余命半年の小笠原先輩は、いつも笑顔なんです

「じゃあ、バイクとか」

 四人がけテーブルの向かいで、船井先輩が口を開きました。わたしと、船井先輩の隣の安木先輩と、わたしの隣の長野先輩の三人がその続きを見守ります。

「一年の時、あいつと歩いてたらいかついバイクとすれ違ったんだよ。その時に『かっけー』って興奮してたから、もしかしてそれなんじゃない?」
「小笠原、二輪の免許ないでしょ」

 長野先輩からツッコミが入りました。たじろぐ船井先輩をフォローするように、わたしはおずおずと自分の意見を口にします。

「でも、車の免許はありますよね。そっちの可能性はありませんか? スポーツカー走らせてみたいとか……」
「いやあ、それはないと思うよ。あいつ、車の運転とか興味ないし。免許もオートマ限定だからね」

 フォローに入ったのに、即座に否定されました。「それならバイクもないですよね」という言葉が歯の裏まで出かかりましたが、ホットのキャラメルマキアートを飲んで抑え込みます。そして議論は行き詰まり、デパート地下の喫茶店の一角に重たい沈黙が生まれます。

 小笠原先輩に欲しいものがあるらしいと分かってすぐ、わたしは船井先輩たちに思い当たる節はないかと尋ねました。

 だけど誰も、はっきりとした答えは出せませんでした。その時はまだ時間があったので保留にしたのですが、気がつけばあっという間に誕生日の前日です。みんなでデパートに行き、注文しておいたブッシュ・ド・ノエルを受け取った今でも、プレゼントはまだ買えていません。何を買えばいいか分からないからです。

「もともとプレゼントは要らないって話だったんだし、もう諦めるか」

 船井先輩がギブアップを口にしました。喫茶店で話し合いを始めてから三十分。未だ何の進展も見えていないのだから、気持ちは理解できます。でも――

「でも、最後かもしれないんですよ」

 我慢できず、言葉がこぼれ落ちました。楽しいパーティの前にこういうことは言いたくなかった。だけどこうなったら、言わざるを得ません。

「小笠原先輩の誕生日をお祝いできるの、もう最後かもしれないんです。だったらやれるだけのことはやりたいじゃないですか。諦めなきゃいけなくなるまで、諦めたくないです」

 たどたどしく語ります。船井先輩が「そうだね」と呟き、アイスコーヒーに刺さっているストローに口をつけました。やっぱり、しんみりとした空気になってしまいました。わたしは俯き、どうにかならないかとムードを変える言葉を考えます。

 ずっと黙っていた安木先輩が、おもむろに口を開きました。

「理由を考えよう」

 みんなの視線が安木先輩に集まりました。安木先輩はいつものように淡々と自分の考えを説明します。

「小笠原は何でもポジティブに捉えるやつだから、何が好きかを考えても埒が明かない。だからそっちじゃなくて、小笠原が嘘をついた理由の方を考えよう。あいつが嘘をつくのは珍しいから、好きなものを考えるよりやりやすいと思う」

 確かに。小笠原先輩の好きなものを挙げていく方式だと、河原のピカピカした石ぐらいなら候補に入りかねません。だけど小笠原先輩が嘘をついた理由なら、一つに決まりそうな気がします。

「素直に考えると、高すぎて買えないものが欲しいとか?」

 船井先輩が意見を出しました。またしても長野先輩からツッコミが入ります。

「小笠原、そういう時に嘘つくかな。スペースシャトルが欲しかったら『宇宙に行ってみたくてさー、スペースシャトルが欲しいんだよね。無理だけど』みたいに言うタイプじゃない?」
「じゃあ魔法の杖みたいな、荒唐無稽なものが欲しいとか」
「同じだって。かぐや姫ばりの無理難題でも言うだけは言うでしょ」
「なら、何だと思うんだよ」
「分かるならとっくにそれを答えてる。ただ――」

 長野先輩が言葉を切りました。そして神妙な面持ちで続きを語ります。

「小笠原が欲しいのは『手に入らないもの』じゃないと思う。それならきっと嘘つかない。手に入れようと思えば手に入る、だけど『手に入れてはいけないもの』なんじゃないかな。それを口にして、本当に貰っちゃったら困るから言わなかった。そんな気がする」

 手に入れようと思えば手に入る。だけど、手に入れてはいけない。

 長野先輩の言葉を頭の中で繰り返し、考えを巡らせます。手に入れてはいけないと思っている。その理由はなぜでしょう。小笠原先輩は何を恐れているのでしょう。小笠原先輩の立場になって考えてみれば――

 ――次の誕生日はないと思うし。

「あ」

 声が漏れてしまいました。わたしはしまったと口をつぐみますが手遅れです。船井先輩がわたしに話しかけてきます。

「なにか気づいた?」

 気づきました。だけど――言えません。

「……猫、じゃないでしょうか」

 船井先輩が眉をひそめました。わたしはどう誤魔化そうか考えながら、しどろもどろに語ります。

「小笠原先輩、猫が好きなんです。だから飼いたいんじゃないかなって」
「え? また好きなものから探してたの?」
「違います。今から飼う猫ってたぶん、小笠原先輩より長生きしますよね」

