【茜音 高校2年 1月】
「茜音、お腹空かない?」
「へぇ~? 東京駅で駅弁買って食べたのにぃ?」
東京駅からの新幹線、窓際でぼんやりと外を眺めていた茜音を隣の菜都実がつついた。
「しゃーないじゃん。お腹が減る生理現象は防ぎようがないの」
「仕方ないねぇ。次の車内販売来たらお弁当買っちゃえばぁ~。まだ時間あるから食べてる時間はあるよ」
「そーする」
菜都実がワゴンを探すべき通路をキョロキョロし始めたのを見て、茜音は再び窓の外を見た。
「これでよかったよねぇ……」
小さく息を付いて茜音は呟く。
普段ならば、そんな呟きにも返事を返す佳織がここにはいない。
それには、今回だけの特別な事情があった。つい2ヶ月ほど前に……。
「上村はいるか?」
もうすぐ冬休みという教室。昼食の弁当箱を片付け、片岡茜音、近藤佳織、上村菜都実のいつものメンバーで談笑していると、教室の後ろ側の扉が開き、担任が呼んだ。
「菜都実、先生が呼んでる」
「おいよ」
茜音はたまたま廊下側を向いて座っていたので、それに気がついた。背を向けている菜都実は気づかなかったので呼ばれていることを伝える。
茜音に言われ菜都実は席を立ち、担任と数語交わすと、何か急いだように飛び出していった。
「なんかあったんかな?」
「さぁ」
思えば、なにげないこの出来事が、それが今回の事件の始まりだった。
しばらくして、そのまま残っていた茜音と佳織のもとに戻ってきた彼女は、出て行ったときとは全く様子が変わっていた。
「何があったのぉ?」
顔からは生気が消え、目もうつろ。しかも何かを口の中で繰り返しているようだ。
「菜都実、しっかりして! 何があったの?!」
あまりの変わりように、待っていた二人は愕然とした。
「……」
「なに? どうしたのよ?!」
「佳織…」
茜音はいら立つ佳織を抑えると、一度大きく深呼吸をして、菜都実の口元に耳を寄せ、落ち着いた声で質問する。
「ねぇ、何が起きたのか教えてくれないと、わたしたちもどうすればいいのか分からないよぉ?」
さすが、旅先でも様々な人とコンタクトを取ってきている茜音だけのことはある。相手が慌てている時ほど、こちらが冷静にならないと相手も落ち着いてくれない。
「なぁに、どうしたの…?」
菜都実は小さな声で何かを呟く。
「うそ……、由香利ちゃんが?」
今度は茜音までが顔を青くして、菜都実の顔をのぞき込んでいる。
「由香利ちゃんがどうしたって……?」
茜音までが青ざめたので、よけいに焦る佳織。
「由香利ちゃんが、危ないんだって……」
震える小声でやっと絞り出すように茜音は告げた。
「えーー!? いつから!? 菜都実、さっき呼ばれたのはそれなの?」
菜都実は小さく頷く。
「と、とにかく菜都実を病院に行かせないと」
茜音もようやく冷静な判断を取り戻した。平穏な昼休みはその時点で吹き飛び、三人の間には緊迫した空気が流れる。
状況が分かれば、この三人の間での頭脳は佳織にスイッチする。
「茜音お願い。菜都実と一緒に病院に行ってくれる? あとのことは私がやっておくから。あとで荷物とかは持っていくわ」
「うん、分かった。菜都実行くよ」
茜音はまだ放心状態の菜都実の腕を引っ張り教室を出て行く。校門のところまで引っ張てきて少し考える。
いつもならばバスで向かうけれど、今は緊急事態であり待ち時間がもったいないこと。同時に菜都実がこんな状態ではバスに乗せること自体無理かもしれない。
タクシーを停め菜都実を先に押し込むと、茜音は運転手に病院の名前を告げた。
佳織が担任に事情を話し、先行した二人分の荷物も持って病院に現れたのは、それから数時間たってのことだった。
エレベーターを降り、その前にあるがらんとした談話コーナーの椅子に茜音が一人で座っていた。
そこに置かれているテレビを見ているのか、外を見ているのかと思ったが、無表情な顔を見るとそのどちらでもないらしい。
「茜音?」
「あぁ、佳織……。ありがとぉ」
「状況はどんな感じ?」
隣に座った佳織は茜音の荷物を渡しながら聞いた。
「うん……。菜都実と家族はみんな中にいるよ」
「そっか……」
二人は黙り込む。
