隣のクラスの女の子がどの子のことかは分からないけれど、ともあれ星野くんは自分の夢ではなく人の夢の中で私の姿を見たらしい。
他人の夢に入り込める人間は夢渡りの能力がある者くらいで、私の話を聞けば案の定そうだったというわけだ。
「それからどうやって夢を喰べるかだっけ。その説明はちょっと難しいな」
「ええっ、どうして?」
「涼音ちゃんだって、自分がどうやって食べ物を飲み込んでいるかなんて説明できないでしょう?」
言われてみればたしかにそうだ。
食べ物を噛んだり飲んだりすることは、誰かに教わらずとも自然にできるようになったことだから、おそらく口や喉の筋肉を使っていることは分かるけれど、そのやり方なんて言葉では説明できない。
夢喰いである星野くんも同じで、生まれたときから自然と夢を喰べることができたのだろう。
分かりやすい説明に納得しつつも、夢を喰べる仕組みを知ってみたいという好奇心は儚く打ち砕かれ、私は少しだけ肩を落とした。
そんな私を見た星野くんが、くすくすと笑い声をもらす。
夢の喰べ方は説明できないけれど、例えるなら夢喰いは、他人のスクリーンに入り込んで映写機の中のフィルムを喰べてしまうようなものだと、彼は最後につけ加えた。
「夢渡りはね、その範囲が広くなるほどリスクが高くなる行為なんだ。いくつもの通路が繋がった広い広い映画館の中を進みすぎるとどうなると思う?」
「いつか……迷子になる?」
「そう。迷子になって自分のスクリーンに帰れなくなる。すなわち意識が肉体に戻らなくなるんだよ」
星野くんの言葉で、今まで自分が無意識に行ってきた行為の恐ろしさを改めて知る。
このまま夢の世界に呑み込まれないようにするためには、やはり夢渡りをコントロールできるようにならなければいけないのだろう。
「いい? まずは自分の意識が離れたところにいかないようにする練習をしよう」
「それは難しいことなの?」
「簡単ではないけど大丈夫。無意識にやっている涼音ちゃんなら、きっとすぐにコツを掴めるはずだよ」
小首を傾けて微笑んだ星野くんは、「さっそく明日の放課後から練習してみようか」と提案すると、軽快に立ち上がってから私に手を差し出した。
その手をたどたどしく取れば、彼はまるでエスコートをするように私を立ち上がらせる。
「俺の正体も知ったことだし、これからはもっと仲よくなろうよ。俺のことも名前で綺世って呼んでほしいな」
「あ……綺世……?」
「そう。これからよろしくね、涼音」
満足そうに頷いた彼は、それから上機嫌で階段を降りていった。
離れていくその後ろ姿を見て、「綺世!」と慌てて彼を呼び止める。
「どうかした?」
「その、どうしてそんなに優しくしてくれるの? 私、あなたを苦手にしてることを隠してなかったでしょう?」
今朝からずっと疑問だったのだ。
私は綺世を苦手にしていたことで、これまで彼に対してそっけない態度を取っていたはず。
いくら絶望に向かっていると気づいたのだとしても、そんな人間のことなんて見て見ぬふりをしてもよかったのに。
私がそう言うと、一瞬だけぽかんとした顔をした綺世は、それからニヤリと口角を上げた。
「ずっと君の目に映りたかったんだ。俺に靡かない女の子なんて珍しいから」
「そんな理由で――」
「ははっ、冗談冗談。別に恩なんか感じなくていいんだよ。夢喰いは人間から夢をもらうから、本能的に人間を慕うし、助けたくなるものなんだ」
綺世が神々しく、そしてあたたかく微笑むのを見て、わずかに息を呑む。
「涼音のことも、俺が絶対に助けるよ」
何気ないその声は、私の眠っていた心を揺り起こすかのように響いた気がした。
私はきっと、この人との出会いに人生を変えられるだろう。
そんな確信的な予感に、戸惑いは隠せないけれど。
階段の踊り場に、夢喰い少年が佇む。
校舎の窓から差した西日で辺りがオレンジ色に染まり、その場に舞った塵まできらきらと光る。
目の前に広がる、ただそれだけの光景。
しかしそれは私が今まで目にしたなかで、一番幻想的な景色だと思った。
隣の席のクラスメイト――星野綺世の正体が、夢を喰べて生きる夢喰いだと知った翌日。
「放課後、保健室に集合ね」と彼に言われたとおりに指定された保健室へと向かうと、綺世はすでにそこにいて、室内のソファーでゆったりと寛いでいた。
