余命半年の小笠原先輩は、いつも笑顔なんです

 鴨志田さんと別れて、次の目的地に向かいます。

 丹波先生と鴨志田さんは、二人ともわたしの行ったことのない土地に住んでいました。だから電車に乗って向かう先も初めて降りる駅でした。でも次は違います。つい最近降りました。小笠原先輩の家の最寄り駅だからです。

 駅前の喫茶店に入ります。また二人がけのテーブルを集めて六人テーブルを作り、飲み物を頼んで相手を待ちます。わたしはアイスカフェオレを頼みました。船井先輩がストローでアイスコーヒーを飲んでいる俊樹くんに声をかけます。

「なあ。君は本当にここにいていいのか?」

 俊樹くんがストローから口を離しました。そして淡々と質問に答えます。

「ダメでしょうか」
「ダメってことはないけど……」
「なら、同行させて下さい。邪魔はしないようにしますから」

 俊樹くんが再びストローに口をつけました。船井先輩が心配そうにその様子を見つめます。気持ちは分かります。分かりますが、俊樹くんが退くわけありません。今日ついて来たのはこの撮影のため。丹波先生や鴨志田さんはおまけです。

 三つ編みの女の子が、喫茶店に入ってきました。

 女の子がわたしたちを見つけ、ゆっくりと歩いてきます。丸い輪郭の醸し出す幼くてかわいらしい印象が、白ブラウスに赤いスカートというどこかレトロなスタイルによく似合っています。ビデオレターを撮る相手に選んだ三人の中で、この子だけ事前に姿を確認できていません。小笠原先輩の卒業アルバムにいないからです。

 女の子がわたしたちの傍で足を止めました。そしてわたしたちではなく、俊樹くんに声をかけます。

「久しぶり。元気?」
「元気。とりあえず座れば?」

 俊樹くんに促されて、女の子がわたしの隣の椅子に座りました。この子と小笠原先輩が。想像しようとして、想像できなくて、想像を止めます。

 飯村沙也香さん。わたしの一つ下の高校三年生。

 小笠原先輩の、昔の彼女です。
 小笠原先輩の家のトイレの前で、わたしは俊樹くんにビデオレターのことを話しまし、お兄さんの元カノからメッセージを貰いたいからコンタクトを取る方法を教えて欲しいと頼みました。

 彼女を理由に小笠原先輩と俊樹くんが揉めた話を聞いたことも、正直に話しました。俊樹くんに「野次馬ですか」と批難され、わたしは「そうなるかもしれないけど、それで終わらせたくはない」と答えました。俊樹くんはしばらく考えて、自分も撮影について行くと言い出しました。わたしは理由を聞かずに頼みを受け入れ、そして、今日に至ります。

 カメラに映らない位置に待機して、インタビューをする船井先輩とそれに答える飯村さんを観察します。船井先輩もぎこちないですが飯村さんはそれ以上です。両肩を大きく上げ、正面の船井先輩に集中せず、小まめにわたしの隣の俊樹くんに視線を送ってきています。

「じゃあ、弟くんが開く勉強会に参加して、勉強を教えて貰ったのが小笠原との出会いってことでいいのかな」
「はい」
「そこからどうやって仲を深めたの?」
「ええっと……」

 飯村さんがまた俊樹くんを見やりました。そして微動だにしない俊樹くんを確認してから、おそるおそる語り出します。

「ある日、小笠原さんからクラスメイトに面白い少女漫画を教えてもらった話を聞いたんです。その漫画をわたしはたまたま全巻持っていたので、話の流れで貸すことになったんですよ」
「なるほど」
「ただその漫画、面白いけれど腑に落ちないところもあって、それが主人公の恋のライバルの扱いなんです。いい子なんですよ。自分の想いに正直で、積極的にヒーローの男の子にアプローチをかけていて、わたしは主人公より断然好きでした。ただ物語の中でその子には何も救いが与えられていないんですね。だから奥手な主人公に負けるのは仕方ないにしても、何か欲しかったなあって思ってました」

 いまいちピンと来ていない船井先輩の隣で、長野先輩が首を縦に振って共感を示します。わたしも分かります。恋愛もの少女漫画のメインカップルは付き合っていないだけで最初から両想いなことも多く、そんな負け試合をひっくり返し行くライバルが魅力的に見えることも時にはあります。

「でもネットの感想だとそんな意見はほぼないんですよ。それどころか、ライバルの子にバチが当たってないのが許せないみたいな感想まであったりして……わたしは小笠原さんがそういう感想だったらイヤだなと不安に思っていました。でも読み終わった漫画を返してもらう時に、こう言われたんです」

 飯村さんが唇が、ふわりとほころびました。

「面白かったけど、ライバルの子が報われないのおかしいでしょって」

 ――本当に、好きだったんだなあ。

 何よりも強くそう思いました。付き合ったと言えるかどうか怪しいぐらいの付き合いだったけれど、抱いていた想いは本物だった。今のわたしと同じ気持ちが飯村さんにもちゃんとあったことがはっきりと分かります。

「わたしはそこから小笠原さんを意識するようになりました。そのうち我慢できなくなって、告白することにしました。それでラブレターを書いて……弟くんに渡して貰ったんです。弟くんには小笠原さんのことを色々聞いたりして、相談にも乗ってもらっていたので」

 飯村さんが俊樹くんを見やりました。俊樹くんは黙って動きません。飯村さんが正面に向き直り、語りを再開しました。

「ラブレターの返事はLINEで来ました。OKでもNGでもなく、会って話したいから一回デートしようという内容でした。デートは楽しかったです。ずっとこの時間が続けばいいと思いました。小笠原さんが考えていたのは――」
「俺のことだろ」

 俊樹くんがいきなり口を開きました。視線が俊樹くんに集まり、安木先輩が構えているハンディカムのレンズも俊樹くんに向けられます。

「兄貴は、俺と飯村をどうくっつけるか考えてたんだろ。飯村が『わたしのこと好きなの?』って聞いてきたの、覚えてるよ。『お兄さんがそう言ってた』って」

 俊樹くんが自嘲気味に笑いました。飯村さんが小さくなって俯きます。

「見下されてるよな。カブトムシの雄と雌を同じケースに入れて幼虫生まれないかなーみたいな、そんな感じ。俺にも飯村にも失礼だよ」
「……そんなつもりはなかったと思うよ」
「どうして分かるんだよ」
「聞いたから」