ここ数日の菜都実は毎日のように病院へ寄ってから帰ってきていたので、あまり病状が思わしくないということは二人とも感じとってはいた。
そして学校を通じて呼び出しをかけたということは、よくないことが起きたということをはっきりと印象付けた。
「茜音、うちの親と茜音の家にも連絡しておいた。力になってあげるようにって伝言預かったよ」
「ありがとぉ」
再び口を閉ざした二人の後ろで足音がした。
「茜音、佳織も……?」
タクシーで菜都実を病院まで連れてきた茜音も、病室のドアまで連れて行き、そこで別れてからはずっと談話室にいたので、菜都実がその後どうなったのかは分からなかったが、どうやら落ち着きは取り戻しているようだ。
「荷物届けに来たのと、茜音を迎えに来たのよ」
「そっか。二人ともさっきはごめん……。ガラにもなく取り乱しちゃってさ」
菜都実も二人の横に並んで座った。
「あぅ…」
「今夜がね……、山かもしれないって」
茜音のなにげない呟きをきっかけにしたように、菜都実は口を開いた。
「そんな、この間までずいぶん元気だったじゃない……。また外出できるかもしれないって…?」
前の週にみんなで病室を訪れた時には、元気にこの談話室まで一人で歩いてきて、見舞い終了時間まで話した上に、玄関まで送ってくれたほどだ。
菜都実も予兆を感じていたにせよ、あまりに急過ぎる。
「先生たちも慌てたらしいよ。あまりにも急変だったみたいでさ…」
「そっか…」
「会っておく? さっき意識は少し戻ったから。声をかければ分かると思うよ」
「いいの?」
菜都実はうなずいて二人を病室に招いた。
由香利の父親でもあるいつものマスターと、あまり顔を見せたことのなかった菜都実たちの母親の姿もあった。
入ってきた二人を見ると、両親はベッドの前を空けてくれた。
「由香利、茜音と佳織だよ。分かる?」
酸素吸入が行われているが、呼吸は自分でできているようだ。傍らの機械にはいくつか数値が表示されている。
茜音はちらりとそれを見たあとすぐに目をそらし、二度とそれを見ようとはしなかった。
「う……?」
小さな声がして、由香利がかすかに目をあけた。
「由香利、茜音と佳織が来てくれたよ。ダメじゃない、心配して飛んできちゃったんだぞ?」
明るく振舞っているのは分かる。しかしそれをとがめるようなことは誰もできない。
「次に遊びにいく約束したんだからね。ちゃんと元気に戻ってこなきゃ……、ダメなんだから……」
最初の順番になった佳織はそこまで言うと、それ以上は耐え切れなくなったように床に崩れ落ちてしまう。
さっきとは逆に、菜都実がそんな佳織に声をかけて部屋から外に連れ出していった。
「仕方ないよ……。ねぇ、由香利ちゃん?」
茜音は代わりに由香利の顔を覗き込みながら手を握った。
以前よりだいぶ冷たくなってきてしまっている……。
茜音はそれをおくびにも出さないように続けた。
「由香利ちゃんと約束したよね……。ちゃんとわたしと健ちゃんが再会できたら、お祝いしてくれるって。それまでは頑張ってほしいなぁ。ごめんねぇ……、もっと一緒に旅行に行こうって言ったばっかりなのにねぇ。でも、また元気になって会えるよね。そしたら一緒に旅行しようね。あと、菜都実のこと、あんまり心配させちゃダメだよ? また来るからね?」
茜音は大きい声でゆっくりと話した。その間、由香利はそんな茜音の顔を見ていた。
「う…ん…。あか…さ……」
「うん、こっちこそありがとうねぇ」
かすかに発せられる言葉と、かすかに動く唇の形で茜音は意思を交わせる。
こんな瞬間にもかかわらず、菜都実は茜音に感心していた。これが彼女が言っていた「本当なら身につけていたくない技術」なのかと。
握っていた手を布団の中に戻し、菜都実のほうに振り返った。
「ありがとうございます。大切な時間なのに…」
茜音も後ろを向いてからは、こみ上げるものを抑えきれずにいた。
「菜都実、何かあったら夜中でも呼んでいいからね……。佳織を連れて帰るよ」
「ありがとう、茜音……」
病室を出るときに、茜音はもう一度ベッドに寝ている由香利に挨拶して病室を後にした。
