船井先輩たちは、夜十時ごろに帰りました。
足元が覚束ないぐらい船井先輩が酔っていたので、小笠原先輩は泊まっていくことを勧めましたが、新婚家庭に長居したくないと拒否されました。去り際、長野先輩から「頑張ってね」と声をかけられ、船井先輩に肩を貸している安木先輩が小さく頷きました。もしかしたら三人の間で何かしら話があったのかもしれません。
二人になった後はまず部屋を片付けて。それからサボテンの鉢植えをどこに置くか話し合いました。サボテンは風水的に気を払う力があると見なされるそうです。窓際やベランダに置くと邪気の侵入を防いでくれるそうなので、テレビ台のベランダに近い側の端に置くことにしました。
「いやー、しかし今日は飲み食いしたわ」
わたしがカーペットに腰を下ろすと同時に、小笠原先輩がソファに勢いよく倒れ込みました。そのまま仰向けになり、満足そうにお腹をさすります。
「誕生日は他にも色々祝ってくれる予定だからなー。太っちゃうかも」
「ご家族と、結婚式やったバーの人たちともお祝いするんでしたっけ?」
「うん。あとサボテンのメキシコ人」
「……メキシコ人、そんなに仲良いんですか?」
「死んだ母ちゃんの親友なんだよね。小さい頃は面倒見てもらってた」
そんなに強い繋がりだとは思っていませんでした。どうせまた小笠原先輩らしい愉快な友達なんだろうと勝手に想像していたことが恥ずかしくなります。ただ、そこまでの関係があるならば、ちゃんと言っておかないといけません。
「サボテン、本当にその人に渡さないでくださいね。わたしが育てたいので」
「んー、そうだねー」
煮え切らない返事。相変わらず、サボテン一つ残すことすら躊躇っている。わたしの未来に痕跡を残さないようにしている。
「小笠原先輩」立ち上がります。「昨日、起きてましたよね」
ソファに寝そべる小笠原先輩が、首を動かしてこちらを見やりました。
わたしは小笠原先輩の口元を見つめます。唇の間から舌先が出てきた時、それを決して見逃さないように。だけど無意味でした。小笠原先輩が身体を起こしてソファに座り直し、立っているわたしを見上げながら答えます。
「うん」
あっさりと認められ、わたしは内心たじろぎました。動揺を悟られないように背筋を伸ばします。
「起きなかったのは、応える気がなかったからですか」
「そうだね」
「どうして」
「俺のオヤジ、再婚してないじゃん」
話が急にあらぬ方向に飛びました。小笠原先輩のお父さん。結婚式の顔合わせの時に対面したいかつい顔の男性が、わたしの脳裏にふっと浮かびます。
「母ちゃんはずっと、自分が死んだら次に行っていいってオヤジに言ってたんだ。でもオヤジは、二人も子どもがいるバツイチ男と一緒になりたがる女なんていないって言い切ってた。それで実際、母ちゃんが死んだ後も浮いた話は全然なくてさ。俺もコブつきのバツイチ男はモテないんだなぐらいに思ってた」
小笠原先輩の瞳の焦点がぼやけました。目の前のわたしを見ず、自分にしか見えないものを見る目になります。
「でもある日、オヤジが家に会社の部下を連れてきて、俺はその人からオヤジに本気で惚れた女の人がいたって話を聞いたんだ。事務の仕事をやってた人で、オヤジにめちゃくちゃアプローチかけてたんだって。それをオヤジは、死んだ母ちゃん以外の女性と一緒になることは考えられないってあしらったらしい」
お母さんの想いとお父さんの想い。お互いを大切にしていて、だからこそすれ違った二つの想いを、小笠原先輩が淡々と語ります。
「部下の人はオヤジさんパねえっすって感じだったから褒めてるつもりだったんだろうけど、俺は『そうなっちゃうんだなー』って思ったんだよね。母ちゃんにはそうなる未来が見えていて、だからそうならないように手も打っていたのに、結局そうなるんだなって。なんか、すごい無力感があった」
小笠原先輩は、お父さんに再婚して欲しかったわけではないのでしょう。ただ世の中にはどうしようもない流れがあるという現実を受け入れたくなかった。人生は選べる。運命は変えられる。小笠原先輩は、そういう考え方が好きな人です。