 飯村さんが、顔を大きく上げました。

 澄んだ瞳に見つめられ、俊樹くんが顎を引きます。飯村さんは揺るぎません。唇を大きく開き、今までよりも芯のある声を放ちます。

「お兄さんは、小笠原くんがもうわたしに告白しないって見抜いてたの」

 呼び方が変わりました。わたしたちへの言葉ではないことが伝わります。

「小笠原くんは真面目だから、兄貴に振られたみたいだからじゃあ俺が付き合うねとは絶対にならない。このままだと全員がちょっとずつ不幸になって、誰も幸せにならない。だからわたしに小笠原くんの気持ちを教えたの。流れに任せるよりも幸せな未来があるなら、目指すだけでも目指しておきたいって」

 苦しそうに、飯村さんがブラウスの上から心臓の辺りをギュッと掴みました。

「わたしのことだって、ちゃんと考えてくれてたよ。好きになれるかどうか確かめるためにデートしたんだって。お兄さんがわたしを好きになれるなら、そういう結末も不幸なだけじゃないから。……無理だったけど」

 飯村さんが口を閉じました。わたしも船井先輩たちも何も言えずに黙ります。わたしたちがわたしたちの撮影のためにセッティングした場ですが、もはや主導権はわたしたちにありません。何かを言っていいのは、飯村さんと――

「すいません」俊樹くんが立ち上がりました。「やっぱり外にいます。終わったら呼びに来て下さい」

 俊樹くんが早足で歩き出し、あっという間に喫茶店から出ていきました。みんなが呆気に取られて固まる中、飯村さんがこわごわと船井先輩に話しかけます。

「撮影、変な感じになっちゃってすいません」
「いいよ。編集で何とかするから」

 飯村さんがほっと胸を撫でおろしました。そして今度はわたしの方を向き、息を深く吸ってから意を決したように話しかけてきます。

「あの……聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」
「なに?」
「小笠原さんは、わたしのことをどういう風に紹介してましたか?」

 わたしは人の気持ちに鋭い方ではありません。だけどその時は、飯村さんがどのような気持ちでわたしに声をかけたのか手に取るように分かりました。わたしは小笠原先輩から聞いた内容を少し脚色し、分かりやすくして飯村さんに伝えます。

「元カノだって言ってたよ」

 たった一回デートをしただけでも、ちゃんと「付き合った」と言っていた。今の恋人を相手に、昔の話とか何もしていないとか取り繕うことなく、昔の恋人だと紹介していた。だから、大丈夫。心配しなくていい。あなたはちゃんと、小笠原先輩の思い出になれている。

 飯村さんが口元を手で隠し、その裏で幸せそうに笑いました。

「そうですか」

 変な人を好きになって、お互い大変だよね。視線でそう語りかけます。空気を理解していない船井先輩が「元カノなんだから当たり前だろ」と口を挟み、わたしも飯村さんも含み笑いを浮かべました。
 撮影の後、わたしたちは喫茶店に残って打ち合わせを行うことにしました。

 飯村さんとは別れ、ついでに外にいる俊樹くんを呼んで欲しいと頼みました。話があるなら遅くなっても良いと言ったのですが、俊樹くんは飯村さんが出ていってすぐ入れ替わるように戻って来ました。「ご迷惑をおかけしました」と頭を下げて、わたしの隣の席に座ります。

「じゃあ、構成はこんな感じで。脚本は安木、編集とナレーションはマイな」
「船井は何もしないの?」
「俺は当日の司会があって忙しいから」
「受付とか会場設営とか、僕たちもやることあるけど」

 打ち合わせが進む中、わたしはちらちらと俊樹くんを見やります。俊樹くんは打ち合わせに参加せず、かと言ってスマホを弄ったりするわけでもなく、じっとみんなの様子を眺めていました。船井先輩が大きく伸びをして愚痴をこぼします。

「にしても、一か月後に結婚式やりたいから準備よろしくはふざけてるよな」
「本職より準備期間短いからね。まー、でもいつものことだし」

 長野先輩が明るく笑いました。いつものこと。そう、いつものことです。小笠原先輩が自由奔放なのも、そんな小笠原先輩にわたしたちが振り回されるのもいつものこと。だから気にすることはない。本気に、深刻に、受け止める必要はない。

 そういう態度が、きっと納得いかなかったのでしょう。

「皆さんは兄貴のこと、ムカつかないんですか」

 ずっと押し黙っていた俊樹くんが、いやに大きな声で場に割って入りました。会話を止めたみんなに見つめられながら、俊樹くんが語りを続けます。

「自分勝手に他人を振り回す兄貴に、腹は立たないんですか。自分が世界の中心みたいな態度を取られて、ふざけんなとか思わないんですか。皆さんみたいな人たちが兄貴を甘やかすから、兄貴はいつまで経ってもあのままなんじゃないんですか」

 俊樹くんが唇を噛み、わたしたち全員をざっと見渡しました。わたしたちはお互いに顔を見合わせて、最初に答える人間を無言の多数決で決定します。票が一番多く集まったのは、わたしと長野先輩と安木先輩に見つめられた船井先輩でした。

「ムカついたことは無いって言ったら、それは嘘になるわな」

 船井先輩の野太い声が、ずしりと響きます。

「後先考えねえし、めんどくせえことは全部丸投げするし、それでこっちがどんだけ苦労しても気にしねえし。俺が借りたレンタカーを無断でパクってデート行かれた時はどうしようかと思ったよ。生きた心地がしなかった」

 船井先輩にじろりとにらまれ、わたしは肩をすくめました。その節はどうもすいません。

「ただ『バカにされてる』みたいに思ったことは、これまで一度もないんだよな。逆に信頼を感じる。お前なら大丈夫だろって、そう言われてる気がするんだ。それが気持ち良くて、何だかんだ期待に応えたくなるのかもしれない」

 船井先輩が隣の長野先輩を見やりました。お前の番だぞというメッセージ。長野先輩が軽く身を乗り出します。

「私は正直、ムカついたことはない。でもそれはたまたまだと思ってる。あの性格で誰一人ムカつかないわけがないもの。君が鴨志田さんに言ったように、ただの結果論でしかないよ」