なぜか電気の点いていない薄暗い空間は、消毒液のような独特の匂いも相俟って、どこか不穏な感じがする。
さらに私が入るなり綺世によって鍵を閉められ、さながらミステリードラマにでも出てくるような密室が完成させられた。
「えっと、保健室の先生は?」
「しばらく出ていってもらってるよ」
「貸切状態ってこと? よくそんなこと許してもらえたね?」
「話をつけるのは簡単だったよ。だってあの人も夢喰いだからね」
綺世の言葉に思わず目を丸くする。
この高校の養護教諭は、まだ20代だと思われる若い女性の方だ。
私は話したことがないから彼女の人となりは知らないけれど、美人で落ち着いていて、生徒にとても人気だと聞いたことがある。
しかし言われてみれば、綺世に似た淡い色の目をしていたような。
そんな彼女もまた夢喰いだったなんて。
夢喰い同士は言葉を交わさなくても、なんとなくお互いの正体を察知できるのだと綺世は言った。
だからこそ、彼も先ほど初めて先生と話をしたというのに、すぐに状況を理解して保健室の使用を承諾してもらえたというわけだ。
「ねぇ、夢喰いってそんなにたくさん存在しているものなの?」
「いや、そう多くはないかな。絶滅危惧種みたいなものだよ」
夢喰いは遺伝によるものでしか生まれることはないらしい。
綺世も夢喰いの知り合いは親類くらいおらず、それもめったに会うことはないそうだ。
「夢喰いはたいてい固まって生きてはいないんだ。近くにいると誤って同じ人間の夢を喰べてしまうかもしれないからね」
「えっ、同じ人間の夢を喰べてはいけないの?」
「明確な決まりではないけど、何事もしすぎるというのはよくないでしょう? 何人もの夢喰いによって夢を喰べられすぎた人間は、どこかに不調をきたしてしまうかもしれないから」
「そっか、なるほど」
「どう? ちょっと夢喰いが怖くなった?」
妖しさを装いながらも、綺世が窺うように小首を傾げる。
この人はなぜか人間に怖がられることを恐れるきらいがあるらしい。
夢喰いは本能的に人間を慕うというのはこういうところに表れているのかもしれないと思い、その不似合いないじらしさが可笑しくなる。
「夢を喰べすぎないように人間に気を遣ってくれてるんでしょう? だったら怖いだなんて思うはずないよ」
夢を喰べられすぎるとどうなるか分からないというのは少し怖いけれど、人間に危害を加えないようにしてくれている夢喰いはとても優しいし思慮深いと思う。
だからそんなに嫌われる心配なんてしなくてもいいのに。
わりと慎重なところがあるのだなと、その意外性にひっそりと笑う。
すると私の余裕を察したらしい綺世は、自分の杞憂に気がついたのか、場をごまかすようにわざとらしい咳払いをした。
「分かったよ。ところで涼音、5限の体育はどうだった?」
「え? どうって……今日の授業は長距離走だったから、かなり走らされて疲れたよ。綺世もでしょう?」
「そうだね。じゃあさっき俺があげたパンは?」
「それならここに来る前に食べろって言われたから、きちんと食べてきたけど」
「じゃあ今は疲れてるし、おなかもいっぱいだよね」
いきなり話題を変えたかと思うと、綺世は私に対して訳の分からない質問攻めをした。
今日は1000メートル走をさせられたおかげでくたくただし、彼からもらった購買のクロワッサンのおかげで空腹感はない。
しかしどうして疲労の確認をしたり、わざわざパンをくれたりしたのだろう。
混乱しながらその動向を見ていると、綺世は立ち上がって保健室の奥に向かったかと思いきや、ベッドを囲んでいるカーテンを勢いよく開いた。
「部屋は暗くしてあるし、ラベンダーのアロマも置いたし、これで夢の世界に行く準備は整ったよ」
得意げに笑った綺世が真っ白なベッドをポンポンと叩く。
なにやら先ほどからいい香りがすると思ったら、そこでアロマを焚いていたのか。
ラベンダーの香りはたしか、安眠作用があると聞いたことがある。
適度な疲労に満腹感、それから薄暗い室内にラベンダーの香りって。
「なんだか民間療法みたいな方法で眠るんだね。夢喰いってもっと特別な力を使って人間を眠らせるのかと思ってたんだけど」
頭に浮かんだことを素直に言うと、綺世はくちびるを尖らせながら不貞腐れた。
「俺たちは単に夢を喰べることしかできないから、自分の力で眠ってもらわないと困るんだ」
