新年を迎えても、小笠原先輩はまだ退院していませんでした。
元旦は、船井先輩、長野先輩、安木先輩と初詣に行きました。訪れた神社は混んでいて、参拝の列に並んでからお参りをするまで一時間近くかかりました。「これだけ待ったんだから御利益あるだろ」。そう呟く船井先輩の言葉を信じ、わたしは奮発して財布から五百円玉をお賽銭箱に投げました。そして柏手を打って目を閉じ、ただ一つのことを願い続けます。
小笠原先輩が退院しますように。小笠原先輩が退院しますように。小笠原先輩が退院しますように。小笠原先輩が退院しますように。小笠原先輩が――
「行くよー」
長野先輩に声をかけられ、わたしはまぶたを上げました。いつの間にか離れていたみんなに合流し、ぞろぞろと連れ立って歩きます。寒さから首をすくめてマフラーに顎を沈めるわたしの前で、船井先輩と長野先輩が神社の社務所を見ながら会話を始めました。
「ねえ、何か賭けておみくじ勝負しない?」
「いいけど、何賭けるんだよ」
「スタバ」
「分かった。安木も参加な」
船井先輩に話を振られた安木先輩が、ちょっと不機嫌そうに眉根を寄せました。しかし反論はせず、わたしの方を向いて口を開きます。
「やる?」
「じゃあ、やります」
流れで話に乗っかり、みんなでおみくじを引くことになりました。社務所の巫女さんに百円を払って六角柱の箱を振り、出て来た棒に書いてある番号の棚から折り畳まれた紙を取り出します。全員で集まって引いたおみくじの紙を開くと、船井先輩が顔をしかめて「げ」と呟き、その呟きをすさかず長野先輩が拾いました。
「船井、どうだった?」
「……お前は?」
「中吉。まあ良い方でしょ」
長野先輩がおみくじをみんなに見せつけました。そして分かりやすく怯んだ船井先輩への追撃はあえてせず、安木先輩に話を振ります。
「安木はどうだった?」
「吉」
安木先輩が縦長のおみくじを掲げました。一縷の望みを託してこちらを見つめている船井先輩の視線を感じながら、わたしはおずおずと自分のおみくじをみんなに向かって広げます。
「大吉です」
「おー、すごーい」
長野先輩が手袋をした両手を叩き合わせ、船井先輩を見やりました。船井先輩が盛大に白い息を吐き、投げやりに自分のおみくじを掲げます。
「凶だよ」
「あちゃー、ドンマイ」
「ありえないわ。もう一回引く」
「止めとけば。去年の小笠原みたいになるよ」
「去年、何かあったんですか?」
気になる言葉が耳に入り、わたしは口を挟みました。長野先輩がしまったという感じで目を泳がせます。そして船井先輩に視線で救いを求め、船井先輩は要請に応えて億劫そうに話し始めます。
「去年、小笠原も凶を引いたんだよ。そんでありえねーって言って、もう一回おみくじ引いて、また凶だったの」
――ああ、そういうことか。話を聞いて、船井先輩と長野先輩が気まずそうにしていた意味が分かりました。その二連続の凶が今に繋がっていると意識してしまったのでしょう。そしてわたしにも意識させてしまうと思った。
「まあ、でも俺は引かねえから。見てろよ」
「あ、待ってください。わたしも引きます」
声をかけます。船井先輩がきょとんとわたしを見やりました。
「大吉だったなら別に良くない?」
「でも小笠原先輩は二連続で凶を引いちゃったんですよね。じゃあわたしも二連続で大吉を引かないと相殺できないじゃないですか」
船井先輩が固まりました。わたしはにこりと笑ってみせます。
「思いついたことはやっておきたいんです。後悔したくないので」
やれることはやる。小笠原先輩を見て学んだことを口にします。船井先輩が観念したように肩をすくめました。
「じゃ、行こうか」
「はい」
二人でまた社所に行き、さっきと同じようにおみくじを引きます。折りたたまれた紙を持って長野先輩と安木先輩のところに戻ると、安木先輩が「開けてみなよ」と声をかけてきました。安木先輩なりに背中を押してくれたのかもしれません。
ゆっくりとおみくじを開きます。大吉じゃなかったらどうしよう。凶だったらどうしよう。悪い予感で指が震え、紙を落としてしまいそうになります。
「あ」
おみくじが完全に開き、わたしは思わず声を漏らしてしまいました。船井先輩たちがわたしの手元を覗き込みます。
冬の乾いた空気を、船井先輩の大声がビリビリと揺らしました。
「おおおおおお!」
大吉。わたしはほっと胸を撫でおろしました。長野先輩が「船井、うるさい」と言い捨てて、わたしの背中にポンと手を乗せます。
「やるじゃん」
「やりました」
「小笠原、退院できるといいね」
「できますよ」
わたしは断言しました。長野先輩がグロスで光る唇を小さく歪めます。そしてわたしの背中から離した手をコートのポケットに入れて、船井先輩に声をかけました。
「船井はどうだったの?」
「これから開ける。見とけよー」
みんなに見えるように、船井先輩がおみくじを開き始めます。縦長のおみくじが横向きに開かれ、文字が記号のようにわたしの目に飛び込んできました。わたしたち全員の視線が船井先輩の右の指近く、おみくじの頭の部分に集まります。
船井先輩が、さっきのわたしと同じ呟きを漏らしました。
「あ」
「で、また凶だったんだ」
ベッドの上で小笠原先輩が含み笑いを浮かべます。オチが分かっていても笑えるのでしょう。わたしも笑いながら期待通りの答えを返します。
「はい。写真撮りましたけど、見ますか?」
「見せてー」