 手持ち無沙汰に髪をかき上げ、長野先輩が余裕のある微笑みを浮かべました。

「でも世の中に結果論じゃないものって、どれぐらいあるんだろうね。私はほとんどないと思うよ。私はムカつかない。君はムカつく。それでいいとじゃない。ムカつかないのはおかしいみたいなテンションで来られても、お姉さん困っちゃうかな」

 からかうような言い方で、言葉の強さを和らげます。長野先輩が私のターンは終わったとばかりに身体を引きました。続けて安木先輩が無表情で口を開きます。

「君は、服を買った方がいいと思う」

 俊樹くんが目を見開いて固まりました。頭の上に見えない「?」が浮かんでいるのが分かります。ここまでほとんど喋っていないので、俊樹くんは安木先輩の「AのためにBをしたいからまずCをしよう」のCから話を始める癖を知りません。

「最初に君が言った『フォーマルな場だからフォーマルな服で来た』という話を、僕は過剰適応だと感じた。君はたぶんあるべき姿を目指す気持ちが強くて、それを他人にも要求しがちなんだと思う。でも人間は個性の塊で、簡単に型には嵌まらない」

 一度口にしたAのためのBのためのCを、安木先輩が再び繰り返します。

「だから君は、服を買った方がいい。自分に似合う服を、自分のために。そうすれば自分と他人のままならなさに気づく」

 心を見透かしたような台詞を聞き、俊樹くんは黙って目を伏せました。いくらか思い当たる節があるのでしょう。そして図星をつかれてムキにならない程度には、他人の言葉を受け入れる用意もある。

「俊樹くん」わたしだって。「自分が世界の中心って、そんなに悪いことかな」

 小笠原先輩の家で俊樹くんと話した時から、ずっと思っていました。自分が世界の中心だと思うことと、周りの人間を引き立て役だと思うことは違います。

「わたしは俊樹くんのお兄さんのことが好き。好きだから許してることだって確かにある。それが俊樹くんには、私がお兄さんの言いなりになって、お兄さんを調子づかせているように見えたのかもしれない。でもね――」

 胸に手を当てます。背筋を伸ばし、肺から上がってきた空気を声に変換します。

「わたしの世界の中心は、わたしだよ。小笠原先輩じゃない」

 ――全部やろう。

 イベントサークル潰しをやった時、小笠原先輩はわたしたちにアイディアを求めました。そして集まった意見を全て実行しました。小笠原先輩は自分が世界の中心だと思っています。そして人の数だけ世界があることを認めています。

 わたしは小笠原先輩の世界の恋人役ではありません。

 わたしの世界の、主人公です。

「……トイレ行ってきます」

 ボソリと呟き、俊樹くんがテーブルから離れました。残されたわたしたちはその背中を見送ってから、テーブルを挟んでお互いに顔を見合わせます。船井先輩が軽く首をひねりました。

「やっぱ、連れてこない方が良かったんじゃないか?」
「そんなことないですよ」

 即座に否定を返します。流れに任せるよりも幸せな未来があるなら、目指すだけでも目指しておきたい。飯村さんから聞いた小笠原先輩の言葉を思い浮かべながら、わたしは繰り返します。

「そんなことないです」

 長野先輩が「そうだね」と頷きました。そして話は結婚式の打ち合わせに戻り、そのうちに俊樹くんが戻ってきます。わたしたちが話し合っている間、俊樹くんはテーブルの下で組んでいる自分の手を見つめ、ずっと何かを考え続けていました。
 結婚式当日。わたしと小笠原先輩は式の開始時間よりもだいぶ早く会場のバーに向かい、従業員控え室で正装に着替えました。

 わたしはピンク色のドレスで、小笠原先輩はタキシード。どちらもレンタルです。純白のウェディングドレスを用意しなかったのは、小笠原先輩が「親御さんの来ないパーティでそれ着ちゃうのはナシでしょ」と言ったから。だったら結婚式をすること自体どうなのとは思いましたが、大筋では納得できたので従いました。

 着替えた後はその場で待機。最初はあまり緊張していませんでしたが、時間が経つにつれて店内が賑わっていくのがドア越しに分かり、どんどんと身体が強張っていきました。パイプ椅子に座ってそわそわしているわたしに、小笠原先輩が立って話しかけてきます。

「緊張してる?」
「してます。逆に、しないんですか?」
「俺はワクワクするかなー。早くみんなを驚かせたいって思っちゃう」
「別に驚きはしないと思いますけど」
「そうかな。まあ何にせよ、家族とか親戚が来てるわけでもないんだし、肩の力抜いていいと思うよ」

 家族。密かに気になっていたワードを小笠原先輩が口にしました。すさかず乗っかって探りを入れます。

「今日、お父さんは何か言ってましたか?」
「ハメを外すなって言われた。信頼されてないよね」
「弟さんは?」

 小笠原先輩の頬がぴくりと動きました。そしてバーのフロアに繋がっているドアを見やり、わたしに表情を見せないようにして答えます。

「特に、何も」

 返事が胸に重たくのしかかりました。ビデオレターの撮影以降、わたしは俊樹くんと会えていません。結婚を認めて欲しい、祝福して欲しいと思いつつ、さすがに聞くことはできずにずっとモヤモヤしていました。やはりあの一日ぐらいでは何も変わっていないのでしょうか。

 小笠原先輩がパイプ椅子をわたしの向かいに置き、その上に座りました。そして背中を前に傾け、わたしと目線の高さを合わせます。

「気になる?」

 大丈夫です。そんな強がりが頭に浮かびました。だけど言えずに、目を伏せて別の言葉を呟きます。

「わたしって、パセリなんですよ」

 ずっと考えていたことをいきなり口にしたら、安木先輩並みに意味不明な言葉になってしまいました。小笠原先輩が不思議そうに目を丸くします。

「小笠原先輩がハンバーグだとしたら、わたしはパセリなんです。グリルチキンやエビフライみたいに、同じ鉄板に乗ってメニューに名前が出るような存在じゃない。少なくとも弟さんにはそう見えているはずです。だからわたしが自分の意志で付き合っていると思えなかったんじゃないかと」

