余命半年の小笠原先輩は、いつも笑顔なんです

 翌日、小笠原先輩の実家の最寄り駅に着いたわたしは、待っていた小笠原先輩に開口一番「緊張しすぎ」と言われました。

 どうしてそう思ったのか聞いたところ、「肩が上がりすぎてMになっている」とのことでした。それを聞いたわたしは肩から力を抜きましたが、少し歩くとまた「M! M!」と指摘されました。小笠原先輩が笑いながら話しかけてきます。

「そんな緊張する?」
「しますよ。小笠原先輩はしなかったんですか?」
「あまり。何となく、いい家族なんだろうなーって思ってたから」
「実際はどうでした?」
「想像の百倍いい家族だった。ああやって認めて貰えると嬉しいね」

 雑談しながら歩いているうちに、小笠原先輩の家に着きました。わたしの家と同じ二階建ての一軒家。小笠原先輩が「ただいまー」と玄関のドアを開け、わたしは肩をMにして家に上がりました。

 まずは小笠原先輩の案内で、畳張りの和室に通されます。和室には大きな漆塗りのテーブルが置いてあり、奥にはたくさんの座布団が積み重なっていました。小笠原先輩がお父さんと弟さんを呼びに行っている間、わたしは座布団四枚をテーブルの周りに並べ、そのうち一枚に正座します。そして持ってきた紙袋からラッピングされたクッキーの詰め合わせを取り出し、テーブルの下に忍ばせてお父さんたちが現れるまで待機します。

 鼓動が早まります。はしたない格好をしていないかと、家を出る前に何回もチェックしたワンピースの丈を全身鏡でチェックしたくなります。小笠原先輩はわたしの家族に良いイメージを持っていたから緊張しなかったと言いましたが、わたしだって小笠原先輩の家族に悪いイメージを持っているわけではありません。なのに、これ。とはいえ、わたしがおかしいわけではないと思います。小笠原先輩の心臓に剛毛が生えているだけでしょう。

 ふすまが開きました。

 小笠原先輩と男性二人が和室に入ってきます。小笠原先輩はわたしの隣に座り、その向かいに大人の男性が正座しました。わたしの向かいに座ったのは若い男の子。どちらも彫りの深い男らしい顔立ちをしていて、身体も大きくて厚みがあります。女顔で細い小笠原先輩とはあまり似ていません。

「はじめまして」

 大人の男性が頭を下げました。そして自分が小笠原先輩の父親であることと、隣の男の子が高校三年生になる小笠原先輩の弟であることを語ります。わたしも頭を下げて自己紹介をしてから、用意していたクッキーの詰め合わせをテーブルの上に置きました。

「これ、お土産のお菓子です。良かったら」
「ありがとう。気を使わせて悪いね」

 お父さんがクッキーを手元に引き寄せました。小笠原先輩がわたしの肩に手を置いてへらへらと笑います。

「いい子でしょー。俺が好きになるのも分かると思わない?」

 お父さんがじろりと小笠原先輩をにらみ、わたしは背筋を強張らせました。わたしがにらまれているわけではない。分かっていても、怯えてしまいます。

「そうだな。他人の思いやれる優しい子なのだろう。だからこそ――」

 お父さんの低い声が、にわかにボリュームを増しました。

「お前はその子のことをきちんと考えて、自分の行動を選ばなくてはならない」

 お父さんが立ち上がりました。強かった威圧感がさらに増します。

「お前の人生だ。お前はお前を好きにしていい。だけど他人を好きにしていいわけじゃない。お前の命が残り少ないことは、何の免罪符にもならない」

 小笠原先輩を見下ろし、お父さんが厳しい言葉を投げかけます。わたしはすっかり蚊帳の外。顔合わせという主旨が見事に消えてしまっています。

「お前はその子の人生の責任を取れない。それだけは絶対に忘れるな」

 お父さんが歩き出し、ふすまを開けて和室から出ていきました。あまりの展開にわたしが呆けているうちに、弟さんもすっくと立ち上がります。

「ごめん。俺も特に言うことない」

 弟さんがわたしを見やりました。小笠原先輩とは違う、意志の強そうな瞳。

「あなたも、自分が何をさせられているのか、少し考えた方がいいと思います」

 お父さんと同じように、弟さんが和室から出ていきました。二人が現れてから約一分。名前すら聞けずに顔合わせは終了です。わたしは動揺し、おろおろと小笠原先輩に話しかけます。

「どうしましょう」

 小笠原先輩が「んー」と腕を組んで目をつむりました。そしてしばらく経ってからぱちりとまぶたを上げ、右のひとさし指を伸ばします。

「とりあえずさ」

 指先が、テーブルの上のクッキーに向けられました。

「あれ、食べちゃお」
「たぶんオヤジは、情を移したくなかったんじゃないかなー」

 ザラメをまぶしたクッキーを頬張り、小笠原先輩が呟きます。わたしは「情?」と聞き返してレーズン入りのクッキーをかじりました。生地の甘みとレーズンの酸味が織りなすハーモニーが、唾液に乗って舌の上に広がります。

「クソ真面目だから、結婚式でも何でもやれとは言えない。でも俺の気持ちを考えたらやるなとも言えないでしょ。ガチの一生のお願いだもん。だから距離を置くことにしたんだよ。何も言えないから、何か言いたくならないようにしてる」
「じゃあ、わたしが歓迎されてないわけじゃないんですね?」
「うん。むしろ、こんなアホにこんな素敵なお嬢さんがついてくれるなんて申し訳ないって感じだと思うよ」
「弟さんは?」