「わたし……、こういうの初めてじゃないからね……。佳織にはきつかったかもしれないな。悪く思わないであげて?」
佳織を探して歩きながら、茜音は一緒についてきてくれる菜都実にぽつりと言った。
「茜音……?」
「反応がなくなってしまっても、最後まで耳は聞こえてる。寂しくないように一緒にいてあげるんだよ?」
談話室に佳織を見つけ、一緒に帰るよう促したあと、残る菜都実に茜音は言った。
それは何度も大切な人を失ってきた茜音だけが発せられる台詞。
いつもとは逆のシチュエーションだけど、それを気にするような関係ではない。
「うん。分かった。ありがとう二人とも…」
エレベーターの扉が閉まり、二人だけになる。
「茜音……、強いね……」
それまで黙っていた佳織が茜音に寄りかかった。
「由香利ちゃんは幸せだよ。ご両親とお姉さんがいて。私は家族最後の一人だったから……。私しかいなかった…」
「そうか……」
佳織の中には教えられた話でしかないが、彼女が事故にあった当時、既に息絶えていた父親を送り、一緒に救出されたものの重傷で数日後に息を引き取った母親をわずか5歳の幼い茜音は看取っている。
まだ予想ができていた菜都実一家に比べ、それまで楽しく暖かい時間をすごしていた茜音にはあまりにも突然でショックは大きかったはずだ。
「あのね…、佳織、帰ったら休んでおいた方がいいよ」
「うん?」
「菜都実の前じゃ言えなかったけど、由香利ちゃん、今夜遅くだと思う……。なるべく菜都実のそばについていてあげたいから…」
茜音はぽつりと、病室に置いてあった機械の話をした。
「うん。分かった。菜都実の力になってやらなきゃね」
病院からの帰り道では佳織の家が先になる。二人は手を振って別れたが、その後の足取りは重かった。
茜音も正直に言えば自分の予想は外れて欲しかった。
その願いもむなしく、佳織からその電話を受け取ったのは、その夜の日が変わった時刻だった……。
菜都実が病院から一度家に帰ってくると、正面にある店の入り口の前に人影が見えた。
「茜音……?」
「あ、おかえり」
真冬の海沿いの風の中に立っていたのは、紺色のコートを着ている茜音だった。そばには乗ってきたと思われる自転車が立てかけてある。
こんな夜中なのに……。自分の親友たちの心遣いを改めて感じてしまう。
「風邪引いちゃうよ?」
「わたしは平気だから」
菜都実は扉を開け、茜音を中に招き入れた。
「茜音……、ありがとうね……。心配してくれたんだ……」
カウンターの席に茜音を座らせ、冷蔵庫からミルクを取り出し電子レンジにかける。
「本当はね、佳織もって言ってたんだけど、明日からお願いって。佳織は初めてだと思うから……」
「そうかぁ……。明日からしばらく大変だ……」
菜都実は茜音に暖まったミルクを出すと、制服を着替えに一度消えた。
「ねぇ、茜音。不思議なんだ……」
「うん?」
店を開けるわけではないので、部屋着で現れた菜都実は呟く。
「もっとさぁ……、悲しくてワンワン泣いちゃうのかと思ったんだけど、なんかそういう気持ちとは違って……。なんか空っぽなの……。気が抜けたみたいになんにも思いつかなくてさぁ……」
コートを脱いでセーター姿の茜音の隣に並んで腰掛ける。厨房の電気がついているだけなので、客席は暗く窓からは外の海岸が良く見えた。真冬の夜では人通りなどあるわけもなく、車もほとんど通らない。
その表のほうを向いているので二人の表情は隣でも良く分からない。
「そういうものだよ……。わたしもそうだった。両親の時は病室で一人になって……、静香ちゃんの時もそうだった……。今はそれでいいんだよ。大丈夫。由香利ちゃんを思って泣く時間はあとでいくらでも取れるから……」
茜音は両親を亡くしただけにとどまらず、他にもいくつも辛い別れを経験している。その中には再び会うことも叶わないものもあるのだと。
「そだね……。さんきゅ茜音。あたしこういう経験初めてだからさ」
「たくさん経験していいもんじゃないよぉ」
茜音は微笑んだ。祝い事ならば何度でも構わない。それよりも辛い話のほうが茜音には多すぎる。
自分のわがままで話していなかった妹の存在。それなのにほぼ初対面でも茜音と佳織には心を開いた由香利。
