余命半年の小笠原先輩は、いつも笑顔なんです

 オールが終わって、一旦帰ってから、船井先輩の部屋に出向きました。

 わたしが着いた時には、他のみんなは全員揃っていました。部屋に入るなり小笠原先輩に「発表、一番だから」と言われました。独断で決めたそうです。ひどい。

 みんなでテーブルを囲みます。視線が自分に集中しているのが分かって、緊張します。わたしは声が裏返らないよう、ゆっくりと喋り出しました。

「わたしは――」

 わたしが考えた作戦は――

「警察に通報するのが、一番だと思います」

 わたしは、初心を変えないことにしました。

 他が思いつかないということは、これが今のわたしなのです。わたしはこんなわたしがあんまり好きじゃないけど、それはそれ、これはこれ。認めなくてはいけません。

「普通で捻りがなくてつまらないと思います。でもこれが一番わたしらしいんです。だからわたしはこの答えで行きます。すいません」

 わたしは頭を下げました。小笠原がゆるゆると笑います。

「うん。いいと思うよ」 

 褒めてくれた。ひとまず安心しました。そしてふと、暗い顔をしている船井先輩に気づきました。船井先輩はすぐ、その表情の理由を語ってくれました。

「……俺も同じ」

 ――そうでした。船井先輩は常識人なのでした。

「ごめんね、普通でひねりがなくてつまらなくて……」

 落ち込む船井先輩。フォローする人は誰もいません。わたしはおろおろしながら長野先輩に視線を送りました。長野先輩はやれやれと口火を切ります。

「じゃあ、次は私ね」

 胸の上に開いた手を乗せながら、長野先輩が話します。

「私は、会場に被害者の告白を流す作戦を提案します。このサークルにいるとどんな目に会うか、集まった女の子に教えてあげるの。それで悪い噂が広まってくれれば万々歳でしょ」

 なるほど。わたしは頷きました。だけど立ち直った船井先輩が渋い顔をします。

「被害者の告白なんか集められるのか?」
「でっちあげでいいじゃない。私、ボカロ使えるから、それで作るよ」
「名誉棄損になるだろ」
「なるけど、近いことやってるんだから、向こうも公にしたくないでしょ」

 船井先輩がグッと顎を引きました。長野先輩は続けます。

「まあ本当は、単純にパーティーめちゃくちゃにしたいだけなんだけどね。最初に思いついたのは、昔作ったふざけた曲を会場で流すってアイディアだったし」
「昔作ったふざけた曲?」
「そう。『雌豚音頭』って言うんだけど、聞く?」

 念のため、もう一回だけ言っておきますけど、長野先輩はとても可愛らしい女性です。チョコレートのたっぷりかかったクレープをよく食べます。

「安木は、なに考えたの?」

 長野先輩が安木先輩に話を振りました。安木先輩は短く簡潔に答えます。

「花火」

 AのためのBのためのC。みんなが、続きを待って口を閉じます。

「警察に言っても動いてくれるかどうか分からないから、警察が向こうから踏み込んでくれるような状況にすればいいと思う。だからパーティー会場を荒らしたい。そのためには花火かなって。爆弾でもいいけど」

 爆弾。わたしが過激すぎるから却下したアイディアを安木先輩が口にして、思わず呑みました。小笠原が首を横に振ります。

「爆弾はやめよ。怪我人が出るのは良くない」

 予想通りの答え。安木先輩はあっさり「分かった」と引き下がります。わたしがダメだと思ったことをダメだと判断してくれて、なんとなく安心しました。

「で、小笠原はどうなの? どーせあんたのことだから、自分の考えを曲げる気はないんでしょ?」
「うん。まーねー」

 小笠原先輩が、わたしたちの一週間は徒労だったとあっさり認めました。でもいいんです。無駄にはなっていません。少なくともわたしは、そう思います。

 さて、いよいよ小笠原先輩のアイディアです。話の流れ的に、わたしたちはこれを実行することになります。みんなが固唾を呑んで見守る中、小笠原先輩がおもむろに口を開きました。

「俺のアイディアは――」

 小笠原先輩が得意げに自分の考えた案を語ります。とりあえずわたしは、呆然としました。なにそれ。わたしのそんな気持ちを、船井先輩が代弁します。

「はあああああああああ!?」

 船井先輩は声が大きいです。「うるせーぞ!」と隣の部屋の壁が叩かれました。よくここまで我慢してくれたと思います。隣の方、ありがとうございます。
 一週間後、わたしたちは新宿に向かいました。

 船井先輩がミニバンを借りて、それで移動しました。レンタカーは作戦を実行するクラブの近くで待機。逃亡用です。そして安木先輩と長野先輩が、わたしと小笠原先輩がペアになって、クラブに向かいます。全員大きな鞄を提げているので少し不自然です。なるべく人に見られないように、そそくさと歩きます。

 入口に立つ茶色い髪を逆立てたサングラスの人にチケットを差し出して、まずは安木先輩と長野先輩が中に入ります。時間差で入ろうと決めているので、わたしたちはもう少し後です。そして何人かクラブに入った後、いよいよ小笠原先輩が行動開始を告げます。

