わたしと小笠原先輩が同棲しているマンションは、大学から見てわたしの実家とは逆方向にあります。
いつもとは逆方向の電車に乗って、いつもは下りない駅でおりて、いつもは歩かない道を歩きます。前回の同棲中で発見したパン屋さんに立ち寄って、わたしも小笠原先輩も激推しのクリームパンを二つ買って、一緒に食べることを考えながらマンションを目指します。この程度のことがとても楽しいです。だから満足してしまっていたのかもしれません。十分に幸せだから、それ以上を求めなくなっていた。
マンションに着きました。エレベーターで上の階に向かい、玄関のドアを開けて部屋に入ります。鍵はかかっていません。小笠原先輩は今、大学にもアルバイトにも行っていないので、わたしが大学帰りにマンションに行くとだいたい先に居ます。自分が中に居ても鍵をかける人はいくらでもいますが、小笠原先輩は鍵どころかドアが半開きになっていても気にしなさそうです。何なら鍵の一本を「いつでも遊びに来ていいよ」と船井先輩に渡していたりします。
「ただい……」
「お前、それズルだろ!」
小笠原先輩の叫び声。どうやら誰か来ているようです。わたしは船井先輩を想像しながらリビングに入り、小笠原先輩と一緒にテレビゲームをしている学生服の男の子を見て「あ」と声を上げました。
「お邪魔してます」
カーペットの上であぐらを掻いている俊樹くんが、わたしに向かって頭を下げました。小笠原先輩は俊樹くんの隣で仰向けに倒れています。なぜ倒れているのかは分かりませんが、テレビには対戦格闘ゲームのリザルト画面が映っているので、たぶんコテンパンにやられたのでしょう。
「久しぶり。部屋を見にきたの?」
「いえ。学校帰りに兄貴とたまたま会って、なんか連れてこられました」
「お! それ、あのクリームパン?」
小笠原先輩が身体を起こして話しかけてきました。わたしはパン屋さんの袋に目をやります。
「はい。でも二個しか買ってないんですよね。俊樹くんがいるならもう一個買ってきたんですけど」
「俺はいいですよ。兄貴と二人で食べてください」
俊樹くんが気をつかってくれました。小笠原先輩の弟とは思えないぐらいによく出来たいい子です。でも小笠原先輩は、小笠原先輩でした。
「食えよ。マジで激ウマだから」
「でも二個しかないんだろ」
「いいよ。俺の分は自分で買ってくるから」
小笠原先輩が立ち上がりました。わたしと俊樹くんが突飛な行動に驚く中、小笠原先輩は平然と問いかけてきます。
「他に買ってきて欲しいものある?」
「え? えっと、じゃあ、ミネラルウォーター」
「りょーかい」
小笠原先輩がリビングから出ていきました。流れに置いて行かれてフリーズするわたしに、わたしより早くフリーズから復帰した俊樹くんが声をかけます。
「なんか、すいません」
俊樹くんの謝罪で、わたしもフリーズから復帰しました。ソファに座って俊樹くんと向き合います。
「謝らなくていいよ。俊樹くんは連れてこられただけで、わたしがクリームパン買ってるなんて分かるわけないんだし」
「そこじゃないです。兄貴はあんな感じで自由だから、同棲生活でも迷惑かけてるんだろうなと思って」
「そんなことないよ」
「本当ですか? 夜中にいきなり『ラーメン食いたくなったから食いに行こう』とか言って連れ出されたりしてません?」
――しました。深夜、唐突に「なんか明太子な気分」と言われて、駅前の居酒屋に明太子を食べに行きました。わたしはデート気分で楽しんでいましたが、確かに捉えようによっては迷惑かもしれません。
「そういうの、断っていいですからね。イヤだけど断りにくい人の気持ちが分からないから、イヤなら断ればいいじゃんってノリで声かけてるんですよ」
なるほど。さすが弟だけあって、小笠原先輩のことをよく理解しています。わたしは小笠原先輩と出会ってまだ半年ですし、船井先輩たちも二年半。年下の家族として十年以上は振り回されてきたであろう俊樹くんこそが、小笠原先輩の真の理解者なのかもしれません。
――そりゃ家族とかには勝てないかもしれないけど。
「俊樹くん」
お兄ちゃんの好きな女性のタイプって、分かる?