「わたしには、そうなって欲しくないってことですか」
問いかけます。小笠原先輩の瞳に焦点が戻りました。
「どれだけ引きずるなと言っても、きっと引きずってしまう。だから踏み込みすぎないようにしよう。そういうことですか」
小笠原先輩をにらみます。小笠原先輩はいつものようにへらへらと笑い、わたしの視線を受け流しました。
「無理しなくてもいいとは、思ってるかな」
無理。――ああ。もう我慢できません。
「わたしは」
言葉を切ります。深呼吸をして空気の通り道を作り、ありったけの力を込めてお腹の底から声を出します。
「わたしは、抱いて欲しいんですよ!!」
自分の声で、きいんと耳鳴りがしました。
同時に、涙が両目から溢れてきました。たくさんの感情が一気に爆発して、自分がぐちゃぐちゃになっています。ぐちゃぐちゃの感情とぐちゃぐちゃの頭から、ぐちゃぐちゃの言葉を放ちます。
「捧げてもいいとか、覚悟できてるとか、上から目線でお許しを与えるようなことを言ってすいませんでした! わたしはそれで伝わると思ったんですけど、小笠原先輩はアホだから分からないんですよね! じゃあ言い直します! わたしは小笠原先輩が好きなんです! 好きだから抱いて欲しいんです! 無理なんて、何一つ、全くもってしていません!」
わたしはずっと、わたしのために動いていました。
同棲を断らなかったのは、わたしも同棲したいと思ったから。抱かれる覚悟を示したのは、わたしが抱かれたかったから。結婚式も、付き合うと決めたのだってそうです。わたしの世界の中心はわたし。わたしは決して、余命いくばくもない小笠原先輩のために自分を犠牲してきたわけではありません。
でも近ごろのわたしは、そんな当たり前のことを見失っていました。小笠原先輩に尽くしている気分になり、どうして許可を与えているのに手を出してこないんだろうなんて思っていました。それでは届きません。手を出したくないから手を出していないのです。ならば、わたしの方から行くしかありません。
「小笠原先輩は、違うんですか?」
涙で視界がぼやけます。小笠原先輩の顔がよく見えません。
「わたしのことが好きで、だから一緒にいるんじゃないんですか?」
右腕で涙を拭います。一瞬だけ、小笠原先輩の姿が視界から消えました。
「だったら――」
柔らかな感触が、わたしの言葉を奪いました。
涙を拭っている間に立ち上がった小笠原先輩が、わたしの唇に自分の唇を重ねています。右腕はわたしの腰に、左腕はわたしの背中に回されていました。その両方の腕にぎゅうと力を込め、わたしの首筋に顔を埋めて、小笠原先輩が囁きます。
「いいの?」
吐息が、わたしの耳たぶを熱くしました。
「本当に、いいの?」
小笠原先輩らしくない切実な響きが、鼓膜の奥にじんと響きます。わたしは両腕で小笠原先輩の背中を抱き、小さな声で答えました。
「いいとか、悪いとかじゃなくて」思っていたより、しっかりした身体。「小笠原先輩がどうしたいかを教えてください」
わたしを抱く小笠原先輩の腕から、ふっと力が抜かれました。わたしも背中に回していた腕を外し、吐息のかかる距離でお互いに顔を合わせます。小笠原先輩がいつもの眠たそうな目でわたしを見ながら、ゆっくりと唇を開きました。
「好きだから、抱かせて欲しい」
輪郭のはっきりした声が、わたしの脳をぐらりと揺らします。
「一つになりたい。一生の思い出を作りたい。未来なんてどうでもいい。今この瞬間以上に大事なものはないと思える時間を、二人で一緒に過ごしたい」
言葉が途切れました。小笠原先輩が照れくさそうにはにかみます。
「……ダメかな?」
結局、いいとか悪いとかの話になってしまいました。わたしは小笠原先輩に笑い返し、いいとか悪いとかではない、今のわたしの気持ちを素直に伝えます。
「嬉しいです」
再び、唇と唇が重なります。さっきは感じ取れなかったお酒の匂いを、小笠原先輩の吐息から感じます。甘くて、熱くて、この先に待っている出来事を予感させて、匂いだけで酔ってしまいそうでした。