小笠原先輩がわたしの方に顔を寄せて来ました。わたしは凶のおみくじを二枚撮って並べた写真をスマホに映し、小笠原先輩に見せます。小笠原先輩が声を上げて笑い出し、病室がにわかに明るい雰囲気で満ちました。
「待ち人『来ず』二連発いいね。どんだけ来ないの」
「それ、わたしたちの間でも話題になったんですけど、今年は就職活動なので内定通知が来ないんじゃないかって話になりました」
「笑えねー」
笑えないと言いながら、小笠原先輩がまた盛大な笑い声を上げました。何にせよ楽しそうで良かったです。凶を二連発で引いてくれてありがとうございますと、わたしは心の中で船井先輩に感謝の意を示します。
「さすがにもう一回は試さなかったんだ」
「はい。次は洒落にならない気がするって言ってました。小笠原先輩も去年、三回目は引かなかったんですよね?」
「だってなんか二回も凶引いちゃうと、一回いいの引いたぐらいじゃ挽回できなさそうじゃん。でもあと二回引くのはめんどくさいから止めた」
小笠原先輩が背中をベッドに沈めました。枕に頭を乗せて、小笠原先輩が天井を見つめながらポツリと呟きをこぼします。
「神社ってさ、仏教だよね」
意味が分かりません。とはいえ、小笠原先輩がいきなり意味不明なことを言い出すのはいつも通りです。わたしは淡々と答えます。
「そうですね」
「仏教の地獄がエグイの知ってる?」
「そうなんですか?」
「めっちゃたくさんあって、一ステージの難易度もやりすぎ。しかも簡単に地獄に送られるんだよね。蚊を潰したらアウトとか、そのレベル」
「蚊も?」
「そう。でもそれは俺も疑ってるけどね。さすがにもっと条件あるでしょ」
「死後の世界の存在は疑わないんですか?」
「それ疑ったらつまんないじゃん」
小笠原先輩がふわあと一つ欠伸をして、うっすらと涙を目に浮かべました。
「この前、俺は死んだら天国に行くのか地獄に行くのか考えてさ」
急に重たい話が始まりました。そんな話でも小笠原先輩は、へらへらと笑いながら語っています。
「俺、天国に行けるような良いことはしてないけど、地獄に行くほど悪いこともしてないんだよね。だから天国と地獄の中間に行くと思うの。中国。でさ『蜘蛛の糸』って話あるでしょ。天国から地獄に救いの糸を垂らすやつ。あの糸、天国から地獄に垂れてるってことは、中国も通ってるわけじゃん」
小笠原先輩がひとさし指を天井に向けました。そして空中に見えない線を引くように、指先をつうと自分の胸に落とします。
「そうなったら俺は、中国に不満はなくても『なんか垂れて来た!』と思って糸を登っちゃうと思うんだよね。そしたらさ、あの糸、切れるでしょ。糸につかまってた人たちはみんな地獄に行っちゃうでしょ。中国にいた俺も勢い余って地獄まで行っちゃうでしょ」
寝転がったまま首を曲げて、小笠原先輩がわたしの方を向きました。ガリガリに痩せた頬にしわが寄ります。
「たぶん俺って、そういうやつ」
そうですね、とは言えませんでした。だけど天国にも地獄にも行かないで欲しいとも言えません。「覚悟しない覚悟」はわたしのもの。小笠原先輩に押し付けたくはありません。
「せめて、中国には居続けて下さいよ」
小笠原先輩が悪戯っぽく唇を吊り上げました。そしてまた天井を仰ぎ、遠い目をして口を開きます。
「ねえ、買ってきて欲しいものがあるんだけど、いい?」
「なんですか?」
「一緒に映画を観に行った漫画あるじゃん。あれの最新刊が今日発売だから、本屋まで行って買ってきてくれないかな」
「いいですよ。分かりました」
わたしは椅子から立ち上がり、ラックの上のハンドバックを手に取りました。小笠原先輩がわたしに向かって笑います。
「謝謝」
わたしは小笠原先輩に笑い返しました。そして「行ってきます」と言い残して病室を出ます。スマホで近くの本屋を調べると、どうも本屋は駅まで戻らないとないらしく、わたしは病院の売店で温かいコーヒーを買ってから外に出ることにしました。
病院の外に出るなり、凍えるような寒さに襲われ、わたしは首をすくめてコートの襟を立てました。
マフラーをきつめに巻き直して歩きます。まだお正月休み中だからか街を行き交う人々は家族連れが多く、あちこちから寒さをものともしない元気な子どもの声が聞こえてきました。わたしも昔はああだったなあと思いながら、売店で買った缶コーヒーを少しずつ飲んで手と身体を温め、ゆっくりと先に進みます。
飲み終えた缶コーヒーをゴミ箱に捨ててすぐ、駅前の本屋さんに着きました。わたしも何か本を買おうかなと考えながら、コミックス売り場に向かいます。映画になるほどの人気作の最新刊です。どうせ平積みされているに決まっている。そうタカをくくって、大した注意力も払わずに棚を見て行きます。
しかし、見つかりません。
コミックスのエリアを二周したところで、さすがにおかしいと思いました。既刊の並べてある棚で足を止めて、置いてある一番新しい巻を手に取ります。十七巻。初版は三か月前です。
――売り切れちゃったのかな。
わたしは十七巻を持ったまま、レジに向かいました。そして空いているレジにいた若い女性店員に話しかけます。
「あの、すいません」
「どうしました?」
「これの最新刊って、どこにありますか?」
十七巻を差し出します。店員さんが「ああ」と小さく頷きました。
「これなら発売日は来週ですよ」
「来週?」
「はい。来週の水曜日には入荷していると思います」