「俺たちもいこーか」

 来た。わたしは唾を呑み、このタイミングで言おうと思っていた言葉を口にしました。

「小笠原先輩」
「なに?」
「好きです」
「うん。俺も好きー」

 ――そうです。小笠原先輩はこういう人でした。わたしは笑いました。そして気恥ずかしさを隠すように、少し大股でクラブに向かいました。

 中に入るとすぐに、色とりどりの光で照らされたステージとその奥のターンテーブルが見えました。ステージの周りにはボックスの座席が配置されています。そして既に人が大勢いて、音楽も流れていました。

 わたしたちはまず暗がりに必要なものを設置して、事前準備を整えました。そして、ターンテーブルに向かいます。途中、長野先輩が安木先輩にしなだれかかる形で座っているのを見つけました。知らない男に声をかけられないための策。安木先輩は役得ですけど、ものすごく嫌そうな顔をしていました。

 ターンテーブル近くまで来て、「じゃあ、よろしくねー」と小笠原先輩がわたしから離れました。わたしは「はい」と頷き、リモコン代わりのスマホを取り出します。ネットワークで電子機器が遠隔操作出来る時代。便利になったものです。

 ――音楽が途切れたら、スマホのスイッチを押す。

 心の中でやるべき行動を復唱します。音楽が途切れたらスイッチを押す。音楽が途切れたらスイッチを押す。音楽が途切れたら――

 途切れました。

 小笠原先輩がターンテーブルの電源を抜いたのです。周囲がざわつきます。わたしはすぐ、スマホのスイッチを押しました。


『メスブタおーーーんど!』


 セットしておいたスピーカーを通じて、合成音声が長野先輩の作詞作曲した「雌豚音頭」を歌い始めます。陽気で間の抜けた音楽と無駄に破壊力のある歌詞。クラブにはざわつきすら起きず、ただただ、みなさん呆けていました。

『メッスブタ♪ メッスブタ♪ ブヒッ♪ ブヒッ♪』

 すいません、そろそろフォロー出来ません。本当に、本当に最後に一回だけ言っておきますと、長野先輩はとても可愛らしい女性です。猫の小物を集めています。

『ではこれより、イベントサークル「DRAGON」による強姦被害について、被害女性の証言を流させていただきたいと思います』

 流れ続ける音楽を背景に、吉永さんから聞いた話を再構築して百倍ぐらい大げさにした告発が流れます。場にざわつきが戻ってきました。

 その些細なざわつきを、突如噴き出た火花が喧騒に変えます。

 安木先輩たちがドラゴン花火に火を点けたのです。地面にセットした筒から火花が溢れ出す、簡易打ち上げ花火のようなアレです。噴き出した花火に気を取られていると、また別の場所から火花が上がります。次々と連鎖する花火によって会場に煙が充満し始め、出入口に向かって人々が殺到します。

「おい、警察呼べ!」
「呼べるわけねーだろ! 幹部全員捕まんぞ!」

 残念、もう呼んでいます。サークル幹部と思しき二人の男性の会話を聞きながら、わたしはニヤリと笑いました。そしてとうとう火災報知機が鳴って、室内に雨が降りはじめました。スプリンクラーです。

 ぜんぶやろう。

 小笠原先輩はそう言いました。そうです、ぜんぶやるのです。天国に沢山の思い出を持って行けるように。小笠原先輩が笑って死ねるように。

 わたしたちが思いついたこと。

 やりたいと思ったこと。

 全て、やりきるのです。

 人工の雨粒が髪の毛を濡らします。髪を濡らす水は頬を伝って、涙のように落ちて行きます。本物の涙がいくつか混ざっていることを、わたしは知っています。なぜだか動けなくなって立ち竦むわたしの手を、温かくて大きな手が包みます。

 小笠原先輩でした。

 小笠原先輩はわたしの手を引き、クラブの出入口に向かって走り出しました。そして満面の笑みを浮かべながら、朗らかに言い放ちます。

「上手くいったねえ!」

 わたしは震えそうになる声を必死で抑えながら、出来る限り明るく答えます。

「そーですね!」
「楽しいねえ!」
「そーですね!」
「死にたくないねえ!」

 どさくさに紛れて小笠原先輩が弱音を溢します。小笠原先輩がいつもへらへらしているのは、きっと周りに笑っていて貰いたいからなのです。ならばわたしも笑うしかありません。へらへら笑いながら答えます。

「そーですね!」

 人ごみを抜けてクラブを出ました。走って、走って、船井先輩が待機している車に乗り込みます。安木先輩と長野先輩は既に一番後ろの座席に座っていました。わたしたちが乗った瞬間、船井先輩が車を発進させ、同時に小笠原先輩が叫びました。

「みんな、お疲れー!」

 お疲れ様でしたー。全員がそう答えました。そして何がおかしいのかも分からないままに、しばらくケラケラと笑い続けました。
 船井君の家で祝勝会をしよう、と小笠原先輩が言い出しました。