 俊樹くんは人を振り回す小笠原先輩が嫌いでした。そしてそんな小笠原先輩を調子づかせる、大人しく振り回される人たちも嫌い。だからわたしは俊樹くんに、自分が振り回されているだけではないことを伝えました。

 ただ、もしわたしが小笠原先輩に負けないほど力強い人間だったら、俊樹くんは最初からわたしを「振り回されている」とは認識しなかったでしょう。小笠原先輩の世界の中心が小笠原先輩であるように、わたしの世界の中心はわたしです。だけどそれが周りに伝わるかどうかは別の話。釣りあいが取れているかどうか判断するのは、当人たちではないのです。

「パセリねー」

 小笠原先輩が腕を組み、パイプ椅子の背もたれに身体を預けました。あまり綺麗とは言い難い天井を見上げ、椅子をギシギシと軋ませながら呟きます。

「だとしたらあいつ、人を見る目がないね」

 小笠原先輩が反らしていた背中を元に戻しました。そしてわたしに向かって、にっと笑います。

「こんな濃いパセリありえないでしょ。どんだけ自分のこと美化するの」
「……卑下してるつもりだったんですけど」
「そうなの? じゃあめちゃくちゃ変な子だから、自信持っていいよ」

 わたしは目を見開きました。小笠原先輩が首を傾げます。

「自覚なかったんだ」
「ないですよ。いつからそう思ってたんですか?」
「割と最初から」
「最初から!?」

 驚きを露わにします。小笠原先輩がぽりぽりと頬を掻きました。

「今年サークルに入った女の子、みんなすぐ来なくなったでしょ。なのに一人で店に来て、一人で練習して、一人で帰ったりしてたじゃん。それ見て面白い子だなって思ってたんだよね。真面目にビリヤードしに来てるから」
「ビリヤードのお店にビリヤードをしに行くの、普通じゃないですか?」
「サークルは人間関係目当ての人の方が多いでしょ。ビリヤード上手いならともかくガチの素人だし。目の前のことに一生懸命で、なんていうか――」

 小笠原先輩が目を細め、いつものようにゆるい感じで笑いました。

「こういう子とずっと一緒にいられたら、人生楽しいだろうなって思った」

 ガチャ。

 部屋奥のドアが開き、レディーススーツを着た長野先輩が現れました。そして「そろそろだから準備しといて」と言って引っ込みます。わたしたちはしばらく無言で顔を見合わせ、そして、ほとんど同時に苦笑いを浮かべました。

「わたしも、小笠原先輩みたいな人と一緒にいたら人生楽しいと思います」
「ありがと。ところで、一ついい?」
「なんでしょう」
「呼び方とか、敬語とか、いつまで続けるの?」
「……変えた方がいいですか?」
「いや。やりやすいのでいいよ。俺は無理されるのが一番イヤ」
「分かりました。じゃあ、変える気になるまでこのままやらせてください」
「オッケー」

 ドアの向こうから、来賓に着席を促す船井先輩の声が聞こえました。小笠原先輩が立ち上がり、右の親指を立ててドアを示します。

「俺たちがお似合いの二人だってこと、みんなに見せつけてやろう」

 お似合いの二人。わたしは微笑み、首を縦に振りました。

「はい」
「それでは、新郎新婦のご入場です!」

 船井先輩の声が目の前のドアを震わせました。まもなくドアが開き、わたしは小笠原先輩と腕を組んでバーのフロアに歩き出します。来賓用の客席はほとんど埋まっており、わたしは拍手の嵐に思わず尻込みしそうになりましたが、小笠原先輩は得意気に笑って余裕綽々といった様子でした。

 床に敷かれている赤絨毯の上を歩き、テーブルにシーツをかけて作った高砂に辿り着きます。わたしたちが高砂の後ろに座り、拍手の音が会場から消えると、船井先輩が式の始まりを高らかに宣言しました。わたしはごくりと唾を飲み、とりあえず姿勢だけは良くしようと背筋を伸ばします。

 まずは新郎の挨拶。小笠原先輩は「パーティ楽しんでね」ぐらいのことをすごくゆるい感じで語りました。次は新婦の挨拶。わたしは「よろしくお願いします」ぐらいのことを全身カチコチになって語りました。

 そしていよいよ、わたしたちのサプライズが発動します。

「新郎、新婦、ありがとうございました。では続きまして、仲人の方からお祝いの御言葉を……と言いたいところですが、残念ながらこの結婚式に仲人はおらず、親族も来ておりません。ですが新郎に縁深い方々から、ビデオレターという形で祝言を受け取っております」

 船井先輩がこちらをちらりと見やりました。小笠原先輩の様子を確認して、再び司会に戻ります。

「今からそのビデオレターを流させて頂きます。では、どうぞ」

 会場の電気が消え、設置したイベント用スクリーンに映像が流れ始めました。小学生時代の小笠原先輩と丹波先生の写真を背景に、長野先輩のナレーションが説明を加える映像を眺め、小笠原先輩が懐かしそうに目を細めます。

 丹波先生。鴨志田さん。そして、飯村さん。大切な人からのメッセージを聞いている小笠原先輩は、終始うっすらと笑っていて幸せそうでした。やがて「ご結婚おめでとうございます」という〆のナレーションが流れ、会場が明るくなります。大きな拍手が起こる中、小笠原先輩がわたしの方を向いて優しく笑いました。

「ありがとう。こういうの、すごく嬉しいよ」

 満足げな小笠原先輩を見て、わたしは強い喜びを覚えます。良かった。協力した甲斐があった。わたしは新婦だから撮影にはついて行っただけだし、映像にも出番はなかったけれど、頑張ったことをちゃんと察してくれて――

 ――ん?