 船井先輩がまぶたを上げました。詳細を語る前に伝わったようです。

「だから猫を飼っても、その子の面倒を最後まで見切れないんです。自分がいなくなった後にどうなるか分からない。誰かに頼むことは出来ますけど、それって命に対してすごく身勝手ですよね。そういうのがイヤなんじゃないでしょうか」
「確かに……ありそうだな」

 船井先輩がうんうんと頷きました。長野先輩が横から口を挟みます。

「でもそれじゃあ、結局プレゼントはできないね」
「何か代わりになるものを考えればいいだろ。猫のぬいぐるみとか」
「ぬいぐるみってペットの代わりになる?」
「じゃあ、あれだ。ペット型ロボット」
「ロボットならいなくなった後のこと考えなくてもいいよねってなるかなあ」

 船井先輩と長野先輩の話し合いが始まりました。わたしはキャラメルマキアートのカップに口をつけ、甘い熱を喉から身体に送り込みます。小笠原先輩は今、何をしているんだろう。そんなことが無性に気になりました。
 プレゼントは、サボテンに決まりました。

 金色の棘と、うさぎの耳のように平らで細長い楕円形の幹が特徴的な、ゴールデンバニーという種類のサボテンです。「猫を飼いたい」から議論を進め、小笠原先輩は動物全般好きだから猫かどうか分からないという話になり、「動物」ではなく「育てる」の方に注目し、簡単に育てられて後を継ぐ人が苦労しないものを考えてサボテンに決まりました。なんだか思いっきりズレた気もしますが、それも小笠原先輩らしいということでみんな納得しました。

 プレゼントを買って、夕食を食べてから帰ります。今日は同棲の日なので、わたしが帰る先は実家ではなくマンションです。プレゼントは当日に船井先輩が運び、ケーキはわたしが今日中にマンションに持ち込むことになったので、ブッシュ・ド・ノエルの入った袋を持って帰路に着きました。

 マンションの部屋に入ってリビングに向かうと、小笠原先輩はソファに寝転んでテレビのバラエティ番組を観ていました。タレントに合わせて「あはは!」と笑う声を聞きながら、わたしは冷蔵庫にケーキの箱をしまいます。

「夕飯は、船井くんたちと食べてきたんだよね?」

 小笠原先輩が話しかけてきました。わたしは冷蔵庫を離れて、小笠原先輩に歩み寄ります。

「はい。小笠原先輩は何を食べたんですか?」
「カップ麺」
「もうちょっといいもの食べましょうよ」
「明日はご馳走作ってくれるんでしょ。なら今日は控えめにしないと」

 小笠原先輩がにやりと唇を歪めました。期待してるよという笑み。小笠原先輩の本当に欲しいものに気づく前のわたしなら、期待されていることを素直に喜べたのでしょうか。気づいてしまった今となっては分かりません。

「……任せてください」

 ぎこちなく笑い返します。わたしは誤魔化すのがへたくそで、小笠原先輩は察するのが得意です。すぐ、わたしの異変に気付きました。

「どしたの? 体調悪い?」

 大丈夫です。そう答えようとしますが、声にならず俯いてしまいます。どこかに上手い言い訳が落ちていないか探すように部屋を見渡し、そして、テレビ台の上に置いてある小さな直方体の箱に目が行きます。

 トランプ。

「あの」顔を上げます。「ポーカーしません?」

 テレビから大きな笑い声が上がりました。笑うところじゃないのに。神さまの演出に不満を覚えつつ、わたしは小笠原先輩に向かって語ります。

「聞きたいことがあるんです。だから前、船井先輩たちとアイス買いに行く人を決めた時みたいに、ポーカーで勝負して勝ったら教えてください」
「聞けばいいじゃん。勝負する必要ある?」
「……聞きたくないとも思ってるんです」

 小笠原先輩が不思議そうに首を傾げました。気持ちは分かります。むしろわたしはわたしの気持ちの方が分かりません。分からなくて結論が出ないから、退くか進むか誰かに決めて欲しくなっている。

「まあ、いっか」

 小笠原先輩がソファを離れ、トランプの箱を手に取りました。そしてローテーブルの近くであぐらを掻き、箱から出したトランプをシャッフルし始めます。テーブルを挟んだ対面に正座するわたしに、小笠原先輩が話しかけてきました。

「チェンジは一回でいい?」
「はい」
「自分でもシャッフルしとく?」
「いいです。イカサマはしないと信じています」
「そもそも、出来ないしね」

 小笠原先輩が笑いました。そしてシャッフルを止めて五枚をわたしに寄越し、自分の五枚取って山札をテーブルに置きます。わたしの手札は、最初からエース三枚のスリーカードが出来ていました。めちゃくちゃ強いです。

 小笠原先輩がトランプを三枚捨て、三枚山札から引きました。三枚交換している時点でスリーカードはなくて、初手は最大でもワンペア。仮にワンペアだとすると三枚チェンジした後はフルハウスかフォーカードが出来ていない限り、わたしのエースのスリーカードを上回れません。

 わたしは二枚のトランプを交換します。ペアは引けず、もう一枚のエースが来てフォーカードになることもなく、エースのスリーカードのままでした。トランプを見つめて緊張するわたしに、小笠原先輩が話しかけてきます。