 お酒を買うため、近くのスーパーの駐車場に車を停め、全員で降りました。そしてしばらく歩いた後、小笠原先輩が「あ」と声を上げました。

「財布忘れた。船井君、車のキー貸して」

 船井先輩が「はい」とキーを渡しました。小笠原先輩は踵を返し、そしていきなり、わたしの手を取りました。

「一緒に来て」

 はいと答える間もなく、小笠原先輩はわたしを車まで連れて行きました。船井先輩たちには気づかれましたが、特に追いかけてはきませんでした。そして小笠原先輩は車まで到着すると、まずは助手席の扉を開けました。

「乗って」

 意味が全く分かりません。でも乗りました。すぐに小笠原先輩も運転席に乗り込み、エンジンをかけます。ここまでくれば、さすがに分かります。

「小笠原先輩、あの……」
「シートベルトしてね」

 ガン無視です。わたしは言われた通りにシートベルトをしました。小笠原先輩はわたしの予想通り、車を発進させました。スーパーに向かう方に進み、窓を開けて、今まさにスーパーに入ろうとしている船井先輩たちに向かって叫びます。

「船井くーん! これ借りるねー!」

 そもそもレンタカーです。船井先輩は信じられないものを見る目つきでこちらを呆然と眺め、やがてわたしたちに走り寄って来ました。

「ふざけんなああああああ!」

 船井先輩が自分名義で借りて来た車だけあって必死です。でも小笠原先輩は何の躊躇いもなく車を発進させました。やっぱり、どうしても、常識人ほど小笠原先輩には振り回されます。

 スーパーの駐車場を出て、しばらく走ると、運転席と助手席の間の台に置いてあった小笠原先輩のスマホが震えはじめました。小笠原先輩はハンドルを握って前方を見つめたまま、わたしに頼みごとをします。

「それ、電源切っといて」

 いいのかな。まあ、いいか。わたしはスマホの電源を切りました。そしてこれだけはどうしてもスルー出来ない質問を小笠原先輩にぶつけます。

「あの……何してるんですか?」
「デート」

 車が赤信号で止まりました。目を見開いて固まるわたしの顔を、小笠原先輩が怪訝そうな表情で覗き込みます。

「俺たち、両想いでしょ?」

 わたしは、間違いなく人生で一番勢いよく、首を縦に振りました。

「はい!」

 歩行者用の信号が赤になります。小笠原先輩は視線を前方に戻し、アクセルを踏み込む準備をします。そして楽しそうに横顔で笑いながら、わたしに話しかけます。

「どこ行きたい?」
「海、行きましょう」
「いいねえ!」

 自動車用の信号が青になります。車が発進します。加速して、加速して、このまま来世まで行ってしまうんじゃないか。新しい命を手に入れて、全部真っ白になって、また出会い直せるんじゃないか。そう思えるぐらいの速度で、わたしと小笠原先輩を乗せた車は、しばらく直線の広い道路を走り続けました。




 わたしが入っているビリヤードサークルは、月に一度、大勢で集まってミーティングを開きます。

 一応、わたしの大学のサークルということにはなっているけれど、実際はどんな大学の人でも入れるインターカレッジなサークルで、主な活動場所は行きつけのビリヤード場。そんなふわっとしたサークルだから部室は持っていません。ミーティングは大学の会議室を借りて行います。

 そして、そういうふわっとしたサークルだから、ミーティングも大したことは話しません。終わったイベントの報告やこれからやるイベントの相談ぐらい。終わったらみんなでご飯を食べに行くので、それ自体が一つのイベントのようなものです。誰もそこで天地がひっくり返る大発表が行われるなんて思っていません。

 だけど、七月のミーティングは違いました。

 正確に言うと、わたしと、船井先輩と、長野先輩と、安木先輩と、小笠原先輩は違いました。ミーティングの最後に、小笠原先輩が余命宣告のことをみんなに話すと決めていたからです。

 小笠原先輩はいつも通り眠たそうな顔をしていました。安木先輩はいつも通り何を考えているのか分からない顔をしていました。長野先輩は少し落ち込んでいるようでした。船井先輩は幹事長として前でミーティングを主導しながら、これから始まる夏休みのイベントを夏になったら戦争に行くみたいな表情で語るので、何も知らないみんなを困惑させていました。

「ではこれで、七月度のミーティングを終了します。最後に――」

 船井先輩が小笠原先輩を見やりました。小笠原先輩は後ろの方に座っていたので、視線が多くの人の頭上を通り過ぎます。

「小笠原」
「ほーい」

 小笠原先輩が立ち上がりました。そしてそのまま船井先輩のところに――行きません。当たり前のようにわたしのところに来て、当たり前のように言いました。

「一緒に来て」

 意味が分かりません。でもわたしは「はい」と言って立ち上がりました。小笠原先輩が意味の分からないことをするのはいつものことです。意味の分かることをする小笠原先輩の方が、わたしにとっては分からないかもしれません。