店員さんがにこりと微笑みました。わたしは「そうですか」と呟き、十七巻を持ってきた売り場に向かいます。本を元あった場所に戻してスマホを取り出し、ネットで十八巻の発売日を確認。店員さんの言う通り、発売日は来週です。
ずっと入院しているから、時間の感覚がおかしくなっているのかもしれません。わたしはLINEを開き、小笠原先輩に通話を飛ばしました。しばらく待っても出なかったので、とりあえずメッセージを残しておきます。
『発売日、まだでしたよ』
スマホをコートのポケットにしまい、本屋をぐるりと見て回ります。気になった本をぱらぱらとめくり、文庫本を一冊買って本屋を出る頃には、病院を出てから三十分以上が経っていました。しかし小笠原先輩からの連絡はなく、送ったメッセージに既読すらついていません。
――寝ちゃったのかな。
思い返すと、小笠原先輩はやたら背中をベッドにつけて億劫そうにしていました。疲れているのか、眠かったのか、何にせよあまり調子はよくなさそうです。早めに戻って引き上げた方がいいかもしれません。
歩幅を気持ち大きくして、病院への帰り道を歩きます。途中ちらちらとスマホを覗いてみましたが、病院に着くまで送ったメッセージに既読はつきませんでした。寝ていたら起こさないで帰った方がいいのかななどと考えながら、エレベーターで病室のある階まで上がります。
エレベーターを下りて、小笠原先輩の病室へと向かいます。薄暗い廊下を歩きながらスマホを取り出し、最後にもう一度だけメッセージに既読がついているか確認しようとしていたら、女性の看護師さんがわたしを早足で追い抜いていきました。何かあったのかなと、わたしは顔を上げて看護師さんが進む先を見やります。
わたしは、足を止めました。
小笠原先輩の病室のドアが、開きっぱなしになっています。さっきの看護師さんはその中に飛び込んでいきました。そしてすぐに部屋から出て来て、やはり早足でわたしの横を通り過ぎていきます。
看護師さんの動きに合わせて、薬の匂いがふわりとわたしの鼻に届きました。背中から聞こえる足音が遠くなっていきます。小さくなる足音とは反対にわたしの心臓の鼓動は、どくん、どくんと、際限なく高まっていきます。
わたしは走り出しました。そして小笠原先輩の病室に駆け込みます。ほんの数秒も走っていないのに、やけに呼吸が上がって頭が回らず、聞こえるものや見えるものを整理するのに時間がかかります。
心電図の音。ベッドを取り囲む白衣の人たち。口に呼吸器をつけ、裸の胸に何かの機械を当てられて目をつむっている、ベッドの上の小笠原先輩。
「あなた――」
「何してるんですか!」
わたしは、叫びました。
声をかけてきた看護師さんではなく、ベッドに横たわっている小笠原先輩に向かって叫びました。小笠原先輩は何の反応も返しません。こけた頬を青白くして、まぶたを下ろし続けています。
「そんなのって……そんなのってないじゃないですか! ズルいですよ! ズルい! ズルいです!」
ベッドに歩み寄り、感情の赴くまま言葉を走らせます。何がどうしてズルいのかは自分でも分かりません。ただこんなのはズルいという気持ちだけが、溢れて止まりませんでした。
「最後の言葉、謝謝ですよ!?」
看護師さんがわたしの肩を掴みました。そして何かを話しかけてきました。わたしには聞こえません。看護師さんの姿も、見えてはいません。
「もっと、あるじゃないですか! 言いたいこと、言わなきゃいけないこと、あるはずじゃないですか! わたしはありますよ! 山ほどあります! だから――」
ピー。
無機質な電子音が、頭に滾っていた熱を瞬時に冷やしました。小笠原先輩の胸に機械を当てているお医者さんの姿が見えるようになります。お医者さんと看護師さんが強い口調で交わしている受け答えが聞こえるようになります。何の意味もない、景色や雑音として。
ずっと蘇生行為を続けていたお医者さんが、汗だくの顔を大きく上げました。そしてわたしの方を見て、ゆるゆると首を横に振ります。
わたしは、思いました。
――嘘でしょ。
小笠原先輩のお葬式の日、空は厚い雲で覆われていて、午後からは雪が降る予報が出ていました。
会場には、お父さんお母さんと一緒に出向きました。二人は喪主である小笠原先輩のお父さんと少し話をして、焼香を終えたら帰りました。わたしは告別式が終わるまで葬儀場にいて、火葬場への出棺にもついていきました。船井先輩、長野先輩、安木先輩も一緒です。小笠原先輩のお父さんが許可してくれました。
火葬前の棺に、わたしは思い出の品を何も入れませんでした。俊樹くんは一緒に遊んだゲームソフトを棺に入れて、嗚咽を上げて泣いていました。船井先輩も、長野先輩も、いつも無表情な安木先輩すら涙を流していました。それなのにわたしは、一滴も涙をこぼしていませんでした。
棺が炉に収められた後は、火葬が終わるのを待つために畳張りの休憩室に通されました。火葬場まで同行しているのはほとんど親族の方だったので、わたしや船井先輩たちは浮いていました。わたしたちは部屋の隅に集まり、ぽつぽつと話をしていました。小笠原先輩との思い出や、小笠原先輩とは何の関係もない最近観た映画の感想とかを、主に船井先輩と長野先輩、たまに安木先輩が話し、わたしは話を振られた時以外、言葉を忘れてしまったかのように黙っていました。
そのうち、わたしは「トイレに行ってきます」と言って休憩室を出ました。でもトイレには行きませんでした。みんなとは一緒に居たくなくて、だけどどこに行きたいわけでもなくて、ふらふらと外に出ました。
