あなたの回りで一番ちゃらんぽらんな男の人を思い浮かべてください。
髪の毛を薄い茶色に染めていませんか? 袖の長いゆるゆるな服を着ていませんか? なんか眠そうな目をしていませんか?
笑っていませんか?
わたしが思い浮かべる小笠原先輩は、いつも笑顔です。
ちゃらんぽらんな人って、心に冷蔵庫がないんだと思います。
とりあえずこれはここにしまっておこう。そういうものがない。目についたものを目についた時に食べてしまう。だからとても高くて美味しい神戸牛をなんでもない日に食べたり、とても大事な記念日になんでもないグラム百円以下の豚バラ肉を食べたりする。本人はそれで「おいしー」とか言っているからいいですけど、周りは驚きますよね。「そこでそれ食べちゃう?」みたいな。
都内の大学の教育学部に入って一年目の春、お父さんの趣味を受け継ぐ形でビリヤードサークルに入ったわたしが出会った小笠原先輩は、まさにそういう人でした。女顔で、細身で、髪を薄い茶色に染めていて、首元がゆるんだダボダボの服をよく着ていて、そして、とにかく優先順位がめちゃくちゃ。「給料日まで一日三百円で生きなくちゃいけないんだけどどうしよー」とか言っている最中に、透明な筒に入ったボールを下から空気で浮かすどーでもいいインテリアを買う。お金と時間をノリで使ってしまうからいつも金欠で、三年生なのに二年間で取った単位は四でした。最初は二年も通っていて四単位は酷いなあと思っていたけれど、今ではよく四単位も取れたと思います。
そんな小笠原先輩は、マスコットというか、珍獣というか、そんな扱いですけど、サークルのみんなには好かれていました。つかみどころがない。形がない。だから当然、裏表もない。そういうところが好かれていたんだと思います。
小笠原先輩はその中でも特に、同じ三年生の同期三人と仲良くしていました。
船井正太郎先輩。大学では社会学部に入り、サークルでは幹事長をやっている、背の高い真面目で常識人な先輩です。そして真面目な常識人ほど小笠原先輩には振り回されます。小笠原先輩は一人暮らしをしている船井先輩の部屋の合鍵をなぜか持っていて、無料休憩所ぐらいの感覚で使い倒していました。大学から帰っていたら寝ていたりするそうです。
長野真衣先輩。大学では法学部に入り、サークルでは副幹事長をやっている、ふわふわした髪がとても可愛い女性の先輩です。だけどサークル内で可愛いという評価はあまり聞きません。サークルの集まりがあると「ひょっとこの顔真似」とかで執拗に笑いを取りに来るからだと思います。小笠原先輩は「マイは男とか女じゃなくてマイだよね」と言及していました。
安木貴弘先輩。大学では生物学部に入り、サークルでは会計をやっている、頭の良さそうな眼鏡が特徴的なあまり喋らない先輩です。そしてたまに喋ると「手がカマになるという攻撃特化過ぎる進化を遂げたカマキリの底知れぬ悪意について」とか不思議なことを話します。小笠原先輩は、安木先輩のそういう不思議なところがとても好きなようです。
わたしたちのサークルは、ただ活動日に行きつけのビリヤード場に集まってビリヤードをするだけのサークルです。ビリヤード場やビリヤード団体が主催する試合に出たりもします。そういう活動日や試合の後、小笠原先輩が「この後、船井君の部屋行こうかー」と言い出して、お酒を飲んだりゲームをしたり映画を見たりする。小笠原先輩たちは、そういう仲間でした。
サークルに入ってすぐ、その仲間にわたしも割り込みました。仲良くしていた長野先輩から船井先輩の部屋に行くのに誘われて、ついて行ったらわたしも一員になった感じです。他の一年生の女の子がみんなすぐに来なくなってしまったのもあって、わたしは同期よりも小笠原先輩たちと遊ぶことの方が多い、少し変な立ち位置の一年生になっていました。
六月のあの金曜日も、わたしたちは船井先輩の部屋でジェンガをやっていました。ただのジェンガではなく、抜いたブロックに指令が書いてあったらそれを実行しなくてはならない面白ジェンガです。
「じゃあ、次、行きまーす」
小笠原先輩がブロックを一本抜きました。もっと楽なところがあるのに変なところから抜くから、小笠原先輩はジェンガが下手くそです。でもその時は綺麗に抜くことが出来ました。
「あー、『秘密を一つ暴露して下さい』だって」