 小笠原先輩が前に向かってずんずんと歩き、わたしは後ろをついていきます。船井先輩は露骨に困惑していました。「なんでお前も来るの?」と目線で問いかけられ、わたしは同じく目線でこう返します。「さあ……」

 ホワイトボードの前に立っていた船井先輩が横にどきました。小笠原先輩が代わりにそこに立ち、通りのいい声でみんなに語りかけます。

「えー、今日はみんなに三つ、発表があります。まずは一つ目から」

 小笠原先輩が右腕で、わたしの肩をグイッと抱き寄せました。

「俺たち、付き合うことになりましたー」

 無言。

 部屋全体が、水を打ったように静かになりました。当たり前です。あまりにも前振りがありません。一言で言うと、滑っています。だけど小笠原先輩はそんなことは気にせず、流れるように言葉を続けました。

「そんで二つ目だけど、俺、余命宣告されましたー。癌で、あとだいたい五か月ぐらい。まー、そんな正確なやつじゃないぽいけど」

 話す順番がおかしい。そんなツッコミが頭に思い浮かびました。もはや順番どうこうの問題ではないので、そんなツッコミをしている時点で小笠原ワールドに巻き込まれているのですが、わたしはそれに気づいていませんでした。

「大学は辞めたからサークル的にはOBになるのかな。まあとにかくそんな感じで時間がなくて、生きてるうちにやりたいことがあるのね。それが三つ目なんだけど」

 わたしの肩を抱く小笠原先輩の腕に、軽く力が込められました。

「一か月後、俺たちの結婚式を開きたいと思いまーす」

 ――もう、無茶苦茶です。話が全く見えません。わたしも船井先輩も長野先輩も安木先輩も、覚悟していたのは二つ目の発表だけ。一つ目はここで発表するとは思ってなかったし、三つ目に至っては初めて聞きました。

「本当に結婚するわけじゃないけどね。結婚式風のパーティやりたいってだけ。前にバイトしてたバーに話したら協力してくれそうだし、場所はそこでいいと思うんだ。あとは――」
「待てや!」

 船井先輩が声を上げました。さすが常識人。こういう時は頼りになります。

「こっちはついていけてねえんだよ! ちゃんと説明しろ!」
「今してるじゃん」
「……いや、それはそうだけど」
「でも確かに、大事なこと飛ばしてた。時期とか場所とか説明するより先にやることあるわ」

 小笠原先輩がわたしの肩から腕を外しました。そしてわたしと向き合って、いつもみたいにゆるゆると笑います。

「俺だけの話じゃないもんね。ちゃんと二人の気持ちを合わせないと」

 小笠原先輩の眠たそうな目が、ほんの少し開きました。

「俺と結婚してくれる?」

 それはどういう意味ですか?

 さっき本当に結婚するわけじゃないって言ってましたよね? 結婚式やってもいいかってことですか? っていうか、断られたらどうするんですか? 断っちゃいますよ? 何の相談もしてくれなかったの、だいぶモヤってるし。

 色々、本当に色々、言いたいことがありました。だけどわたしが選んだ返事は、たった一言。

「はい」

 こんな風だから、わたしはいつも、小笠原先輩に振り回されるのです。
「はあ……なるほど」

 テーブルの向こうで、お父さんが小さく頷きました。頷きはしたけれど理解できていないのは、眼鏡の奥で細められている目を見れば丸分かりでした。隣のお母さんはふーんという感じです。

「それで、その結婚式とやらには私たちも出た方がいいのかな?」
「いや、出なくて大丈夫ですよ。娘の結婚式に出席するって重大イベントじゃないですか。そのイベントをこんなんで消化しちゃうの、もったいないですし」
「だったら、私たちの許可は必要ないんじゃないか?」
「そこは、俺なりのけじめってやつです」

 お父さんが首を傾げました。わたしと小笠原先輩は横並びに座っていて、二人でわたしの両親を説得する構図になってはいるけれど、お父さんのついていけない気持ちはよく分かります。何ならわたしもまだ事態を飲みこみきれていません。

 一応、事前説明はしました。付き合っている人がいて、その人が余命宣告されていて、死ぬ前に結婚式っぽいものをやりたがっていて、そのために挨拶に来たいと言っていると、夕ご飯の時にお父さんとお母さんとお兄ちゃんに話しました。結果、お父さんとお兄ちゃんからは「何言ってんの?」という顔をされました。お母さんはふーんという感じでした。

「けじめ、ねえ」

 お父さんが隣のお母さんを見やりました。お母さんは平然と言い放ちます。

「いいんじゃない? 私も友達が再婚して、結婚式はやらなかったけれど、仲間で集まってお祝いをしたことがある。それと同じようなものでしょう」
「それはちゃんと結婚しているじゃないか」
「ちゃんと結婚しないことが気になるの?」