そして、先に外にいた小笠原先輩のお父さんと目が合ってしまいました。
お父さんは驚いていました。自分が外にいるのに、外に出てきた人間を奇妙に感じるのは、自分自身のことも奇妙だと思っているからです。お父さんもきっとわたしと同じように、何の理由もなく外に出たのでしょう。
「お疲れ様」
お父さんがぎこちなく話しかけてきました。あまりこの場に相応しい台詞だとは思えませんが、そのまま対応します。
「そちらこそ、大変ですよね。お疲れ様です」
「ありがとう。でも大丈夫だよ。いつかこういう日が来るだろうと思って、ずっと前から準備はしていたから」
お父さんの唇から、タバコの煙のように白い息が吐き出されました。
「あの子は、幸せだったと思う」
自分に言い聞かせるように、お父さんが滔々と語り始めます。
「君という人間に会えて、君を愛することが出来て、きっと幸せだった。百年かけたって出会えない人は出会えないものに出会えて、本当に楽しそうだった。あの子の最後を彩ってくれた君に、改めてお礼を言いたい。ありがとう」
お父さんが深々と頭を下げました。わたしはどう反応すればいいか分からず、ぼんやりとお父さんを眺めます。やがてお父さんが背中を起こし、困ったようにぎこちなく笑いました。
「我慢しているなら、泣いてもいいよ」
我慢。わたしは我慢しているのでしょうか。分かりません。
「考えてなかったんです」
思い浮かぶ言葉を、思い浮かぶ端から声にします。
「初めてお見舞いに行った時、覚悟しておいてくれって言っていましたよね。でもわたしは、こうなることをあえて考えてないようにしていました。だから今はぽっかりと空白が生まれて、感情が追い付いていないのかもしれません」
お父さんが「そうか」と呟きました。そして喪服のポケットに手を入れて、いかつい顔を曇天の空に向けます。
「私は、ずっとこの日のことを考えていたよ」
お父さんが目を細めました。眩しいわけがないのに。
「あの子の病気が分かってから、ずっとだ。その時が来たらどう現実を受け止めようかと考えて、元からあまりベタベタした関係は築いていなかったから、それを保つことにした。あの子への態度を変えてはいけない。今より距離を詰めてはいけない。そうやってダメージコントロールのことを考えて、今日まであの子に接してきた」
お父さんの肩が震え始めました。寒さではない。聞いたわけでもないのに、それが分かります。
「でも」
しわの寄ったお父さんの目尻から、大粒の涙がこぼれ落ちました。
「やっぱり……ダメだなあ」
お父さんが両手で顔を覆いました。そして唸り声を上げて泣き始めます。わたしはお父さんが泣き止むまで何も言わず、ただじっと隣に立ち続けていました。
火葬が終わりました。
骨はカラカラに乾いていて、生前の小笠原先輩にあったエネルギーの欠片も感じませんでした。わたしは肩甲骨だと言われた骨を箸でつまんで骨壺に収めました。小笠原先輩の背中に手を回した時の感触を思い返しましたが、あの時に触れていた骨が今つまんだそれだとは、どうしても思えませんでした。
骨が全て骨壺に収まり、今日の儀式は終了しました。船井先輩たちと火葬場を出て帰路に着きます。駅に到着して、まず逆方向に帰る安木先輩と別れました。それから電車に乗って少し進み、乗り換え駅でわたしだけが降りて、船井先輩、長野先輩と別れました。
改札を出て、違う路線の改札に向かいます。歩いている最中、駅の構内にある韓国料理店の看板が目に入りました。お肉と野菜をたっぷり入れた赤い汁が鍋の中でグツグツと煮えている写真を見て、ふっと小笠原先輩の言葉を思い出します。
――キムチ鍋好きだから、作り方調べといて。
わたしは、くるりと踵を返しました。
歩いてきた道を戻り、元の路線の電車に乗り直します。そして別の駅で別の路線に乗り換えます。わたしは何をしているんだろう。馬鹿なんじゃないか。わたしの中の冷静なわたしはそう諭してきますが、目指していた駅に到着して綺麗さっぱりいなくなります。
駅前のスーパーに入ります。豚バラと、白菜と、長ネギと、ニラと、えのきと、お豆腐と、キムチ鍋の素を買います。喪服を着て、左腕に黒いハンドバックを、右腕に長ネギのはみ出たスーパーの袋を提げた自分の姿がスーパーのガラスに映り、ひどくアンバランスで滑稽に見えました。だけどその滑稽さが、今の自分に合っているような気もしました。
スーパーを出て、住宅街に入ります。空からちらちらと雪が降って来て、「ちょうどいいな」と思います。雪が降るぐらい寒い日に食べるお鍋は美味しいものです。
マンションに着きました。
ポストを覗かずに、部屋まで行きます。玄関のドアを開けて「ただいま」と呟き、パンプスを脱いで廊下に上がると、タイツ越しに床を踏む感触で足がこちこちに固まっていることに気づきました。喪服ではブーツを履けなかった影響が出ています。アウターも黒いものがなくて合わせられなかったから、身体もきっと凍っているのでしょう。どうでもいいです。
リビングに入って電気を点け、スーパーの袋をキッチンスペースに置きます。それからハンドバックをカーペットの上に置き、暖房をオンにしてからキッチンスペースに戻ります。包丁とまな板と大きなお皿を用意して、買ってきた鍋の具材を切ってお皿に入れていきます。
