【茜音・高校2年・初夏・横須賀】
7月、今年の梅雨はあっという間に明けて、巷では水不足になるのではないかと危惧するニュースもちらほら聞かれる。
日差しもすっかり真夏モードに入ったらしく、まだ朝だというのに、制服のブラウスに汗の模様を作るにはもう十分すぎた。
つい先日までは新緑だった、この私立櫻峰高校に続く坂を囲うように植えられている木々も、気が付くと濃い緑の葉を広げ、涼しげな木陰を作り出していた。
「は~。今日は遠くまで見えるぅ」
坂道を途中まで上り、後ろを振り返る。正面には砂浜の広がる海岸線。右側には東京湾を望むヨットハーバー。反対側の遠くには、大きな港町や工場地帯を見通すことが出来る。これらが全て見渡せるためには、天気の他にもいろいろ条件が必要だ。
「お~い、茜音! 学校遅刻するよぉ~!」
かなり苦しそうに坂を駆け上がってきた、同じ制服の少女が叫ぶ。
「はうっ! 間に合うかなぁ~?」
「わからん! とにかく走れぇ~」
「うんっ! 菜都実先行くよぉ~!」
「あ、まてこらぁ~、薄情茜音ぇ~っ!」
茜音は息も絶え絶えになってしまった友人をその場に残すと、また坂を駆け上がって行って行こうとした……。
しかし、その努力も空しく、校門直前で予鈴が鳴ってしまったのだが……。
片岡茜音、高校2年生の16歳。
そう、あれから9年を経たあの茜音だ。名字は佐々木から片岡に変わっていた。
新しい施設に連れて行かれてからすぐ、入院時代から彼女の事を心配し、申し出ていた夫妻の元に、茜音は引き取られていた。
受け入れてくれた家庭は、茜音の心をほぐし、すぐに馴染んでいった。
もともと片岡家に子供はおらず、茜音のことを周囲にも長女と紹介し育ててくれている。実の娘ではない茜音に里親ではなく養子縁組みを適用したうえ、私立の学校に行かせてくれたのも、茜音を家族の一人として接してくれている証拠でもある。
彼女はあの当時と変わらない魅力を持っていた。艶のある黒髪の左右のもみあげを中心にしたに細い三つ編みをアクセントに、残りを後ろにまっすぐ伸ばしている型も当時のまま。
片岡家の生活方針や嗜好も影響しているのかもしれないけれど、彼女の服装にも大きな変化はなく、同年代よりも少し幼く見えてしまう風貌は、あの当時の茜音をそのまま成長させたような形である。
「おはよう佳織」
「おはよー。もう、今日で何回目? 今日はまだ先生来てないからセーフだけど?」
「はうぅ。今日はお天気よかったからつい……」
「あー、この学校が平地にあればなぁ」
「そこ文句言うならあと5分早く起きなさいって」
一緒に教室に飛び込んだ上村菜都実と、そんな二人に朝から説教をしている近藤佳織の二人は、茜音の過去を知っている数少ない友人だ。
ショートカットでいかにも快活そうに見える菜都実はいつも明るく、成績の方はちょっと怪しいけど……、ムードメーカー的な存在の彼女は、茜音が落ち込んだときにどうしても必要だった。
もう一方の佳織は、メガネこそかけていないが、セミロングにしたさらさらの髪と三人の中で一番落ち着いた顔つきで、大人っぽく見える。
見かけ通りかどうかはともかく、常に冷静で頭の回転も速い。ただ勉強が出来るというのではなく、どこから仕入れてきたのか、茜音と菜都実が呆れるようなネタまで知識は豊富だし、柔らかでのんびりとした性格が周りからも好かれている。
もちろん、茜音と菜都実にとってのテスト前の頼み綱であることもお約束だ。
こんな三人だから、いつも一緒にいたし遊びに行くのもいつも一緒。もちろん茜音の過去の話はオフレコだったけれど、彼女のことを決して特別視しない二人が茜音は大好きだった。