 お父さんがぐっと言葉に詰まりました。そして小笠原先輩に目を向けます。

「君にこういうことを言うのは酷だと思うけれど、私にとって結婚というのは人生を共に歩んでいく宣言なんだ。惚れた相手を生涯かけて守り抜く覚悟が先にあって、その上に築く誓いなんだよ。だから、ただのパーティなら好きにすればいいが、結婚式と呼ばれると……」

 お父さんの視線が、わずかに下がりました。

「すぐいなくなる人間に娘は任せられないと、どうしても思ってしまう」

 お父さんが口を閉じました。わたしも同じように唇を横に結びます。全員がピタリと静止して、リビングで動いているものはエアコンだけ。普段は気にも留めないささやかな送風の音が、やけに小うるさく聞こえてきます。

 ポン。

 わたしの肩に、小笠原先輩の手が乗せられました。振り向くと小笠原先輩は右手の親指を立てて、リビングのドアを指し示します。

「お父さんと二人で話したいから、ちょっと席外してくれる?」

 わたしは困惑しました。理由を尋ねようとした矢先に、お母さんが口を開きます。

「じゃあ、私もどこかに行かなくちゃね」

 お母さんが椅子から離れ、わたしをじっと見つめてきました。そして「二階にいるから、終わったら呼んで」と言い残してリビングから出て行きます。そうなればわたしだけ残るわけにはいきません。お母さんを追いかけて廊下に出ると、お母さんは二階に続く階段の傍で立ち止まり、わたしを待っていました。

「ねえ」お母さんに歩み寄ります。「わたしたち、なんで追い出されたのかな」

 お母さんがわたしを見つめ、落ち着いた声で語り出しました。

「男二人で話したいことがあるんでしょう。こっちも女二人で話したいことがあるから、ちょうど良かった」
「話したいこと?」
「あんた、あの男の子のこと、本当に好きなのね?」
「当たり前でしょ。好きじゃなきゃ連れてこないよ」

 迷うことなく言い切ります。本当に当たり前すぎて、意味がよく分かりませんでした。お母さんの唇が柔らかくほころびます。

「そう」

 お母さんがわたしに背を向け、階段を上り始めました。いきなり話したいことがあると言われて、聞くまでもないようなことを聞かれて、完全に置いてけぼりです。どうすればいいか分からず立ちすくんでいると、お母さんが階段の途中で足を止めて振り返りました。

「惚れた相手を生涯かけて守り抜く覚悟、だって」

 お母さんがふふふと笑いました。そしてまた階段を上り出し、囁くような一言を足音に重ねます。

「カッコつけちゃって」
 お父さんと小笠原先輩の話は、三十分ぐらいで終わりました。

 終わってすぐ、お父さんから「小笠原くんとビリヤードをしに行くぞ」と言われました。元々ビリヤードはお父さんの趣味なので、そこは小笠原先輩と話が合うだろうと思ってはいましたが、あの流れからビリヤードをやることになる理由はさっぱり分かりません。きっとお父さんも小笠原ワールドに巻き込まれたのでしょう。

 ビリヤードは、小笠原先輩がお父さんを終始ボコボコにしていました。ビリヤードの後は家で夕ご飯を食べました。そこで初めて小笠原先輩に会ったお兄ちゃんは最初こそ戸惑っていましたが、世代がだいたい同じだったので、いつの間にか高校時代に流行ったゲームや漫画の話で盛り上がっていました。

 夕ご飯の後はお父さんが車で小笠原先輩を駅まで送り、顔合わせは無事に終わりました。とはいえ、わたしのやることが終わったわけではありません。自分の部屋でベッドに腰かけて、LINEで長野先輩にメッセージを送ります。

『今、大丈夫ですか?』

 すぐにメッセージが既読になり、通話が飛んできました。通話を受けて耳にスマホを当てると、長野先輩の明るい声が鼓膜にじんと響きます。

「お疲れー。どうだった?」
「上手く行ったと思います。結婚式も普通にやれそうです」
「そうだよねえ。あいつがやるって決めたなら、それは実現するわ」

 声に実感がこもっています。きっと似たようなことが何度もあったのでしょう。今日の結果を長野先輩に報告すると決まった時、そこには船井先輩も安木先輩もいましたが、三人とも「99%やると思うけど念のため」という感じでした。

 結婚式のプランナーを、小笠原先輩は船井先輩たちに丸投げしました。

 正しくは船井先輩に丸投げしました。そうしたら船井先輩が文句を言ったので、長野先輩と安木先輩も巻き込まれることになりました。かくして船井先輩たちはいつものように、小笠原先輩の思い付きを形にする役割を担うことになりました。

「もう何か企画とか考えてるんですか?」
「考えてる。明日、小笠原の実家に行くんだよね?」

 いきなり話がわたしの予定に移りました。わたしは脈絡のなさに戸惑いつつ、とりあえず「はい」と答えます。今日、小笠原先輩がわたしの家に来たように、明日はわたしが小笠原先輩の家まで挨拶に伺います。わたしがけじめをつける必要はあまりないのですが、顔合わせが片方だけはしっくりこないのでそうなりました。