具材を切り終えたら、去年のうちに家から移しておいたお鍋を取り出し、水とキムチ鍋の素を入れます。そして最初からマンスリーマンション用の家具として用意されていた電気コンロをリビングに運び、食卓にしているローテーブルの上に置いて電源を入れ、さらにその上に赤い水の入ったお鍋を乗せます。
取り皿と箸と具材をローテーブルに乗せ、おたまをお鍋の中に入れます。水がグツグツと煮えて来たところでニラ以外の具材を加えます。具材の煮え具合を確かめながらおたまでお鍋をかき混ぜ、いい具合になったところでニラを入れ、少し待ってから取り皿にキムチ鍋の汁と具材を取り分けます。
「いただきます」
正座して、両手を合わせます。お鍋から立ち上る煙の向こうに、口をもぐもぐと動かして豚肉をほおばる小笠原先輩が見えました。
「うまーい。やっぱ冬は鍋だね」
「ですよね」
「今度、船井くんたちも呼んで闇鍋やろうよ」
「闇鍋……」
「イヤ?」
「変なもの持って来そうだなあって思って」
「大丈夫。ちゃんと食べられるもの持ってくるから」
「例えば、蛙は食べられるものですか?」
「食べられるものでしょ。俺、食べたことあるよ」
「分かりました。闇鍋は止めましょう」
「えー」
ゴポッ。
お鍋から汁が吹きこぼれました。わたしは電気コンロに視線を落とし、ヒーターの火力を最低に下げてから前を向きます。小笠原先輩はいません。電源の入っていないテレビのモニターと、テレビの台の端に置かれたサボ太郎を眺めてから、取り皿によそった白菜を口に運びます。
「……おいしー」
よく噛みます。顎が上下する動きに押し出されるように、涙が目からあふれ出します。白菜を飲みこみ、箸を取り皿の上に置いて、両腕をだらりと下げます。
「……引いたじゃん」
テレビ台の上のサボ太郎を見つめ、わたしは、泣きながら叫びました。
「大吉、二回、引いたじゃん!」
分かっていました。
小笠原先輩がいなくなることも、わたしの誕生日を祝えないことも、本当はずっと分かっていました。小笠原先輩が倒れたのは、お正月に連続で凶を引いたからではない。わたしがお正月に連続で大吉を引けば、小笠原先輩の病気が良くなるわけでもない。それが分からないほど、わたしは子どもではありません。
覚悟しない覚悟なんて、嘘です。日に日にやせ細っていく小笠原先輩を目の当たりにしながら、小笠原先輩のいない未来を少しも想像しないなんてできません。わたしはわたしを騙していました。いなくなってしまった後も自分を騙し続けて、現実を受け入れられないほどに。
立ち上がり、キッチンに向かいます。冷蔵庫の扉を開け、中を覗いて、小笠原先輩の誕生日パーティからずっと残っている缶ビールを取り出します。十月から三ヶ月放置された飲み物。わたしは十八歳の未成年。そういう懸念事項を全て放り投げ、缶を開けて中身を勢いよく喉に流し込みます。
苦味の詰まった炭酸水が、食道を通って胃に落ちます。本当に、全く、びっくりするぐらい美味しくありません。こんなものをありがたがって飲んでいる先輩たちは全員バカなんじゃないか。そう思いながら、休むことなくビールを煽り続けます。
「……あー」
頭がぼうっとしてきました。わたしはビールの缶を持ったままテーブルに戻り、今度はお鍋の具を食べながらビールを飲みます。ビールの苦みが辛い汁の染みた具材の味を引き立て、いい具合に食事が進みます。なるほど。こういうものなのね。なるほど。なるほど――
――俺たち、両想いでしょ?
アルコールに酩酊する頭の中で、思い出が細切れになって再生されます。サークル潰しの後、レンタカーの中でかけられた言葉。あれから小笠原先輩の運転で海に行って、海鮮丼を食べて、夕焼けの海を見て、戻って、船井先輩にとんでもなく怒られました。いい思い出です。
――俺たちがお似合いの二人だってこと、みんなに見せつけてやろう。
結婚式の日、控え室でかけられた言葉。あの式に出た人たちは、わたしたちをお似合いの二人だと思ってくれたでしょうか。とりあえず来賓客の方は小笠原先輩の関係者だらけで、会う人会う人から「まだ間に合うから全力で逃げろ」みたいなことを口々に言われました。いい思い出です。
――好きだから、抱かせて欲しい。
小笠原先輩の誕生日パーティの後、この部屋でかけられた言葉。後になって聞いたところ、小笠原先輩もベッドに入って毎回即座に寝つくのはさすがに無理があると思っていたそうです。それでもわたしが何も言ってこないから、人を信じすぎてはいけないと教えるかどうか本気で悩んだとのこと。いい思い出です。
記憶の再生が止まりません。あれも、これも、全て、何もかもいい思い出です。一つぐらい、本当にどうしようもない思い出があってもいいのに。いいことばかりではなかった。それでも亡くなった人を悪く言いたくはない。だから飲み込んで、水に流そう。そう思えるものが一つでも、たった一つでもあれば、わたしはこんなにもめちゃくちゃにはならないのに。
「……なんで」
箸をお鍋の中に入れます。ごっそり取れた白菜とネギの塊を口に突っ込み、ビールで食道に流し込みます。
「なんで! なんで! なんで!」
ボロボロ泣きながら声を上げます。理由なんてない。分かっています。分かっていて、叫び続けます。
「なんでよお……」
お豆腐、ネギ、えのき、豚肉、またネギ。次から次へとお鍋を食べ進めます。涙と湯気とアルコールで視界がぼやける中、小笠原先輩の幻が「落ち着きなよ」と楽しそうに笑いました。
眠っています。