それを十分に感じ取っていながら平静を保っていられるのは、逆に気の毒な話なのかもしれない。
「そらそーだ。さ、茜音ももう遅いから一度帰ったほうがいいよ。でも、ありがとね……」
「うん。あったかかった。ごちそうさまぁ」
二人は立ち上がって扉のほうへ歩いた。
「由香利ね、明日帰ってくるよ。それと茜音にお願いがあるんだ」
「なに?」
菜都実は普段は見られないような寂しそうな顔で続けた。
「由香利、友達がほとんどいないの。茜音と佳織で友人代表で出てもらえるかな……? それと、この間の旅行の写真、何枚かリストして欲しいんだ。写真を作らなきゃならないから……。フィルムでもデジタルでも平気だって言ってた」
「了解! じゃ明日の朝1番に持ってくるよ。学校休みだしねぇ」
「お願い……。悪いね……」
茜音は最後に自分より背の高い菜都実の肩をたたいて、再び自転車にまたがった。
「さすがだねぇ……」
菜都実は茜音の姿が見えなくなった後も、しばらく親友が帰っていった方向を見ていた。
翌朝、茜音は言われた写真のデータを持って菜都実家に向かった。昨日の話ではそのまま通夜になるというので、制服を入れたハンガーケースを持ち込んだ。
「はい、これでいいかなぁ? これが一番可愛く映ってると思うんだぁ……」
今朝、帰ってから茜音は1枚1枚チェックをしてくれたらしく、プリントした写真の裏には既にメモが書き込んであった。
「悪いね……。うちで撮ったの少なかったし、確か一番いい顔で写ってるのこれだったから……」
菜都実は二人を奥の部屋に案内した。
「今朝帰ってきたんだ。お通夜とかは斎場にするんだって。本当は帰ってきたかった家でやってあげたかったんだけど、さすがに狭すぎて……」
「そう……」
最初の予定ではお店の中を片付けてそこに作るということで、テーブルや椅子なども隅に片付けていたけれど、やはり状況を考えるとそれでは足りないと考えられたようだ。
「どう? 寝てるみたいよね。昨日茜音たちが帰った後から顔色が戻ってね……。そのままだった……。苦しんだりしなかった。よかったよ」
すでに棺の中に寝かされている由香利のそばに二人を案内する。
「よかったねぇ……。もう苦しまなくていいんだよね……」
昨日の病室でもそうだったけれど、佳織はまだ慣れていないのだろう。しっかり見ることが出来ないという表情をしている。茜音は佳織と代わり、そっと彼女に告げた。
「昨日の夜にパパとママに……、由香利ちゃんのことお願いしておいたから……」
ちらちらと急を聞きつけた親戚などが集まり始め、三人は一度菜都実の部屋に引き上げることにし、そこで服を着替えることになった。
「茜音……。あたしさ……、こういうときどうしたらいいのか良く分かんないのよ……。みんなが来る前にこのあとのことちょっと教えてくれない? 最後くらい恥かかせたくないからさ」
「うん、分かったよぉ……」
この三人の中で実際に葬式など経験したもの、しかも身内で行った者など茜音しかいない。
茜音は簡単に、このあとの出棺と今夜のお通夜から一連の流れを話す。
「わたしと佳織は明日の告別式のお別れまでしか付き添えないから、そっから先は家族だけだからね。でも、一番そこがわたしには辛い場面なんだけど……、由香利ちゃんのために最後までお姉さんらしくね」
「そうか……」
神妙な顔をして菜都実は話を聞いている。
そうこうしているうちに、由香利を旅立たせる準備が始まってしまい、菜都実はそばへ、二人はそれを見守ることに徹した。
彼女の葬儀は本当に静かに行われた。正規の学校にもほとんど行けなかったため、昨夜言われたとおり友達らしい影もあまり見られず、ほとんどが病院の中で知り合った人だと菜都実は教えてくれた。
「でもさ……、由香利言ってたよ。なんでもっと早く二人のこと教えてくれなかったんだってさ……。あたしの大失敗だったなぁ」
結果的に最初で最後になってしまった長野への旅は、身体に無理押しをしての参加だったにもかかわらず、由香利自身だけでなく菜都実にも忘れられない思い出が作れたと、当時の一同に感謝を告げていたくらいだ。