 少し間が空きました。小笠原先輩が新しいクッキーに手を伸ばし、わたしを見ずに呟きます。

「あいつは、ちょっと歓迎してないかも」

 ガリッ。小笠原先輩がクッキーを歯で砕きました。しばらく顎を上下に動かし、咀嚼したクッキーを飲み込んでから続きを語ります。

「誰を連れて来ても同じだとは思うけどね。あいつが歓迎してないのは、相手じゃなくて俺の方だから」
「……あまり仲良くないんですか?」
「女の子がらみは信頼されてないって感じ。それで揉めたことあって」
「揉めた?」
「うん。あいつの好きな子、俺が取っちゃって」

 わたしは息を呑みました。小笠原先輩は淡々と話し続けます。

「俺が高三であいつが中三の時、あいつがクラスメイトとうちで定期的に勉強会を開いてて、その中にあいつの好きな子もいたの。そんで俺も頭いいわけじゃないけど中三の勉強見るぐらいならできるから、たまに教えたりしてたのね。そうしたらあいつの好きな子が俺に惚れたみたいで、あいつがラブレターを俺に届けに来た」

 自分の好きな相手が、自分の兄弟を好きになって、ラブレターを渡してくれと頼まれる。弟さんの心境を想い、胸がきゅうと苦しくなりました。小笠原先輩もその苦しさを理解しているのか、横顔が珍しく物憂げです。

「俺はその子のこと好きじゃなかったし、逆にあいつがその子のことを好きなのはバレバレだったから断ったんだけど、あいつが頼むから付き合ってやってくれって頭下げるからとりあえず付き合ってみることした。でもやっぱ無理じゃん。だからすぐ別れることになって、そん時にあいつのことも考えてやってくれみたいなことを言ったんだよね。そうしたら、その子があいつにその話をしたみたいでさ、馬鹿にするなってめっちゃキレられたの」

 小笠原先輩がテーブルに頬杖をつき、ぼんやりと中空を見上げました。

「あいつには、俺が面白がってあいつの恋愛を引っかき回してるように見えたんだろうね。そんなつもりはなかったけど、そう見えるのも仕方ないとは思う。焚きつけてやろうって気持ちが全くなかったわけじゃないし」

 小笠原先輩は、確かに人を振り回します。

 だけど、人を傷つけてもいいと思っているわけではありません。本当にただ派手なことをしたいだけの人ではない。それだったらきっと今頃は、爆音を鳴らしながらバイクで公道を暴走するみたいな方向に進んでいます。

 ただ、人を傷つけたくて傷つける人なんて、そんなに多くはありません。傷つけたくなくて、それでも傷つけてしまう。それは小笠原先輩もそうです。良かれと思ってやったことが真逆の結果になる。そういうことが普通に起こります。

「だからあいつは、また俺がまた適当な気持ちで女の子を弄んでるんじゃないかって疑ってるわけ。そして――」

 小笠原先輩がわたしの方を向きました。頬杖をついていない手で銃の形を作り、その銃口をわたしにつきつけます。

「そんな俺と平気で付き合ってる子のことも、あまり気に入ってない」

 見えない弾丸に貫かれ、わたしは目を見開きました。小笠原先輩が両手を組んで大きく伸びをします。

「まー、でも、結婚式なんて絶対に許さないってわけじゃないからさ。それはそれ、これはこれでやっちゃおうよ。どうせ親族は呼ばないし」

 ――いいのでしょうか。確かに結婚式ごっこかもしれませんが、余命いくばくもない小笠原先輩にとってはごっこでは済みません。残りの人生の伴侶を紹介する、普通の結婚式と遜色のない場になるはずです。

「ところで顔合わせ終わったけど、どうする?」
「……せっかく実家に行くんだし、卒業アルバムとか見たいなーって思ってたんですけど、いいですか?」
「いいねー。面白そう。持ってくるよ」

 小笠原先輩が和室から出て行きました。わたしは腿の上に乗せた手をぎゅっと握りしめます。部屋を出る時に弟さんが見せた寂しそうな目が、今でも宙に浮かんでわたしを監視しているようで、小笠原先輩が小中高の卒業アルバムを持って戻って来るまでわたしは正座を崩せませんでした。
 長野先輩に与えられたミッションは、順調に進みました。

 卒業アルバムを眺めながら語られる思い出話はバリエーションに富んでいて、ビデオレターの撮影候補は絞り切れなくて困るぐらい集まりました。あまりにも情報量がすごくて、わたしは途中で登場人物の名前を覚えきれなくなりました。一旦セーブをしようとスマホを持って立ち上がります。

「トイレ行ってきます」

 わたしは和室を出て、トイレに向かいました。そしてトイレのドアの横の壁にもたれかかり、スマホを取り出して急いでメモをします。小学校の先生、中学校の部活の顧問、高校生の頃の親友、それから――

 ギシッ。

 上の階から、床の軋む音が聞こえました。わたしはスマホから顔を上げ、近くにある二階へと続く階段を見つめます。やがて足音と共に下りてきた弟さんが、わたしとトイレのドアを見比べて軽く頭を下げました。