「なんでわたしが関わってるって知ってるんですか?」

 暗闇が、小笠原先輩の顔を覆いました。

 会場の電気が再び消え、来賓の方々がざわつき始めます。全く予定になかった展開に驚き、わたしは慌てて船井先輩を見やりました。そして挙動不審に周囲を見渡す姿を目にし、わたしと同じく事態についていけてないことを察します。

 小笠原先輩の方に向き直ります。小笠原先輩はわたしを見つめて唇の端を吊り上げていました。船井先輩とは反対の落ち着いた態度を前にして、わたしは控え室で小笠原先輩から聞いた言葉をふと思い出します。

 ――早くみんなを驚かせたいって思っちゃう。

 新しい映像がスクリーンに投影され、場がだいぶ明るくなりました。会場中の視線がスクリーンに集まります。映っているのは和室に正座して、困ったようにはにかむおばあちゃん。丹波先生です。

『えー、ではこれから新郎プレゼンツ、サプライズ返しの逆ビデオレターを撮りたいと思いまーす!』

 底抜けに明るい声が、スピーカーを通して会場に響きました。
『オープニングとか作れないから、まず説明するね。これ観てるってことは俺へのビデオレターは観たでしょ。あれ、俺の仲間と嫁さんからのサプライズなんだけど、ある筋から情報が漏れてきてさ。なんかやり返したくなっちゃったのね。そんでビデオレターの相手に俺がインタビューして、今度は俺の嫁さんへのメッセージを引き出したら面白いんじゃないかなって思った。そんな感じです』

 スクリーンの丹波先生が、やれやれという風に小さく首を振りました。小笠原先輩らしいと思っているのでしょう。わたしも同感です。やり返されているのがわたし自身でなければ、微笑ましく映像を観られたと思います。

『じゃあさっそく聞きたいんだけど、俺の嫁さんの印象どうだった?』
『そうねえ……優しい子、かしら』
『どうしてそう思ったの?』
『実はね、小笠原くんと同じように、わたしも余命宣告を受けているの』
『え』

 しばらく沈黙が流れた後、丹波先生が『そんな顔しないで』と笑いました。撮り手の小笠原先輩は映っていませんが、どんな顔かは何となく分かります。

『その話をあの子にして、小笠原くんに伝えてと言った。そうしたらあの子は、二人でまた来るから伝えませんと答えたわ。その時に本当に優しい子だと思ったのよ。小笠原くんもこの子のこういうところを好きになったんだろうなって』
『そうだね。他にもいいところ沢山あるし、それだけじゃないけど』
『惚気るわねえ』

 丹波先生が顔をくしゃくしゃにして笑いました。わたしたちの前でもよく笑っていましたが、それよりもずっと幸せそうな笑顔です。

『二人で来る約束を勝手に破ったこと、ちゃんと謝りなさいよ』
『うん。じゃあ先生、俺の嫁さんに一言よろしく』
『もう?』
『だって一回会っただけだし、そんなに話すことないでしょ』
『分かっているなら、祝言なんか取りに来ないでちょうだい』

 丹波先生が背筋を伸ばしました。そしてカメラをじっと見据えます。

『小笠原くんは、最適でも最善でもなく最高を選ぶ。あなたに言ったあの言葉の答えがこれよ。黙ってサプライズを受けるのが一番平和なのにそうしない。私の家に押しかけてまでやり返す。そういう子なの。そんな子があなたを選んだということは、あなたは小笠原くんにとって最高の存在ということ』

 小笠原先輩は最高を選ぶ。そんな小笠原先輩が、わたしを選んだ。

『結婚おめでとう。お幸せに』

 映像が切り替わりました。現れたのは、どこかの部屋のベッドに腰かけている鴨志田さん。下からのアングルなので小笠原先輩は床に座っているのでしょう。丹波先生と同じように自宅に押しかけたのが、始まりの画からすぐに伝わります。

『じゃあ、インタビュー始めるよ。俺の嫁さんどうだった?』
『かわいそうだった』
『かわいそう?』
『普通にかわいくてモテそうなのに、お前に捕まるのはかわいそうじゃん』
『俺、お祝いのメッセージを貰いに来たんだけど』
『お前と結婚する女を祝福できるわけないだろ』

 鴨志田さんが笑いました。きっと昔も同じように笑っていたのでしょう。わたしたちがインタビューした時もフランクでしたが、それよりずっと砕けています。

『まあぶっちゃけると、分かんないんだよ。ほとんど話してねえし。どうせ面白い子なんだろうなとは思うけど』
『なんでそう思う?』
『お前が好きになる女が面白くないわけないだろ。高二の夏休みとか……』
『ストップ! 今の質問ナシ! 俺の嫁さんへのメッセージ、どーぞ!』

 小笠原先輩が強引に流れを断ち切りました。鴨志田さんが大きなため息をついてから語り出します。

『結婚、ご愁傷様。こいつはこういうやつだから、きっとこれからも君のことをかき乱す。何だこいつって思うこともきっとある。そういう時は溜め込まないで俺のところに来なよ。こいつの弱点、たくさん知ってるから』

 眩しいものを見るように、鴨志田さんがまぶたを薄く下ろしました。

『仲良くしてやってくれ。それじゃあ、また』

 鴨志田さんが手を振り、再び映像が切り替わりました。場所はどこかの喫茶店かレストランの座席で、映っているのはもちろん飯村さん。飯村さんの前のテーブルには手つかずのミルクレープが置いてあり、食べてから撮ってあげればいいのにと少しやきもきします。

『じゃあ、撮るね。準備いい?』
『……わたしはいいですけど』
『何か気になる?』
『元カノが元カレに祝福のメッセージを送るのはギリ分かるんですよ。でも元カノから今カノへのメッセージは、さすがにありえなくないですか?』
『そうかな。大差ないと思うけど』

 あると思います。もっとも、元カノから元カレへの祝言も小笠原先輩じゃなきゃ成立しない程度には変だと思うので、そういう意味では大差ないかもしれません。

『これはないわって思ったら使わないからさ。協力してよ』
『はあ……分かりました』
『ありがと。じゃあ聞くけど、沙也香ちゃんから見てあの子の印象ってどう?』
『……いきなり答えづらい質問が来ましたね』

 飯村さんが下を向いて黙りました。そして数秒後、こわごわと様子を伺うようにカメラを下から覗き込みます。

『少しポヤッとしてるなと思いました。肩肘張っていないというか』
『ボケてるってこと?』

 せっかく良い言い方をしたのに、小笠原先輩が台無しにしました。そして小さくなる飯村さんに追撃を加えます。

『どうしてボケてると思ったの?』
『ボケてるとは思ってないですけど……普通、元カノから彼氏の昔話なんて聞きたくないじゃないですか。それなのに動じていなかったので、あまり深く考えてないのかなと思って――』