あけすけで、ちゃらんぽらんで、隠し事なんか何にも無さそうな小笠原先輩の秘密。わたしはワクワクしていました。もしかして小笠原先輩の恋愛話とか聞けるかもしれない。そんなことを考えていました。
阿呆だったなあと思います。
「こないだ倒れて、病院行ったんだけどー」
倒れた。病院。部屋がほんの少し冷たくなりました。
「俺、余命半年って言われちゃいましたー」
小笠原先輩は、へらへら笑っていました。
だけど笑っているのは小笠原先輩だけでした。わたしも、長野先輩も、船井先輩も、安木先輩も笑っていませんでした。小笠原先輩は適当なことは言うけれど、嘘は言わない。みんな、それを知っていました。
最初に反応したのは、船井先輩でした。
「はあああああああああ!?」
船井先輩は声が大きいです。わたしは驚いて、テーブルの足に膝をぶつけてしまいました。ジェンガがガラガラと、大きな音を立てて崩れました。
「なんかー、大腸に癌があるらしくって、もう無理なんだって。でさー、若いと癌の進行が早いって言うじゃん。あれ嘘なの知ってた? 癌細胞ってバラバラに出来るパターンとまとまって出来るパターンがあって、それでバラバラの方が進行早いんだって。でー、若いとバラバラで出来ることが多いから結果的に早く見えるらしいよ。全然知らなかったわー。それからー」
小笠原先輩はぺらぺらと詳細を話してくれました。病院で飲んだ野菜ジュースがとんでもなく不味かったところまで含めて、ひたすら喋り続けました。そして分かったことは、小笠原先輩が末期の大腸癌ということだけでした。
小笠原先輩に任せていると情報が増えないので、こちらから質問攻めにしました。そして余命は短くて半年だということ、本当にマズくなるまで入院治療はせずにいつも通り余生を過ごすと決めたこと、いつも通りの生活の中に「大学に行く」がなぜか無かったから大学は辞めたこと、ついでにバーテンのバイトも辞めたこと、一人暮らしのアパートを引き払って今は実家にいることを引き出しました。
「でさー、これ、誰の負けなの?」
質問が止んだところで、小笠原先輩が机の上のジェンガを指さしました。どうでもいいです。本当に。
わたしと船井先輩と長野先輩は動揺していました。安木先輩はいつも通りでした。安木先輩はいつ何があっても不気味なぐらいに落ち着いています。船井先輩に「どうする?」と尋ねられ、安木先輩はおもむろに口を開きました。
「グーグルを開こう」
安木先輩はよく「AのためにBをしたいからまずCをしよう」のCのところだけを話します。そういう時は詳しい話を聞かないと会話が成り立ちません。今回は「今後の生き方を考えるため、『死ぬまでにしたい10のこと』という若くして余命宣告を受けた主人公が死ぬまでにやりたいことのリストを作り実行する映画を見たいから、どうすればネット配信で映画を観られるかグーグルで調べよう」ということでした。
誰も反対はしなかったので、わたしたちは『死ぬまでにしたい10のこと』を配信しているサイトを調べ、船井先輩が会員登録をしました。テレビをモニターにして配信サイトを映すと、小笠原先輩が「あれ観たいんだけどあるかなー」と言って全く関係のないアニメ映画を検索し始めましたが、みんな文句は言いませんでした。検索して出てきた映画をそのまま再生しようとした時は、さすがに船井先輩が「ちょっと待て!」と制しました。
『死ぬまでにしたい10のこと』は、とても良い映画でした。
わたしも泣きましたが、船井先輩はその十倍ぐらい泣いていました。見終わった後は小笠原先輩に抱き付いて「小笠原、死ぬなー!」と叫んでいました。船井先輩は声が大きいです。たぶん、隣の部屋の人はすごく困惑していたと思います。
「お前、何かしたいことないのか!? 何でも言え! 俺たちが実現してやる!」
船井先輩がドンと胸を叩きました。俺じゃなくて、俺たち。勝手に巻き込まれているけれど、それに不満を言う人はいませんでした。別に当たり前のことだと、みんな思っていました。
そんなだから、わたしたちはいつも小笠原先輩に振り回されるのです。
「えー、じゃあー」
小笠原先輩が、ぐるりとみんなを見回しました。
「みんな、『DRAGON』ってサークル知ってる?」
わたしは知りませんでした。船井先輩も知らないみたいでした。安木先輩は良く分かりません。長野先輩は知っていて、首を縦に振りました。
「知ってる。超評判悪いヤリサーでしょ。あたしの学科にもメンバーいるけど、脳みそが金玉に詰まってそうな男で、クソチャラいの」