「ふぅん。夢喰いって案外普通なんだね」
「そのとおりだけど、ちょっとプライドが傷つくなぁ」
「覚えてなよ」と機嫌を損ねながらも、綺世は用意してくれていたベッドへと私を導いてくれた。
なんだかんだと言っても彼の厚意をありがたく思いながら、二人で白いシーツの上に腰かける。
「まず初めに、涼音の夢から俺の夢までの路を辿ってもらう。初めはなんとなくでいいから、少しずつ感覚を掴めるように頑張ろう」
「分かった。よろしくお願いします」
綺世の言葉に頷き、私はいそいそとベッドの中へ潜り込んだ。
今日は綺世が私の夢に渡り、彼の夢の中まで案内をしてくれるらしい。
夢に渡られるというのはいったいどんな感覚なのだろう。
これまで他人の夢に渡ったことしかないために興味と期待と不安が入り混じった気持ちでいると、ふいに綺世が同じベッドへと入り込んできて、私は自分の目を疑った。
「へっ?」
「どうかした?」
「待って。私たち同じベッドで眠るの?」
「うん。俺は君と違って人間に触れていないと夢渡りができないからね。手だけでいいから繋いでおいて?」
「いや、つ、付き合ってない男女が同じベッドに入るなんて……!」
「ははっ、今時古風なことを言うんだね、涼音は」
私の抵抗感をものともせず、綺世が当然のように言ってのける。
まるで戸惑っているこちらの方がおかしいような気分にさせられ、私は思いきり顔を顰めた。
そういえば昨日、綺世は隣のクラスの女の子の夢を喰べたと言っていたはずだ。
つまりいつもこんなことをやっているのだろうか。
いろいろ見直したりもしたけれど、この人はやっぱりれっきとした女たらしらしい。
私とは持っている感覚がまったく違う。
そんな私の嫌悪感を感じ取ったらしい綺世は、呆気に取られながら目を丸くした。
「やましいことはなんにもしないよ。いつもだって“一人で眠るのは寂しくて苦手”って言って、女の子たちに添い寝をしてもらってるだけだし」
「そういう問題じゃないでしょ……」
「だってこうでもしないと夢を喰べられないんだ。夢喰いにとって夢を喰べられないということは重大な死活問題なんだから」
しれっとした顔で放たれた綺世の言葉にハッとする。
そうだ、他人が抱えている事情もその重さも本人にしか分からない。
そんなこと、私は痛いほど知っているはずなのに、自分の価値観だけで彼を非難してしまうなんて。
「そうだよね。ごめん、私が間違ってた」
「えっ、やだな。そんなに悪く思わないでよ。俺が女の子のことを好きなのは事実だし、涼音がそういうことを嫌がる気持ちも分かるから」
私とは真逆の様子でなんの気なしに笑った綺世は、それから軽快にベッドから降りた。
「それに恋人ができたことない涼音には、ちょっと刺激が強いだろうしね」
「ど、どうしてそんなこと知ってるの!?」
「あ、図星だった?」
「ちょっと! 鎌かけるのやめてよね!」
「ははっ、しょうがない。俺はイスに座るから、さっきも言ったとおり手だけは繋いでおいてね」
「分かった……ありがとう」
やれやれと芝居がかったため息を吐いて、綺世がそばに置いてあったスチールの折りたたみイスに腰を下ろす。
そして上半身だけをベッドに預けると、だらんと垂らしていた私の手を優しく握った。
いよいよこのときが来たのかと、思わず体に力が入る。
「さぁ、瞼を閉じて」
「私、ちゃんと眠れるかな……?」
「心配しないで大丈夫だよ。リラックスして、ゆっくりと呼吸をするんだ」
「う、うん」
「それじゃあ二人で夢の世界へ行こうか」
そっと囁かれた綺世の声は、まるで魔法のように私に眠気をもたらすようだった。
言われたとおりにゆっくりと呼吸をし、徐々に体の力を抜いていく。
するといつもはどうしたって開けてしまう瞼が、やけに重たく感じるような気がした。
深い沼に沈んでいくような気怠さが全身を包んで、意識がどこか遠くへと離れていく。
ああ、そうだ。眠りに落ちるのって、こんな感じだったっけ。
久しぶりに味わう感覚を心地よく思いながら、その睡魔に大人しく身を委ねる。
このまま目をつむっていれば、夢の世界へいけるのだろう。
けれどもそう意識した途端、私の心臓はどくりと嫌な音を立てた。
――怖い、怖い。
――眠るのは、怖い。
――私がのんきに眠っているあいだに、世界が変わってしまう……!