「じゃあ、オープンしていい?」

 わたしはごくりと唾を飲みました。おそらくこの勝負はわたしが勝ちます。勝ったらわたしは小笠原先輩に自分の疑惑をぶつけることになります。そうなった時、わたしたちはどうなるのでしょう。一つ確実に言えるのは、このままゆるゆると同棲を続ける関係はまず保てません。

「――いいです」

 細く息を吸い、わたしは手札をテーブルの上に明かしました。エースのスリーカードを見た小笠原先輩が「つよっ!」と声を上げます。わたしの勝ち――

「まあ、俺の方が強いけど」

 パサッ。

 小笠原先輩がトランプをテーブルに広げました。ハートのフラッシュ。つまり交換しなかった二枚はワンペアではなくハート二枚であり、同じ柄が二枚あるだけの最低な状態から三枚同じ柄を引く豪運を発揮されたことになります。そしてポーカーの役はスリーカードの上がストレートで、その上がフラッシュ。――わたしの負けです。

「どうする?」

 小笠原先輩が問いかけてきました。たった四文字の言葉から、わたしは無数の意味を読み取ります。自分はどうしたいのか。どうするべきなのか。たくさんのカードを頭の中にずらりと並べて、並べられたカードの前でうんうんと悩んで、何も選ばずに終わります。

「……お風呂沸かしてきます」

 わたしは立ち上がり、お風呂場に向かいました。数分しか正座していないのに、やけに足に力が入らずふらふらします。リビングを出る時、背後からまたテレビのタレントが笑う声が聞こえて、本当に理不尽だとは思いますが、わたしはそのタレントのことが少し嫌いになってしまいました。
 お風呂が沸くまでの間、小笠原先輩と一緒にテレビを観ました。

 テレビを観ながら話もしましたが、ついさっきのポーカーの話題は欠片も出てきませんでした。お風呂が沸いたらまずわたしが入り、出た後は髪を乾かして寝室のベッドに潜り込みます。そしてわたしが寝入る前に小笠原先輩がベッドに入って来て、すぐにわたしの隣で寝息を立て始めました。

 いつもの流れ。いつもの景色。だけどわたしはいつも通りではありません。目を開けて天井を見つめます。暗がりに浮かぶLED照明のカバーを見つめながら、小笠原先輩と過ごした日々を思い返し、言葉の砲弾を組み上げていきます。

 同棲を始めてから、勝手に決まっていったことが色々とあります。

 ゴミを捨てるのは小笠原先輩。洗濯物を干して取り込むのはわたし。料理はほとんど外食ですが、作る時はわたしが作って、後片付けを小笠原先輩がやる。そうやって何となく決まったことの中に、お風呂に入る順番があります。わたしが先です。

 お風呂の後は寝るだけなので、わたしはだいたいすぐベッドに入ります。遅くまで二人で起きていて、同時に入ったことはありますが、小笠原先輩の方が先に入ったことは一度もありません。それなのに小笠原先輩がわたしより後に寝入ったことも、これまで一度もありません。小笠原先輩は毎回、必ず、びっくりするような速さで気持ちよく眠りについてしまいます。

 ありえないでしょう。

「起きてますか」

 天井に問いかけます。返事はありません。構わず、続けます。

「今日、船井先輩たちと誕生日パーティのケーキを買うついでに、小笠原先輩へのプレゼントも買ったんです。これ以上は何も要らないって言ってましたけど、それが嘘なのは分かっていたので、みんなで小笠原先輩の欲しいものを考えました」

 嘘なのは分かっている。逃げ道を塞ぐため、強い言葉で断定します。

「最初のうちは、いくら考えても分かりませんでした。小笠原先輩は色々なものが好きな人だから、何が好きかを考えてもキリがなかった。だから小笠原先輩が好きなものじゃなくて、小笠原先輩が嘘をついた理由を考えました。そうしたらすぐに分かったんです。小笠原先輩の欲しいものが」

 自分の胸に手を乗せて、わたしは喉奥から声を絞り出しました。

「わたしですよね」

 初めて同じベッドで眠った時も、わたしはこうやって小笠原先輩に話しかけていました。あの日の小笠原先輩は、わたしの言葉を聞いていたのでしょうか。聞いていたとして、どう思ったのでしょうか。

「思い返せば、小笠原先輩はずっと、自分がいずれいなくなることをアピールしていました。本当の結婚式に取っておいた方がいいからと、式にわたしの家族を呼ばなかったり、ウェディングドレスを着せなかったりもしました。残された時間をわたしと一緒に過ごしたい。でも、わたしの思い出に残りすぎたくはない。その二つの間で揺れ動いていました」

 長野先輩はわたしに、小笠原先輩の希望を受け入れすぎないよう忠告しました。小笠原先輩はいなくなってしまうのだから、いなくなった後の人生にまで影響を及ぼすような頼みは聞かないようにと。それは正しいと思います。でもそんなこと、他の誰よりも、小笠原先輩が痛感しているに決まっているのです。

「船井先輩たちに、わたしの気づきは言いませんでした。だから明日の誕生日プレゼントはわたしではありません。でもわたしは、小笠原先輩のためにわたしを捧げても構いません。そうなる覚悟はできています」

 上半身を起こし、隣の小笠原先輩を見下ろします。小笠原先輩は目を閉じて一定のリズムで胸を上下させています。

「三十秒待ちます。応える気があるなら、起きて下さい」

 三十。

 二十九、二十八、二十七、二十六、二十五、二十四、二十三、二十二、二十一、二十、十九、十八、十七、十六、十五、十四、十三、十二、十一、十、九、八、七、六、五、四、三、二、一。