一応、もう一回言っておきますけど、長野先輩はとても可愛いらしい女性です。趣味はお菓子作りです。
「そう、それ。あのサークルさー」
小笠原先輩はへらへら笑っていました。そしてわたしたちに自分のしたいことを、いつも通り、ゆるーい感じで教えてくれま
した。
「潰そ」
「バイト先の女の子がさー、『DRAGON』のメンバーだったの。それでパーティーで薬盛られてやられちゃったんだって。あのサークルさー、パーティーのことレイブって呼ぶんだけど、『レイブじゃなくてレイプだろ』とか言われてるぐらいヤバいらしいね。警察なにやってんのって感じ。この間も夜中歩いてたら職質受けてさー、なんか近所でひったくりが出てるらしいんだけど、完全に俺のこと犯人扱いなの。俺、超ムカついてさー」
小笠原先輩はぺらぺらと詳細を話してくれました。ただし話した内容はほとんど自分が受けた職務質問のことでした。そして分かったことは、小笠原先輩の知人女性が『DORAGON』のパーティーで強姦被害にあったことだけでした。
わたしたちは再び、小笠原先輩を質問攻めにしようとしました。だけど小笠原先輩が「直接聞いた方が良くない?」といきなり電話を始めて、それは中断されました。
「あー、うん、俺。あのさー、こないだ話したサークル潰しの件なんだけど。え、超本気だよ。当たり前じゃん。余命半年なんだからやりたいことをやんないと。それで話戻すけど、仲間をゲットしたのね。で、仲間に説明して欲しいんだけど――」
小笠原先輩はしばらく話をした後、あっさりわたしたちに告げました。
「明日、会って話してくれるって」
頼んでいません。そして小笠原先輩は話を大きくするだけ大きくして、何事も無かったかのように自分が観たかったアニメ映画の配信を見始めました。映画はとても面白くて何だか悔しかったです。つまらなければ文句の一つも言えたのに。
その日はそのまま、船井先輩の部屋にみんな宿泊。そして翌日、わたしたちは小笠原先輩が待ち合わせ場所にした喫茶店に向かいました。
店に入る前、小笠原先輩は「船井君と安木君とマイは相席しないで近くで聞いて」と指示を出しました。わたしは首を傾げて尋ねます。
「わたしはいいんですか?」
「うん。いーよ」
どうしてですかと聞く前に、小笠原先輩は店に入ってしまいました。店にいた待ち合わせの女性――名前は吉永さんと聞いていたその人は、金に近い長めの茶髪にパーマをかけていて、ちょっと派手な感じの人でした。
「この子がそうなの?」
わたしを見た吉永さんが、小笠原先輩に問いかけました。小笠原先輩は「うん。あと三人いる」と答えて続けます。
「話してあげてよ。お願い」
吉永さんがポツポツと語りはじめました。新宿のクラブを貸し切ってパーティーをしたこと。お酒を飲んだらまともに歩けないぐらいにフラフラになったこと。そしてそのままホテルに連れて行かれて――そういうことになったこと。話しているうちに、だんだんと声が小さくなっていました。
「警察には行かなかったんですか?」
わたしの質問に、吉永さんはふるふると首を振りました。
「行ったら、無かったことに出来ない気がして」
警察に行かなくたって、あったことを無かったことになんて出来ません。でも、言いたいことは分かります。
「でさー、あいつら、次いつ集まるの?」
「次のレイブなら、二週間後にあるみたいだけど……」
「そっか。じゃあ、そこだなー」
二週間後。わたしは声を上げました。
「そんな早くは無理ですよ!」
「えー、だって余命考えたら、これ逃したら次のチャンスないかもじゃん」
お金が足りないぐらいの感じで、命が足りないと言う小笠原先輩。わたしは黙りました。そんなわたしに吉永さんが声をかけます。
「私は本当に忘れるからいいの。無理はしないで」
サークル潰しは吉永さんが頼んだわけではない。小笠原先輩が勝手にやろうとしているだけ。ということは――止まりません。
「小笠原先輩が、やりたいらしいので」
わたしは小笠原先輩をチラリと見やりました。吉永さんは諦めたように「そうね」と呟きました。この人、小笠原先輩を分かっているな。そう思いました。
それから少し話した後、吉永さんはその場を去りました。すぐテーブルに船井先輩たちが合流します。集まってから最初に発言したのは、長野先輩でした。
「どうしてあたしたちは相席しちゃダメだったの?」
