しっかりしろ私、このうるさいくらいの緊張感なら知っているはずだ。
一昨年の全中、地区予選の準決勝。
第4クオーター、私のチームが優勝候補の学校に1点ビハインドという善戦をしていたときのことだ。
試合終了間際、私には2本のフリースローが与えられた。
チームは消耗しきっていたけれど、ここで2本とも決められれば勝てると誰もが予感していた。
指も足も震えるなか、それでもあのとき、私は2本とも決められたんだ。

「……大丈夫」

小声で呟き、自分を鼓舞する。
あのフリースローのときに比べたら、今の緊張は大したものではないはずだ。
この場でぽっと出の私に期待をしている人なんてほとんどいないのだから。
プレッシャーを感じる必要なんてない。
今はただ、前を向け。

ベネチアンマスクのような細工の仮面を被り、呼吸をゆっくりと整える。
なんでもかんでもやろうとするのは無理だ。
私は今まで身につけてきたことしかできない。
それでもその最大限を発揮してやる。
今までの人生のすべてを活かしてやる。

「ではリハーサルいきまーす」

監督の間延びした声が響き、私は目を閉じた。

たしかに私は恋なんてしたことはない。
けれど恋に落ちた少女を想像することくらいならできる。
貴族令嬢と言ったって、きっと心は私と変わらない一人の女の子のはずだ。
恋を知った女の子は、初めて知る感情に戸惑いながら、彼に心を塗り替えられてしまうんじゃないかな。
ちょうど私が先輩に世界を変えてもらったみたいに、輝くように、鮮烈に。
そう思いながら、閉じていた目をひっそりと開ける。
すると大勢のエキストラの方に混じって、仮面を被った芹沢さんの姿がはっきり見えた。

「よーいっ」

カチンという拍子木のような音の合図で、リハーサルが始まった。
まるで魔法が解ける寸前のシンデレラのように、重たいドレスの裾をつまみながら長い階段を裸足で駆け下りる。

喉の奥が熱い。
仮面の下の目に涙が溜まる。
胸や呼吸も苦しくて仕方ない。
一歩足を踏み出すたび、そんなふうにして私の全身が“彼女”に染まっていった。
目の前に見える“彼”が恋しくてたまらない。
ああ、そうか、大好きっていう気持ちは、意思とは関係なく溢れ出してしまうものなのか。
“彼”の姿を見つけたら居ても立ってもいられず、“彼女”はその姿を追ってしまうのだろう。
恋って、なんて強い衝動なんだ。
今まで知らなかった感覚になりながら、芹沢さんの元まで駆けて行く。
そのまま事前に指示をされていたとおり、彼の目の前で仮面を外すと、施してもらったアイメイクが美しく映るように一度目を伏せてから、ゆっくりと彼を見上げた。

「カット!」

そこで監督の声がかかり、私は魔法が解けたかのように我に返った。
いつの間にか周囲のスタッフさんから歓声と拍手が沸き起こっている。
それを見て呆然としていると、後ろから「礼」と優しく声をかけられた。

「日比谷さん……」

「よかったよ。切なくって、胸が締めつけられて、君から目が離せなかった」

日比谷さんが満足そうに笑う。
どうやらリハーサルは上手くいったらしい。
しかし先ほど感じた衝動が冷めない私は、どこか意識が朦朧としていた。
勢い余ってたたらを踏み、重たいドレスも相まって大きくふらつく。
すると横から、誰かに体を支えられた感覚がした。

「おっと、大丈夫か」

「先輩っ」