お昼の会話から連想した質問を、わたしは危ういところで留めました。兄の彼女からの質問としてあまりにも不自然です。軌道修正を図ります。
「お兄ちゃんの好きなケーキって、分かる?」
「ケーキですか?」
「うん。あと半月ぐらいでお兄ちゃんの誕生日でしょ。俊樹くんも家族でご飯食べに行くって聞いたけど、わたしたちもこの部屋でパーティするの。でもどんなバースデーケーキを用意すればいいか分からなくて…‥」
「ケーキ……」
俊樹くんが顎に手を当てました。真面目に考えてくれていて、誤魔化すために適当に出した質問であることを申し訳なく感じます。
「強いて言うなら、ブッシュ・ド・ノエルかな」
「それってクリスマスに食べる薪みたいなやつだよね?」
「そうです。子どもの頃、兄貴は誕生日もあれだったんですよ。兄貴がそうして欲しいって言ったから」
「へー」
いい情報を聞きました。さすが、兄弟です。
「ねえ。お兄ちゃんのこと、もっと色々聞いていい? わたし、俊樹くんが当たり前に知ってることも知らないと思うから」
「そうなんですか?」
「うん。でも同棲までしてるのにそれは情けないでしょ。だからもっと、わたしだけが知ってることを増やしていきたくて」
「それなら、俺に聞いても意味なくないですか?」
ずばりと言い切られ、わたしの返事が止まりました。俊樹くんはバツが悪そうに視線を逸らします。
「俺に聞いても、俺の知ってることしか出てこないですよ。自分だけしか知らないことって、誰かに聞くんじゃなくて自分で発見するものだと思うんですけど……」
説教のようになったのを気にしてか、最後の方は言い淀んでいました。わたしはわたしで、年下の子に正しいことを言われてしまった恥ずかしさで小さくなります。俊樹くんの言う通りです。俊樹くんが小笠原先輩のことをよく知っているのは小笠原先輩と接してきたから。誰かに教わったからではありません。
「……じゃあ、一つだけ教えますね」
気まずい雰囲気の中、俊樹くんが右のひとさし指をピッと立てました。
「兄貴が嘘をついた後にやる癖があるんですけど、気づいてますか?」
「そんな癖があるの?」
「はい。漫画のキャラがすっとぼける時に舌出したりしますよね。たぶんあのイメージで顔が動いて、唇から舌がちょっと出るんです。こんな風に」
俊樹くんが自分の唇を指さして、そこから舌先をちろりと覗かせました。確かにこれを毎回やるなら分かりやすいです。
「嘘ついてそうだなって時にガン見してください。兄貴は適当にはぐらかすことはあっても嘘はあまり言わないんで、役に立たないかもしれませんが」
「分かった。助かる」
「あと、それと――」
俊樹くんが、何か言いかけて口を閉じました。そしてしばらく迷っているような素振りを見せた後、真剣な眼差しをして続きを語ります。
「兄貴は、好きでもない人間と同棲するタイプでは絶対にないんで、そこは安心していいと思いますよ」
――本当に、よく出来た弟さんです。わたしは俊樹くんを心配させないよう、にっこりと明るく笑いました。
「ありがと」
いつもとは逆方向の電車に乗って、いつもは下りない駅でおりて、いつもは歩かない道を歩きます。前回の同棲中で発見したパン屋さんに立ち寄って、わたしも小笠原先輩も激推しのクリームパンを二つ買って、一緒に食べることを考えながらマンションを目指します。この程度のことがとても楽しいです。だから満足してしまっていたのかもしれません。十分に幸せだから、それ以上を求めなくなっていた。
マンションに着きました。エレベーターで上の階に向かい、玄関のドアを開けて部屋に入ります。鍵はかかっていません。小笠原先輩は今、大学にもアルバイトにも行っていないので、わたしが大学帰りにマンションに行くとだいたい先に居ます。自分が中に居ても鍵をかける人はいくらでもいますが、小笠原先輩は鍵どころかドアが半開きになっていても気にしなさそうです。何なら鍵の一本を「いつでも遊びに来ていいよ」と船井先輩に渡していたりします。
「ただい……」
「お前、それズルだろ!」
小笠原先輩の叫び声。どうやら誰か来ているようです。わたしは船井先輩を想像しながらリビングに入り、小笠原先輩と一緒にテレビゲームをしている学生服の男の子を見て「あ」と声を上げました。
「お邪魔してます」
カーペットの上であぐらを掻いている俊樹くんが、わたしに向かって頭を下げました。小笠原先輩は俊樹くんの隣で仰向けに倒れています。なぜ倒れているのかは分かりませんが、テレビには対戦格闘ゲームのリザルト画面が映っているので、たぶんコテンパンにやられたのでしょう。
「久しぶり。部屋を見にきたの?」
「いえ。学校帰りに兄貴とたまたま会って、なんか連れてこられました」
「お! それ、あのクリームパン?」
小笠原先輩が身体を起こして話しかけてきました。わたしはパン屋さんの袋に目をやります。
「はい。でも二個しか買ってないんですよね。俊樹くんがいるならもう一個買ってきたんですけど」
「俺はいいですよ。兄貴と二人で食べてください」