2日間に渡る通夜と告別式が終わり、茜音と佳織は店部分の片付けを頼まれて斎場から菜都実の家に向かった。
「佳織、疲れたでしょぉ」
茜音は佳織を座らせて一人で片づけを進めていった。
「はぁ……。今回は茜音が気丈だね。こんなの初めてだから困っちゃって」
「仕方ないよ。普通じゃないのはわたしの方。次はわたしだって……、いつも思っちゃうんだよね……」
茜音はあらかたの店内セッティングを元に戻し終えて佳織の前に座った。
「茜音?」
「わたしはね、もう本当はいないはずだったんだよ。12年前に死んじゃったはずなんだよね。だからもう、怖くはないんだよ。パパとママのところに帰るだけだから……」
幼い茜音に降りかかった災難は、佳織や菜都実が想像できるものではなかっただろう。
あれだけの大事故では受けたショックも相当のものだったはずで、現に茜音は数年の間言葉を発することが出来なかったと話している。
事故に加えて、自分の家族を失うことがどれだけ厳しいことなのか、これまで身をもって知っているのは茜音一人だった。
それにもかかわらず、普段の茜音は周囲にそんな辛い過去のことを微塵も感じさせることはない。
「茜音は強いねぇ」
「ううん。そんなんじゃなくって、もう受け入れてるだけ。それにもし天国に行ったって一人じゃないって分かってるから。先に行って待っていてくれる人もいるからね」
そうは言うものの、茜音が自殺願望をもっているわけではもちろんない。今の両親に引き取られてから、孤独という状況からは開放されたものの、やはり失った物が大きすぎて、心から安らげる状況にはいまだに至っていないという。
それならば少しでも安らげる場所を求めてしまっている状況にも理解はできるが、「はいそうですか」と許されることでもない。
「だからね、無理して生きようとはあんまり思ってないかな。もし、わたしが必要だったら、私でできることならなんでもすると思う。それでもし死んじゃったとしても、誰かの役に立てるのなら、パパとママも許してくれると思う……。パパとママはわたしを助けて死んじゃったから……」
佳織はうまく返せる言葉が見つからなかった。普段の生活の中では明らかに自分の方が適切な判断を下せるだろう。しかし、こんな状況下では茜音に頼るしかなかった。
茜音が取れた行動は、彼女自身が過去に経験したことが元になっている。それは決して楽しい記憶ではなかったはずだ。
「こんなとき、落ち着いて段取りまで頭の中に入っているなんて、わたしたちの歳じゃ普通じゃないんだよ。だから佳織の方が自然な反応だと思うんだ」
うなずいた茜音は自然だった。裏を返せばそのくらいできなければ、これまでの茜音の人生を歩いてくることは難しかったということなのだろう。
扉が開く音がして、菜都実の家族が帰ってきた。
「お疲れさま~」
「片付けご苦労さん。悪かったねぇ」
さすがの菜都実も疲れたような顔をしていたので、茜音と佳織は線香を手向けすぐに撤収することにした。
「さぁて、茜音と帰るわ。なんかあったらいつでも呼んでね」
「うん。二人とも助かったよ。ありがとね」
「なんだぁ、菜都実らしくない。授業の方はあとでフォローするから、元気になったら学校出てきてね」
「ありがたく世話になるね、二人とも……」
手を振って夕方の道を帰っていく二人を、菜都実はいつまでも見送っていた。
「茜音ぇ、どっかいいとこないかなぁ?」
学年末の試験も終わった放課後、菜都実は帰り支度をしている茜音の横にやってきた。
「突然どうしたのぉ?」
「いやさぁ、ようやく由香利の四十九日も終わってねぇ。最近は茜音の旅に付き合えていないなぁと思ってさぁ」
由香利の葬儀が終わって数日後には店も再開し、茜音と佳織も以前のように手伝いに戻っていたし、その合間を見計らって茜音は彼女の旅を続けていた。
しかし本格的な冬シーズンに入ってからは、いくら茜音が旅慣れているとはいえ冬山奥の現地に分け入ることは危険が大きすぎる。それこそ幼い時の再現で命を落としかねないことから、車窓からの探索となってしまうことが多かった。
そのためか、あまり大規模な旅もなく、茜音の単独行動で、日帰りや1泊などの短期日程が多かった。