目の前は真っ暗で、身体はぴくりとも動かない。それが眠っているからだというのが、眠っているはずなのに分かります。不思議な感覚です。そういう夢を見ているのかもしれない。そんなことをうっすらと考えます。
「――」
誰かと誰かの話し声が聞こえて、全身がふわりと浮きます。どうやら、運ばれているようです。わたしの背中を下から支えている誰かの腕から体温が伝わります。少しずつ五感が戻ってきていて、目覚めが近いのが分かります。あるいはもう目覚めているのかもしれません。
背中が柔らかいものの上に乗せられました。ベッド。そしてその後にかけられる布団。身体がぽかぽかと温かくなって、意識がまた沈んでいきます。自分と世界の境界線がなくなり、暗くて深い闇の中に自我が溶けていきます。
頭を撫でられます。
優しい手つき。大きくて、温かい手。まだうんと小さい頃、お父さんやお母さんに撫でられていた時の気持ちを思い出します。あなたを愛している。あなたは愛されている。だから、安心して。そう言われているような気分になります。
ありがとう。
声にならない声でそう伝えます。手がわたしの頭から離れました。顔を見なくても笑っていると分かる穏やかな声が、暗闇の中に響きます。
「バイバイ」
目が覚めて、わたしはまず靄のかかった頭で現状を整理しました。
喪服を着て、マンションのベッドで眠っていた。そこまでを認識して、次にどうしてそうなったのかを思い出そうとします。小笠原先輩のお葬式に出て、帰りにマンションに寄って、一人でお鍋を作って泣きながら食べて、泣き疲れてソファの上で眠った。その流れを思い出して、あれとおかしなことに気づきます。どうして寝室に移動しているのでしょう。分かりません。
ベッドを出て、寝室からリビングに移動します。リビングに入ってすぐ、わたしはだいたいの事態を把握しました。ソファで横になっている長野先輩。床のカーペットの上に寝転がっている船井先輩と安木先輩。三人とも喪服ではなく、私服です。
「……ん」
長野先輩が起きました。ソファの上で大きく伸びをしてから、わたしに話しかけてきます。
「おはよう」
「……おはようございます」
「どういう状況か分かる?」
「わたしが帰ってこないことを心配したお父さんかお母さんが、小笠原先輩のお父さんに連絡して、捜索が始まって、みんながここにいるわたしを見つけたって感じでしょうか」
「ほぼ正解。でも温度感は違うかな。私たちに連絡をくれたのは俊樹くんだから又聞きにはなるんだけど、お父さんお母さんは心配したとかいうレベルじゃなくて、後を追ったんじゃないかって大騒ぎだったらしいよ。帰ったらちゃんと謝って」
わたしは「はい」と頷きました。長野先輩が並びの良い歯を見せて笑います。
「とりあえずこれ、片付けちゃうおうか」
長野先輩がテーブルに置いてあるお鍋を見やりました。よく見ると周りにお皿が増えていて、お酒の空き缶も大量に乗っています。先輩たちが鍋パーティをしたのでしょう。お鍋には買った記憶のないシイタケも浮かんでいるので、どうやら具材まで追加したようです。大騒ぎになったと言いながら結構楽しんでいることに、やや腑に落ちないものを感じます。
後片付けを始めてすぐ、安木先輩が目を覚ましました。「大丈夫?」「大丈夫です」。それだけの言葉を交わして後片付けに加わります。そして最後に船井先輩が起き、ふわあと豪快なあくびをしてから、洗い物するわたしに話しかけてきました。
「おはよ。昨日はよく眠れた?」
「そこそこです」
「喪服はクリーニングに出した方がいいよ。ベッドに運ぶぐらいはやらせて貰ったけど、着替えさせるのはさすがに無理だったわ」
「いいですよ。朝起きてパジャマだったら逆になんかイヤですし」
「だよね。ところで、なんでいきなり一人鍋なの? 意味不明なんだけど」
「ええっと……」
矢継ぎ早に繰り出される言葉への対応に戸惑います。洗い終わった食器を拭いていた安木先輩が手を止めて、話に割って入ってきました。
「船井くん、コンビニでホットコーヒー四人分買ってきて」
「え?」
「船井くんは発言が危ういから、とりあえずこの場を離れてもらいたい。でも何の役割も与えないのもそれはそれで居心地が悪い。だったら、買い出しにでも行ってもらおうかなと思って」
お前はデリカシーがないから去れ。そういう言葉を安木先輩特有の遠回しな言い方で――あるいは、直接そう言われるより抉るように――伝えられ、船井先輩がぽかんと呆けました。食器を棚にしまっていた長野先輩が口を挟みます。
「私はカフェオレでお願い」
「……わーったよ」
船井先輩が口を尖らせ、キッチンスペースを離れようとしました。わたしは慌てて声をかけます。
「船井先輩、ちょっと待ってください」
「なに? コーヒーじゃないやつがいい?」
「コーヒーでいいです。そうじゃなくて、わたしをベッドに運んだのは船井先輩なんですよね?」
「そうだよ」
「ベッドにわたしを寝かせた後、頭を撫でませんでした? あの時のわたし、半分寝ながら半分起きてる感じで、なんか撫でられた気がしたんですけど」
船井先輩がぎょっと目を剥きました。逆に長野先輩は、まぶたを軽く閉じてじっとりとした視線を船井先輩に送ります。
「そんなことしたの?」
「してねえよ! するわけねえだろ!」
「本当に? やってたらマジでドン引きなんだけど」
「運ぶ時だって変なとこ触らないように気をつけてたっつーの!」
船井先輩が助けを求めるようにわたしを見やります。わたしは、笑いました。
「なら、良かったです」
