余命半年の小笠原先輩は、いつも笑顔なんです

 船井先輩たちは、夜十時ごろに帰りました。

 足元が覚束ないぐらい船井先輩が酔っていたので、小笠原先輩は泊まっていくことを勧めましたが、新婚家庭に長居したくないと拒否されました。去り際、長野先輩から「頑張ってね」と声をかけられ、船井先輩に肩を貸している安木先輩が小さく頷きました。もしかしたら三人の間で何かしら話があったのかもしれません。

 二人になった後はまず部屋を片付けて。それからサボテンの鉢植えをどこに置くか話し合いました。サボテンは風水的に気を払う力があると見なされるそうです。窓際やベランダに置くと邪気の侵入を防いでくれるそうなので、テレビ台のベランダに近い側の端に置くことにしました。

「いやー、しかし今日は飲み食いしたわ」

 わたしがカーペットに腰を下ろすと同時に、小笠原先輩がソファに勢いよく倒れ込みました。そのまま仰向けになり、満足そうにお腹をさすります。

「誕生日は他にも色々祝ってくれる予定だからなー。太っちゃうかも」
「ご家族と、結婚式やったバーの人たちともお祝いするんでしたっけ?」
「うん。あとサボテンのメキシコ人」
「……メキシコ人、そんなに仲良いんですか?」
「死んだ母ちゃんの親友なんだよね。小さい頃は面倒見てもらってた」

 そんなに強い繋がりだとは思っていませんでした。どうせまた小笠原先輩らしい愉快な友達なんだろうと勝手に想像していたことが恥ずかしくなります。ただ、そこまでの関係があるならば、ちゃんと言っておかないといけません。

「サボテン、本当にその人に渡さないでくださいね。わたしが育てたいので」
「んー、そうだねー」

 煮え切らない返事。相変わらず、サボテン一つ残すことすら躊躇っている。わたしの未来に痕跡を残さないようにしている。

「小笠原先輩」立ち上がります。「昨日、起きてましたよね」

 ソファに寝そべる小笠原先輩が、首を動かしてこちらを見やりました。

 わたしは小笠原先輩の口元を見つめます。唇の間から舌先が出てきた時、それを決して見逃さないように。だけど無意味でした。小笠原先輩が身体を起こしてソファに座り直し、立っているわたしを見上げながら答えます。

「うん」

 あっさりと認められ、わたしは内心たじろぎました。動揺を悟られないように背筋を伸ばします。

「起きなかったのは、応える気がなかったからですか」
「そうだね」
「どうして」
「俺のオヤジ、再婚してないじゃん」

 話が急にあらぬ方向に飛びました。小笠原先輩のお父さん。結婚式の顔合わせの時に対面したいかつい顔の男性が、わたしの脳裏にふっと浮かびます。

「母ちゃんはずっと、自分が死んだら次に行っていいってオヤジに言ってたんだ。でもオヤジは、二人も子どもがいるバツイチ男と一緒になりたがる女なんていないって言い切ってた。それで実際、母ちゃんが死んだ後も浮いた話は全然なくてさ。俺もコブつきのバツイチ男はモテないんだなぐらいに思ってた」

 小笠原先輩の瞳の焦点がぼやけました。目の前のわたしを見ず、自分にしか見えないものを見る目になります。

「でもある日、オヤジが家に会社の部下を連れてきて、俺はその人からオヤジに本気で惚れた女の人がいたって話を聞いたんだ。事務の仕事をやってた人で、オヤジにめちゃくちゃアプローチかけてたんだって。それをオヤジは、死んだ母ちゃん以外の女性と一緒になることは考えられないってあしらったらしい」

 お母さんの想いとお父さんの想い。お互いを大切にしていて、だからこそすれ違った二つの想いを、小笠原先輩が淡々と語ります。

「部下の人はオヤジさんパねえっすって感じだったから褒めてるつもりだったんだろうけど、俺は『そうなっちゃうんだなー』って思ったんだよね。母ちゃんにはそうなる未来が見えていて、だからそうならないように手も打っていたのに、結局そうなるんだなって。なんか、すごい無力感があった」

 小笠原先輩は、お父さんに再婚して欲しかったわけではないのでしょう。ただ世の中にはどうしようもない流れがあるという現実を受け入れたくなかった。人生は選べる。運命は変えられる。小笠原先輩は、そういう考え方が好きな人です。