俊樹くんが気をつかってくれました。小笠原先輩の弟とは思えないぐらいによく出来たいい子です。でも小笠原先輩は、小笠原先輩でした。
「食えよ。マジで激ウマだから」
「でも二個しかないんだろ」
「いいよ。俺の分は自分で買ってくるから」
小笠原先輩が立ち上がりました。わたしと俊樹くんが突飛な行動に驚く中、小笠原先輩は平然と問いかけてきます。
「他に買ってきて欲しいものある?」
「え? えっと、じゃあ、ミネラルウォーター」
「りょーかい」
小笠原先輩がリビングから出ていきました。流れに置いて行かれてフリーズするわたしに、わたしより早くフリーズから復帰した俊樹くんが声をかけます。
「なんか、すいません」
俊樹くんの謝罪で、わたしもフリーズから復帰しました。ソファに座って俊樹くんと向き合います。
「謝らなくていいよ。俊樹くんは連れてこられただけで、わたしがクリームパン買ってるなんて分かるわけないんだし」
「そこじゃないです。兄貴はあんな感じで自由だから、同棲生活でも迷惑かけてるんだろうなと思って」
「そんなことないよ」
「本当ですか? 夜中にいきなり『ラーメン食いたくなったから食いに行こう』とか言って連れ出されたりしてません?」
――しました。深夜、唐突に「なんか明太子な気分」と言われて、駅前の居酒屋に明太子を食べに行きました。わたしはデート気分で楽しんでいましたが、確かに捉えようによっては迷惑かもしれません。
「そういうの、断っていいですからね。イヤだけど断りにくい人の気持ちが分からないから、イヤなら断ればいいじゃんってノリで声かけてるんですよ」
なるほど。さすが弟だけあって、小笠原先輩のことをよく理解しています。わたしは小笠原先輩と出会ってまだ半年ですし、船井先輩たちも二年半。年下の家族として十年以上は振り回されてきたであろう俊樹くんこそが、小笠原先輩の真の理解者なのかもしれません。
――そりゃ家族とかには勝てないかもしれないけど。
「俊樹くん」
お兄ちゃんの好きな女性のタイプって、分かる?
お昼の会話から連想した質問を、わたしは危ういところで留めました。兄の彼女からの質問としてあまりにも不自然です。軌道修正を図ります。
「お兄ちゃんの好きなケーキって、分かる?」
「ケーキですか?」
「うん。あと半月ぐらいでお兄ちゃんの誕生日でしょ。俊樹くんも家族でご飯食べに行くって聞いたけど、わたしたちもこの部屋でパーティするの。でもどんなバースデーケーキを用意すればいいか分からなくて…‥」
「ケーキ……」
俊樹くんが顎に手を当てました。真面目に考えてくれていて、誤魔化すために適当に出した質問であることを申し訳なく感じます。
「強いて言うなら、ブッシュ・ド・ノエルかな」
「それってクリスマスに食べる薪みたいなやつだよね?」
「そうです。子どもの頃、兄貴は誕生日もあれだったんですよ。兄貴がそうして欲しいって言ったから」
「へー」
いい情報を聞きました。さすが、兄弟です。
「ねえ。お兄ちゃんのこと、もっと色々聞いていい? わたし、俊樹くんが当たり前に知ってることも知らないと思うから」
「そうなんですか?」
「うん。でも同棲までしてるのにそれは情けないでしょ。だからもっと、わたしだけが知ってることを増やしていきたくて」
「それなら、俺に聞いても意味なくないですか?」
ずばりと言い切られ、わたしの返事が止まりました。俊樹くんはバツが悪そうに視線を逸らします。
「俺に聞いても、俺の知ってることしか出てこないですよ。自分だけしか知らないことって、誰かに聞くんじゃなくて自分で発見するものだと思うんですけど……」
説教のようになったのを気にしてか、最後の方は言い淀んでいました。わたしはわたしで、年下の子に正しいことを言われてしまった恥ずかしさで小さくなります。俊樹くんの言う通りです。俊樹くんが小笠原先輩のことをよく知っているのは小笠原先輩と接してきたから。誰かに教わったからではありません。
「……じゃあ、一つだけ教えますね」
気まずい雰囲気の中、俊樹くんが右のひとさし指をピッと立てました。
「兄貴が嘘をついた後にやる癖があるんですけど、気づいてますか?」
「そんな癖があるの?」
「はい。漫画のキャラがすっとぼける時に舌出したりしますよね。たぶんあのイメージで顔が動いて、唇から舌がちょっと出るんです。こんな風に」
俊樹くんが自分の唇を指さして、そこから舌先をちろりと覗かせました。確かにこれを毎回やるなら分かりやすいです。
「嘘ついてそうだなって時にガン見してください。兄貴は適当にはぐらかすことはあっても嘘はあまり言わないんで、役に立たないかもしれませんが」
「分かった。助かる」
「あと、それと――」
俊樹くんが、何か言いかけて口を閉じました。そしてしばらく迷っているような素振りを見せた後、真剣な眼差しをして続きを語ります。
「兄貴は、好きでもない人間と同棲するタイプでは絶対にないんで、そこは安心していいと思いますよ」
――本当に、よく出来た弟さんです。わたしは俊樹くんを心配させないよう、にっこりと明るく笑いました。
「ありがと」