左手でブリッジを作り、ビリヤード台のラシャの上に乗せます。

 ブリッジの上にキューを置きます。右腕のひじから先だけを動かして、キューを前後に素振りします。白い手玉にキューの先端を近づけたり遠ざけたりしながら、いつか小笠原先輩から言われたアドバイスを頭の中で反芻します。

 ――身体がブレたらダメだからね。

 キューを前に撞き出します。キュー先に押された白い手球が、狙っていた九番の球にぶつかります。球はそのまま一番近いコーナーポケットに――入りません。クッションにぶつかってよたよたと勢いを落として止まり、手球はその傍で止まり、コーナーポケットと九番の玉と手玉が近距離で一直線に並びます。

 はあ。

 ため息をつき、わたしは台の近くの長椅子に腰かけました。代わりに長野先輩が立ち上がり、こつんと撞いた手球で九番の球をコーナーポケットに押し込みます。これでナインボール五連敗。長野先輩が戻ってきて、わたしの隣に座りました。

「調子悪いね」
「いつもこんなもんですよ」
「そうかな。まあ――」

 長野先輩がビリヤード場をざっと見渡しました。隣の台で撞いている船井先輩と安木先輩も含め、サークルの人たちを一通り眺めて呟きます。

「『みんなこんなもん』なら、そうかもって気はするけど」

 さっきのわたしと同じように、船井先輩が簡単な九番を外しました。船井先輩は普通に上手いので凡ミスは目立つのですが、その凡ミスを目にする機会が近ごろは明らかに増えています。理由は何なのか。考えるまでもありません。

 小笠原先輩のお葬式から、およそ一ヵ月が経ちました。

 大学は春休みに入り、サークルの活動日にビリヤード場に出向く以外、わたしはほとんど外出をしていません。そのビリヤード場に出向くのもそれなりに無理をしています。今動かないと一生動けなくなりそうな気がする。そういう気持ちでどうにか足を運んでいます。

 それはきっと、わたしだけではないのでしょう。長野先輩も普段ならミスしないような配球をよくミスしています。ただ、わたしの方がより調子が悪いので、わたしとやっているうちは結果に表れないだけです。今、隣の台で船井先輩をボコボコにしている安木先輩も、似たようなものなのだろうと思います。

「もうすぐ誕生日だよね」
「はい」
「パーッと派手に遊ぼうか。船井と安木も一緒に」
「……そうですね」

 前向きな返事を、後ろ向きな態度で返します。そんな気分ではない。でも、無理にでもそんな気分を作らなくてはいけないことも分かっている。そういうわたしの気持ちを察して、長野先輩は何も言わずに黙ります。

 ブー。

 長椅子の傍にある小さなテーブルの上で、わたしのスマホが震え出しました。わたしよりテーブルの近くに座っている長野先輩がスマホを見やり、驚いたように目を見開きます。わたしはその反応を不思議に思いながらスマホを手に取り、そして、長野先輩と同じ顔をしてしまいました。

「……連絡取ってたの?」

 長野先輩が小声で話しかけてきます。わたしは無言で首を振り、とりあえずビリヤード場の外に出ました。わたしたちのサークルが活動のために使っているビリヤード場は、何の変哲もない雑居ビルの一画にあります。出てすぐ傍にある階段を上りながら通話を繋ぎ、埃っぽい踊り場で足を止めて話し始めます。

「はい」
「俊樹です」

 ディスプレイに映っていた名前通りの名乗りが、わたしの耳に届きました。

「今、大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。どうしたの?」
「兄貴の遺書が見つかりました」

 遺書。

 ちゃんと聞こえたのに、危うく聞き返すところでした。耳にした音で正解かどうか確かめたくなった。わたしにとってそれぐらいに突拍子のない台詞だったのに、俊樹くんは平然と語り続けます。

「兄貴の部屋を整理していたら出て来ました。本当はもっと早く渡すべきだったと思うんですけど、発見が遅れてしまって……すいません」
「待って。渡すってことは、わたし宛なの?」
「いいえ。皆さん宛です」
「皆さん?」
「僕以外の、結婚式のサプライズ動画を作った人たちです」

 結婚式のサプライズ動画を作った人たち。つまりわたしと、船井先輩と、長野先輩と、安木先輩です。

「あの動画と何か関係あるの?」
「いえ、そういうことじゃなくて、あの四人宛だというのを僕が説明しやすく言い換えただけです。もちろん開けていないので、動画関係の何かかが書いてある可能性もありますが」
「そっか。それならもっと個人的な内容だね」
「……そうとも考えにくいんですよね」

 俊樹くんが思わせぶりに呟き、声量を少し上げました。

「もしかして、四人宛に四通の遺書が見つかったと思っていませんか?」
「そうだけど、違うの?」
「違います。見つかったのは、四人宛に一通の遺書です」
「四人宛に一通?」
「はい。だから、個人的なことは書きにくいと思うんです。封筒で見つかっているので、もしかしたら皆さんそれぞれ宛の遺書が中にあるのかもしれませんけど、だったら四つ封筒を作ると思いますし……」

 一人一人に向けてではなく、四人相手にまとめて遺された手紙。わたしはその意味を考え、そしてすぐに諦めました。小笠原先輩のやることです。考えたところで分かるわけがありません。

「とにかく、そういうわけなので、皆さんでうちに遺書を取りに来て欲しいんです。なるべく早くがいいと思うんですけど、次の土曜とかどうですか?」
「わたしはいいけど……他のみんなは分からないよ」
「了解しました。ではそちらで相談して決まったら連絡してください。父も居た方がいいと思うので、なるべく休日でお願いします」
「うん。分かった。色々ありがとう」
「いえ。こちらこそ、ありがとうございました。では」

 通話が切れました。わたしはすぐには動き出さず、ビリヤード場に戻ってからみんなに話すべきことを脳内でまとめます。小笠原先輩の遺書が見つかった。遺書はわたしたち四人宛。四人で遺書を取りに小笠原先輩の家に出向かなくてはならない。訪問の日程を決めなくてはならず、その日はなるべく休日に――

 ――次の土曜とかどうですか?

 無意識に「あ」と呟きが漏れました。急いでスマホのカレンダーを開き、次の土曜の日付を確認します。やっぱり、そうでした。大学の春休みのせいで曜日感覚がなくなっていて、すぐに気づけませんでした。

 次の土曜。

 わたしの誕生日の、前の日です。