「知ってるか? 昔はよく、失恋したら髪を切る女の人が多かったって」

「ああ、はい。聞いたことはあります」

たしか昔流行った映画を観たとき、恋に破れた女の子が、髪を切るために美容室へ行くというシーンがあったはずだ。
それを見て、失恋したときには髪を切るといいという言い伝えを知ったのだ。

「今ではあんまり言われなくなったけどな。昔、うちのサロンにもそういうお客が来たことがあったんだよ」

俺が小4くらいのころだったかなと、先輩は言った。
頭の中で、今よりももっと小さくてかわいかった先輩を想像する。

「突然、涙で顔をぼろぼろにしたまま来店してきてさ。彼氏に振られたから長い髪をばっさり切ってくれって言って。ちょうど俺が店の手伝いをしてた日だったんだけど、あのときは本当に驚いたなぁ」

「それで、どうされたんですか」

「もちろん切ったよ。背中の真ん中まであった髪を、うなじが出るくらいまでばっさりと」

右手をはさみの形にした先輩は、当時の光景を臨場感たっぷりに教えてくれた。
先輩のお父さんが彼女の髪質や骨格のバランスを見ながら、躊躇なく鮮やかな手つきで髪を切っていく。
そして涙に濡れたままの顔では帰せないと、お母さんがメイクも施したらしい。
興奮ぎみに語る先輩の口調から、当時彼が味わった感動が私にも鮮明に伝わってくる。

「そしたらそのお客さん、見違えるくらい美人になってさ。彼氏に振られたことなんか忘れちまったみたいに喜んだんだ」

「素敵なお話です」

「だろ? そのときの俺には、二人が魔法をかけたみたいに思えたんだよ」

魔法。
先輩が発したその言葉の意味が、私には手に取るように分かった。
初めて先輩に出会ったときと同じ、まるで魔法をかけられたかのように自分がこれ以上なく魅了されていく瞬間が彼にもあったのだ。

「そんな親父たちに憧れて、俺もいつか二人みたいな魔法使いになるって決めたんだ。……ううん、二人を超える、世界一のヘアメイクアーティストになってやる」

そう宣言する先輩は、いつもよりももっと輝いて見えた。
あまりにも眩しくて、思わず目を瞑ってしまいそうになるくらいに。
和奏といい七海先輩といい、夢を追いかけて努力している人は、どうしてこんなにもきらきらして見えるのだろう。
彼らを見ていると、どくどくと血液が体中を駆けめぐる心地がする。
憧れと羨望でどうしようもなく熱くなるのだ。

いつか私も二人みたいに、熱中できる何かをもう一度見つけたい。
それはモデルをやることなのか、それともまた違うものなのかはまだ分からないけれど、見つかったときはバスケをやっていたあのころのように、また全力で打ち込むのだ。
ううん、今まで以上に。
臆病な自分は卒業して、“私も世界一になる”と宣言できるくらいに強くなってみせる。



人知れず大きな決意をしてからあっという間に時は過ぎ、和奏のピアノコンクール当日はやってきた。
コンクールの開催地は区立の文化会館だ。
私はそこへ、ずっと憧れていたスカートを履いていこうと決めていた

「だ、大丈夫。似合ってる……はず」

私がこの日のために選んだのは、膝丈できちんとした印象のプリーツスカートだった。
すとんとしたシルエットで、これなら気負わずに着られるかもしれないと、事前に購入しておいたのだ。