「そうだねぇ。分かった。今すぐにはどこって決められないから、うちで決めてから教えるね」
「うん、頼むわ。でも、茜音に意味がないところじゃダメだぞ?」
「うん、それは大丈夫」
菜都実の傷心を知る茜音のことだ、もし自分のことを全面に出してしまえば、彼女には無意味な場所を選んでしまうかもしれない。それではあまりに身勝手になってしまう。
しかし、茜音は菜都実のそんな心配を分かってるらしく、
「わたしの方でも行ってないところ探すから、ちょっと待っててねぇ」
候補地の即答をしないということは、さすが茜音もそのことを理解していると分かってほっとする。
「分かった。本当は佳織に頼む方がいいんだろうけどさぁ」
「そうだねぇ、でも家族旅行じゃ仕方ないよぉ」
いつもならば、このメンバーのプランナーは佳織で、三人の旅のときはもちろん、茜音の一人旅の日程もまとめてくれる。ところが、このテスト明けの休みを利用して、佳織一家が家族旅行に行くということだった。
「本当はさぁ、佳織も誘わないとって思ったんだけどな」
二人で学校からの帰り道を歩きながら菜都実は言う。
「そうだねぇ。佳織も最近元気ないもんねぇ」
「そうだよな? なんか、特にあたしに遠慮してるみたいでさぁ」
「やっぱりあのころからかなぁ……」
「そうとしか思えないんだけど」
おそらく佳織自身も気づいていないのだろう。2ヶ月前の由香利の悲報から、佳織の様子が少し変わったのは間違いない。
本当ならそちらのフォローも大切で、恐らく彼女の家族がそれを気にしてのことに違いない。
「あんまり気にすることないんだけどなぁ。それに変わらなきゃなんないとしたらあたしの方なのに」
「佳織にはもう少し整理する時間が必要なんだと思うよ」
「そうかもしれんなぁ。まぁ、言わないでおけばいいか」
「うん、そのほうがいいと思う」
「おし、そんじゃ後は任せたぞ」
今日は店が臨時休業ということで、三人とも店に出る予定はなくなっている。菜都実も茜音の家の方を回って帰っていた。
「うん……。ねぇ、もし時間あったら寄って行く? なんの準備もしてないから部屋の中は散らかってるけど……」
自宅マンションの下で茜音は菜都実を引き止める。
「いいん? 茜音の家なんて最近ぜんぜん行けてなかったなぁ」
結局、茜音の誘いどおりに二人は茜音の部屋で腰を下ろしていた。
茜音が紅茶を煎れてくると、それまで部屋の中を見回していた菜都実が首を傾げていた。
「どうしたの?」
「いや、茜音の部屋も久しぶりなんだけど、なんかずいぶん片付けた? なんだか地味になったって言うか……。茜音らしいというかなんていうか」
「少し前に模様がえしたの。色を統一したから目立つのかもねぇ」
「やっぱそうだよな? 昔はピンクとかも多かったよね?」
茜音の部屋は菜都実の殺風景に近いそれと比べると、まだ部屋のインテリアには手をかけている。
それでもよくテレビや雑誌などで紹介される流行品などはほとんど見られない。普段から最低限のメイクで通しているためか、鏡はあっても薬用リップやローションなどで、コスメというよりも肌荒れを防ぐための用意と見ていい。
壁や家具の白やベージュ、ブラウン系や木目調の落ち着いた色使いとシンプルな家具など、今時の女子高生としては落ち着いていて、大人びているような雰囲気に感じられる。
一方でカーテンや家具にかけてあるカバーなどの品は色は同系ながらもリボンなどのアクセントを多用している。この部屋を見れば茜音の私服や持ち物の好みなどにも納得がいくといった具合だ。
菜都実が指摘したのは、半年くらい前に来たときと部屋の雰囲気ががらりと変わっていることだ。当時は今と違い、パステル系の色調、レースなども多用してあって、言ってみれば「メルヘン調」となっていたものが見あたらず、ガラッと方向転換されていることだ。
「飽きた訳じゃないけれど、秋に千夏ちゃんが来てね。その時に欲しいってことになって、中古でよければって譲ったの。どうせだから全部取り替えちゃえってことになってねぇ」
「それじゃ、高知に行くと第2の茜音の部屋が出来ていると?」