「わたしには、そうなって欲しくないってことですか」

 問いかけます。小笠原先輩の瞳に焦点が戻りました。

「どれだけ引きずるなと言っても、きっと引きずってしまう。だから踏み込みすぎないようにしよう。そういうことですか」

 小笠原先輩をにらみます。小笠原先輩はいつものようにへらへらと笑い、わたしの視線を受け流しました。

「無理しなくてもいいとは、思ってるかな」

 無理。――ああ。もう我慢できません。

「わたしは」

 言葉を切ります。深呼吸をして空気の通り道を作り、ありったけの力を込めてお腹の底から声を出します。


「わたしは、抱いて欲しいんですよ!!」


 自分の声で、きいんと耳鳴りがしました。

 同時に、涙が両目から溢れてきました。たくさんの感情が一気に爆発して、自分がぐちゃぐちゃになっています。ぐちゃぐちゃの感情とぐちゃぐちゃの頭から、ぐちゃぐちゃの言葉を放ちます。

「捧げてもいいとか、覚悟できてるとか、上から目線でお許しを与えるようなことを言ってすいませんでした! わたしはそれで伝わると思ったんですけど、小笠原先輩はアホだから分からないんですよね! じゃあ言い直します! わたしは小笠原先輩が好きなんです! 好きだから抱いて欲しいんです! 無理なんて、何一つ、全くもってしていません!」

 わたしはずっと、わたしのために動いていました。

 同棲を断らなかったのは、わたしも同棲したいと思ったから。抱かれる覚悟を示したのは、わたしが抱かれたかったから。結婚式も、付き合うと決めたのだってそうです。わたしの世界の中心はわたし。わたしは決して、余命いくばくもない小笠原先輩のために自分を犠牲してきたわけではありません。

 でも近ごろのわたしは、そんな当たり前のことを見失っていました。小笠原先輩に尽くしている気分になり、どうして許可を与えているのに手を出してこないんだろうなんて思っていました。それでは届きません。手を出したくないから手を出していないのです。ならば、わたしの方から行くしかありません。

「小笠原先輩は、違うんですか?」

 涙で視界がぼやけます。小笠原先輩の顔がよく見えません。

「わたしのことが好きで、だから一緒にいるんじゃないんですか?」

 右腕で涙を拭います。一瞬だけ、小笠原先輩の姿が視界から消えました。

「だったら――」

 柔らかな感触が、わたしの言葉を奪いました。

 涙を拭っている間に立ち上がった小笠原先輩が、わたしの唇に自分の唇を重ねています。右腕はわたしの腰に、左腕はわたしの背中に回されていました。その両方の腕にぎゅうと力を込め、わたしの首筋に顔を埋めて、小笠原先輩が囁きます。

「いいの?」

 吐息が、わたしの耳たぶを熱くしました。

「本当に、いいの?」

 小笠原先輩らしくない切実な響きが、鼓膜の奥にじんと響きます。わたしは両腕で小笠原先輩の背中を抱き、小さな声で答えました。

「いいとか、悪いとかじゃなくて」思っていたより、しっかりした身体。「小笠原先輩がどうしたいかを教えてください」

 わたしを抱く小笠原先輩の腕から、ふっと力が抜かれました。わたしも背中に回していた腕を外し、吐息のかかる距離でお互いに顔を合わせます。小笠原先輩がいつもの眠たそうな目でわたしを見ながら、ゆっくりと唇を開きました。

「好きだから、抱かせて欲しい」

 輪郭のはっきりした声が、わたしの脳をぐらりと揺らします。

「一つになりたい。一生の思い出を作りたい。未来なんてどうでもいい。今この瞬間以上に大事なものはないと思える時間を、二人で一緒に過ごしたい」

 言葉が途切れました。小笠原先輩が照れくさそうにはにかみます。

「……ダメかな?」

 結局、いいとか悪いとかの話になってしまいました。わたしは小笠原先輩に笑い返し、いいとか悪いとかではない、今のわたしの気持ちを素直に伝えます。

「嬉しいです」

 再び、唇と唇が重なります。さっきは感じ取れなかったお酒の匂いを、小笠原先輩の吐息から感じます。甘くて、熱くて、この先に待っている出来事を予感させて、匂いだけで酔ってしまいそうでした。
 理由もなく、目が覚めました。

 ベッドボードのスマホを手に取って時間を確認すると、夜中の三時でした。わたしは上体を起こし、隣で眠っているパジャマ姿の小笠原先輩を見下ろします。気持ちよさそうな寝顔を眺めてしばらく和みますが、一向に眠気が戻ってこないので、何かして時間を潰そうとベッドから下りてリビングに向かいます。

 リビングの電気をつけると、テレビ台の上のサボテンが目につきました。指先で棘に触れると緑色の部分がぷるぷると揺れ、不思議なかわいらしさを覚えました。いい買い物をしたかもしれません。

 ふと、ベランダに続くガラス戸が視界に入りました。虫が光に惹かれるように、ふらふらとガラス戸に歩み寄って外に出ます。ベランダの手すりに腕を、その腕の上に顎を乗せて、もうほとんど灯が消えてしまった街をぼんやりと眺めます。