 飯村さんが言葉を切り、まぶたを大きく上げました。そしてさっきと同じように下を向いて黙り込み、小笠原先輩から話しかけられます。

『どうしたの?』
『いや、気づきたくないことに気づいちゃって』
『なに?』
『あの人、わたしに全く脅威を感じてないんですよ』

 図星を突かれ、心臓が縮こまります。確かに、同じ人を好きになった仲間としての共感はありましたが、ライバルとしての警戒心はほとんどありませんでした。

『沙也香ちゃんがいい子だから、大丈夫だと思ったんじゃない?』
『初対面ですよ。そんなの分かるわけないじゃないですか』
『じゃあ、シンプルに舐められてたんだ』
『そうですね。シンプルに舐められてました』

 さっきは悪い表現を訂正していたのに、今度は素直に繰り返す。良くない方への心境の変化を感じます。

『じゃあそんな人を舐め腐った俺の嫁に、一言バシッと言ってくれる?』
『コンセプトそれでいいんですか?』
『いいよ。普通にお祝いもらうより面白そうだし』

 良くありません。心の中で映像の飯村さんに抗議します。抗議はもちろん届かず、飯村さんが『それじゃあ』と言って姿勢を正しました。

『えっと、気持ちは複雑ですけど、わたしに少しも脅威を感じないのはすごいとも思います。自由な小笠原さんをそこまで信用するの、わたしには無理です。そういう人だからわたしと違って、小笠原さんに愛されているんだと思います。でも――』

 右のひとさし指をカメラにつきつけ、飯村さんが不敵に笑いました。

『ダメだったら、次はわたしが行きます。覚悟しておいてください。では』

 映像が切り替わります。

 わたしの喉から、ひゅうと呼吸音が漏れました。ホラー映画の怖いシーンに直面した時の反応です。ビデオレターに出た三人のインタビューが終わったから、逆ビデオレターも終わりだろう。そういう油断を突かれて、息が乱れます。

 漆塗りのテーブルの向こうで正座をし、カメラを見つめる男の子。場所にも人物にも見覚えがあります。場所はわたしが小笠原先輩の家族と顔合わせをした和室。そして人物は――

「俊樹くん」

 わたしの口から、呟きがこぼれました。
『えー、こいつは俺へのビデオレターに映ってないし、ほとんどの人は誰か分からないと思うので、まず説明します。俺の弟です。十七歳。好きな食べ物は唐揚げ。彼女募集中なんで興味のある人は俺に連絡してください』
『募集してない』
『そうなの? まあ、どうでもいいじゃん。気にすんなよ』

 勝手に脱線しておいてこの言い草。長野先輩が俊樹くんに言った「あの性格で誰一人ムカつかないわけがない」という評価は、本当に正しいと思います。

『で、なんで俺の弟がここで登場するかって話なんだけど、実はこいつ、俺宛ビデオレターの撮影現場にいたんですよ。そんで――』

 画面外から小笠原先輩の手が現れました。ひとさし指が俊樹くんを示します。

『こいつが俺にビデオレターの話を漏らしたから、逆ビデオレターの企画が生まれたわけです』

 俊樹くんが目を伏せました。小笠原先輩の手が画面から消えます。

『じゃあ、俺の嫁さんの印象を聞かせてもらおうか。お前はだいぶ思うところあるみたいだし、ガッツリ話してもらうよ』

 小笠原先輩に迫られ、俊樹くんが少し上目づかいにカメラを見やりました。そして観念したように身体を起こし、ボソボソと語り始めます。

『最初は、嫌いだった』
『どうして』
『兄貴の彼女だから』

 沈黙。しかし小笠原先輩も何も言いません。それで終わりじゃないだろというプレッシャーに負け、俊樹くんが再び動きます。

『自我がないように見えたんだよ。菓子折りなんか持ってきてさ。結婚式とか顔合わせとか、普通はホイホイ乗っかるようなもんじゃないだろ』

 自我がない。やはり、わたしがパセリに見えていたようです。

『ただその後、ビデオレターを撮りたいから兄貴の元カノのことを教えてくれって言われて、少し印象変わった。俺と兄貴があいつで揉めたことも知ってるって話してきて、想像より神経太くてびっくりした。そこが最初かな』
『何が』
『兄貴の彼女だなって思ったの』

 張りつめていた俊樹くんの頬が、ほんの少しだけゆるみました。

『とりあえず動く。そういうところが兄貴っぽいと思った。それで、焦ったんだ。俺の話なのに勝手に先に行かれるのがイヤで、撮影について行くことにした』
『お前らしくないね』
『うん。いつもなら放っておく。きっと俺も無意識の内に、兄貴がこんな状態なのに意地張ってる場合じゃないだろって思ってたんだ。そこを刺激された』

 俊樹くんの視線が下がりました。声のトーンも低くなります。

『撮影で会う人たちは、当たり前だけど兄貴のことが好きで、俺はどんどん惨めになっていった。でも素直に認める気にもなれなくて、最後に爆発したんだ。それまで一緒に撮影してきた人たちに、あなたたちのような人がいるから兄貴が調子に乗るんだみたいなことを言った。そうしたら、色々と説教食らってさ。特に兄貴の彼女から言われた言葉が一番響いた』
『なんて言われたの?』
『自分が世界の中心で何が悪い、だよ』

 そこまで強い言い方はしていません。うろ覚えなのか、脚色したのか、あるいは――それぐらい強く響いたのか。

『兄貴といる時、俺は世界の中心を兄貴だと思ってた。他人に自我を持て、兄貴を甘やかすなと思ってるやつが、誰よりも自我を持っていなかった。それに気づいて恥ずかしくなって、兄貴とちゃんと話したいと思ったんだ』
『それが、ビデオレター企画の暴露に繋がったわけね』

 小笠原先輩が口を挟みました。俊樹くんが頷きます。

『そういうこと。体験抜きで話すのは無理だと思ったから、俺の都合を優先させてもらった。兄貴っぽいだろ?』
『どうだろ。俺は越えちゃいけないラインは守るよ』
『どこがだよ』

