同じように小さくなります。ベロニカさんが両肘をテーブルに乗せ、組んだ手の裏に顎を隠しました。
「さて、これで試練は終わったけど」ぐるりと、テーブルに座っているみんなを見回します。「どうだった?」
試練という言葉を聞き、わたしは主旨をようやく思い出します。完全に旅行気分になっていました。ベロニカさんの隣に座っている安木先輩が声を上げます。
「ただの感想でもいいですか」
「どうぞ」
「楽しかったです。小笠原が僕たちを楽しませたいなら、それは成功していると思いました」
安木先輩らしからぬシンプルな言葉を聞き、安木先輩の向かいに座っている船井先輩が目を見開きました。ベロニカさんがそんな船井先輩を見やって尋ねます。
「あなたはどう?」
「どうって言われても……俺も安木と同じです」
「私もです。楽しかったなっていうのがやっぱり一番ですね」
船井先輩の言葉に、長野先輩も乗っかります。残るはわたしだけ。いきなりハードルが急上昇したのを感じながら、わたしをじっと見つめる正面のベロニカさんに向かって口を開きます。
「わたしも、楽しかったです」
考えていないわけではない。きちんと考えて、こうなった。それを伝えるため、わたしはベロニカさんの大きな瞳をしっかりと見やりました。ベロニカさんがわたしから目を逸らし、コーヒーを一口飲んで独り言のように呟きます。
「なら良かったわ」
椅子を引き、ベロニカさんが立ち上がりました。そしてそのままリビングを出て行きます。船井先輩がわたしにねちっこい視線を送ってきました。
「……やっちまったか?」
「わたしのせいみたいに言わないで下さいよ」
「でも一番責任が重いのは確かじゃない?」
「そもそも僕たちは試練のプレイヤーじゃないからね」
長野先輩と安木先輩まで。さすがにひどくないですかと思いつつ、何も言い返せずに黙りました。やがてベロニカさんがリビングに戻ってきてわたしはまず安堵し、次に両手で抱えているものを見て驚愕します。
ベロニカさんが椅子に座りました。そして持ってきたものをテーブルに置き、固まっているわたしに微笑みかけます。
「これが、宝よ」
ベロニカさんが持ってきた、ファンタジーに出てくるような宝箱を模した玩具を手に取ります。サイズは両手に収まるぐらい。材質はプラスチックで塗りはところどころ甘く、正直とても安っぽいですが、その安っぽさにリアリティを感じます。小笠原先輩はそういうところは拘らなさそうです。
「大丈夫だと思ったら渡して、って頼まれたの」
ベロニカさんが、テーブルに頬杖をつきました。
「その時は意味が分からなかった。でもあなたたちに会ってよく分かった。若い頃はそれだけで不安定なものよね。二十歳そこそこの頃の少しバランスが崩れたらどうにかなりそうな感じなんて、とっくに忘れていたわ」
「わたしたちはバランスを崩しそうにないから大丈夫、ということですか?」
「いいえ」
はっきりと否定を返されました。ベロニカさんが目だけを動かして、わたしたち全員をざっと見やります。
「バランスを崩して、派手に転んでも、また立ち上がる強さがあると思った。そういうことよ」
温かい言葉が、耳から胸にすとんと落ちました。わたしは宝箱を持つ手に力を込めて、明るく返事をしようとします。
「ありが――」
「あ、そうだ。もう一つ伝言」
出鼻をくじかれました。黙るわたしを意に介さず、ベロニカさんはマイペースに話を進めます。
「宝箱を開ける時のシチュエーションには気をつけて、だそうよ」
「シチュエーションですか?」
「そう。あの子の考えではその宝箱を開けるとエンディングらしいの。だから帰りの電車の中とかじゃなくて、エンディングを迎えるのに相応しい場所で開けて欲しいみたい」
「相応しい場所……」
わたしの頭の中に、一つの候補がパッと浮かびました。宝箱をテーブルに置き、安木先輩、船井先輩、長野先輩を順番に見やって息を吸います。
「皆さん」
わたしは右腕を上げ、朝日を受けて輝く海をガラス戸越しに指さしました。
「海、行きません?」
砂浜に立ってすぐ、ここを選んで正解だと思いました。
目覚めたての太陽が青空の低い位置に浮かんでいて、波立つ大海原に光の欠片をまき散らしています。夜は空が輝いていて海は静かでしたが、今は逆です。あの星々が全て彗星となって流れ落ちても絶対に足りない量の輝きが、水面をキラキラと埋め尽くしています。
「エンディングにはちょうど良さそうだね」
長野先輩がしみじみと呟きました。船井先輩がひとさし指で空を示し、そのままその指を垂直に下ろしていきます。
「こう、スタッフロールが流れてきそうだよな」
「そうだね」
「そんで俺らは砂浜を走って」
「それは分かんない。何そのイメージ。アニメとか?」
「いきなりハシゴ外すなよ」