 トントン。

 左肩をつつかれ、わたしはそちらを向きました。しかし左には誰もおらず、右を向くと小笠原先輩がにやりとほくそ笑んでいます。左手を大きく回して右から左肩をつつく。古典的ないたずらです。

「起こしちゃいました?」
「うん。まあ、いいけどね。明日忙しいわけでもないし」

 小笠原先輩がんーっと伸びをしました。ふくらんだ喉仏がいつもより気になるのはなぜでしょう。胸が高鳴ります。

「ごめんね」
「え?」
「俺は自制心がなくて、やりたいことはすぐにやっちゃうから、油断しちゃいけないと思ってたんだ。同棲したいことだって黙っておこうと思ってたのに、言えそうな流れになってポロッと言っちゃうし。だから寝たふりまでして遠ざけてた。でも――」

 月明かりの中で、小笠原先輩が儚げに笑いました。

「自己満だったわ。だから、ごめん」

 謝り慣れていないのか、言い方がどこかぎこちないです。わたしは小笠原先輩に笑い返しました。

「今日まで我慢できたんだから、自制心あると思いますよ」

 風が吹きました。小笠原先輩が「どうも」と呟き、わたしの隣に立って夜の街を眺めます。

「そういえばあのサボテン、結構目立つね」
「そうですね。意外と存在感あります」
「せっかくだし名前つけようか。サボ子とかどう?」
「女の子なんですか?」
「サボ夫の方が良かった?」

 そういうことではないのですが、じゃあどういうことかというと言語化しにくいので黙りました。小笠原先輩が腕を組み、「サボ美、サボ彦、サボ助……」とひねりのない名前を延々と呟き始めます。

「じゃあ、リカルドは?」
「なんでいきなり路線変更したんですか?」
「メキシコの男の子の名前なんだけど、変かな」
「変っていうか……そもそもなんで名前つけたいのか分からないんですけど」
「だって愛着湧くでしょ。俺がいなくなった後も大事にして欲しいし」

 少し前は残すことすらためらっていたのに、いきなりいなくなった後も大事にして欲しい。驚くわたしと向き合い、小笠原先輩が口を開きました。

「三月生まれだよね」
「わたしですか? そうですよ。うお座っぽいって言われました」
「誕生日には、指輪を買うよ」

 指輪。恋人同士がお互いを意識するためにつける定番のアイテム。小笠原先輩が穏やかに微笑みます。

「俺たちの名前を彫った、俺たち以外には意味がないペアリングを作って贈る。俺たちが恋人だった証を形にして残す。楽しみに待ってて」

 小笠原先輩の口元を見つめます。唇から舌先は出ていません。わたしは逸る気持ちを抑えきれず、小さな子どものように元気よく返事をしました。

「はい!」









 この時の私は、いくつかのことに気づいていませんでした。

 小笠原先輩が、どれだけわたしを想っていたかということ。

 小笠原先輩が、どれほどの覚悟を抱いていたかということ。

 そして――

 それでも小笠原先輩は、いなくなってしまうんだということ。




 その日は金曜日で、晴れていました。

 冷たく乾いた風が吹いていて、わたしはニットのカーディガンの袖口に手を隠しながら、いよいよ秋が去って冬が来たことを実感していました。今夜食べるものを考えつつ、大学帰りに小笠原先輩と同棲しているマンションに向かいます。今日は三日続く同棲期間の一日目。一日目はいつも外食ですが、明日はお鍋をつついてもいいかもしれないと、少し先の計画を立てて楽しくなります。

 マンションに着きました。部屋のすぐ傍でロングコートとマフラーを身に着けた男性とすれ違い、わたしも本格的に冬服を用意しないとなあとぼんやり思います。実家に置いてある冬物を思い出して、どれをどうやって持ってくるか考えながら手なりでドアノブを回します。

 ガチャ。

 ノブが回らず、考えていたことが一気に吹き飛びました。小笠原先輩は自分がいる時は鍵をかけないので、鍵が閉まっているということは小笠原先輩がいないということです。休日に早くから出向く時ならともかく、大学帰りにマンションに行って小笠原先輩が待っていなかったことは、今まで数えるほどしかありません。

 財布から鍵を取り出して、玄関のドアを開けます。ブーツを脱いでリビングに入っても小笠原先輩はいませんでした。寝室も覗いてみますがやはりいません。

 今まで小笠原先輩がいなかった時は、全て散歩に出かけていました。とりあえず待ってみようとソファに座ってテレビを観ますが、三十分経っても小笠原先輩は現れません。無意味に部屋をうろついたり、結局「サボ太郎」という名前がついたゴールデン・バニーの鉢植えを手入れしてみたりして、気持ちを落ち着かせます。