「どうも」

 何のどうもなのか分かりませんが、ひとまず「どうも」と返します。弟さんがわたしの目の前を通り過ぎました。そしてトイレのドアノブに手をかけます。

「あの」弟さんの方を向きます。「わたしのこと、気に食わないですか?」

 ドアノブから手を離し、弟さんが振り向きました。わたしは自分で声をかけたくせに動揺し、あわあわと言葉を繋ぎます。

「えっと、その、他意はないんです。たださっきすぐに出ていっちゃったから、もしかしてわたしのことがイヤだったのかなって」
「……別に、そんなことはありませんけど」
「けど?」

 続きを迫ります。自分で言っておいて、何が「他意はない」だと思いました。弟さんが困ったようにわたしから目を逸らします。

「なんか、かわいそうだなとは思いました」
「わたしが?」
「はい。兄貴にとって全ての人間は自分の引き立て役なので」

 強烈なフレーズが飛び出しました。固まる私の前で、弟さんが不満そうに口を尖らせます。

「兄貴の世界の中心には、いつだって兄貴がいる。そりゃ、どうせなら引き立て役にも喜んでもらいたいぐらいのことは考えますけど、その程度ですよ。俺は兄貴のそういうところはあまり好きじゃないし」

 弟くんが眼球を動かし、じろりとわたしを見やりました。

「そんな兄貴を増長させる人も、正直、苦手です」

 あなたのことを言っています。目線でそう語られ、わたしはたじろぎました。こんな真っ直ぐに敵意をぶつけられたのは久しぶりです。高校二年生の時、友達が大好きなボーイズダンスグループの男の子について、若手お笑い芸人の名前を出して「似てるよね」と言ってしまった時以来かもしれません。

 ――それはそれ、これはこれでやっちゃおうよ。

 これは確かに、それしかないかもしれません。小笠原先輩に残された時間はわずかです。そのわずかな時間を使って優先すべきことは――

 ――ああやって認めて貰えると嬉しいね。

「あの」

 とんでもないことを言おうとしている。頭では分かっているのに止まりません。小笠原先輩がとんでもないことを言い出す時も、もしかしたらこんな感じなのかもしれない。そう思いました。

「頼みたいことがあります」
 電車が停まり、ドアが開きました。

 むわっとした真夏の熱気に襲われ、わたしは顔をしかめました。汗をかいた感覚があり、白いフリルトップスに染みができないか心配になってきます。とはいえ、今から家に戻って汗染みが目立たない色の服に着替えるわけにもいきません。ホームに降りて改札に向かいます。

 改札を出ると、船井先輩と長野先輩と安木先輩が既に集まっていました。全員トップスは半袖のTシャツ。逆にボトムスは船井先輩が短パン、長野先輩がデニム、安木先輩がチノパンと別れています。わたしもチェック柄のスカートなので被りはありません。長野先輩のシャツにはサイケデリックな猫が描いてあって、ちょっと不思議ちゃんな感じです。

「おはようございます。遅くなってすいません」
「時間ピッタリだろ? 大丈夫だよ」

 船井先輩がフォローを入れてくれました。時間ピッタリ。確かにそうです。でもピッタリなのに、最後の一人はまだ来ていません。

「ねえ。もう一人は本当に来るの?」

 長野先輩に問いかけられ、わたしはおずおずと頷きました。そしてハンドバックからスマホを取り出し、親指をディスプレイの上に走らせます。

「一応、今日の朝も確認しました。……あっ!」

 わたしは声を上げました。長野先輩が横からスマホを覗き込みます。

「どうしたの?」
「待ち合わせ時間、11:00じゃなくて11:10って打っちゃってます」
「じゃあ十分ぐらい遅れて来るのね。まあ、それぐらいなら――」
「あの」

 聞き覚えのある声が、わたしの耳に届きました。

 振り向くと、小笠原先輩の弟さんが立っていました。半袖のワイシャツにグレーのズボン。たぶん、制服です。ワイシャツのボタンは一番上まで留められており、爽やかな黒い短髪と相まって、休日に試合に出かける運動部のように見えます。

「お待たせしてすいません。早く出たつもりだったんですけど……」
「……ねえ、今日の集合時間、何時何分だと思ってた?」
「十一時十分じゃないんですか?」
「十分早いよ?」
「一番年下ですから、遅いぐらいですよ」

 わたしは二番目に年下ですが、十一時ピッタリに来ました。話題を変えます。

「なんで制服なの?」
「今日は兄貴に縁のある人たちを訪問して、結婚式のビデオレターを撮らせて頂くんですよね。だったらフォーマルな服装の方がいいと思って」

 船井先輩が、短パンと生足を隠すように安木先輩の背後に移動しました。長野先輩も弟さんからシャツの猫の絵が見にくくなるように身体を背けます。

「では、初めての方もいるので改めて自己紹介させて下さい」

 弟さんがピッと背を伸ばしました。そして両手を脇に揃え、深く頭を下げます。

「小笠原俊樹。十七歳の高校三年生です。今日はよろしくお願いします」

 みんなが圧倒される中、船井先輩がかろうじて「よろしく」と返事をしました。長野先輩がどこか納得のいってない顔で首をひねります。

「ねえ」

 率直で妥当な疑問が、長野先輩の口から飛び出しました。

「この子、本当にあいつの弟なの?」
 俊樹くんがビデオレターの撮影に参加することになったと聞いても、船井先輩たちはあまり動じませんでした。

 何でも「そういう暴走は小笠原で慣れている」そうです。ついでに暴走したわたしに「小笠原に似てきた」という評価を頂きました。わたしは小笠原先輩に憧れていたはずなのですが、なぜだかすごく微妙な気持ちになりました。