「――おやすみなさい」

 布団を被り直し、目をつむります。まぶたの裏に涙がにじみ、頬からつうと流れ落ちます。何が悲しいのか、自分でもはっきりとは分かりません。だけど悲しくてたまらないことだけは、疑いようもなく確かでした。
 翌日の昼、わたしは小笠原先輩とスーパーに買い物に行きました。

 パーティで振る舞う料理の食材と、お酒を買うためです。小笠原先輩のリクエストはから揚げとハンバーグとコロッケ。小学生が好きな食べもの上から三つみたいなレパートリーですが、主賓が望んでいるので従うしかありません。一応、いくらなんでも茶色すぎるので、わたしの権限でサラダも入れさせて貰いました。

 お昼から夕方までは、ひたすら料理に励みました。料理の経験はそこまでないのですが、から揚げもハンバーグもコロッケも作ったことがあったので、それほど困らずに進めることは出来ました。ただコロッケはお弁当に入れるような一口サイズのものに挑戦し、中にチーズも仕込んだので、少し手間取ってしまいました。

 午後五時を回った頃から、みんなが集まり始めました。

 最初に現れたのは船井先輩でした。紙袋にプレゼントのサボテンを入れて来て、小笠原先輩に「それなに?」と中を覗かれそうになり「少し落ち着け!」と怒っていました。次に安木先輩、最後に長野先輩が来ました。その頃には料理はほとんど出来上がっていて、みんなは盛り付けを手伝ってくれました。

 午後六時頃、パーティが始まりました。料理を並べたローテーブルの上に、ブッシュ・ド・ノエルを乗せた紙皿を置きます。そして大きなろうそくを二本と小さなろうそくを一本立てて火をつけ、みんなで「ハッピー・バースデー」を歌います。一番大きな声で歌っていたのは小笠原先輩で、安木先輩はおそらく口パクでした。

「二十一歳おめでとー!」
「ありがとー!」

 みんなから拍手を受けながら、小笠原先輩がろうそくの火を吹き消しました。そうか、まだ二十一歳なんだ。分かっていたはずのことを改めて意識します。

「じゃあ、これ、俺らからのプレゼントな」

 船井先輩が待機させていた紙袋に手を入れ、中からサボテンの鉢植えを取り出しました。サイズは下から両手のひらにすっぽりと収まるぐらい。小笠原先輩が鉢植えを受け取って感想を口にしました。

「かわいー。ゴールデンバニーだよね、これ」
「知ってんのか?」
「うん。知り合いにサボテンを色々育ててるメキシコ人がいて、その人に教えてもらった。サボテンと言えばメキシコだよね。死んだらその人に引き取ってもらお」
「わたしが引き取りますよ」

 大切にしようと思っていたサボテンが見知らぬメキシコ人のところに行きそうになり、わたしは慌てて口を挟みました。小笠原先輩がへらへら笑いながら「えー」と声を上げます。

「でもさー、元カレのサボテン育てるの、なんか微妙じゃない?」

 ――あ。

 昨日の夜の感情が、ぶわっと押し寄せて来ました。また、わたしの思い出に残ることを避けようとしている。悔しくて、悲しくて、でもそれを言葉に出来なくて、代わりに涙が溢れそうになります。

「……そんなことないですよ」

 わたしはケーキの乗った紙皿を手に取り、「切り分けて来ます」と言ってキッチンに逃げ込みました。そしてひっそりと深呼吸をして気持ちを整えます。今日はめでたい誕生日。泣くのは絶対に、我慢しないといけません。

 ケーキを包丁で切り分けます。切り分けたケーキとフォークを五枚の小皿に乗せ、まずは二つをテーブルに運びます。その後に残った三つを運び、わたし以外はアルコールを、わたしはりんごジュースをそれぞれのコップに注いで準備完了。主賓のはずの小笠原先輩が、なぜか率先して音頭を取ります。

「かんぱーい!」

 みんなでコップをぶつけ合います。運動会の徒競走前に鳴るピストルのように、カンカンと硬質な音が響いてパーティの始まりを告げます。小笠原先輩がから揚げを口に入れ、「おいしー」と言って幸せそうに笑いました。
「ほんとにさー、なんでさー、お前なんだよー」

 顔を真っ赤にした船井先輩が、小笠原先輩の肩に腕を回して絡みます。小笠原先輩もほんのりと頬は上気していますが、様子はいつもと変わりません。けろりとした顔で重たいことを言い放ちます。

「しょうがないじゃん。俺も死にたくないけど、俺なんだし」
「なんでだよー。お前より死んでいいやつ山ほどいるだろー」
「そうかな。俺、マジで社会に貢献してないよ?」
「んなこと、どうでもいいだろ! 自信持てええええ!」

 船井先輩が小笠原先輩を抱きしめて叫びました。船井先輩は声が大きいです。隣の人が怒鳴り込んで来たらどうしようと不安になります。

「船井、うるさい。他人の家だよ?」
「俺んちならいいのかよ」
「いいに決まってるでしょうが」

 船井先輩と長野先輩が、口論とじゃれあいの間みたいなやりとりを始めました。小笠原先輩はそんな二人を見て楽しそうに笑い、安木先輩は黙々とお酒を飲み続けています。パーティが始まってからおよそ一時間。食べものはほとんど無くなり、すっかりお酒を飲みながら話す会になっています。