 外が暗くなってきました。ここまで来ると現れないのはさておき、連絡がないのはおかしいです。スマホを手に取ってLINEを開き、小笠原先輩にメッセージを送ります。

『何時ごろ来ますか?』

 スマホを見つめ、既読の表示がつくのを待ちます。しかし一向につきません。三十分待って何もなかったら今度は電話しよう。そう考えて、インスタントコーヒーを飲むために電気ケトルでお湯を沸かします。

 コーヒーカップの準備をしている最中、ローテーブルに置いたスマホが小刻みに震え出しました。わたしは作業の手を止めてスマホを掴みます。そしてディスプレイに映る名前を見て、強く眉をひそめました。

『小笠原俊樹』

 通話を繋ぐと、すぐに「俊樹です」という声が聞こえました。得体の知れない不安に襲われ、心臓の鼓動が早まっていきます。

「どうしたの?」
「……今日が同棲の日だって気づかなくて、連絡遅れました。すいません」

 そんなことは聞いていません。何が起こったのかを聞いているのです。早く答えて欲しい。

「お兄ちゃんに何かあった?」

 数秒間、沈黙がありました。早く、早く。逸る気持ちを抑えきれなくなりそうなわたしの耳に、俊樹くんの暗い声が届きます。

「倒れました」

 カチャ。電気ケトルのお湯が沸き、スイッチが勝手に切り替わりました。

「今は入院しています。しばらく退院できそうにないです。そのうち兄貴からも連絡があると思いますが、この後に病院の名前をLINEするので、時間がある時にお見舞いに来てください」
「大丈夫なの?」
「分かりません」

 すぐに返事が来ました。こう聞かれたらこう答えようと決めていた早さです。

「本当に分からないんです。今は状況だけ知っておいて下さい」
「……分かった。俊樹くんも無理しないでね」
「はい。ありがとうございます。では」

 通話が切れました。わたしはスマホを持ったまま、ソファに座ってしばらくぼうっとします。そして体感では数秒、実際は数分経ってから立ち上がり、電気ケトルのお湯でコーヒーを淹れて飲みました。
 その日はマンションには泊まらず、家に帰りました。

 帰ってすぐ、小笠原先輩から連絡が来て話ができました。思っていたよりは元気そうで、本人も「元気だよー」と言っていたのに、どうしても不安が拭い切れませんでした。話が終わってからわたしは船井先輩、長野先輩、安木先輩と連絡を取り、明日の昼にお見舞いに行くことを決めました。俊樹くんに予定を告げるとあちらもお父さんと一緒に病院に出向くということだったので、病院のロビーで待ち合わせをすることにしました。

 次の日、わたしたちは予定通り病院に向かいました。小笠原先輩のお父さんと俊樹くんと合流し、受付で貰った面会バッジをセーターの胸につけて病室に向かいます。小笠原先輩の入院している病室は個室でした。いくつかの大部屋を通り過ぎた後にたどりついた個室は悪い意味で特別感があって、気が滅入ってしまいます。

 みんなで病室に入ります。白いカーテンがかけられた窓に、三人ほど座れそうなブラウンのソファ。ベッド脇には大きなラックが置いてあり、その天板の上にはテレビらしきモニターが乗っています。そしてシーツで覆われたベッドに横たわっているのは間違いなく、病院服を着た小笠原先輩です。

「やっほー」

 小笠原先輩が手を振りました。船井先輩が呆れたように声をかけます。

「何がやっほーなんだよ」
「とりあえず元気なところを見せようかと」
「元気なのか?」
「うん。聞いてないの?」

 小笠原先輩がわたしを見ました。わたしは「言いましたよ」と小声で答えます。嘘ではありません。お見舞いの予定を立てた時に確かに伝えました。伝えているわたし自身が信じて切れていないとすぐにわかる、暗く落ち込んだ態度で。

「でもすぐには退院できないんでしょ?」

 長野先輩が尋ねます。船井先輩も長野先輩も、わたしが聞きたいけど聞けないことを代わりに聞いてくれている。そう思いました。

「まーね。でもこの感じだとそんな時間かかんないと思うよ」
「先生にそう言われたの?」
「勘」
「あのねえ……」
「自分の身体のことは自分が一番分かるよ。クリスマスまでには退院して、サークルのパーティにも参加するつもり。あ、それと――」

 小笠原先輩がまたわたしの方を向きました。わたしは背筋を無理やり伸ばして小笠原先輩と向き合います。

「俺がいない間、サボ太郎の世話を頼んでいい?」
「……いいですよ。そんなにやることないですけど」
「冬場は水やり二週間に一回だっけ。まー、でも、植物も声かけるとよく育つとかいうじゃん。サボ太郎を俺だと思ってたまには会いに行ってやってよ」