洗い物に戻ります。船井先輩と長野先輩が言い争いを続ける声を聞きながら、洗剤をつけたスポンジでお皿を撫でます。久しぶりに、本当に久しぶりに、心の底から笑えた気がしました。
船井先輩が買ってきたコーヒーを飲み終えた後、自然とみんなでマンションを後にする流れになりました。
帰る時、わたしはサボ太郎を家に持って帰ることにしました。小笠原先輩はもういない。マンションは引き払うから自分の物を運び出さなくてはならない。その運び出す物の一つ目に、サボ太郎を選びました。サボ太郎に「いい?」と声をかけ、返事はありませんでしたが良さそうだと勝手に思ったので、船井先輩がサボ太郎を運んできた時から捨てずに取っておいた紙袋に入れてやりました。
みんなで駅に向かって歩きます。駅に着き、改札を抜けてすぐ、安木先輩だけが逆方向なので別れることになりました。わたしたちから身体を背け、安木先輩が淡々と言い放ちます。
「それじゃ」
船井先輩、長野先輩とホームに下りて電車に乗ります。今日は平日ですが、朝のラッシュの時間帯をとっくに過ぎた電車は空いていて、三人並んで座ることができました。しばらく他愛のない話をしているうちに長野先輩の降車駅に到着し、席から立ち上がった長野先輩がわたしに向かって軽く手を振ります。
「またね」
電車が出発します。長野先輩が座っていた席には、スーツを着た若い男性が座りました。しばらく進んでわたしと船井先輩は同じ駅で降り、乗り換える路線が違うのでホームで別れます。船井先輩が小さく片手を挙げ、別れの言葉を告げました。
「そんじゃ」
一人で駅を歩きます。目的の路線の電車に乗り、席に座って全身の力を抜いてぐったりします。途中、電車が鉄橋を渡り、光を反射してキラキラと輝く河川が電車の窓から見えました。何度も何度も見てきたはずの川なのに、嘘みたいに眩しくて、なぜだか泣きそうになってしまいます。
家の最寄り駅で電車を降ります。相変わらず格好は防寒対策の薄い喪服とパンプスだから、家に向かって歩いているうちにあちこちが凍えていきます。サボ太郎を入れた紙袋を持つ手がかじかみ、本当に寒いなあと思いながら、寒さを嫌がる余裕があることにほっとしたりもします。
家に着きました。「……ただいまー」と小声で呟いて中に入ると、すりガラスの嵌まったリビングのドアの向こうからテレビの音が聞こえます。誰かいる。お父さんは仕事でいないだろうから、お母さんか大学が冬休みのお兄ちゃん。わたしは少し悩んでから意を決し、リビングのドアを開きました。
椅子に座り、食卓に頬杖をついてテレビを観ていたお母さんが、眼球だけを動かしてわたしの方を見やりました。よく見ると目の下に隈が出来ており、どうやら寝不足になるほど心配させてしまったようです。
「おかえり。レモンティー飲む?」
お母さんが自分のカップを指さしました。わたしは「いい」と断り、ハンドバックと紙袋を床に置きます。そして紙袋から取り出したサボ太郎を出窓の傍に置き、お母さんに尋ねました。
「ねえ、この子ここに置いていい?」
「いいけど、ベランダの方が目立つんじゃない?」
「風水的に、サボテンは悪い気を寄せ付けない効果があるんだけど、良い気を追い払っちゃうこともあるんだって。それで玄関は幸福を運んでくる役目もあるから飾らない方がいいらしいよ」
「出窓から幸福は入ってこないの?」
「……分かんない」
「ふうん。なんか、適当だね」
お母さんがレモンティーを一口飲みました。そしてカップをソーサーに戻し――ません。カップを浮かせたまま、その中身をじっと見つめて口を開きます。
「あんたが余命宣告されたらどうするかって、前に聞かれたじゃない」
お母さんの眉が下がりました。声のトーンも少し低くなります。
「その時、想像もしたくないって答えたでしょう。でも昨日、あんたがお葬式から帰って来なくて、想像しないわけにはいかなくなった。そうなって初めて辛さが分かったの。あんたが今までどういう想いに耐えて来たのか、よく分かった」
カツン。カップがソーサーに置かれました。お母さんがわたしの方を向いて優しく笑います。
「お疲れ様」
また、泣きそうになってしまいました。でも泣きません。床のハンドバッグを手に取って、お母さんに笑い返します。
「お母さん」明るく、元気に。「心配かけて、ごめんね」
お母さんが「本当にね」と呆れたように呟きました。わたしはバツの悪さを誤魔化すようにはにかみ、リビングを出て二階の自分の部屋に向かいます。階段を一段上るたび、一つずつ強くなっている。そんな感覚がありました。
左手でブリッジを作り、ビリヤード台のラシャの上に乗せます。
ブリッジの上にキューを置きます。右腕のひじから先だけを動かして、キューを前後に素振りします。白い手玉にキューの先端を近づけたり遠ざけたりしながら、いつか小笠原先輩から言われたアドバイスを頭の中で反芻します。
――身体がブレたらダメだからね。
キューを前に撞き出します。キュー先に押された白い手球が、狙っていた九番の球にぶつかります。球はそのまま一番近いコーナーポケットに――入りません。クッションにぶつかってよたよたと勢いを落として止まり、手球はその傍で止まり、コーナーポケットと九番の玉と手玉が近距離で一直線に並びます。
はあ。
ため息をつき、わたしは台の近くの長椅子に腰かけました。代わりに長野先輩が立ち上がり、こつんと撞いた手球で九番の球をコーナーポケットに押し込みます。これでナインボール五連敗。長野先輩が戻ってきて、わたしの隣に座りました。