 繁華街の甘味処に入ります。二人がけの席を三つ繋げて長いテーブルを作り、五人で座ってそれぞれ好きなものを注文します。わたしはあんみつを頼みました。暑い日にクーラーの効いたお店に入って食べる甘いものは最高です。生きている実感が湧きます。

 あんみつを食べ終えた頃、藤色のブラウスを着た白髪のおばあちゃんがお店に入ってきて、わたしたちのテーブルに歩み寄ってきました。小笠原先輩が小学五年生と六年生の時の担任、丹羽先生です。小笠原先輩を教えている時にもう定年間近だったそうですから、歳は六十後半から七十と言ったところでしょう。ですが頬肉は上がっていて、背筋も張っています。わたしも教育学部生として将来は先生になるかもしれないわけですが、もしなるならこういう雰囲気の先生になりたい。そう思わせてくれる佇まいです。

「あなた方が、小笠原くんの?」
「はい。そうです。まずはそちらにおかけ下さい」

 船井先輩が示した空席に丹波先生が座ります。全員の自己紹介と今日の主旨の説明を済ませたら、いよいよ撮影です。インタビュアーの船井先輩と長野先輩は丹波先生の正面に、カメラマンの安木先輩はハンディカムを構えて斜め前に座ります。わたしと俊樹くんはカメラに映らないところに椅子を動かして待機。一応、サブのインタビュアーとして発言は許されています。

「では、これから撮影を始めさせていただきます。」

 船井先輩の合図で撮影が始まりました。まずは軽い自己紹介。そしてすぐに小笠原先輩の過去に話が伸びます。

「丹波先生から見て、小学生の小笠原くんはどういう子でしたか?」
「めちゃくちゃだったわ」

 迷いなく言い切り、丹波先生がため息をつきました。思い出すだけで疲れるとでも言いたげです。だけど口元は、幸せそうにほころんでいました。

「小笠原くんの友達が、コンビニの店長に万引きを疑われた時の話をしましょうか」

 丹波先生が目を細めました。目尻に深いしわが浮かびます。

「万引きしたと思われたものはカードゲームのカード。実際に万引き被害は継続的にあったそうだから、神経質になっていたんでしょうね。でもその子は万引きなんてしていないし、証拠も出て来なかった。ただ店長はそこで引かなかったのよ。その子の家が母子家庭でお金がないのを知っていたから、そういうところも突いて、コンビニのバックルームでその子を何時間も責め続けたらしいわ」

 ひどい。わたしは眉をひそめました。そんなわたしの心理を読み切り、丹波先生が語り続けます。

「ひどい話だと思ったでしょう。小笠原くんもそう思ったわ。そこまではみんなと一緒。ただその後にやることが、あの子のオリジナリティなのよね」

 感性は普通の人と同じ。だけど行動がぶっ飛んでいる。確かに、その通りかもしれません。感性だけなら安木先輩の方が変わっている気がします。

「友達が受けた仕打ちを知った小笠原くんは、コンビニに復讐することにした。ただし暴力的な手段はなし。さて、何をしたと思う?」

 丹波先生がクイズを出します。船井先輩が自信なさげに答えました。

「コンビニの悪評を流した、とか」
「評判を下げようとしたのは正解。でも小笠原くんはそのコンビニを下げるんじゃなくて、他の店を上げようとした」
「他の店を上げる?」
「そのコンビニと同じものを安く買えるお店を調べて、チラシにして配ったの。そうしたら地域で話題になって、学校も巻き込んで大騒ぎになったわ。そして騒ぎになれば店長の仕打ちも広まってコンビニの評判は下がる。さっきは他の店を上げようとしたと言ったけれど、本当の狙いはそっちだったのかも」
「騒ぎにしたいだけなら、もっと直接的なやり方がありませんか?」
「そうね。でも小笠原くんにそんな理屈を言っても無意味。あなたたちもそれは分かっているんじゃない?」

 船井先輩が黙りました。丹波先生が不敵に笑います。

「最適でも、最善でもなく、最高を選ぶ。小笠原くんはそういう子だった。だから今日、こうやってあなたたちに呼び出されて嬉しかったわ。あれから倍の年齢になっても小笠原くんが変わってないことを知れて、本当に嬉しかった」

 うっとりとした顔。きっと長い教員人生の中でも特別に思い入れのある相手なのでしょう。数ある候補の中から丹波先生を撮影相手に選んだのは、学校経由で連絡が取れそうだったからなのですが、選んで良かったと心の底から思いました。

 その後も丹波先生は、小笠原先輩の思い出を色々と語ってくれました。やがて用意していた質問も尽き、船井先輩が〆に入ります。

「では最後に、小笠原くんへのメッセージをお願いしてもいいですか?」
「分かったわ」

 丹波先生がこほんと小さく咳払いをしました。それから安木先輩の構えているカメラと向き合います。

「小笠原くん、結婚おめでとう」

 波の音のような、しわがれた柔らかい声が、わたしの耳をくすぐりました。

「あなたと過ごした日々は本当に大変だったけれど、本当に楽しかった。今あなたと一緒にいる人たちも、きっと同じように感じていると思います。これからもあなたらしく駆け抜けてください。あなたが最後まであなたで在り続けることを、先生は期待しています」