 無理です。わたしもサボ太郎は好きです。かわいいとも思います。でも小笠原先輩の代わりには、絶対になりません。

 退院して、一緒に会いに行けばいいじゃないですか。

 本当に大したことないなら、それが出来るはずじゃないですか。

 それとも――

「――手間じゃないですよ。サボ太郎の方が小笠原先輩よりいい子ですし」

 冗談を返します。小笠原先輩が、顔をくしゃくしゃにして笑いました。

「確かに」
 一時間ぐらい話した後、わたしたちは小笠原先輩の病室を後にしました。

 俊樹くんと小笠原先輩のお父さんも一緒に病室を出て、ロビーまで見送ってくれました。ロビーで向き合ったお父さんに「今日はありがとうございました」と頭を下げると、お父さんも「こちらこそ、ありがとう」と頭を下げ返してくれました。そしてわたしたち全員をざっと見渡して、苦しそうな表情で口を開きました。

「君たちには言っておくが」重たい声。「あの子の容態はかなり芳しくない」

 お父さんの隣で、俊樹くんが顔を伏せました。わたしや船井先輩たちも視線を床に向けます。だけど驚きはしません。察していたからです。

「正直な話、いつどうなるか分からない。覚悟だけはしておいてくれ」
「……はい」

 もう下を向いている首を、さらに下に向けて頷きます。お父さんが「では」と言い残し、病院の奥に向かって歩き出しました。俊樹くんも軽く頭を下げてからお父さんの後を追いかけます。

「……帰るか」

 船井先輩がぼそりと呟きました。わたしたちは誰からともなく歩き出し、病院の外に出ます。来た時よりも風を冷たく感じるのは、単純に昼間より気温が下がったからでしょうか。首をすくめて寒さに耐えます。

 最寄り駅まで徒歩十分。道路脇の歩道を歩きながら、船井先輩が遠い目をして空を見上げました。

「余命半年って、適当な目安みたいなもんだと思ってたよ」

 小笠原先輩が病気を明かしたのが六月。今は十一月の下旬。確かに、だいたい半年ぐらいです。

「当たることもあるってだけで、基本は適当な目安でしょ」長野先輩が答えます。「それに……まだ当たるかどうか分からないし」

 長野先輩は前を向き、船井先輩は天を仰いでいます。視線は全くかみ合っていません。そしてわたしは俯き、アスファルトに声を落とします。

「覚悟をするって、どういうことなんでしょう」

 近く道路を、車がすごい速度で駆け抜けました。

「わたしたち、余命のことは知っていたじゃないですか。でもそれだけじゃダメなんですよね。じゃあ覚悟って、何をすればいいんでしょう」

 話しながら歩いていると、自然と歩みが遅くなります。前に進むのを恐れているような雰囲気の中、安木先輩がわたしの方を向きました。

「同棲してるマンションに追加で置きたいもの、何かある?」

 いつものおかしな話の入り方。わたしは少し考えてから答えます。

「冬の備えをしたいと思ってます。冬服とか、ホットカーペットとか」
「置くの?」
「分かりません。まず小笠原先輩がどうなるか分かりませんし……」
「それ」
「それ?」
「小笠原がどうなるか分からない。だからマンションに置きたいものがあるけど置かない。そういう風に、あいつがいなくなる未来を想定して動くことが、この場合の覚悟だと思う」

 覚悟とは、いなくなる未来を想定して動くこと。つまり――

「じゃあわたしは、もう覚悟できてるってことですか?」
「できてるというか、しちゃうんじゃないかな。そういう未来を現実的なものとして捉えたら、意識しなくても勝手にそういう風に動く」

 強めの風が吹きました。わたしは目を細めますが、眼鏡をしている安木先輩は変わりません。眉一つ動かさず、淡々と言い放ちます。

「覚悟なんて、ただの結果だよ。難しいことじゃない」

 安木先輩が口を閉じました。沈黙が生まれ、さっきとは逆にみんなの歩く速度が上がります。それから駅に着くまでずっと、わたしたちの誰一人として、何かを喋ることはありませんでした。
 家に帰ると、室内用のゆったりしたワンピースを着たお母さんが、リビングの食卓でレモンティーを飲んでいました。

 ちょうど温かいものが欲しい気分だったので、わたしも自分のカップを持っていって同じものを飲むことにしました。キッチンでレモンティーを作り、お母さんの向かいの椅子に座ります。ティーパックの紅茶にレモンの輪切りを浮かべただけの簡単な飲み物に、冷え固まった身体を魔法のようにほぐされ、わたしはほうっと安堵の息をつきました。