足元が覚束ないぐらい船井先輩が酔っていたので、小笠原先輩は泊まっていくことを勧めましたが、新婚家庭に長居したくないと拒否されました。去り際、長野先輩から「頑張ってね」と声をかけられ、船井先輩に肩を貸している安木先輩が小さく頷きました。もしかしたら三人の間で何かしら話があったのかもしれません。
二人になった後はまず部屋を片付けて。それからサボテンの鉢植えをどこに置くか話し合いました。サボテンは風水的に気を払う力があると見なされるそうです。窓際やベランダに置くと邪気の侵入を防いでくれるそうなので、テレビ台のベランダに近い側の端に置くことにしました。
「いやー、しかし今日は飲み食いしたわ」
わたしがカーペットに腰を下ろすと同時に、小笠原先輩がソファに勢いよく倒れ込みました。そのまま仰向けになり、満足そうにお腹をさすります。
「誕生日は他にも色々祝ってくれる予定だからなー。太っちゃうかも」
「ご家族と、結婚式やったバーの人たちともお祝いするんでしたっけ?」
「うん。あとサボテンのメキシコ人」
「……メキシコ人、そんなに仲良いんですか?」
「死んだ母ちゃんの親友なんだよね。小さい頃は面倒見てもらってた」
そんなに強い繋がりだとは思っていませんでした。どうせまた小笠原先輩らしい愉快な友達なんだろうと勝手に想像していたことが恥ずかしくなります。ただ、そこまでの関係があるならば、ちゃんと言っておかないといけません。
「サボテン、本当にその人に渡さないでくださいね。わたしが育てたいので」
「んー、そうだねー」
煮え切らない返事。相変わらず、サボテン一つ残すことすら躊躇っている。わたしの未来に痕跡を残さないようにしている。
「小笠原先輩」立ち上がります。「昨日、起きてましたよね」
ソファに寝そべる小笠原先輩が、首を動かしてこちらを見やりました。
わたしは小笠原先輩の口元を見つめます。唇の間から舌先が出てきた時、それを決して見逃さないように。だけど無意味でした。小笠原先輩が身体を起こしてソファに座り直し、立っているわたしを見上げながら答えます。
「うん」
あっさりと認められ、わたしは内心たじろぎました。動揺を悟られないように背筋を伸ばします。
「起きなかったのは、応える気がなかったからですか」
「そうだね」
「どうして」
「俺のオヤジ、再婚してないじゃん」
話が急にあらぬ方向に飛びました。小笠原先輩のお父さん。結婚式の顔合わせの時に対面したいかつい顔の男性が、わたしの脳裏にふっと浮かびます。
「母ちゃんはずっと、自分が死んだら次に行っていいってオヤジに言ってたんだ。でもオヤジは、二人も子どもがいるバツイチ男と一緒になりたがる女なんていないって言い切ってた。それで実際、母ちゃんが死んだ後も浮いた話は全然なくてさ。俺もコブつきのバツイチ男はモテないんだなぐらいに思ってた」
小笠原先輩の瞳の焦点がぼやけました。目の前のわたしを見ず、自分にしか見えないものを見る目になります。
「でもある日、オヤジが家に会社の部下を連れてきて、俺はその人からオヤジに本気で惚れた女の人がいたって話を聞いたんだ。事務の仕事をやってた人で、オヤジにめちゃくちゃアプローチかけてたんだって。それをオヤジは、死んだ母ちゃん以外の女性と一緒になることは考えられないってあしらったらしい」
お母さんの想いとお父さんの想い。お互いを大切にしていて、だからこそすれ違った二つの想いを、小笠原先輩が淡々と語ります。
「部下の人はオヤジさんパねえっすって感じだったから褒めてるつもりだったんだろうけど、俺は『そうなっちゃうんだなー』って思ったんだよね。母ちゃんにはそうなる未来が見えていて、だからそうならないように手も打っていたのに、結局そうなるんだなって。なんか、すごい無力感があった」
小笠原先輩は、お父さんに再婚して欲しかったわけではないのでしょう。ただ世の中にはどうしようもない流れがあるという現実を受け入れたくなかった。人生は選べる。運命は変えられる。小笠原先輩は、そういう考え方が好きな人です。