 撮影終了。船井先輩がお礼を言い、安木先輩がハンディカムを切ります。一仕事終えた達成感が場に満ちる中、丹波先生がわたしに話しかけてきました。

「ねえ、あなたが小笠原くんのお嫁さんでいいのよね?」

 お嫁さん。聞き慣れない響きに耳たぶが熱くなります。

「そうです」
「じゃあ、あの子に伝言をお願い。私もすぐ逝くって伝えてちょうだい」

 返事の言葉が出てきませんでした。丹波先生が自分の胸に手を当てます。

「あと一年ですって」

 詳細を語らずとも、何を言いたいかはすぐに分かりました。

「もちろん見立ては見立てだから、私の方が先に逝くこともあるかもしれない。でも向こうで会えることは間違いない。それがほんの僅かでもあの子の支えになってくれるなら嬉しいの。こんなおばあちゃんでもそれが分かった時は辛くて、世の中を恨みたくもなったけれど、少しは意味があったんだなと思えるわ」

 丹波先生の表情は、今までと同じように穏やかでした。こういう話をしている時にそういう顔ができる人を、わたしは一人だけ知っています。小笠原先輩です。丹波先生を撮影相手に選んでよかった。改めて、思います。

 だけど――

「すいません。それは伝えられません」

 わたしは頭を下げました。そして上げ直し、丹波先生の目をじっと見つめます。

「結婚式が終わったら、今度は夫婦で会いに来ます。その時に丹波先生の口から直接お話ししてください」

 丹波先生が乾いた唇が、ふわりとほころびました。

「分かったわ」
 二人目の撮影相手は、小笠原先輩の高校時代の男友達、鴨志田さんです。

 高二の時にクラスメイトとして出会ってからずっとつるんでいて、俊樹くんも話したことはありませんが見かけたことはあるそうです。今回は、小笠原先輩の過去を探っている時に見せてもらったインスタグラムのアカウントを通じて、連絡を取らせて頂きました。

 待ち合わせ場所はファミリーレストラン。早めに入り、先にわたしたちのお昼を済ませます。わたしはオムライスを、長野先輩はたらこスパゲティを、安木先輩は鳥雑炊を食べました。船井先輩と俊樹くんはハンバーグに大盛ライスをつけた上にポテトフライを半分こしており、さすが二人とも身体が大きいだけあるなあと感心してしまいました。

 鴨志田さんは、わたしたちが食後のコーヒーを飲んでいる時に現れました。
ぱっちりした二重に、スラッとしたシルエット。正統派のイケメンです。まずはお互いに自己紹介をします。それから六人がけのボックス席に前と同じ配置を作り、船井先輩が代表として話し始めます。

「では、これから撮影を始めさせていただきます」
「あ、ちょっと」

 鴨志田さんが出鼻をくじきました。そして流れを自分の方に持っていきます。

「敬語は止めない? 肩ひじ張られるとこっちも緊張するからさ」

 船井先輩が口ごもり、横目で隣の長野先輩を見やりました。無言のメッセージを受け取った長野先輩が動きます。

「分かった。じゃあ、雑談っぽくやるね。まずは――」

 さすが、長野先輩。アクシデントに強いです。台本のある仕事をきっちりこなす船井先輩と上手く役割分担ができています。

「――それで、小笠原とはどんな友達だったの?」
「単純に遊び仲間だよ。君たちビリヤードサークルの仲間だよね。あいつにビリヤード教えたの俺だから」
「そうなの?」
「そうなの。だから君たちがオガちゃんと出会えたのは、俺のおかげ」

 鴨志田さんがニッと笑いました。並びのいい白い歯が眩しいです。

「遊びの趣味が合ったから仲良くなった感じ?」
「それもある。でも一番大きいのは、俺もオガちゃんも学校みたいなカッチリした空間が苦手だったからかな。だからよく一緒に授業サボって遊んでた」
「サボっちゃうんだ」
「そう。オガちゃんは小さい頃にお母さんを亡くしてるだろ。あの体験があるから、やりたいことはやりたい時にやるって決めてるんだよ」

 鴨志田さんが俊樹くんを一瞥しました。俊樹くんの肩が小さく上下します。

「誰にだって、天気がいいから学校サボって海に行きたいみたいなことを考える瞬間はある。でも即行動に移せるのは一握りだ。オガちゃんは特に爆速で、俺はついていけなくて『今から?』とか聞くこともあった。そうすると、オガちゃんは『だって明日には死んじゃってるかもしれないじゃん』とか返してくる」

 鴨志田さんの視線が、わずかに横に逸れました。

「結果的にこうなってるんだから、それが正解だったんだろうな」

 こうなっている。みんなが思い出したくないことを思い出し、場の空気が沈みました。長野先輩が仕切り直すように軽く咳払いをします。

「そんなの、結果論じゃないですか」

 刺々しい声が、しんみりとした雰囲気を打ち砕きました。全員の視線が声の主――わたしの隣の俊樹くんに向けられます。

「こうなることが予想できていたわけじゃない。あの時ちゃんと勉強しておけば良かったと思う可能性だってあった。だから今から逆算して、兄貴の行動を正当化はできません。それはただの結果論です」

 俊樹くんが鴨志田さんを見つめます。鴨志田さんは視線を受け止め、ふっと小さく笑いました。

「俺もそう思う」

 余裕たっぷりに言葉を放ち、鴨志田さんが座席に深く身を沈めました。

「俺は結果的に正解だったって言ってるだけだからね。結果論で正解。オガちゃんの人間性を評価してるつもりはないよ」

 鴨志田さんが肩をすくめました。芝居かがった仕草が画になっています。

「ただ個人的な評価でいいなら、俺はオガちゃんの性格は好きだ。君がどんな想いを抱いていてもそれは変わらない」

 はっきりと言い切ります。俊樹くんが鴨志田さんから視線を外しました。テーブルの何も置かれていないスペースを見つめ、呟きをこぼします。

「分かりました」

 話が途切れました。長野先輩が「じゃあ、次の質問だけど」と言って撮影を再開します。それから撮影が終わるまで、俊樹くんは一言も喋らず、ほとんど鴨志田さんの方を向きもしませんでした。
 鴨志田さんと別れて、次の目的地に向かいます。