小笠原先輩は、吉永さんが去って行った方を見ながら答えました。
「知らない人が目の前に沢山いると身体が震えるんだって。特に男は絶対にダメ」
場がシンと静まり返りました。その沈黙を小笠原先輩が破ります。
「とにかく話は聞いたでしょ。二週間後、決行だから」
「決行って、何すんだよ」
船井先輩が口を尖らせました。常識人な船井先輩らしい、とても普通で正当なツッコミです。そしてやっぱり、常識人ほど小笠原先輩には振り回されます。
「次の土曜まで一週間かけて、それぞれで作戦を考える。後で持ち寄って、その中から俺が選ぶ。それで行こう」
「お前は?」
「もう決めてあるよ。色んな意見聞きたいから、相談禁止でお願いね」
船井先輩がポカンと口を開けました。気持ちは分かります。一方的過ぎます。
「じゃあ、俺、用事あるから今日はこれで解散ね。パーティーチケットは手に入れとくから安心して。よろしくー」
小笠原先輩が店の出入口に向かいました。嘘でしょ。そう思ったけど、嘘じゃありませんでした。小笠原先輩は普通に出て行きました。信じられません。
「……大変なことになっちゃいましたね」
わたしの呟きに、長野先輩が答えました。
「うん……それにしてもあの女の人……巨乳だった」
全然見ていませんでした。ちなみに長野先輩の胸は本人曰く「ビリヤード用に設計されたコンパクト仕様」になっています。わたしも同じです。
「どうする?」
船井先輩が安木先輩をじっと見据えます。流されて、わたしと長野先輩も同じことをします。三人分、六つの視線を受けながら、安木先輩はおもむろに口を開きました。
「紙とペンを用意しよう」
AのためのBのためのC。わたしたちは続きを待って口を閉じます。
「あいつは僕たちそれぞれの僕たちらしい答えを求めている。それなら、最初にパッと思いついた答えが一番近い。とりあえずそれをメモしておこう」
なるほど。安木先輩はいつもとても深いことを考えています。話す順序がおかしいだけで。
長野先輩が鞄からメモ帳を取り出して、一枚ずつ千切って配りました。最初に思いついたこと。わたしはさらさらとペンを走らせ、そして紙を四つ折りにします。
「じゃあこの話は、一週間後まで無しね」
長野先輩の言葉に、全員が頷きました。それからわたしたちは、昨日、小笠原先輩と観たアニメ映画について語り合いました。本当に面白かったのです。悔しいけど。
その日は、それからすぐに家に帰りました。
わたしは実家から大学に通っています。公務員のお父さんと、専業主婦のお母さんと、二つ上のお兄ちゃんが住む二階建ての一軒家。何の変哲もない四人家族です。
帰ってすぐ、わたしは部屋のベッドに寝転がりました。そして喫茶店で書いたメモを開いて、はあと大きく溜息をつきます。どうしてわたしはこうなんだろう。自分で書いたくせにイヤになります。
『警察に通報する』
なんて優等生。そしてなんてつまらない。もはや作戦ですらありません。いの一番、最初に思いついたことがこれ。情けないです。
わたしは「ふつう」なのです。両親が揃ったふつうの家で育って、特別に頭がいいわけでも悪いわけでもないふつうの学校に行って、孤立することもグレることなくふつうに友達を作る、とてもふつうな女の子。そんなわたしは、ふつうじゃないものにとても強く惹かれます。
例えば、小笠原先輩。
ビリヤードは予測が大事な競技です。玉がこう当たればこう動く。そういう予測の精度と、予測を実現する精度の高い人が最後には勝ちます。
わたしという玉は、とても素直な動きしていると思います。張り合いがないぐらいに思ったように動いてくれる。だけど小笠原先輩は違います。跳ねたり、割れたり、やりたい放題。スタートは普通のビリヤードのゲームでも、すぐに小笠原先輩をどう扱うかのゲームになってしまう。ルールを支配するほどに自由なのです。
余命半年。
半年後に自分の命が無くなってしまう。考えるだけで恐ろしいです。わたしならまともにご飯を食べることすら出来ません。でも小笠原先輩はいつも通りちゃらんぽらん。小笠原先輩は、ちゃらんぽらんだけどふにゃふにゃではないのです。わたしは逆に、真面目だけどふにゃふにゃ。中身がない。なんとなく先生になるのもいいかもぐらいの気持ちで教育学部を選んで、いざ入学したら本気で先生になりたい同級生たちに気圧されておろおろする。そんな子です。