「外は寒かった?」
「うん。そろそろコタツ出した方がいいかも」
「コタツねえ」

 お母さんが、わたしからほんの少し視線を逸らしました。

「今日はどうだったの?」

 曖昧な聞き方。話したいところだけ話していいという優しさに甘え、わたしは良かったことだけを話します。

「思ってたより元気そうだった」
「そう。なら良かった」

 お母さんが自分のレモンティーに口をつけました。良かったと言いながら、張りつめた表情は変わりません。小笠原先輩が倒れた時、同棲の日なのに帰って来たわたしから事情を聞いた時もそうでした。「大丈夫なの?」「分からない。そのうちまた連絡来ると思う」「そうじゃなくて、あんたのこと」「大丈夫だよ」「なら良かった」。今と同じ顔で、今と同じことを言っていました。

「ねえ」背中に力を入れます。「お父さんが余命宣告されたら、どうする?」

 お母さんがレモンティーを飲みながら、ちらりとわたしを見やりました。そしてカップをソーサーに置きます。陶器と陶器がぶつかる硬い音に、お母さんの声が重なりました。

「とりあえず、子どもたちのことは任せてって言うかな」
「とりあえずそれなの?」
「一番心配だと思うから」

 覚悟とは、いなくなる未来を想定して動くこと。安木先輩の言葉を思い出しながらわたしは続けます。

「じゃあ、余命宣告されたのがわたしだったらどうする?」

 お母さんが「そうねえ」と首をひねりました。そして自分でもあまり納得いってなさそうに答えます。

「泣く、かな」
「お父さんが余命宣告されても泣かないの?」
「それも泣くけど……お父さんの場合と違ってそこから先が思い浮かばないの。想像もしたくないのかも」

 想像もしたくない。ガンと、頭に強い衝撃が走りました。

「きっと、お父さんも同じだと思うよ。聞いてみたら?」
「……すごく前に聞いたことある」
「なんて言ってた?」
「そういう映画でも観たのかって言われた」
「ほら。まともに考えようとしてない」
「今の彼氏と付き合う前だから、意味が分からなかったんだと思うよ」
「意味が分からなくたって、宝くじで一億円当たったらどうするみたいな質問なら答えたんじゃない?」

 お母さんが背中を前に傾けました。目尻にしわを浮かべて笑う顔が近くなります。

「どんなに突拍子のない話だって、考えるぐらいはできる。お父さんはそれすらしたくなかった。だからお母さんと一緒なの」

 考えたくない。想像したくない。あなたがいない未来を受け入れられない。

 わたしに、そんな気持ちがあるでしょうか。

「……そうかもね」

 わたしは自分のカップに手を伸ばしました。そしてカップを唇につけて、クイと傾けます。さっきまで魔法のように温かったはずのレモンティーが、これまた魔法でもかけられたみたいに、喉を冷たく通り過ぎていきました。
 小笠原先輩が入院してから、わたしは毎日のようにお見舞いに行きました。

 最初の頃、小笠原先輩は「すぐに退院するから待ってくれればいいのに」と言っていました。一週間経った頃から「ちょっと長引くかも」と言い始めました。二週間経った頃には「クリスマスは無理っぽいなー」と言い出しました。その頃の小笠原先輩は元気だった頃よりかなり痩せこけていて、治療の影響で髪の抜け始めた頭を隠すためにニットの帽子をかぶっていました。「そう言えば余命宣告の半年過ぎたよ」と言われたりもしましたが、何の安心材料にもなりませんでした。

 同棲しているマンションを引き払うつもりだと言われたのは、入院から一ヵ月経った頃でした。

「え?」

 いきなり語られた話に、わたしはそれしか返せませんでした。ベッド傍の丸椅子から目を見開いて小笠原先輩を見やります。ベッドに寝そべっている小笠原先輩は、いつものようにゆるい笑みを浮かべていました。

「オヤジと相談して決めたんだ。まだしばらく入院続きそうだし、とりあえずマンションは引き払おうって。だから自分のもの払い出しておいて。俺のものはオヤジと俊樹に任せるから」
「いつまでにですか?」
「決めてない。でも早いうちがいいな。無駄にお金かかっちゃうから」

 お金のことを言われると何も言えません。三日間毎の同棲だって無駄は多かったはずです。それでも小笠原先輩のお父さんが、小笠原先輩のためにお金を出してくれていた。そのお父さんと相談して決めたなら、わたしは従うしかありません。

「……分かりました」
「ありがと。サボ太郎のことも忘れずにね。そういえばサボ太郎は元気?」
「枯れてないって意味なら元気ですけど……サボテンが元気かどうかって分かるんですか?」
「前に話したメキシコ人は見分けてたよ。仲良くなれば分かるんじゃないかな。ちゃんと話しかけてる?」