 俊樹くんが笑いました。初めて見る、高校生の男の子らしい無邪気な笑顔です。

『じゃあ、もう俺の嫁さんに悪い印象はないわけだ』
『ない』
『そんじゃ義理の弟として、そろそろメッセージちょうだい』
『分かった』

 俊樹くんが姿勢を正しました。真摯な視線がわたしを射抜きます。

『まずは勝手な感情をぶつけたことと、ビデオレターの話を暴露したことを謝罪します。あなたを見くびっていました。あの兄貴の傍にいてなお、自分が世界の中心だと思えるあなたは、兄貴とは本当にお似合いの恋人だと思います』

 俊樹くんが背中を曲げ、カメラに向かって深々とお辞儀をしました。

『兄貴の残りの人生を、あなたに任せます。よろしくお願いします』

 スクリーンの俊樹くんが、涙でぼやけます。

 感情に任せて泣くわたしの肩に、小笠原先輩が手を置きました。振り返ると同時にスクリーンの映像が消え、小笠原先輩の表情が闇に隠れて見えなくなります。わたしは急に不安になり、目の前の小笠原先輩を呼ぼうとしました。

「おが……」

 か細い声が、小笠原先輩の唇に奪われました。

 電気がつき、会場が明るくなります。キスをするわたしと小笠原先輩が衆目に晒され、来賓の方々から黄色い声が上がりました。わたしは慌てて小笠原先輩から離れ、そんなわたしを見て小笠原先輩は満足そうに笑います。

「何してんだよ!」

 船井先輩が近づいてきました。小笠原先輩はあっけらかんと答えます。

「キスだけど、何か問題ある?」
「あるわ! 誓いのキスまで待てや! 流れがあるだろ!」
「そう言われても、したい気分だったから」
「気分って……」
「やっぱ俺、式典とか向いてないみたい。まだるっこしいわ」

 小笠原先輩が立ち上がりました。そして船井先輩の手からマイクを奪い、来賓席に向かって声を張り上げます。

「みんなー、グラス持って。もう乾杯しちゃいまーす」
「お前! 俺がどんだけ苦労してプログラム作ったと思って……」
「持った? じゃあ行くよ。せーの、カンパーイ!」
「「「「カンパーイ!」」」」

 会場のあちこちから、グラスのぶつかり合う音が響き渡りました。こうなったらもう収集はつきません。喧騒の中、呆けて立ちすくむ船井先輩を置いて戻ってきた小笠原先輩に、わたしは笑いながら言ってやります。

「さすがにひどくないですか?」
「でもこれ、俺らのための式だからさ。俺らが楽しいのが一番でしょ」

 小笠原先輩の口角が、大きく上がりました。

「それとも、楽しくない?」

 分かり切った答えを尋ねる不敵な笑み。わたしも同じように笑って答えます。

「めちゃくちゃ楽しいです」

 来賓席の方で、誰かが「結婚おめでとー!」と叫びました。わたしたちはお互いに顔を見合わせ、どちらからともなくまた口づけを交わします。今だけは、わたしの世界も小笠原先輩の世界も消えて、わたしたちの世界が一つだけ在る。そんな気がしました。




 小笠原先輩は、十月生まれのてんびん座です。

 聞いた時、小笠原先輩から「いかにもって感じでしょ?」と言われて、さっぱり分かりませんでしたが「そうですね」と合わせました。その後、わたしが三月生まれのうお座だと教えたら「分かるー。なんかうお座っぽいよね」と言っていたので、誰がどの星座だろうとそれっぽく思えるだけなのかもしれません。ちなみに血液型はAB型です。こっちはすごく小笠原先輩っぽいと思います。

 そんな小笠原先輩は誕生日への思い入れが強く、秋が来ると「俺の季節が来た」と感じるそうです。なんでも小さい頃はお母さんが誕生日をすごいテンションで祝ってくれて、生まれたことで世界平和に貢献したと本気で思っていたとのこと。その話を聞いて、わたしは「なんて素敵なお母さんなんだろう」と思いました。ですが今はちょっと違う感想も抱いています。

 後続が困るので、少しは手加減して欲しかったです。

「いやー、良かったねー。マジ良かった」

 映画デートの後に入った喫茶店のテラス席で、ひたすら「良かった」を繰り返す小笠原先輩に相槌を打ちながら、わたしはずっと小笠原先輩の誕生日のことを考えていました。映画に誕生日のお祝いをするシーンが出て来たからです。そのシーンを観て小笠原先輩の誕生日が一か月後に迫っていることと、小笠原先輩が自分の生誕と世界平和が結びつくほどの祝福を受けて来た人であることを思い出しました。ちなみに映画は小笠原先輩イチオシの少年漫画を原作としたアニメ映画で、誕生日をお祝いされたキャラクターはその後にやられました。死亡フラグというやつです。

「原作未読勢なんだよね。どうだった?」
「……面白かったです。原作読みたくなりました」
「本当に? 本当なら借すよ?」
「本当ですけど……嘘くさいですか?」
「いや、なんかテンション低いから」

 指摘されてハッと気づきました。確かに小笠原先輩の目線だと、映画が肌に合わなくて気分が沈んでいるように見えます。

「無理しなくていいよ。合う合わないはあると思うし」
「無理なんかしてないです。ただ、別のことが気になって……」
「別のこと?」
「はい。小笠原先輩、誕生日に何が欲しいですか?」

 小笠原先輩が目を丸くします。当たり前です。意味が分かりません。話をあちこちに飛ばす小笠原先輩の癖が伝染しています。

「映画に誕生日のシーンがあったじゃないですか。あれを見て、小笠原先輩の誕生日が近いのを思い出したんです」
「まだ一か月先だよ?」
「もう一ヵ月先じゃないですか。すぐですよ」
「そうかな」

 小笠原先輩が首をひねりました。そしてウッドテーブルに片肘をつき、頬杖をついて中空を見上げます。

「でも、欲しいものって言われても困るなあ。特にないし」
「本当ですか?」
「だってすぐ死ぬのに、モノなんか貰ってもしょうがないじゃん」

 あっさりとした言い方が、わたしの胸を深く抉りました。小笠原先輩は平然と話し続けます。

「あ、でもやりたいことならあるかも」
「何ですか? 出来ることなら何でもしますよ」
「んー、でも、さすがになー。俺らだけの話じゃなくなっちゃうし」
「なら、他の人にも話をすればいいんですよ」