「分かんないものは分かんないんだからしょうがないでしょ」
いつもの下らない言い争いが始まりました。宝箱を抱えてどうしたものかと立ちすくむわたしに、安木先輩が声をかけてきます。
「洋楽でも流そうか?」
「……どうしてですか?」
「宝箱を開けるきっかけが掴めないんだよね。だったら何か区切りのあるものを使って合図にすればいい。この場合、雰囲気のある洋楽を流して終わったら開けるのが綺麗かなと思って」
AのためのBのためのC。みんながみんなであることが嬉しくなり、わたしは笑ってしまいました。そして顔を上げて海を見やり、高らかに宣言します。
「開けます」
船井先輩と長野先輩の口論が止まりました。わたしの手元に三人分の視線が集まります。わたしは宝箱の蓋に手をかけて、ゆっくりと上に引っ張りました。
宝箱が開きます。紫色のクッションが敷き詰められた上に、四つ折りの紙が置かれています。紙を手に取り、宝箱を砂浜の上に置いて、後ろから見ているみんなに見えるようにしながら震える手で紙を開きます。
背後から、誰のものか分からない盛大なため息が聞こえました。
『おめでとう! ここまで辿り着いた友情が君たちの宝だ!』
「……っざけんな!」
船井先輩が砂浜に右足を叩きつけました。そして砂浜に座ってがっくりと肩を落とし、長野先輩と安木先輩もその両脇に腰を下ろします。三人とも、昨日の試練にかけた労力を一気に思い出したように、疲れ切った顔をしていました。
「何がシチュエーションに気をつけろだよ。これならどこでも一緒だろうが」
「いや……電車でこれ出てきたらヤバいでしょ。どうすんのよ、この脱力感」
「僕は正直こんなものじゃないかなとは思ってたけど……こんなものであって欲しくはなかったよね」
三人が口々に小笠原先輩の文句を言い合います。わたしは小笠原先輩をフォローしたい気持ちはありつつ、みんなが文句を言いたくなる気持ちもわかるのでひたすらに戸惑いました。とりあえず紙をまじまじと眺め、最初に目にしたメッセージ以外は何も記されていないことを改めて確認し、紙を畳み直して砂浜から拾い上げた宝箱に戻そうとします。
突風が、わたしの手から宝箱を落としました。
「あっ!」
千円以下で買えそうな玩具の宝箱とはいえ、小笠原先輩が遺してくれた大切なものです。わたしは慌てて宝箱を拾い上げようとしました。落とした拍子に中から飛び出したクッションをつまみ、宝箱に戻そうとして――
「――えっ?」
宝箱を抱えて固まります。長野先輩が「どうしたの?」と言って立ち上がり、宝箱を覗いてわたしと同じように固まりました。船井先輩と安木先輩もわたしのところに寄ってきて、言葉を失い立ちすくみます。
『誕生日おめでとう』
メッセージの書かれたポストカードと、サイズ差のあるシルバーリングが二つ。左手で宝箱を支えながら右手で小さい方のリングを摘まみ上げると、内側にわたしのイニシャルが刻んであるのが見えました。大きい方はどうか。わざわざ、確認するまでもありません。
「そっか、誕生日だったね。おめでとう」
長野先輩がお祝いの言葉をくれました。安木先輩がポツリと呟きます。
「これ、弟くんは宝がプレゼントだって知ってたね」
「だろうな。一日で試練を全部クリアして、ドンピシャ誕生日になったのはたまたまだろうけど、さすがにタイミングが良すぎるわ」
船井先輩が腕を組んで頷きます。長野先輩が横から宝箱を奪い取り、わたしの左手をフリーにしました。
「指輪、嵌めてみたら?」
促されるまま、シルバーリングを左手の薬指に合わせます。リングはぴったりと指に嵌りました。まるで生まれた時から身に着けていたみたいな金属の輪を前に、わたしはベロニカさんの言葉を思い出します。
――大丈夫だと思ったら渡して、って頼まれたの。
海に身体を向けます。左手を水平に突き出し、指を大きく開きます。薬指と小指の間に見える太陽の光を受け、キラキラと輝くリングを眺めながら、海風を胸いっぱいに吸い込みます。
大丈夫。
わたしは、大丈夫です。
「おがさわらせんぱーーーーーーーい!」
お腹にグッと力を入れ、わたしは、水平線に向かって大声で叫びました。
「シェイシェ――――――――――――イ!!」
肺の中の空気を全て使い果たすまで、ずうっと声を出し続けます。使い果たした後は両腕を大きく広げ、背中から後ろに倒れ込みます。船井先輩が倒れたわたしを覗き込んできました。
「なんで中国語なんだよ」
「最後の言葉がそれだったんです」
「……マジで?」
「あいつ、ほんと……」
長野先輩が額に手をやりました。砂の混ざった風に顔を撫でられ、わたしは目をつむります。再びまぶたを上げたわたしの目に映った空は、どこまでも限りなく澄んでいて、このまま空を泳いで飛んでいけるような、そんな気がしました。