「そこで、あいつの過去を色々探ってみてくれない? 好きだった先生とか、仲良かった友達とか」
「いいですけど……どうしてですか?」
「サプライズのビデオレターを撮ろうと思って」

 ビデオレター。確かに、結婚式の定番イベントです。

「昔話は聞いたことあるけど、人の名前までは知らないから、ビデオレター撮るなら調査が必要なんだよね。でもいきなりそんなの聞いたら『こいつらビデオレター撮る気だな』ってバレちゃうじゃない。だから家に行くなら卒アルとか見せてもらって、探り入れて欲しいの」
「分かりました。でもそれだとビデオレター撮る時、小笠原先輩の病気のことを勝手に暴露しちゃうことになりません?」
「それは誰にでも言っていいみたいよ。ぞうじゃなきゃ、余命のことを知らない人を式に呼べないから」
「……そんな人も呼ぶつもりなんですか?」
「小笠原は、友達の友達の友達ぐらいなら普通に来て欲しいみたいだけど」
「結婚式って近しい人たちでやるものだと思うんですけど」
「私もそう思うから、そういう真っ当なツッコミは小笠原に入れて」

 確かに。わたしは納得して黙りました。すると長野先輩がすさかず「っていうか他にもさー」と、小笠原先輩の無茶ぶりについて延々と愚痴り始めます。文句を言いたくなるぐらい大変なのに、小笠原先輩のためにビデオレターまで撮ろうとしてるんですよね。そんなツッコミが思い浮かびましたが、ちょっと性格が悪いので言わないでおきました。

 それから十五分ぐらい話して、通話が切れました。わたしはベッドに仰向けに寝転がり、天井を眺めながら今日一日のことを思い返します。家族に小笠原先輩を会わせて、みんなに認めてもらえて、何だかんだいい顔合わせでした。次はわたしの番。小笠原先輩に何だかんだいい顔合わせだったと思ってもらえるよう、頑張らなくてはなりません。

 目をつむります。暗闇の中に会ったことのない小笠原先輩のお父さんと弟さんの顔を思い浮かべます。二人とも性格は小笠原先輩とは似ていないらしいのに、想像する二人はどうしても小笠原先輩とそっくりになってしまい、シミュレーションはなかなか上手くいきませんでした。
 翌日、小笠原先輩の実家の最寄り駅に着いたわたしは、待っていた小笠原先輩に開口一番「緊張しすぎ」と言われました。

 どうしてそう思ったのか聞いたところ、「肩が上がりすぎてMになっている」とのことでした。それを聞いたわたしは肩から力を抜きましたが、少し歩くとまた「M! M!」と指摘されました。小笠原先輩が笑いながら話しかけてきます。

「そんな緊張する?」
「しますよ。小笠原先輩はしなかったんですか?」
「あまり。何となく、いい家族なんだろうなーって思ってたから」
「実際はどうでした?」
「想像の百倍いい家族だった。ああやって認めて貰えると嬉しいね」

 雑談しながら歩いているうちに、小笠原先輩の家に着きました。わたしの家と同じ二階建ての一軒家。小笠原先輩が「ただいまー」と玄関のドアを開け、わたしは肩をMにして家に上がりました。

 まずは小笠原先輩の案内で、畳張りの和室に通されます。和室には大きな漆塗りのテーブルが置いてあり、奥にはたくさんの座布団が積み重なっていました。小笠原先輩がお父さんと弟さんを呼びに行っている間、わたしは座布団四枚をテーブルの周りに並べ、そのうち一枚に正座します。そして持ってきた紙袋からラッピングされたクッキーの詰め合わせを取り出し、テーブルの下に忍ばせてお父さんたちが現れるまで待機します。

 鼓動が早まります。はしたない格好をしていないかと、家を出る前に何回もチェックしたワンピースの丈を全身鏡でチェックしたくなります。小笠原先輩はわたしの家族に良いイメージを持っていたから緊張しなかったと言いましたが、わたしだって小笠原先輩の家族に悪いイメージを持っているわけではありません。なのに、これ。とはいえ、わたしがおかしいわけではないと思います。小笠原先輩の心臓に剛毛が生えているだけでしょう。

 ふすまが開きました。

 小笠原先輩と男性二人が和室に入ってきます。小笠原先輩はわたしの隣に座り、その向かいに大人の男性が正座しました。わたしの向かいに座ったのは若い男の子。どちらも彫りの深い男らしい顔立ちをしていて、身体も大きくて厚みがあります。女顔で細い小笠原先輩とはあまり似ていません。

「はじめまして」

 大人の男性が頭を下げました。そして自分が小笠原先輩の父親であることと、隣の男の子が高校三年生になる小笠原先輩の弟であることを語ります。わたしも頭を下げて自己紹介をしてから、用意していたクッキーの詰め合わせをテーブルの上に置きました。