開いたメモ帳をじっと見ます。『警察に通報する』。小笠原先輩がこの意見を気に入ることはまずありません。でも、次の土曜まではあと一週間もあります。ここで小笠原先輩に選んでもらえる作戦を捻り出すことが出来れば、わたしはふにゃふにゃじゃなくなる。中身が出来る。そんな気がします。
「――よし」
わたしは部屋を出ました。温かいレモンティーを飲んで頭を働かせるために、リビングに入ります。そしてソファに座り、一人でテレビを見ているお父さんに、何となく話しかけました。
「ねえ、お父さん」
「ん?」
「わたしが余命半年って言ったら、どうする?」
お父さんは目をパチパチさせながら、不思議そうに呟きました。
「そういう映画でも見たのか?」
映画。そうだよね。そういう世界の話だよね。わたしは「ちょっとね」と誤魔化して、食器棚のカップを取りに向かいました。
一週間もある。甘かったです。一週間しかないが正解でした。
答え合わせの前日、金曜日になっても、わたしの頭の中の回答用紙には『警察に通報する』が書いてありました。他に思いつかないのです。というより思いついても『会場を爆破する』とかだから、これはダメだよねと却下してしまいます。なんとなく小笠原先輩は、そういう怪我人が出る方法は選んでくれない気がします。
金曜はサークルの活動日です。行きつけのビリヤード場でワイワイ球を撞く日。わたしは長野先輩と同じ台で撞いていました。小笠原先輩は「花台」と呼ばれる一番出入り口に近い台で、OBの一番上手な方と撞いていました。
小笠原先輩はとてもビリヤードが上手いです。カコンと気持ちのいい音を立てて、吸い込まれるように玉が穴に入っていきます。そしてわたしは下手くそです。ビリヤードは体軸がぶれないことが重要なのでふにゃふにゃだと弱いのです。こんなところにも、わたしと小笠原先輩の人間力の差が出ています。
ゲーム合間、長野先輩が「ちょっと休憩」と台の近くの長椅子に腰かけました。わたしは横に座り、我慢できずに問い尋ねます。
「マイさん、明日のやつ、決まりました?」
「うん、決まってるよ」
ですよね。明日ですもんね。わたしは軽く溜息を吐きました。
「決まってないの?」
「はい。というより、しっくりこなくて」
「何でもいいじゃん。小笠原、別に怒らないよ。つーか、あいつはあいつで考えてるみたいだから、よっぽどの意見が出ない限り自分の通すでしょ」
そのよっぽどの意見を出したいのです。小笠原先輩が「いいねー、それ、俺のよりいいわ。採用」と言ってくれる作戦を考えたい。
「小笠原先輩って、どういう作戦が好みなんでしょう」
「さあ。聞いてみたら?」
聞く。そうか、その手があったか。目から鱗です。
わたしはチラリと小笠原先輩を見やりました。OBの方と楽しそうに話していて、なかなか入り込める雰囲気ではありません。しかもあの人たちが小笠原先輩の余命のことを知っているかどうかも分かりません。小笠原先輩のことだから、さらっと話しているかもしれないけれど、そこに賭けるのは少し危険です。
後で話をする約束を取り付けよう。わたしはそう決めました。作戦のこと以外にも聞きたいことはいっぱいあります。ちょうどいい機会です。
わたしは花台まで行きました。そしてOBの方が撞いている傍ら、椅子に座って自分の手番を待っている小笠原先輩に話しかけます。
「小笠原先輩」
「なに?」
「今日の夜、空いてませんか? 二人きりでお話がしたいんですけど」
OBの方が、勢いよくこちらを向きました。
一年生の女子が三年生の男子を誘い出そうとしている状況に、わたしはその時になって初めて気づきました。そして気づいた瞬間、頭の中が真っ白になりました。なんとかしないと。焦って考えれば考えるほど、言葉は出てこなくなります。
小笠原先輩はいつも通りへらへら笑いながら、あっさり言い放ちました。
「えー、今日はオールするから無理ー」
わたしのサークルでオールとは、店にオールナイト料金を払って一晩中ビリヤードをする行為を指します。つまりわたしの誘惑は、ビリヤードに負けました。
ちょっと、イラッと来ました。
別に誘惑しようと思っていたわけではないけれど、結果的にそうなったのだから少しは動揺してもいいと思います。しかし見事に瞬殺です。せめて頭に「申し訳ないけど」ぐらいはつけて欲しい。腹が立ちます。
そんな自分勝手な反骨心が、わたしから次の言葉を引き出しました。
「じゃあ、わたしもオールします」