 小笠原先輩の視線がわたしに合わさりました。わたしは声に力を込めます。

「小笠原先輩がやりたいことをやるのが一番大事です。何なら誕生日まで待つ必要ないですよ。今すぐやりましょう。何がしたいんですか?」

 嬉しそうに、小笠原先輩がくしゃりと顔を潰して笑います。それを見てわたしも嬉しくなりました。何を言われても驚かずに受け止めようと決意し、心の準備を整えて返事を待ちます。

 わたしの密かな決意は、あっけなく崩れ去りました。

「同棲」
「それで、本当に同棲しちゃうんだもんね」

 長野先輩がローテーブルの上にトランプを三枚捨てた後、山札から三枚引いて手札を五枚に戻しました。続けて船井先輩が、同じように二枚捨てて二枚引きながら言葉を重ねます。

「親とか大丈夫だったの?」
「大丈夫でしたよ。ずっと同棲するわけじゃなくて、三日おきに戻りますし」
「そこ、そんなに違うもんかな」

 首をひねる船井先輩の横で、安木先輩が無言で手札と山札を三枚交換しました。次に手番の回って来た小笠原先輩が、五枚の手札を全て捨てます。

「俺もちゃんと許可取りに行ったからね。誠意が伝わったんでしょ」
「家賃とか生活費とかはどうしてるんだよ」
「親父から貰ってる。積み立ててた俺の学費がダダ余りなんだって。じゃあ、みんなチェンジ終わったね。行くよ。俺ワンペア」
「勝った。俺はツーペア」
「私もツーペア」
「フラッシュ」
「……ブタです」

 手札を表にしてテーブルに置きます。これで三連敗。小笠原先輩が唐突に言い出した「アイス食べたくない?」の一言から始まった、買い出しに行く人を決めるポーカーはわたしの負けです。立ち上がってみんなに声をかけます。

「じゃあ、行ってきますね」
「待って。夜に女の子の一人歩きは怖いし、私も行くよ」

 長野先輩が動きました。船井先輩も口を挟みます。

「それなら女子二人で行くより俺が――」
「いいから。男三人は適当にダベってて」

 長野先輩にはねつけられ、船井先輩が腰を中途半端に浮かせて止まりました。わたしと長野先輩は気にせずマンションの部屋を出ます。廊下に出てすぐスーツを着た男性とすれ違い、長野先輩がひそひそと話しかけてきました。

「このマンション、やっぱああいう社会人が多いの?」
「仕事の関係で短期間だけこっちに住む人が多いらしいです。こういうマンションはだいたいそうみたいですけど」
「結婚前のカップルが同棲の練習をするみたいなパターンはないのかな」
「あるみたいですよ。わたしたちは契約する時、それだと勘違いされたので」

 エレベーターで一階に下りてマンションの外に出ると、夏の残り香を含んだ風がふわりと頬を撫でました。散歩をするにはちょうどいい温度と湿度で、近くのコンビニに行くだけなのが勿体なくなります。長野先輩が自分たちの出てきたマンションを見上げて、はーと息を吐きました。

「結婚したら一緒に住むのは普通だけど、ガチでやるとはねえ」

 全くです。

 小笠原先輩が同棲したいと言い出した時、わたしがさすがにそれは難しいと思いました。しかしそこからわずか一週間で、お互いの親に話をして、家具付きのマンスリーマンションを契約して、レンタカーを借りて荷物を部屋に運び込むところまで済ませてしまいました。荷物運びを手伝ってくれた船井先輩、安木先輩、長野先輩が帰ったら、いよいよ本格的に同棲の始まりです。

 とはいえ、ずっと一緒に住み続けるわけではなく、わたしも小笠原先輩も三日間の同棲と三日間の実家暮らしを繰り返すことになっています。このやり方はわたしのお父さんが「小笠原くんの最後の時間を一人が独占するのは良くない」という理由で提案しました。わたしもそれはそう思います。小笠原先輩を大切に思っている人は、わたしだけではありません。

「断ろうとは思わなかったの?」
「思いませんでした。小笠原先輩にはやりたいことをやって欲しいので……」

 おかしなことを言ったつもりはありませんでした。だけど長野先輩はムッと顔をしかめます。

「実は忠告があって買い出しについてきたんだけど、言っていい?」
「忠告?」
「そう。あのね、小笠原の望みを叶えてあげたいって気持ちは分かるよ。でも本当に何でもかんでも無制限に受け入れないようには気をつけて。小笠原がいなくなった後も人生は続くんだから、長く影響を残しそうなものはきっぱり断ること」
「例えば?」
「子孫を残したい、とか。っていうか私の心配はぶっちゃけそれ。そういうこと言って避妊なしで来たらちゃんと断りなよって言いたかったの」

 ひゅう。

 生暖かい秋風が、わたしと長野先輩の間をぬるりと抜けていきました。硬直するわたしを見て、長野先輩が何かを察したようにまぶたを大きく上げます。長野先輩は鋭い女性です。その気づきは、見事に的中していました。

「……まだ?」

 わたしはこくりと頷きました。長野先輩が気まずそうに口を開きます。

「えー……もう結婚式までやってるんだし、そこまでは行ってると思うじゃん」
「そう言われても、行ってないものは行ってないので……」
「そっか。じゃあ、まず迫られた時にどうするってところからだ」

 話が想像しやすいレベルまで落ちて、わたしは息を呑みました。長野先輩がまたしてもわたしの思考を読み切ります。

「まさか、そういうの、具体的に考えてなかったの?」
「……はい」

 わたしは首をすくめて縮こまりました。小笠原先輩がわたしの前で「男の人」にならないから、何となく想定からすっぽり抜け落ちていました。それでもわたしたちは恋人で、これから同棲をするのです。ベッドだってダブルベッド。考えれば考えるほど、ぼんやりしていた自分がバカに思えてきます。

「なるほど」

 長野先輩がにやりと笑いました。そしてコンビニの方に歩きながら、楽しそうに呟きます。

「アイスと一緒に、ゴムも買っといた方がいいかもね」

 耳たぶがカッと熱くなりました。長野先輩は上機嫌に鼻歌を歌っています。どこかで聞き覚えのあるその歌が、サークル潰しの時に使った『雌豚音頭』であることに気づいたのは、コンビニに着いて長野先輩が鼻歌を止めた後でした。