「調子悪いね」
「いつもこんなもんですよ」
「そうかな。まあ――」
長野先輩がビリヤード場をざっと見渡しました。隣の台で撞いている船井先輩と安木先輩も含め、サークルの人たちを一通り眺めて呟きます。
「『みんなこんなもん』なら、そうかもって気はするけど」
さっきのわたしと同じように、船井先輩が簡単な九番を外しました。船井先輩は普通に上手いので凡ミスは目立つのですが、その凡ミスを目にする機会が近ごろは明らかに増えています。理由は何なのか。考えるまでもありません。
小笠原先輩のお葬式から、およそ一ヵ月が経ちました。
大学は春休みに入り、サークルの活動日にビリヤード場に出向く以外、わたしはほとんど外出をしていません。そのビリヤード場に出向くのもそれなりに無理をしています。今動かないと一生動けなくなりそうな気がする。そういう気持ちでどうにか足を運んでいます。
それはきっと、わたしだけではないのでしょう。長野先輩も普段ならミスしないような配球をよくミスしています。ただ、わたしの方がより調子が悪いので、わたしとやっているうちは結果に表れないだけです。今、隣の台で船井先輩をボコボコにしている安木先輩も、似たようなものなのだろうと思います。
「もうすぐ誕生日だよね」
「はい」
「パーッと派手に遊ぼうか。船井と安木も一緒に」
「……そうですね」
前向きな返事を、後ろ向きな態度で返します。そんな気分ではない。でも、無理にでもそんな気分を作らなくてはいけないことも分かっている。そういうわたしの気持ちを察して、長野先輩は何も言わずに黙ります。
ブー。
長椅子の傍にある小さなテーブルの上で、わたしのスマホが震え出しました。わたしよりテーブルの近くに座っている長野先輩がスマホを見やり、驚いたように目を見開きます。わたしはその反応を不思議に思いながらスマホを手に取り、そして、長野先輩と同じ顔をしてしまいました。
「……連絡取ってたの?」
長野先輩が小声で話しかけてきます。わたしは無言で首を振り、とりあえずビリヤード場の外に出ました。わたしたちのサークルが活動のために使っているビリヤード場は、何の変哲もない雑居ビルの一画にあります。出てすぐ傍にある階段を上りながら通話を繋ぎ、埃っぽい踊り場で足を止めて話し始めます。
「はい」
「俊樹です」
ディスプレイに映っていた名前通りの名乗りが、わたしの耳に届きました。
「今、大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。どうしたの?」
「兄貴の遺書が見つかりました」
遺書。
ちゃんと聞こえたのに、危うく聞き返すところでした。耳にした音で正解かどうか確かめたくなった。わたしにとってそれぐらいに突拍子のない台詞だったのに、俊樹くんは平然と語り続けます。
「兄貴の部屋を整理していたら出て来ました。本当はもっと早く渡すべきだったと思うんですけど、発見が遅れてしまって……すいません」
「待って。渡すってことは、わたし宛なの?」
「いいえ。皆さん宛です」
「皆さん?」
「僕以外の、結婚式のサプライズ動画を作った人たちです」
結婚式のサプライズ動画を作った人たち。つまりわたしと、船井先輩と、長野先輩と、安木先輩です。
「あの動画と何か関係あるの?」
「いえ、そういうことじゃなくて、あの四人宛だというのを僕が説明しやすく言い換えただけです。もちろん開けていないので、動画関係の何かかが書いてある可能性もありますが」
「そっか。それならもっと個人的な内容だね」
「……そうとも考えにくいんですよね」
俊樹くんが思わせぶりに呟き、声量を少し上げました。
「もしかして、四人宛に四通の遺書が見つかったと思っていませんか?」
「そうだけど、違うの?」
「違います。見つかったのは、四人宛に一通の遺書です」
「四人宛に一通?」
「はい。だから、個人的なことは書きにくいと思うんです。封筒で見つかっているので、もしかしたら皆さんそれぞれ宛の遺書が中にあるのかもしれませんけど、だったら四つ封筒を作ると思いますし……」
一人一人に向けてではなく、四人相手にまとめて遺された手紙。わたしはその意味を考え、そしてすぐに諦めました。小笠原先輩のやることです。考えたところで分かるわけがありません。
「とにかく、そういうわけなので、皆さんでうちに遺書を取りに来て欲しいんです。なるべく早くがいいと思うんですけど、次の土曜とかどうですか?」
「わたしはいいけど……他のみんなは分からないよ」
「了解しました。ではそちらで相談して決まったら連絡してください。父も居た方がいいと思うので、なるべく休日でお願いします」
「うん。分かった。色々ありがとう」
「いえ。こちらこそ、ありがとうございました。では」
通話が切れました。わたしはすぐには動き出さず、ビリヤード場に戻ってからみんなに話すべきことを脳内でまとめます。小笠原先輩の遺書が見つかった。遺書はわたしたち四人宛。四人で遺書を取りに小笠原先輩の家に出向かなくてはならない。訪問の日程を決めなくてはならず、その日はなるべく休日に――
――次の土曜とかどうですか?
無意識に「あ」と呟きが漏れました。急いでスマホのカレンダーを開き、次の土曜の日付を確認します。やっぱり、そうでした。大学の春休みのせいで曜日感覚がなくなっていて、すぐに気づけませんでした。
次の土曜。
わたしの誕生日の、前の日です。