 丹波先生と鴨志田さんは、二人ともわたしの行ったことのない土地に住んでいました。だから電車に乗って向かう先も初めて降りる駅でした。でも次は違います。つい最近降りました。小笠原先輩の家の最寄り駅だからです。

 駅前の喫茶店に入ります。また二人がけのテーブルを集めて六人テーブルを作り、飲み物を頼んで相手を待ちます。わたしはアイスカフェオレを頼みました。船井先輩がストローでアイスコーヒーを飲んでいる俊樹くんに声をかけます。

「なあ。君は本当にここにいていいのか?」

 俊樹くんがストローから口を離しました。そして淡々と質問に答えます。

「ダメでしょうか」
「ダメってことはないけど……」
「なら、同行させて下さい。邪魔はしないようにしますから」

 俊樹くんが再びストローに口をつけました。船井先輩が心配そうにその様子を見つめます。気持ちは分かります。分かりますが、俊樹くんが退くわけありません。今日ついて来たのはこの撮影のため。丹波先生や鴨志田さんはおまけです。

 三つ編みの女の子が、喫茶店に入ってきました。

 女の子がわたしたちを見つけ、ゆっくりと歩いてきます。丸い輪郭の醸し出す幼くてかわいらしい印象が、白ブラウスに赤いスカートというどこかレトロなスタイルによく似合っています。ビデオレターを撮る相手に選んだ三人の中で、この子だけ事前に姿を確認できていません。小笠原先輩の卒業アルバムにいないからです。

 女の子がわたしたちの傍で足を止めました。そしてわたしたちではなく、俊樹くんに声をかけます。

「久しぶり。元気?」
「元気。とりあえず座れば?」

 俊樹くんに促されて、女の子がわたしの隣の椅子に座りました。この子と小笠原先輩が。想像しようとして、想像できなくて、想像を止めます。

 飯村沙也香さん。わたしの一つ下の高校三年生。

 小笠原先輩の、昔の彼女です。
 小笠原先輩の家のトイレの前で、わたしは俊樹くんにビデオレターのことを話しまし、お兄さんの元カノからメッセージを貰いたいからコンタクトを取る方法を教えて欲しいと頼みました。

 彼女を理由に小笠原先輩と俊樹くんが揉めた話を聞いたことも、正直に話しました。俊樹くんに「野次馬ですか」と批難され、わたしは「そうなるかもしれないけど、それで終わらせたくはない」と答えました。俊樹くんはしばらく考えて、自分も撮影について行くと言い出しました。わたしは理由を聞かずに頼みを受け入れ、そして、今日に至ります。

 カメラに映らない位置に待機して、インタビューをする船井先輩とそれに答える飯村さんを観察します。船井先輩もぎこちないですが飯村さんはそれ以上です。両肩を大きく上げ、正面の船井先輩に集中せず、小まめにわたしの隣の俊樹くんに視線を送ってきています。

「じゃあ、弟くんが開く勉強会に参加して、勉強を教えて貰ったのが小笠原との出会いってことでいいのかな」
「はい」
「そこからどうやって仲を深めたの?」
「ええっと……」

 飯村さんがまた俊樹くんを見やりました。そして微動だにしない俊樹くんを確認してから、おそるおそる語り出します。

「ある日、小笠原さんからクラスメイトに面白い少女漫画を教えてもらった話を聞いたんです。その漫画をわたしはたまたま全巻持っていたので、話の流れで貸すことになったんですよ」
「なるほど」
「ただその漫画、面白いけれど腑に落ちないところもあって、それが主人公の恋のライバルの扱いなんです。いい子なんですよ。自分の想いに正直で、積極的にヒーローの男の子にアプローチをかけていて、わたしは主人公より断然好きでした。ただ物語の中でその子には何も救いが与えられていないんですね。だから奥手な主人公に負けるのは仕方ないにしても、何か欲しかったなあって思ってました」

 いまいちピンと来ていない船井先輩の隣で、長野先輩が首を縦に振って共感を示します。わたしも分かります。恋愛もの少女漫画のメインカップルは付き合っていないだけで最初から両想いなことも多く、そんな負け試合をひっくり返し行くライバルが魅力的に見えることも時にはあります。

「でもネットの感想だとそんな意見はほぼないんですよ。それどころか、ライバルの子にバチが当たってないのが許せないみたいな感想まであったりして……わたしは小笠原さんがそういう感想だったらイヤだなと不安に思っていました。でも読み終わった漫画を返してもらう時に、こう言われたんです」

 飯村さんが唇が、ふわりとほころびました。

「面白かったけど、ライバルの子が報われないのおかしいでしょって」

 ――本当に、好きだったんだなあ。

 何よりも強くそう思いました。付き合ったと言えるかどうか怪しいぐらいの付き合いだったけれど、抱いていた想いは本物だった。今のわたしと同じ気持ちが飯村さんにもちゃんとあったことがはっきりと分かります。