 話しかけていません。肩をすくめるわたしを見て、小笠原先輩がおおげさに首を横に振りました。

「ダメじゃん。それじゃあサボ太郎も心を開いてくれないよ」
「サボテンですよ?」
「植物だって生きてるんだし、心があってもおかしくないでしょ」

 ふざけたことを言いながら、小笠原先輩が視線を横に流しました。話の展開にふさわしくもないアンニュイな仕草が目を引きます。

「最近よく考えるんだよね。心ってなんだろうって」

 小笠原先輩が病院服の上から、自分の左胸に開いた右手を乗せました。

「俺が死んだらたぶん、まず心臓が止まるよね。そんで血液が回らなくなって脳が止まって、そこで俺の心がなくなったとする。でもさ――」

 左胸の上から右手が離れました。そして今度はニットの帽子越しに、ひとさし指で側頭部をコンコンと叩きます。

「俺のここには、ただ電気信号が流れてるだけでしょ。そんで複雑さは全然違うだろうけど、似たようなものはサボ太郎の中にだって流れてる。水吸えーとか、光合成しろーみたいなの。その電気信号を心と呼ぶなら、サボ太郎にも心があるって言えないかな」

 小笠原先輩がいきなり意味不明なことを言い出すのは、今に始まったことではありません。

 炭水化物メインのポテトサラダやマカロニサラダがサラダなら、ラーメンやパスタは実質サラダ。犬や猫は模様が違う程度でも違う名前がついているんだから、マグロもひれの位置や形ごとに名前をつけるべき。普段からそんなことを言って、笑われたり、呆れられたりしています。

 だけど小笠原先輩はそういう話を、いつもみんなを楽しませるために口にしていました。今の小笠原先輩からわたしはその意志を感じません。答えを求めている。言って欲しいことがある。真っ直ぐな瞳から、そういう想いが伝わります。

「――違うと思います」

 わたしは椅子から離れ、ベッドの左に立ちました。そしてわたしを見上げる小笠原先輩としっかり目を合わせます。

「サボ太郎に心があるかどうかは分かりません。でも持っていたとしても、小笠原先輩が持っているような心とは違うと思います。ちゃんとありますよ。電気信号じゃない心が、小笠原先輩の中に」

 右手を伸ばし、小笠原先輩の左胸に触れます。前よりもずっと薄くなっている胸板に驚き、その驚きを隠して笑います。

「わたしが好きになったのは、その小笠原先輩の心です」

 だから、安心していい。迫り来る死を前にして、今ここにある生すら不安になっているのなら、そんなことは考えなくていい。あなたは確かに生きている。わたしがそれを、保証する。

「そっか」

 小笠原先輩がはにかみました。そしてわたしの頭の後ろに手を回し、唇を重ねてきます。久しぶりに感じた小笠原先輩の唇は、薄くて、乾いていて、パラパラと砕け散る寸前の枯れ葉のようでした。
 お見舞いの後、わたしはマンションに向かいました。

 部屋に入り、まずは軽く掃除をします。それから引き払う時に運ぶ私物をチェックして、スマホのメモに記録して行きます。ほとんどが洋服だったので一日あれば問題なくまとめられそうなことが分かりました。その気になれば明日にでも引き払えそうです。

 あっと言う間に、やることがなくなりました。無意味にテレビをつけて、リビングのソファに寝転がります。ストーリーも登場人物も何一つ分からない、観たことのないドラマの再放送らしきものを眺めながら、ふと小笠原先輩も似たようなことをやっていたのを思い出します。

「それ、面白いですか?」

 ある日の夜、お風呂から上がったら小笠原先輩がテレビドラマを観ていたので、わたしは何気なくそう尋ねました。小笠原先輩はテレビから目を逸らさず、わたしの質問に答えます。

「面白いよ」
「どんな話なんですか?」
「サスペンスの連続ドラマみたい。今日初めて観たからよく分かんないけど」
「え?」

 わたしは素直に戸惑いました。そして思ったことをそのまま口にします。

「そんなことってあります?」
「どういうこと?」
「えっと……小笠原先輩はどうして今そのドラマを観てるんですか?」
「テレビつけたらやってたから」
「つけたらやってただけのよく分からないドラマが面白いんですか?」
「うん」
「もう一回聞きますけど、そんなことってあります?」
「あるでしょ。現に俺が今そうなってるじゃん」