私の不眠症の原因である、睡眠に対する恐怖心。
夜毎感じているそれが、またしても私の心を支配していく。
――やっぱり無理だ。怖い、助けて……!
恐ろしさから、たまらず目を開けることを決意する。
しかし完全に眠りに落ちた体の方は、もはや瞼すらも動かすことができなかった。
意識と体がちぐはぐになり、どうすることもできない状態に呆然とする。
――私、いったいどうなってしまうの。
まるで見知らぬ異世界に放り出されたような不安の中、必死によすがを求めて意識をさまよわせる。
すると突然、真っ暗な視界の奥にちらちらとした光が見えた。
かと思えば次の瞬間、その光は群れを成すようにしてたちまち私の目の前を飛び交ったのだった。
「蝶……?」
光の渦のように見えたそれは、おびただしい数の蝶の形をしていた。
ひとつひとつが淡い光を帯びていて、その姿を素直に美しい思う。
光る蝶たちは私を誘い出すように舞うと、それからどこかへ向かって飛んでいった。
ああ、待って。
私を置いていかないで……!
「涼音、大丈夫?」
「んん……?」
なにやら遠くで綺世の声がして目を開ける。
するとまだぼんやりとする視界の中に、心配そうに私を見下ろす彼の顔が映った。
そのままのろのろと起き上がり、靄のかかったような思考で状況を探る。
あれ、待って。私はさっきまで、光る蝶を追いかけていたはずだけれど。
「ここは、どこ……? 蝶は……?」
「ここは俺の夢の中。あの蝶たちは俺の別の姿だよ。けっこう綺麗だったでしょう?」
「あの蝶が綺世……?」
「うん。涼音が意識だけで蝶の俺を追っていた路が“夢の通い路”なんだ。無事にここまで辿り着いてくれて嬉しいよ」
どうやら綺世は蝶になって、私を彼の夢の中へと案内してくれたらしい。
訳が分からない話けれど、すべては夢の世界のことだと言われたら納得するしかないだろう。
寝ぼけた目で辺りを見渡せば、何もない、ひたすらに真っ白な世界が広がっている。
ここが、綺世の夢の世界。
その無機質な白い空間に薄ら寒いものを感じて、私は思わず身震いをした。
「涼音は明晰夢というものを知っている?」
するとしゃがんで笑みを浮かべていた綺世が、私に唐突な質問をした。
明晰夢って、たしか。
「夢を見ながらそれが夢だと分かる夢のことだっけ」
「そう。明晰夢を見る能力を極めると、俺のように自由自在に夢を操ることができるんだ」
そう言われても、もはや何が何やらさっぱり分からない。
頭にはてなを浮かべる私を見て、綺世が愉快そうに立ち上がる。
そして「女の子はこういうのが好きかな」と呟くと、彼は指をパチンと鳴らし、見た方が早いとでも言うかのように辺り一帯をたくさんの薔薇が咲き誇る花園へと変えた。
「わ、綺麗……」
すごい、まるで本物の薔薇園の中に紛れ込んだみたいだ。
目にも鮮やかな色とりどりの薔薇の花からは、生花独特の甘い香りまで漂ってくる。
本当に夢かと疑うような感覚に、夢を操るというのはこんなことまでできてしまうものなのかと驚いてしまう。
「それともこんなのとか」
綺世がもう一度指を鳴らすと、今度は青い空とその空を映した広大な湖が目の前に広がった。
まるで天空の鏡のような景色は、海外の有名な絶景に似ていて、湖面にはきちんと私の姿も映り込んでいる。
「こんなのはどう?」
「わわっ」
さらに綺世が指を鳴らすと、私の体はふわりと浮かび上がり、いつの間にか宇宙空間へと放り出されていた。
しかし本物の宇宙とは違い、普通に呼吸をすることができる。
なんだこれ、すごすぎやしないか。
無数の星や大きな銀河を360度に見渡しながら、あまりのことに言葉すら失っていると、同じく無重力に身を預けていた綺世が不敵に笑った。
「どう? ちょっとは夢喰いを見直した?」
どうやら私が“案外普通”と言ったことを根に持っていたらしい。
「夢喰いってすごいんだね」と考えを改めて褒めると、綺世は得意げに腕を組み、それから最後にもうひとつ指を鳴らした。