 こういう空気になると、未成年でお酒を飲めないわたしはどうしても浮いてしまいます。いつもならそれはそれで楽しいのですが、今日はひどく寂しいです。みんなに置いて行かれているような、そんな気がしてしまいます。

「……外の風に当たって来ます」

 小声で呟き、一人でこっそりとリビングからベランダに出ます。マンスリーマンションがあるような住宅街は背の高い建物が多く、展望はあまり良くありません。それでも手すりに身を乗り出して夜の街を眺め、暗がりに浮かぶ灯りの中の生活を想像すると、人の営みの重さを感じて心が震えます。

 たくさんの灯。たくさんの命。たくさんの想い。

「何見てるの?」

 背中から、長野先輩の声が届きました。振り返るよりも早く、長野先輩がわたしの隣に並んでベランダの手すりに腕を乗せます。

「いつもごめんね。一人だけお酒飲めないのに、勝手に盛り上がって」
「いいですよ。酔ってるみんなを見るのも楽しいですから」
「じゃあ、どうして今は楽しそうじゃないの?」

 痛いところを突かれ、言葉に詰まりました。長野先輩が右のひとさし指を伸ばし、指先をリビングの方に向けます。

「サボテン……っていうか、ペット」

 何を言われるか察しました。予想通りの言葉が長野先輩の口から飛び出します。

「違うんでしょ?」
「……はい」

 誤魔化せる自信も、誤魔化す気力もありませんでした。長野先輩が「やっぱり」と得意げに呟いて夜空を仰ぎます。

「ペットを飼いたいけど死んだ後が不安だから飼えないって話なら、普通にそう言うよね。自分がいなくなった後のことを考えてるのは小笠原らしいけど、欲しいものはペットじゃない。そう思ったら、答えは一つしか出て来なかった」

 わたしは俯き、ベランダの手すりを掴んでいる指に力を込めました。自分の手の甲が張っているのを見つめ、声を絞り出します。

「寝つくのが、いつも異常に早いんです」

 どこかから車のクラクションの音が聞こえました。それが合図だったように、わたしの口から言葉が堰を切ってあふれ出します。

「わたしたち、だいたいわたしが先にベッドに入って後から小笠原先輩が来るんですけど、わたしが先に寝ついたことは一回もないんです。本当にいつもすぐに寝る。あれは絶対、ベッドの上でわたしと向き合うのを避けています」
「そんなに早いの?」
「測ってませんけど、たぶん一分以内です」
「……ないね」
「だから昨日の夜、寝たふりをしている小笠原先輩に、わたしは覚悟できてるって言ったんです。でも、届きませんでした。小笠原先輩は寝たふりを続けて、さっきもサボテンはわたしが育てない方がいいって……」

 語っているうちに、またしても涙がこぼれそうになりました。わたしは必死にそれを堪えます。長野先輩はきっと許してくれる。だけど甘えてはいけない。そうやって自分を鼓舞し、心の安定を図ります。

 ポン。

 長野先輩の手がわたしの肩に乗りました。――ああ、もうダメだ。わたしは無様に泣いてしまう未来を受け入れ、長野先輩の方に向き直りました。

 眉間にしわを寄せ、不機嫌そうに顔を歪めた長野先輩が、冷たい口調で冷たい言葉を放ちました。

「届くわけないでしょ、そんなの」

 やるべきことをやっていない人間に対する厳しい評価。一瞬で涙を引っ込めたわたしに、長野先輩が追い打ちをかけてきます。

「痛いけど我慢するから大丈夫ですって言われて、じゃあ遠慮なく痛いことしようってなる? 覚悟できてるってそういうことだからね。そんなこと言っても無駄なのは当たり前じゃない」
「でも、じゃあどうすれば……」
「ガチで分からないの?」

 長野先輩がため息を吐きました。わたしは口をつぐんで縮こまります。長野先輩はそんなわたしをしばらく眺めた後、唇をゆるめて優しく笑いました。

「世界の中心は、小笠原じゃないんでしょ?」

 ――わたしの世界の中心は、わたしだよ。

 かつて自分の出した声が、他人の声のようにわたしの頭に響きました。長野先輩がベランダの手すりから離れてわたしの背中を軽く叩きます。

「しっかりしなよ。私も船井も安木も、二人のことは応援してるんだから」

 長野先輩がリビングに戻りました。わたしは戻らず、ガラス戸越しに室内に目をやります。船井先輩に絡まれて笑っている小笠原先輩を見つめながら、ここ最近のわたしが考えていたことを、秋風に吹かれながら脳内で反芻します。

 小笠原先輩に満足して欲しい。残された人生を全力で謳歌して欲しい。そのために出来るだけのことをしてあげたい。わたしの人生を、小笠原先輩のために使ってあげたい。

 ――嘘です。
 船井先輩たちは、夜十時ごろに帰りました。

 足元が覚束ないぐらい船井先輩が酔っていたので、小笠原先輩は泊まっていくことを勧めましたが、新婚家庭に長居したくないと拒否されました。去り際、長野先輩から「頑張ってね」と声をかけられ、船井先輩に肩を貸している安木先輩が小さく頷きました。もしかしたら三人の間で何かしら話があったのかもしれません。