「わたしはそこから小笠原さんを意識するようになりました。そのうち我慢できなくなって、告白することにしました。それでラブレターを書いて……弟くんに渡して貰ったんです。弟くんには小笠原さんのことを色々聞いたりして、相談にも乗ってもらっていたので」

 飯村さんが俊樹くんを見やりました。俊樹くんは黙って動きません。飯村さんが正面に向き直り、語りを再開しました。

「ラブレターの返事はLINEで来ました。OKでもNGでもなく、会って話したいから一回デートしようという内容でした。デートは楽しかったです。ずっとこの時間が続けばいいと思いました。小笠原さんが考えていたのは――」
「俺のことだろ」

 俊樹くんがいきなり口を開きました。視線が俊樹くんに集まり、安木先輩が構えているハンディカムのレンズも俊樹くんに向けられます。

「兄貴は、俺と飯村をどうくっつけるか考えてたんだろ。飯村が『わたしのこと好きなの?』って聞いてきたの、覚えてるよ。『お兄さんがそう言ってた』って」

 俊樹くんが自嘲気味に笑いました。飯村さんが小さくなって俯きます。

「見下されてるよな。カブトムシの雄と雌を同じケースに入れて幼虫生まれないかなーみたいな、そんな感じ。俺にも飯村にも失礼だよ」
「……そんなつもりはなかったと思うよ」
「どうして分かるんだよ」
「聞いたから」

 飯村さんが、顔を大きく上げました。

 澄んだ瞳に見つめられ、俊樹くんが顎を引きます。飯村さんは揺るぎません。唇を大きく開き、今までよりも芯のある声を放ちます。

「お兄さんは、小笠原くんがもうわたしに告白しないって見抜いてたの」

 呼び方が変わりました。わたしたちへの言葉ではないことが伝わります。

「小笠原くんは真面目だから、兄貴に振られたみたいだからじゃあ俺が付き合うねとは絶対にならない。このままだと全員がちょっとずつ不幸になって、誰も幸せにならない。だからわたしに小笠原くんの気持ちを教えたの。流れに任せるよりも幸せな未来があるなら、目指すだけでも目指しておきたいって」

 苦しそうに、飯村さんがブラウスの上から心臓の辺りをギュッと掴みました。

「わたしのことだって、ちゃんと考えてくれてたよ。好きになれるかどうか確かめるためにデートしたんだって。お兄さんがわたしを好きになれるなら、そういう結末も不幸なだけじゃないから。……無理だったけど」

 飯村さんが口を閉じました。わたしも船井先輩たちも何も言えずに黙ります。わたしたちがわたしたちの撮影のためにセッティングした場ですが、もはや主導権はわたしたちにありません。何かを言っていいのは、飯村さんと――

「すいません」俊樹くんが立ち上がりました。「やっぱり外にいます。終わったら呼びに来て下さい」

 俊樹くんが早足で歩き出し、あっという間に喫茶店から出ていきました。みんなが呆気に取られて固まる中、飯村さんがこわごわと船井先輩に話しかけます。

「撮影、変な感じになっちゃってすいません」
「いいよ。編集で何とかするから」

 飯村さんがほっと胸を撫でおろしました。そして今度はわたしの方を向き、息を深く吸ってから意を決したように話しかけてきます。

「あの……聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」
「なに?」
「小笠原さんは、わたしのことをどういう風に紹介してましたか?」

 わたしは人の気持ちに鋭い方ではありません。だけどその時は、飯村さんがどのような気持ちでわたしに声をかけたのか手に取るように分かりました。わたしは小笠原先輩から聞いた内容を少し脚色し、分かりやすくして飯村さんに伝えます。

「元カノだって言ってたよ」

 たった一回デートをしただけでも、ちゃんと「付き合った」と言っていた。今の恋人を相手に、昔の話とか何もしていないとか取り繕うことなく、昔の恋人だと紹介していた。だから、大丈夫。心配しなくていい。あなたはちゃんと、小笠原先輩の思い出になれている。

 飯村さんが口元を手で隠し、その裏で幸せそうに笑いました。

「そうですか」

 変な人を好きになって、お互い大変だよね。視線でそう語りかけます。空気を理解していない船井先輩が「元カノなんだから当たり前だろ」と口を挟み、わたしも飯村さんも含み笑いを浮かべました。
 撮影の後、わたしたちは喫茶店に残って打ち合わせを行うことにしました。

 飯村さんとは別れ、ついでに外にいる俊樹くんを呼んで欲しいと頼みました。話があるなら遅くなっても良いと言ったのですが、俊樹くんは飯村さんが出ていってすぐ入れ替わるように戻って来ました。「ご迷惑をおかけしました」と頭を下げて、わたしの隣の席に座ります。

「じゃあ、構成はこんな感じで。脚本は安木、編集とナレーションはマイな」
「船井は何もしないの?」
「俺は当日の司会があって忙しいから」
「受付とか会場設営とか、僕たちもやることあるけど」

 打ち合わせが進む中、わたしはちらちらと俊樹くんを見やります。俊樹くんは打ち合わせに参加せず、かと言ってスマホを弄ったりするわけでもなく、じっとみんなの様子を眺めていました。船井先輩が大きく伸びをして愚痴をこぼします。

「にしても、一か月後に結婚式やりたいから準備よろしくはふざけてるよな」
「本職より準備期間短いからね。まー、でもいつものことだし」

 長野先輩が明るく笑いました。いつものこと。そう、いつものことです。小笠原先輩が自由奔放なのも、そんな小笠原先輩にわたしたちが振り回されるのもいつものこと。だから気にすることはない。本気に、深刻に、受け止める必要はない。