途端に景色がいつもの教室へと変わり、ゆっくりと地面に足が着く。
先ほどまでの非現実的な世界も楽しかったけれど、やはり見慣れた景色には安心感があった。
それにしても不思議な体験をさせてもらった。
夢の世界というものは私が考えていたよりもずっと自由自在であるらしい。
まだドキドキと動く心臓を服の上から押さえていると、打って変わって綺世が真剣な眼差しをこちらに向けた。
「さっき涼音と俺の夢を繋ぐ路に、光る鱗粉を落としてきた。今度からそれが目印になってくれると思う」
「目印?」
「うん。夢渡りをしそうになったらその目印を探して、蝶を追いかけたときみたいに意識を集中させるんだ」
今後は今までのように流されるまま漂うのではなく、先ほどのように意識を集中し、目印を辿って綺世の夢の中まで行く。
つまりそれが夢渡りをコントロールするということなのだろう。
「行き先が俺の夢だけになれば迷子になることもない。最初は難しいかもしれないけど、頑張ってコントロールするんだよ」
「うん、分かった」
潔く返事をすると、綺世は微笑みながら頷き、それから私の右手を取った。
「コントロールさえできるようになれば夢の世界はわりと楽しい。深く入れ込みすぎるのも危険だけど、ほどよく力をつければいい気分転換になるんだ」
綺世に手を取られたまま、二人で校舎の窓から飛び降りる。
普通だったら真っ逆さまに落ちてしまうところが、夢の中にいる私たちはそのまま空中を歩くことができた。
足元はふわふわとしているのに、力強く空中を蹴ればいとも簡単に体が浮き上がる。
初めての感覚に面白さを感じていると、隣を歩く綺世も高らかに笑った。
「無意識に夢渡りができるくらいだから素質はあると思ってたけど、涼音は思った以上に夢の世界への順応性が高いみたいだね」
「そうなの?」
「うん。初めてでここまで溶け込めるのはすごいよ」
それなら私も力をつければ、綺世のように自分の夢を操ることができるようになるのだろうか。
思わぬ可能性に好奇心が刺激され、胸が弾む。
夢渡りなんて能力があっても不幸でしかないと思っていたけれど、自分の夢を操ることができるならぜひともやってみたい。
そうしたらいくらでも素敵な夢を見られるということではないか。
意気揚々としながら眼下にいつもの通学路を見下ろし、しばらくのあいだ空中散歩を楽しむ。
そして最寄りの駅前付近にきたところで着地をすると、私たちは誰もいない街並みを歩き始めた。
いつも眺めているはずの街の景色も、人気がないというだけでどこか幻想的に見えるのだから不思議だ。
そわそわとしながら辺りを見回していると、急に綺世が「涼音」と呼んだ。
「どうかした?」
「涼音は今、俺の手を握っている感触はあるよね?」
「もちろん」
「つまり視覚聴覚触覚は問題ないし、さっき薔薇の匂いを感じたなら嗅覚も働いている。五感のうち、残る味覚もあるのか試してみたくない?」
綺世が企み顔で提案する。
言われてみれば、これほど非現実的な世界にいるのに妙な現実感があるのは、おそらく五感が働いているせいなのだ。
たしかに味覚も備わってたらすごいなぁと思っていると、綺世がひらめいた様子で道路の向こうを指差した。
「あそこのジェラート屋って人気なんだよね。味を感じるか試してみる?」
そう言うや否や、綺世はその場にポンとおしゃれなジェラートを出現させてみせた。
「はい、どうぞ」
突然目の前に現れた、深い赤紫色をしたカシスのジェラート。
それを見て、半年前の記憶が思い起こされる。
《すず》
声が聞こえた。
半年前のあの日まで、何度も私を呼んでくれた心地いい澄んだ声。
その声が、私を責めるように頭の中にこだまする。
《すず》
胸がどくりと嫌な音を立てた。
声の主に引きずられるようにして心の底の後悔と罪悪感が蘇り、私の意識を混濁させる。
ごめん、ごめん、本当にごめんなさい。
謝って済むようなことではないと分かっている。
それでも私には謝ることしかできない。
ねえ、佐保。
まだ私の近くにいるの?