 二人になった後はまず部屋を片付けて。それからサボテンの鉢植えをどこに置くか話し合いました。サボテンは風水的に気を払う力があると見なされるそうです。窓際やベランダに置くと邪気の侵入を防いでくれるそうなので、テレビ台のベランダに近い側の端に置くことにしました。

「いやー、しかし今日は飲み食いしたわ」

 わたしがカーペットに腰を下ろすと同時に、小笠原先輩がソファに勢いよく倒れ込みました。そのまま仰向けになり、満足そうにお腹をさすります。

「誕生日は他にも色々祝ってくれる予定だからなー。太っちゃうかも」
「ご家族と、結婚式やったバーの人たちともお祝いするんでしたっけ?」
「うん。あとサボテンのメキシコ人」
「……メキシコ人、そんなに仲良いんですか?」
「死んだ母ちゃんの親友なんだよね。小さい頃は面倒見てもらってた」

 そんなに強い繋がりだとは思っていませんでした。どうせまた小笠原先輩らしい愉快な友達なんだろうと勝手に想像していたことが恥ずかしくなります。ただ、そこまでの関係があるならば、ちゃんと言っておかないといけません。

「サボテン、本当にその人に渡さないでくださいね。わたしが育てたいので」
「んー、そうだねー」

 煮え切らない返事。相変わらず、サボテン一つ残すことすら躊躇っている。わたしの未来に痕跡を残さないようにしている。

「小笠原先輩」立ち上がります。「昨日、起きてましたよね」

 ソファに寝そべる小笠原先輩が、首を動かしてこちらを見やりました。

 わたしは小笠原先輩の口元を見つめます。唇の間から舌先が出てきた時、それを決して見逃さないように。だけど無意味でした。小笠原先輩が身体を起こしてソファに座り直し、立っているわたしを見上げながら答えます。

「うん」

 あっさりと認められ、わたしは内心たじろぎました。動揺を悟られないように背筋を伸ばします。

「起きなかったのは、応える気がなかったからですか」
「そうだね」
「どうして」
「俺のオヤジ、再婚してないじゃん」

 話が急にあらぬ方向に飛びました。小笠原先輩のお父さん。結婚式の顔合わせの時に対面したいかつい顔の男性が、わたしの脳裏にふっと浮かびます。

「母ちゃんはずっと、自分が死んだら次に行っていいってオヤジに言ってたんだ。でもオヤジは、二人も子どもがいるバツイチ男と一緒になりたがる女なんていないって言い切ってた。それで実際、母ちゃんが死んだ後も浮いた話は全然なくてさ。俺もコブつきのバツイチ男はモテないんだなぐらいに思ってた」

 小笠原先輩の瞳の焦点がぼやけました。目の前のわたしを見ず、自分にしか見えないものを見る目になります。

「でもある日、オヤジが家に会社の部下を連れてきて、俺はその人からオヤジに本気で惚れた女の人がいたって話を聞いたんだ。事務の仕事をやってた人で、オヤジにめちゃくちゃアプローチかけてたんだって。それをオヤジは、死んだ母ちゃん以外の女性と一緒になることは考えられないってあしらったらしい」

 お母さんの想いとお父さんの想い。お互いを大切にしていて、だからこそすれ違った二つの想いを、小笠原先輩が淡々と語ります。

「部下の人はオヤジさんパねえっすって感じだったから褒めてるつもりだったんだろうけど、俺は『そうなっちゃうんだなー』って思ったんだよね。母ちゃんにはそうなる未来が見えていて、だからそうならないように手も打っていたのに、結局そうなるんだなって。なんか、すごい無力感があった」

 小笠原先輩は、お父さんに再婚して欲しかったわけではないのでしょう。ただ世の中にはどうしようもない流れがあるという現実を受け入れたくなかった。人生は選べる。運命は変えられる。小笠原先輩は、そういう考え方が好きな人です。

「わたしには、そうなって欲しくないってことですか」

 問いかけます。小笠原先輩の瞳に焦点が戻りました。

「どれだけ引きずるなと言っても、きっと引きずってしまう。だから踏み込みすぎないようにしよう。そういうことですか」

 小笠原先輩をにらみます。小笠原先輩はいつものようにへらへらと笑い、わたしの視線を受け流しました。

「無理しなくてもいいとは、思ってるかな」

 無理。――ああ。もう我慢できません。

「わたしは」

 言葉を切ります。深呼吸をして空気の通り道を作り、ありったけの力を込めてお腹の底から声を出します。


「わたしは、抱いて欲しいんですよ!!」


 自分の声で、きいんと耳鳴りがしました。

 同時に、涙が両目から溢れてきました。たくさんの感情が一気に爆発して、自分がぐちゃぐちゃになっています。ぐちゃぐちゃの感情とぐちゃぐちゃの頭から、ぐちゃぐちゃの言葉を放ちます。

「捧げてもいいとか、覚悟できてるとか、上から目線でお許しを与えるようなことを言ってすいませんでした! わたしはそれで伝わると思ったんですけど、小笠原先輩はアホだから分からないんですよね! じゃあ言い直します! わたしは小笠原先輩が好きなんです! 好きだから抱いて欲しいんです! 無理なんて、何一つ、全くもってしていません!」

