「たぶんオヤジは、情を移したくなかったんじゃないかなー」

 ザラメをまぶしたクッキーを頬張り、小笠原先輩が呟きます。わたしは「情?」と聞き返してレーズン入りのクッキーをかじりました。生地の甘みとレーズンの酸味が織りなすハーモニーが、唾液に乗って舌の上に広がります。

「クソ真面目だから、結婚式でも何でもやれとは言えない。でも俺の気持ちを考えたらやるなとも言えないでしょ。ガチの一生のお願いだもん。だから距離を置くことにしたんだよ。何も言えないから、何か言いたくならないようにしてる」
「じゃあ、わたしが歓迎されてないわけじゃないんですね?」
「うん。むしろ、こんなアホにこんな素敵なお嬢さんがついてくれるなんて申し訳ないって感じだと思うよ」
「弟さんは?」

 少し間が空きました。小笠原先輩が新しいクッキーに手を伸ばし、わたしを見ずに呟きます。

「あいつは、ちょっと歓迎してないかも」

 ガリッ。小笠原先輩がクッキーを歯で砕きました。しばらく顎を上下に動かし、咀嚼したクッキーを飲み込んでから続きを語ります。

「誰を連れて来ても同じだとは思うけどね。あいつが歓迎してないのは、相手じゃなくて俺の方だから」
「……あまり仲良くないんですか?」
「女の子がらみは信頼されてないって感じ。それで揉めたことあって」
「揉めた?」
「うん。あいつの好きな子、俺が取っちゃって」

 わたしは息を呑みました。小笠原先輩は淡々と話し続けます。

「俺が高三であいつが中三の時、あいつがクラスメイトとうちで定期的に勉強会を開いてて、その中にあいつの好きな子もいたの。そんで俺も頭いいわけじゃないけど中三の勉強見るぐらいならできるから、たまに教えたりしてたのね。そうしたらあいつの好きな子が俺に惚れたみたいで、あいつがラブレターを俺に届けに来た」

 自分の好きな相手が、自分の兄弟を好きになって、ラブレターを渡してくれと頼まれる。弟さんの心境を想い、胸がきゅうと苦しくなりました。小笠原先輩もその苦しさを理解しているのか、横顔が珍しく物憂げです。

「俺はその子のこと好きじゃなかったし、逆にあいつがその子のことを好きなのはバレバレだったから断ったんだけど、あいつが頼むから付き合ってやってくれって頭下げるからとりあえず付き合ってみることした。でもやっぱ無理じゃん。だからすぐ別れることになって、そん時にあいつのことも考えてやってくれみたいなことを言ったんだよね。そうしたら、その子があいつにその話をしたみたいでさ、馬鹿にするなってめっちゃキレられたの」

 小笠原先輩がテーブルに頬杖をつき、ぼんやりと中空を見上げました。

「あいつには、俺が面白がってあいつの恋愛を引っかき回してるように見えたんだろうね。そんなつもりはなかったけど、そう見えるのも仕方ないとは思う。焚きつけてやろうって気持ちが全くなかったわけじゃないし」

 小笠原先輩は、確かに人を振り回します。

 だけど、人を傷つけてもいいと思っているわけではありません。本当にただ派手なことをしたいだけの人ではない。それだったらきっと今頃は、爆音を鳴らしながらバイクで公道を暴走するみたいな方向に進んでいます。

 ただ、人を傷つけたくて傷つける人なんて、そんなに多くはありません。傷つけたくなくて、それでも傷つけてしまう。それは小笠原先輩もそうです。良かれと思ってやったことが真逆の結果になる。そういうことが普通に起こります。

「だからあいつは、また俺がまた適当な気持ちで女の子を弄んでるんじゃないかって疑ってるわけ。そして――」

 小笠原先輩がわたしの方を向きました。頬杖をついていない手で銃の形を作り、その銃口をわたしにつきつけます。

「そんな俺と平気で付き合ってる子のことも、あまり気に入ってない」

 見えない弾丸に貫かれ、わたしは目を見開きました。小笠原先輩が両手を組んで大きく伸びをします。

「まー、でも、結婚式なんて絶対に許さないってわけじゃないからさ。それはそれ、これはこれでやっちゃおうよ。どうせ親族は呼ばないし」

 ――いいのでしょうか。確かに結婚式ごっこかもしれませんが、余命いくばくもない小笠原先輩にとってはごっこでは済みません。残りの人生の伴侶を紹介する、普通の結婚式と遜色のない場になるはずです。

「ところで顔合わせ終わったけど、どうする?」
「……せっかく実家に行くんだし、卒業アルバムとか見たいなーって思ってたんですけど、いいですか?」
「いいねー。面白そう。持ってくるよ」

 小笠原先輩が和室から出て行きました。わたしは腿の上に乗せた手をぎゅっと握りしめます。部屋を出る時に弟さんが見せた寂しそうな目が、今でも宙に浮かんでわたしを監視しているようで、小笠原先輩が小中高の卒業アルバムを持って戻って来るまでわたしは正座を崩せませんでした。