ヘアメイクアーティストになる正攻法の道を先輩は歩むつもりだった。
しかしそこに降って湧いたような海外留学の話を出されて驚いたのだろう。
目の前の澄んだ瞳が、戸惑うように切なく揺れる。

「向こうでの生活に慣れるためにも、今すぐアメリカに行って、向こうの高校を出て、それからヘアメイクの学校に進んで、最低でも3年はみっちり勉強することになる」

「3年も……」

「普通と違う道を選ぶのは、やっぱり怖いよ。いつも虚勢を張ってるけど、本当の俺は臆病な人間なんだろうな」

そう言って先輩が力なく笑う。
こんなふうに自分を卑下する言葉を引き出すために話を聞いたわけではないと、私は両手を強く握りしめた。

「臆病なんかじゃないです。先輩、私に言ってくれたじゃないですか。何かを決めようとするとき、迷ったり不安になるのは当然のことで、それは弱さなんかじゃないって」

「礼……」

先輩は大胆な性格に見えて、むしろ将来のことに関してはシビアで冷静なところがある。
きっと私には考えも及ばないくらいたくさん悩んだのだろう。
先輩に後悔しない道を選んでもらうために、私に何かできることはないのか。
けれどいくら頭の中を探しても何も思い浮かばず、そんな自分の無力さを呪う。

「……礼には本当に感謝しないとだな」

不甲斐なく歯を食いしばっていると、なぜか先輩は私に不似合いな言葉をくれた。
私に感謝しないと、って。

「どういうことですか……?」

「ここんとこ、礼は脇目も振らずモデルになるための努力をしてただろ? そういう礼を見てたら、俺も弱気なことは言ってられないと思って、少しずつ前向きになれたんだ」

私の存在が先輩を強くしていた。
知らずしらずの内に彼に恩返しができていたことを知り、その事実に驚いて言葉を失う。

「このまま燻ってたんじゃ、そのうち礼に一人でパリコレに行かせちまうことになるかもしれない。だったら目の前にあるまたとないチャンスを、全力で掴みに行ってみようと思う」

「先輩……」

「うん、決めた。俺、留学するよ」

いつも凛としている先輩の表情が、いっそう輝きを増していく。
覚悟を決めたら、きっとこの人はもう迷わないだろう。
そばにいた分だけ彼のことが手に取るように分かり、その決意を嬉しく思うと同時に、心の中で隠しきれない寂しさが募る。

「心配かけてごめんな。今日さっそく返事をして、いろんなことが決まったらまた連絡するから。礼も無理はすんなよ」

「は、はい。先輩っ」

気が逸った様子で部室を出て行こうとする先輩を、私は慌てて呼び止めた。
首を傾げて次の言葉を待つ彼に、私は意を決して向き直る。

「先輩はいつだって私の味方だって言ってくれましたけど、私だって先輩の味方ですからね……!」

「ああ。ありがとな」

満ち足りたように微笑むと、今度こそ先輩は部室を後にしていった。
離れていく背中が小さくなり、やがて見えなくなる。
けれどもそんな彼とは対照的に、私はその場に立ち尽くしたまま、溢れ出す涙も拭うことができずにいた。

「和奏……。私、ちゃんと笑顔で先輩の背中を押せたかな」

「ええ。すごくかっこよかったわ」

「そっか、よかった。でもごめん……もう涙が止まらなくて」