 わたしはずっと、わたしのために動いていました。

 同棲を断らなかったのは、わたしも同棲したいと思ったから。抱かれる覚悟を示したのは、わたしが抱かれたかったから。結婚式も、付き合うと決めたのだってそうです。わたしの世界の中心はわたし。わたしは決して、余命いくばくもない小笠原先輩のために自分を犠牲してきたわけではありません。

 でも近ごろのわたしは、そんな当たり前のことを見失っていました。小笠原先輩に尽くしている気分になり、どうして許可を与えているのに手を出してこないんだろうなんて思っていました。それでは届きません。手を出したくないから手を出していないのです。ならば、わたしの方から行くしかありません。

「小笠原先輩は、違うんですか?」

 涙で視界がぼやけます。小笠原先輩の顔がよく見えません。

「わたしのことが好きで、だから一緒にいるんじゃないんですか?」

 右腕で涙を拭います。一瞬だけ、小笠原先輩の姿が視界から消えました。

「だったら――」

 柔らかな感触が、わたしの言葉を奪いました。

 涙を拭っている間に立ち上がった小笠原先輩が、わたしの唇に自分の唇を重ねています。右腕はわたしの腰に、左腕はわたしの背中に回されていました。その両方の腕にぎゅうと力を込め、わたしの首筋に顔を埋めて、小笠原先輩が囁きます。

「いいの?」

 吐息が、わたしの耳たぶを熱くしました。

「本当に、いいの?」

 小笠原先輩らしくない切実な響きが、鼓膜の奥にじんと響きます。わたしは両腕で小笠原先輩の背中を抱き、小さな声で答えました。

「いいとか、悪いとかじゃなくて」思っていたより、しっかりした身体。「小笠原先輩がどうしたいかを教えてください」

 わたしを抱く小笠原先輩の腕から、ふっと力が抜かれました。わたしも背中に回していた腕を外し、吐息のかかる距離でお互いに顔を合わせます。小笠原先輩がいつもの眠たそうな目でわたしを見ながら、ゆっくりと唇を開きました。

「好きだから、抱かせて欲しい」

 輪郭のはっきりした声が、わたしの脳をぐらりと揺らします。

「一つになりたい。一生の思い出を作りたい。未来なんてどうでもいい。今この瞬間以上に大事なものはないと思える時間を、二人で一緒に過ごしたい」

 言葉が途切れました。小笠原先輩が照れくさそうにはにかみます。

「……ダメかな?」

 結局、いいとか悪いとかの話になってしまいました。わたしは小笠原先輩に笑い返し、いいとか悪いとかではない、今のわたしの気持ちを素直に伝えます。

「嬉しいです」

 再び、唇と唇が重なります。さっきは感じ取れなかったお酒の匂いを、小笠原先輩の吐息から感じます。甘くて、熱くて、この先に待っている出来事を予感させて、匂いだけで酔ってしまいそうでした。
 理由もなく、目が覚めました。

 ベッドボードのスマホを手に取って時間を確認すると、夜中の三時でした。わたしは上体を起こし、隣で眠っているパジャマ姿の小笠原先輩を見下ろします。気持ちよさそうな寝顔を眺めてしばらく和みますが、一向に眠気が戻ってこないので、何かして時間を潰そうとベッドから下りてリビングに向かいます。

 リビングの電気をつけると、テレビ台の上のサボテンが目につきました。指先で棘に触れると緑色の部分がぷるぷると揺れ、不思議なかわいらしさを覚えました。いい買い物をしたかもしれません。

 ふと、ベランダに続くガラス戸が視界に入りました。虫が光に惹かれるように、ふらふらとガラス戸に歩み寄って外に出ます。ベランダの手すりに腕を、その腕の上に顎を乗せて、もうほとんど灯が消えてしまった街をぼんやりと眺めます。

 トントン。

 左肩をつつかれ、わたしはそちらを向きました。しかし左には誰もおらず、右を向くと小笠原先輩がにやりとほくそ笑んでいます。左手を大きく回して右から左肩をつつく。古典的ないたずらです。

「起こしちゃいました?」
「うん。まあ、いいけどね。明日忙しいわけでもないし」

 小笠原先輩がんーっと伸びをしました。ふくらんだ喉仏がいつもより気になるのはなぜでしょう。胸が高鳴ります。

「ごめんね」
「え?」
「俺は自制心がなくて、やりたいことはすぐにやっちゃうから、油断しちゃいけないと思ってたんだ。同棲したいことだって黙っておこうと思ってたのに、言えそうな流れになってポロッと言っちゃうし。だから寝たふりまでして遠ざけてた。でも――」

 月明かりの中で、小笠原先輩が儚げに笑いました。

「自己満だったわ。だから、ごめん」

 謝り慣れていないのか、言い方がどこかぎこちないです。わたしは小笠原先輩に笑い返しました。

「今日まで我慢できたんだから、自制心あると思いますよ」

 風が吹きました。小笠原先輩が「どうも」と呟き、わたしの隣に立って夜の街を眺めます。

「そういえばあのサボテン、結構目立つね」
「そうですね。意外と存在感あります」
「せっかくだし名前つけようか。サボ子とかどう?」
「女の子なんですか?」
「サボ夫の方が良かった?」