 そういう態度が、きっと納得いかなかったのでしょう。

「皆さんは兄貴のこと、ムカつかないんですか」

 ずっと押し黙っていた俊樹くんが、いやに大きな声で場に割って入りました。会話を止めたみんなに見つめられながら、俊樹くんが語りを続けます。

「自分勝手に他人を振り回す兄貴に、腹は立たないんですか。自分が世界の中心みたいな態度を取られて、ふざけんなとか思わないんですか。皆さんみたいな人たちが兄貴を甘やかすから、兄貴はいつまで経ってもあのままなんじゃないんですか」

 俊樹くんが唇を噛み、わたしたち全員をざっと見渡しました。わたしたちはお互いに顔を見合わせて、最初に答える人間を無言の多数決で決定します。票が一番多く集まったのは、わたしと長野先輩と安木先輩に見つめられた船井先輩でした。

「ムカついたことは無いって言ったら、それは嘘になるわな」

 船井先輩の野太い声が、ずしりと響きます。

「後先考えねえし、めんどくせえことは全部丸投げするし、それでこっちがどんだけ苦労しても気にしねえし。俺が借りたレンタカーを無断でパクってデート行かれた時はどうしようかと思ったよ。生きた心地がしなかった」

 船井先輩にじろりとにらまれ、わたしは肩をすくめました。その節はどうもすいません。

「ただ『バカにされてる』みたいに思ったことは、これまで一度もないんだよな。逆に信頼を感じる。お前なら大丈夫だろって、そう言われてる気がするんだ。それが気持ち良くて、何だかんだ期待に応えたくなるのかもしれない」

 船井先輩が隣の長野先輩を見やりました。お前の番だぞというメッセージ。長野先輩が軽く身を乗り出します。

「私は正直、ムカついたことはない。でもそれはたまたまだと思ってる。あの性格で誰一人ムカつかないわけがないもの。君が鴨志田さんに言ったように、ただの結果論でしかないよ」

 手持ち無沙汰に髪をかき上げ、長野先輩が余裕のある微笑みを浮かべました。

「でも世の中に結果論じゃないものって、どれぐらいあるんだろうね。私はほとんどないと思うよ。私はムカつかない。君はムカつく。それでいいとじゃない。ムカつかないのはおかしいみたいなテンションで来られても、お姉さん困っちゃうかな」

 からかうような言い方で、言葉の強さを和らげます。長野先輩が私のターンは終わったとばかりに身体を引きました。続けて安木先輩が無表情で口を開きます。

「君は、服を買った方がいいと思う」

 俊樹くんが目を見開いて固まりました。頭の上に見えない「?」が浮かんでいるのが分かります。ここまでほとんど喋っていないので、俊樹くんは安木先輩の「AのためにBをしたいからまずCをしよう」のCから話を始める癖を知りません。

「最初に君が言った『フォーマルな場だからフォーマルな服で来た』という話を、僕は過剰適応だと感じた。君はたぶんあるべき姿を目指す気持ちが強くて、それを他人にも要求しがちなんだと思う。でも人間は個性の塊で、簡単に型には嵌まらない」

 一度口にしたAのためのBのためのCを、安木先輩が再び繰り返します。

「だから君は、服を買った方がいい。自分に似合う服を、自分のために。そうすれば自分と他人のままならなさに気づく」

 心を見透かしたような台詞を聞き、俊樹くんは黙って目を伏せました。いくらか思い当たる節があるのでしょう。そして図星をつかれてムキにならない程度には、他人の言葉を受け入れる用意もある。

「俊樹くん」わたしだって。「自分が世界の中心って、そんなに悪いことかな」

 小笠原先輩の家で俊樹くんと話した時から、ずっと思っていました。自分が世界の中心だと思うことと、周りの人間を引き立て役だと思うことは違います。

「わたしは俊樹くんのお兄さんのことが好き。好きだから許してることだって確かにある。それが俊樹くんには、私がお兄さんの言いなりになって、お兄さんを調子づかせているように見えたのかもしれない。でもね――」

 胸に手を当てます。背筋を伸ばし、肺から上がってきた空気を声に変換します。

「わたしの世界の中心は、わたしだよ。小笠原先輩じゃない」

 ――全部やろう。

 イベントサークル潰しをやった時、小笠原先輩はわたしたちにアイディアを求めました。そして集まった意見を全て実行しました。小笠原先輩は自分が世界の中心だと思っています。そして人の数だけ世界があることを認めています。

 わたしは小笠原先輩の世界の恋人役ではありません。

 わたしの世界の、主人公です。

「……トイレ行ってきます」

 ボソリと呟き、俊樹くんがテーブルから離れました。残されたわたしたちはその背中を見送ってから、テーブルを挟んでお互いに顔を見合わせます。船井先輩が軽く首をひねりました。

「やっぱ、連れてこない方が良かったんじゃないか?」
「そんなことないですよ」

 即座に否定を返します。流れに任せるよりも幸せな未来があるなら、目指すだけでも目指しておきたい。飯村さんから聞いた小笠原先輩の言葉を思い浮かべながら、わたしは繰り返します。

「そんなことないです」

 長野先輩が「そうだね」と頷きました。そして話は結婚式の打ち合わせに戻り、そのうちに俊樹くんが戻ってきます。わたしたちが話し合っている間、俊樹くんはテーブルの下で組んでいる自分の手を見つめ、ずっと何かを考え続けていました。