「これ、お土産のお菓子です。良かったら」
「ありがとう。気を使わせて悪いね」

 お父さんがクッキーを手元に引き寄せました。小笠原先輩がわたしの肩に手を置いてへらへらと笑います。

「いい子でしょー。俺が好きになるのも分かると思わない?」

 お父さんがじろりと小笠原先輩をにらみ、わたしは背筋を強張らせました。わたしがにらまれているわけではない。分かっていても、怯えてしまいます。

「そうだな。他人の思いやれる優しい子なのだろう。だからこそ――」

 お父さんの低い声が、にわかにボリュームを増しました。

「お前はその子のことをきちんと考えて、自分の行動を選ばなくてはならない」

 お父さんが立ち上がりました。強かった威圧感がさらに増します。

「お前の人生だ。お前はお前を好きにしていい。だけど他人を好きにしていいわけじゃない。お前の命が残り少ないことは、何の免罪符にもならない」

 小笠原先輩を見下ろし、お父さんが厳しい言葉を投げかけます。わたしはすっかり蚊帳の外。顔合わせという主旨が見事に消えてしまっています。

「お前はその子の人生の責任を取れない。それだけは絶対に忘れるな」

 お父さんが歩き出し、ふすまを開けて和室から出ていきました。あまりの展開にわたしが呆けているうちに、弟さんもすっくと立ち上がります。

「ごめん。俺も特に言うことない」

 弟さんがわたしを見やりました。小笠原先輩とは違う、意志の強そうな瞳。

「あなたも、自分が何をさせられているのか、少し考えた方がいいと思います」

 お父さんと同じように、弟さんが和室から出ていきました。二人が現れてから約一分。名前すら聞けずに顔合わせは終了です。わたしは動揺し、おろおろと小笠原先輩に話しかけます。

「どうしましょう」

 小笠原先輩が「んー」と腕を組んで目をつむりました。そしてしばらく経ってからぱちりとまぶたを上げ、右のひとさし指を伸ばします。

「とりあえずさ」

 指先が、テーブルの上のクッキーに向けられました。

「あれ、食べちゃお」
「たぶんオヤジは、情を移したくなかったんじゃないかなー」

 ザラメをまぶしたクッキーを頬張り、小笠原先輩が呟きます。わたしは「情?」と聞き返してレーズン入りのクッキーをかじりました。生地の甘みとレーズンの酸味が織りなすハーモニーが、唾液に乗って舌の上に広がります。

「クソ真面目だから、結婚式でも何でもやれとは言えない。でも俺の気持ちを考えたらやるなとも言えないでしょ。ガチの一生のお願いだもん。だから距離を置くことにしたんだよ。何も言えないから、何か言いたくならないようにしてる」
「じゃあ、わたしが歓迎されてないわけじゃないんですね?」
「うん。むしろ、こんなアホにこんな素敵なお嬢さんがついてくれるなんて申し訳ないって感じだと思うよ」
「弟さんは?」

 少し間が空きました。小笠原先輩が新しいクッキーに手を伸ばし、わたしを見ずに呟きます。

「あいつは、ちょっと歓迎してないかも」

 ガリッ。小笠原先輩がクッキーを歯で砕きました。しばらく顎を上下に動かし、咀嚼したクッキーを飲み込んでから続きを語ります。

「誰を連れて来ても同じだとは思うけどね。あいつが歓迎してないのは、相手じゃなくて俺の方だから」
「……あまり仲良くないんですか?」
「女の子がらみは信頼されてないって感じ。それで揉めたことあって」
「揉めた?」
「うん。あいつの好きな子、俺が取っちゃって」

 わたしは息を呑みました。小笠原先輩は淡々と話し続けます。

「俺が高三であいつが中三の時、あいつがクラスメイトとうちで定期的に勉強会を開いてて、その中にあいつの好きな子もいたの。そんで俺も頭いいわけじゃないけど中三の勉強見るぐらいならできるから、たまに教えたりしてたのね。そうしたらあいつの好きな子が俺に惚れたみたいで、あいつがラブレターを俺に届けに来た」

 自分の好きな相手が、自分の兄弟を好きになって、ラブレターを渡してくれと頼まれる。弟さんの心境を想い、胸がきゅうと苦しくなりました。小笠原先輩もその苦しさを理解しているのか、横顔が珍しく物憂げです。

「俺はその子のこと好きじゃなかったし、逆にあいつがその子のことを好きなのはバレバレだったから断ったんだけど、あいつが頼むから付き合ってやってくれって頭下げるからとりあえず付き合ってみることした。でもやっぱ無理じゃん。だからすぐ別れることになって、そん時にあいつのことも考えてやってくれみたいなことを言ったんだよね。そうしたら、その子があいつにその話をしたみたいでさ、馬鹿にするなってめっちゃキレられたの」

 小笠原先輩がテーブルに頬杖をつき、ぼんやりと中空を見上げました。

「あいつには、俺が面白がってあいつの恋愛を引っかき回してるように見えたんだろうね。そんなつもりはなかったけど、そう見えるのも仕方ないとは思う。焚きつけてやろうって気持ちが全くなかったわけじゃないし」