 そういうことではないのですが、じゃあどういうことかというと言語化しにくいので黙りました。小笠原先輩が腕を組み、「サボ美、サボ彦、サボ助……」とひねりのない名前を延々と呟き始めます。

「じゃあ、リカルドは?」
「なんでいきなり路線変更したんですか?」
「メキシコの男の子の名前なんだけど、変かな」
「変っていうか……そもそもなんで名前つけたいのか分からないんですけど」
「だって愛着湧くでしょ。俺がいなくなった後も大事にして欲しいし」

 少し前は残すことすらためらっていたのに、いきなりいなくなった後も大事にして欲しい。驚くわたしと向き合い、小笠原先輩が口を開きました。

「三月生まれだよね」
「わたしですか? そうですよ。うお座っぽいって言われました」
「誕生日には、指輪を買うよ」

 指輪。恋人同士がお互いを意識するためにつける定番のアイテム。小笠原先輩が穏やかに微笑みます。

「俺たちの名前を彫った、俺たち以外には意味がないペアリングを作って贈る。俺たちが恋人だった証を形にして残す。楽しみに待ってて」

 小笠原先輩の口元を見つめます。唇から舌先は出ていません。わたしは逸る気持ちを抑えきれず、小さな子どものように元気よく返事をしました。

「はい!」









 この時の私は、いくつかのことに気づいていませんでした。

 小笠原先輩が、どれだけわたしを想っていたかということ。

 小笠原先輩が、どれほどの覚悟を抱いていたかということ。

 そして――

 それでも小笠原先輩は、いなくなってしまうんだということ。




 その日は金曜日で、晴れていました。

 冷たく乾いた風が吹いていて、わたしはニットのカーディガンの袖口に手を隠しながら、いよいよ秋が去って冬が来たことを実感していました。今夜食べるものを考えつつ、大学帰りに小笠原先輩と同棲しているマンションに向かいます。今日は三日続く同棲期間の一日目。一日目はいつも外食ですが、明日はお鍋をつついてもいいかもしれないと、少し先の計画を立てて楽しくなります。

 マンションに着きました。部屋のすぐ傍でロングコートとマフラーを身に着けた男性とすれ違い、わたしも本格的に冬服を用意しないとなあとぼんやり思います。実家に置いてある冬物を思い出して、どれをどうやって持ってくるか考えながら手なりでドアノブを回します。

 ガチャ。

 ノブが回らず、考えていたことが一気に吹き飛びました。小笠原先輩は自分がいる時は鍵をかけないので、鍵が閉まっているということは小笠原先輩がいないということです。休日に早くから出向く時ならともかく、大学帰りにマンションに行って小笠原先輩が待っていなかったことは、今まで数えるほどしかありません。

 財布から鍵を取り出して、玄関のドアを開けます。ブーツを脱いでリビングに入っても小笠原先輩はいませんでした。寝室も覗いてみますがやはりいません。

 今まで小笠原先輩がいなかった時は、全て散歩に出かけていました。とりあえず待ってみようとソファに座ってテレビを観ますが、三十分経っても小笠原先輩は現れません。無意味に部屋をうろついたり、結局「サボ太郎」という名前がついたゴールデン・バニーの鉢植えを手入れしてみたりして、気持ちを落ち着かせます。

 外が暗くなってきました。ここまで来ると現れないのはさておき、連絡がないのはおかしいです。スマホを手に取ってLINEを開き、小笠原先輩にメッセージを送ります。

『何時ごろ来ますか?』

 スマホを見つめ、既読の表示がつくのを待ちます。しかし一向につきません。三十分待って何もなかったら今度は電話しよう。そう考えて、インスタントコーヒーを飲むために電気ケトルでお湯を沸かします。

 コーヒーカップの準備をしている最中、ローテーブルに置いたスマホが小刻みに震え出しました。わたしは作業の手を止めてスマホを掴みます。そしてディスプレイに映る名前を見て、強く眉をひそめました。

『小笠原俊樹』

 通話を繋ぐと、すぐに「俊樹です」という声が聞こえました。得体の知れない不安に襲われ、心臓の鼓動が早まっていきます。

「どうしたの?」
「……今日が同棲の日だって気づかなくて、連絡遅れました。すいません」

 そんなことは聞いていません。何が起こったのかを聞いているのです。早く答えて欲しい。

「お兄ちゃんに何かあった?」

 数秒間、沈黙がありました。早く、早く。逸る気持ちを抑えきれなくなりそうなわたしの耳に、俊樹くんの暗い声が届きます。

「倒れました」

 カチャ。電気ケトルのお湯が沸き、スイッチが勝手に切り替わりました。

「今は入院しています。しばらく退院できそうにないです。そのうち兄貴からも連絡があると思いますが、この後に病院の名前をLINEするので、時間がある時にお見舞いに来てください」
「大丈夫なの?」
「分かりません」

 すぐに返事が来ました。こう聞かれたらこう答えようと決めていた早さです。

「本当に分からないんです。今は状況だけ知っておいて下さい」
「……分かった。俊樹くんも無理しないでね」
「はい。ありがとうございます。では」

 通話が切れました。わたしはスマホを持ったまま、ソファに座ってしばらくぼうっとします。そして体感では数秒、実際は数分経ってから立ち上がり、電気ケトルのお湯でコーヒーを淹れて飲みました。