それならどうかお願い。
私もあなたの元へ連れていって。
「はっ……はぁ、はぁ……」
しかしそんな私の願いは虚しくも届かなかったらしい。
ハッと気づいたとき、私は保健室のベッドの上へと戻ってきてしまっていた。
「驚いた、急に目が覚めたみたいだね」
夢から覚めて呆然としていると、隣で私の手を握っていた綺世もむくりと起き上がった。
荒くなった呼吸が彼に気づかれないように息を殺し、目を合わせずに俯く。
「ごめん、なんだか疲れちゃったみたい。今日はもう帰らせてもらってもいい?」
「そうだね。1日でこれだけできれば十分だ。夜もちゃんと俺の元に来るんだよ」
綺世の言葉に形ばかりの頷きを返し、私は振り切るようにして足早に保健室を去った。
そのあいだも、頭の中には私を呼ぶ声が止むことなく響く。
《すず》
《ありがとう。ごめんね。大好きだよ》
嘘つき。
私のこと、恨んでいるくせに。
次の日の朝。
教室へ入ると、綺世が怖い顔で私を待ち構えていた。
あと10分もすれば朝礼が始まるというのに、彼は有無を言わせずに私の腕を掴んで廊下へ出ると、そのまま屋上に続く階段を上っていく。
いつもなら流れる水のように出てくる言葉もなく、その無言の空気が居た堪れない。
半ば引きずられるような状態で階段を上りきると、綺世は振り返って私に詰め寄った。
「どうして昨日の夜、俺のところに来なかったの」
綺世の不思議な色の目が、今まで見たこともないほどの真剣さで私を問いただす。
その眼差しの強さに、思わずひゅっと息が詰まった。
そう。綺世の言うとおり、私は昨日の夜、彼の夢の中へは行かなかったのだ。
「……別に。ただ上手くいかなかったの」
「そんな嘘に騙されると思う? 昨日、涼音は途中から様子がおかしかった。いったい何があったの?」
「言いたくない。綺世ももう、私なんかに構わなくていいよ」
ここまで親切にしてもらったのに勝手なことを言ってしまっているというのは、自分でもよく分かっていた。
けれどいくら綺世であっても、これ以上のことにはどうしても触れてほしくなかったのだ。
その心情を察して引き下がってはくれないかと思うけれど、人間をこよなく愛する彼が私を見離すはずがない。
振り払って教室へ戻ろうとするも、すかさずもう一度腕を掴まれてしまう。
「ねぇ、涼音。今がどういう状況なのか、ちゃんと分かってるの?」
「分かってるよ」
「このままだと本当に死んでしまうんだよ?」
痛切な表情で、綺世が脅しの言葉を吐く。
しかし少し前までの私にならば効いたかもしれないそんな言葉も、死に焦がれている今の私には通用しなかった。
「いいの、それでも」
「何言って――」
「夢渡りも不眠症も治らなくたっていい! そもそも私は死んだって構わなかったんだから!」
そうだ。むしろこのまま死んでしまえるというのならば本望ではないか。
たとえ永遠に夢の中をさまようのだとしても、それは私に科された罰だと思えばいい。
初めから抗うことなんてなかったんだ。
掴まれた腕を振り解きたくて必死にもがく。
しかし私がもがけばもがくほど、なおさら握られる手に力を入れられてしまい、私は理不尽な怒りを抑えられなくなった。
「いいから放っておいてよ! 綺世には関係ない!」
「関係ないわけない!」
綺世がそばにある壁をどんと殴りつける。
自分の喚きよりも大きな声で返され、私は思わず声を失った。
「助けられる人間をみすみす放っておくわけがない! 涼音が死んだら俺は悲しい! 死んでもいいだなんて言わないでよ!」
いつも余裕のある笑みを絶やさない綺世が、必死な顔で私の目の前に迫る。
この夢喰いはどこまで人がいいのだろう。
世の中には救わなくてもいい人間がいるということを、優しい彼はきっと分からないのだ。
「綺世は何も知らないからそんなことが言えるんだよ……」
「それなら教えてよ。涼音が不眠症になった半年前に、いったい何があったのか」
綺世の眼差しに鼓動が速くなる。
体が震えて、冷や汗も滲む。
ここまで来たらもう、隠し通すことなんてできないだろう。
醜い自分をすべて曝け出すために、私は固く拳を握った。
すべてが終わって、始まった、あの日。
「……私は、親友を殺したの」