 小笠原先輩は、確かに人を振り回します。

 だけど、人を傷つけてもいいと思っているわけではありません。本当にただ派手なことをしたいだけの人ではない。それだったらきっと今頃は、爆音を鳴らしながらバイクで公道を暴走するみたいな方向に進んでいます。

 ただ、人を傷つけたくて傷つける人なんて、そんなに多くはありません。傷つけたくなくて、それでも傷つけてしまう。それは小笠原先輩もそうです。良かれと思ってやったことが真逆の結果になる。そういうことが普通に起こります。

「だからあいつは、また俺がまた適当な気持ちで女の子を弄んでるんじゃないかって疑ってるわけ。そして――」

 小笠原先輩がわたしの方を向きました。頬杖をついていない手で銃の形を作り、その銃口をわたしにつきつけます。

「そんな俺と平気で付き合ってる子のことも、あまり気に入ってない」

 見えない弾丸に貫かれ、わたしは目を見開きました。小笠原先輩が両手を組んで大きく伸びをします。

「まー、でも、結婚式なんて絶対に許さないってわけじゃないからさ。それはそれ、これはこれでやっちゃおうよ。どうせ親族は呼ばないし」

 ――いいのでしょうか。確かに結婚式ごっこかもしれませんが、余命いくばくもない小笠原先輩にとってはごっこでは済みません。残りの人生の伴侶を紹介する、普通の結婚式と遜色のない場になるはずです。

「ところで顔合わせ終わったけど、どうする?」
「……せっかく実家に行くんだし、卒業アルバムとか見たいなーって思ってたんですけど、いいですか?」
「いいねー。面白そう。持ってくるよ」

 小笠原先輩が和室から出て行きました。わたしは腿の上に乗せた手をぎゅっと握りしめます。部屋を出る時に弟さんが見せた寂しそうな目が、今でも宙に浮かんでわたしを監視しているようで、小笠原先輩が小中高の卒業アルバムを持って戻って来るまでわたしは正座を崩せませんでした。
 長野先輩に与えられたミッションは、順調に進みました。

 卒業アルバムを眺めながら語られる思い出話はバリエーションに富んでいて、ビデオレターの撮影候補は絞り切れなくて困るぐらい集まりました。あまりにも情報量がすごくて、わたしは途中で登場人物の名前を覚えきれなくなりました。一旦セーブをしようとスマホを持って立ち上がります。

「トイレ行ってきます」

 わたしは和室を出て、トイレに向かいました。そしてトイレのドアの横の壁にもたれかかり、スマホを取り出して急いでメモをします。小学校の先生、中学校の部活の顧問、高校生の頃の親友、それから――

 ギシッ。

 上の階から、床の軋む音が聞こえました。わたしはスマホから顔を上げ、近くにある二階へと続く階段を見つめます。やがて足音と共に下りてきた弟さんが、わたしとトイレのドアを見比べて軽く頭を下げました。

「どうも」

 何のどうもなのか分かりませんが、ひとまず「どうも」と返します。弟さんがわたしの目の前を通り過ぎました。そしてトイレのドアノブに手をかけます。

「あの」弟さんの方を向きます。「わたしのこと、気に食わないですか?」

 ドアノブから手を離し、弟さんが振り向きました。わたしは自分で声をかけたくせに動揺し、あわあわと言葉を繋ぎます。

「えっと、その、他意はないんです。たださっきすぐに出ていっちゃったから、もしかしてわたしのことがイヤだったのかなって」
「……別に、そんなことはありませんけど」
「けど?」

 続きを迫ります。自分で言っておいて、何が「他意はない」だと思いました。弟さんが困ったようにわたしから目を逸らします。

「なんか、かわいそうだなとは思いました」
「わたしが?」
「はい。兄貴にとって全ての人間は自分の引き立て役なので」

 強烈なフレーズが飛び出しました。固まる私の前で、弟さんが不満そうに口を尖らせます。

「兄貴の世界の中心には、いつだって兄貴がいる。そりゃ、どうせなら引き立て役にも喜んでもらいたいぐらいのことは考えますけど、その程度ですよ。俺は兄貴のそういうところはあまり好きじゃないし」

 弟くんが眼球を動かし、じろりとわたしを見やりました。

「そんな兄貴を増長させる人も、正直、苦手です」

 あなたのことを言っています。目線でそう語られ、わたしはたじろぎました。こんな真っ直ぐに敵意をぶつけられたのは久しぶりです。高校二年生の時、友達が大好きなボーイズダンスグループの男の子について、若手お笑い芸人の名前を出して「似てるよね」と言ってしまった時以来かもしれません。

 ――それはそれ、これはこれでやっちゃおうよ。

 これは確かに、それしかないかもしれません。小笠原先輩に残された時間はわずかです。そのわずかな時間を使って優先すべきことは――

 ――ああやって認めて貰えると嬉しいね。

「あの」

 とんでもないことを言おうとしている。頭では分かっているのに止まりません。小笠原先輩がとんでもないことを言い出す時も、もしかしたらこんな感じなのかもしれない。そう思いました。

「頼みたいことがあります」