「わたしには、そうなって欲しくないってことですか」
問いかけます。小笠原先輩の瞳に焦点が戻りました。
「どれだけ引きずるなと言っても、きっと引きずってしまう。だから踏み込みすぎないようにしよう。そういうことですか」
小笠原先輩をにらみます。小笠原先輩はいつものようにへらへらと笑い、わたしの視線を受け流しました。
「無理しなくてもいいとは、思ってるかな」
無理。――ああ。もう我慢できません。
「わたしは」
言葉を切ります。深呼吸をして空気の通り道を作り、ありったけの力を込めてお腹の底から声を出します。
「わたしは、抱いて欲しいんですよ!!」
自分の声で、きいんと耳鳴りがしました。
同時に、涙が両目から溢れてきました。たくさんの感情が一気に爆発して、自分がぐちゃぐちゃになっています。ぐちゃぐちゃの感情とぐちゃぐちゃの頭から、ぐちゃぐちゃの言葉を放ちます。
「捧げてもいいとか、覚悟できてるとか、上から目線でお許しを与えるようなことを言ってすいませんでした! わたしはそれで伝わると思ったんですけど、小笠原先輩はアホだから分からないんですよね! じゃあ言い直します! わたしは小笠原先輩が好きなんです! 好きだから抱いて欲しいんです! 無理なんて、何一つ、全くもってしていません!」
わたしはずっと、わたしのために動いていました。
同棲を断らなかったのは、わたしも同棲したいと思ったから。抱かれる覚悟を示したのは、わたしが抱かれたかったから。結婚式も、付き合うと決めたのだってそうです。わたしの世界の中心はわたし。わたしは決して、余命いくばくもない小笠原先輩のために自分を犠牲してきたわけではありません。
でも近ごろのわたしは、そんな当たり前のことを見失っていました。小笠原先輩に尽くしている気分になり、どうして許可を与えているのに手を出してこないんだろうなんて思っていました。それでは届きません。手を出したくないから手を出していないのです。ならば、わたしの方から行くしかありません。
「小笠原先輩は、違うんですか?」
涙で視界がぼやけます。小笠原先輩の顔がよく見えません。
「わたしのことが好きで、だから一緒にいるんじゃないんですか?」
右腕で涙を拭います。一瞬だけ、小笠原先輩の姿が視界から消えました。
「だったら――」
柔らかな感触が、わたしの言葉を奪いました。
涙を拭っている間に立ち上がった小笠原先輩が、わたしの唇に自分の唇を重ねています。右腕はわたしの腰に、左腕はわたしの背中に回されていました。その両方の腕にぎゅうと力を込め、わたしの首筋に顔を埋めて、小笠原先輩が囁きます。
「いいの?」
吐息が、わたしの耳たぶを熱くしました。
「本当に、いいの?」
小笠原先輩らしくない切実な響きが、鼓膜の奥にじんと響きます。わたしは両腕で小笠原先輩の背中を抱き、小さな声で答えました。
「いいとか、悪いとかじゃなくて」思っていたより、しっかりした身体。「小笠原先輩がどうしたいかを教えてください」
わたしを抱く小笠原先輩の腕から、ふっと力が抜かれました。わたしも背中に回していた腕を外し、吐息のかかる距離でお互いに顔を合わせます。小笠原先輩がいつもの眠たそうな目でわたしを見ながら、ゆっくりと唇を開きました。
「好きだから、抱かせて欲しい」
輪郭のはっきりした声が、わたしの脳をぐらりと揺らします。
「一つになりたい。一生の思い出を作りたい。未来なんてどうでもいい。今この瞬間以上に大事なものはないと思える時間を、二人で一緒に過ごしたい」
言葉が途切れました。小笠原先輩が照れくさそうにはにかみます。
「……ダメかな?」
結局、いいとか悪いとかの話になってしまいました。わたしは小笠原先輩に笑い返し、いいとか悪いとかではない、今のわたしの気持ちを素直に伝えます。
「嬉しいです」
再び、唇と唇が重なります。さっきは感じ取れなかったお酒の匂いを、小笠原先輩の吐息から感じます。甘くて、熱くて、この先に待っている出来事を予感させて、匂いだけで酔ってしまいそうでした。