 それが信じられないから聞いているのに、振り出しに戻ってしまいました。わたしがどう聞き直そうか考えている間に、小笠原先輩が話しかけてきます。

「今まで周りにそういう人いなかったんだ」
「そうですね。一話完結ならともかく、サスペンスの連ドラはさすがに」
「良かった」
「良かった?」

 小笠原先輩がニッと笑いました。そして楽しそうに声を弾ませます。

「俺がいなくなった後も、変なやつがいたなあって覚えてそうじゃん」

 ドラマが終わりました。

 過去を思い返しているうちに、終わってしまいました。面白かった面白くなかった以前に、どんな話だったかもロクに覚えていません。やはりわたしは小笠原先輩みたいにはなれないようです。

 わたしはテレビの電源を切り、ソファを離れてテレビ台に近寄りました。そしてしゃがんで腰を落とし、台の上のサボ太郎に目線の高さを合わせます。

「どうすればいいと思う?」

 返事はありません。わたしは一方的に話し続けます。

「小笠原先輩はずっと覚悟していた。わたしも覚悟はできている。じゃあもうやれることってないよね。その時を待つしかない」

 ひとさし指を伸ばします。サボ太郎の頭を撫でるイメージで、薄い楕円形の幹の先端に指を乗せます。

「でも……それでいいのかな」

 目をつむり、ひとさし指に意識を集中します。サボ太郎が棘を通してメッセージを伝えようとしている。そういうイメージを頭の中に広げ、指先の痛みから何か読み取れないか試みます。――もちろん、何も読み取れません。わたしは床に尻をつき、身体を後ろに倒してサボ太郎を見上げました。

 サボ太郎は微動だにしていません。生まれた時からここにいますとでも言いたげな堂々とした佇まいを前に、わたしの口元に苦笑いが浮かびました。

「あなたがうちに来てから、まだ二か月も経ってないんだよね」

 サボ太郎がやってきた日のことを思い返します。思えばあの時から、小笠原先輩は自分がいなくなった後のことを考えていました。いえ、あの時からどころではありません。余命宣告のことを明かし、わたしたちを巻き込んで好き勝手やりはじめた頃から、近いうちに自分がいなくなることは確定事項として動いていました。

 わたしもいずれは死にますが、そのことを考えて日々を過ごしてはいません。でも小笠原先輩は違う。安木先輩が「そういう未来を現実的なものとして捉えたら、意識しなくても勝手にそういう風に動く」と言ったように、自分の死をはっきりとした手触りで捉えていたから、急いで結婚式をしたり、同棲をしたり、逆に敢えて抱くことは避けたり、それから――

 ――誕生日には、指輪を買うよ。

 違和感が、頭の片隅に芽生えました。

 そうです。あの時は喜びが強すぎて気づきませんでしたが、冷静に考えるとおかしいです。わたしの誕生日は三月。宣告された命のリミットからはだいぶ遠い。プレゼントに理由づけが欲しいにしても、クリスマスの方が現実的なはずです。

 心臓の鼓動が早まります。わたしはふらりと立ち上がり、ベランダに続くガラス戸を開きました。十二月の外気の冷たさを感じながら、夜景を眺めるわたしの姿を無人のベランダに思い描き、それを見る小笠原先輩の気持ちになりきろうと試みます。

 残された時間は、長くない。

 その長くない時間をあの子と楽しく過ごしたくて、今まで色々とやってきた。そんな中でも、自分との思い出をあの子の人生の足かせにしないため、一線は越えないようにしていた。だけど今日、越えてしまった。あの子の人生の奥深くに潜り込んでしまった。だったら――

 あの子と一緒に生きることを、まずは考えてみようか。

 ――こういう子とずっと一緒にいられたら、人生楽しいだろうなって思った。

 いつか聞いた言葉を思い出し、わたしの目にうっすらと涙の膜が張ります。わたしだって、ずっと一緒にいたい。十年後も、二十年後も、一緒に笑いあっていたい。でも――

「――無理じゃないですか」

 両手で顔を覆います。誰に向かってでもなく、呟きをこぼします。

「そんなの、絶対に、無理じゃないですか」

 絶対に無理。そう、絶対に無理です。小笠原先輩はわたし以上にそれを分かっていたでしょう。それでもわたしの誕生日を祝うと約束した。生きたいという願いを越えて、生きようという意志を抱いた。

 わたしの存在が、小笠原先輩の覚悟を揺るがしたのです。

 強い風が吹き込んできました。わたしはガラス戸を閉め、ぼうっとリビングを見渡します。テレビ台の上にちょこんと座っているサボ太郎に近づき、さっき触れていた棘にもう一度触れ、自分を鼓舞するように小声で囁きます。

「……よし」

 わたしは棘から指を離し、自分の頬をぴしゃりと叩きました。そして涙を拭って顎を上げます。状況は何も変わっていない。だけど全てが解決したような、爽やかな気分でした。