「そうかもね。今のを揃えているとき、ずいぶん変わったなぁと自分でも思ったけどね」
「これはこれで茜音らしくていいじゃん? 佳織んちは効率性重視デザインだもんねぇ」
どちらかといえば自然素材を使ってカントリー風の茜音の部屋と、金属系の調度品も機能美アクセントとして用いて都会風に仕上げている佳織の部屋を対比すると、普段の二人の行動もなんとなく理解できる菜都実だ。
「それでも着る物の趣味はあんまり変わっていないんだけどね……」
そんな部屋の隅から、茜音はアルバムを取り出してくる。
「たぶん、菜都実と行くとしたら……、西日本のほうになるかな」
茜音はそれをめくりながら言う。
これまで旅をしてきた記録と地図への書き込みがされている。
改めて見てみると都市部から離れた部分を中心に回っている事が分かる。しかしどうしても茜音一人では回れる場所にも限界がある。
だからといって代理に頼むというわけにもいかない。本格的な春にはもう少し間があるこの時期では、東北や北陸の山奥に行くことはできないというのが実情で、自然と西の方に照準が向いてくる。
「そうだねぇ、京都なんかどうかなぁ?」
「京都?」
意外な場所の候補に菜都実は聞き返した。
「うん、まだ行ってないんだよぉ。京都っていうより、その近くの嵐山とかの方がメインなんだけど」
「そうなんだ。まぁ、茜音がいいって言うならどこでもいいんだけどさ」
マップを見てみると、京阪神地帯は調査 空白地帯になっている。関東近辺と同じように、都市部に近い場所の可能性は薄いと判断してのことだろう。
しかし、茜音が自分でその場所を指定したということなので、それを拒否する理由もない。
「んじゃ決定ね。菜都実の家は大丈夫なの?」
「茜音と旅行に行くって言われて断られたことはないから大丈夫。それに、今回は結構特別だしね……」
「そうか。でも、よかったよぉ。菜都実に元気が戻ってきたみたい」
茜音だけが心配したのではなく、このところ、以前のような威勢の良さが菜都実から消えてしまっていた。
忌引きとして休んでいたのは周囲も知っているから、一般的な感情は分かっている。
ましてや、菜都実姉妹の事実を知ってしまった佳織と茜音は訳が違う。
「しゃーないわよ。いつまでもくよくよしているわけには行かないしさ」
まだ時々痛々しい表情を見せることはある。それでも普段の調子を取り戻そうとしているところには、自身の経験があるだけに安心すると同時に、「無理をしないで」と茜音はいつも思っていた。
「そうそう。佳織にも見せたことないんだけど、これどうしようかなぁ? 掃除してたら出てきてねぇ」
茜音が思いついたように、洋服タンスの引出から紙袋に入れてあった服を取り出してきた。
「それって、あの写真の?」
茜音が出してきたのは、なんの変哲もない服。サイズからして今着られるものではないが、その服には見覚えがある。
「うん、あの写真に写っている服なんだよ。処分はしてないはずと思ったら出てきたんだ」
茜音には捨てることなどできないだろう。彼女の思い出の1ページを語る上で間違いなく重要になるはずのその服は、あの日の茜音たちを撮った写真の中の現物なのだから。
これまで何度も写真は見てきた菜都実だが、その服が今も茜音の手元に置かれていることは驚きだった。
「ずいぶん擦れちゃってるもんだね」
「仕方ないよ。施設にいるときのだからね。それに、この服はちょっと特別なんだよ……」
「ん?」
茜音は机の上から例の写真を持ってきて見せる。
「この写真見て、少し変だと思わない?」
「どれどれ?」
何度となく見てきた写真だが、改めてよく見直す。
「この服ね、それを撮ったときにはもう小さかったんだよぉ。まだ着れるからって着てたんだけどね」
言われてみれば、そうも見えなくもない。ただ、当時8歳という年齢を考えれば、育ち盛りのはずで、多少小さくなってしまったのを着ていてもあまり違和感はない。
ただし、茜音はかなり身なりに気を使うだけに、サイズ違いのものを好んで着るかどうかは微妙なところだ。それをまだ持っているというところも引っかかる。
「なんか理由が他にもあるんでしょ、そんなに大事に取っておいてさ」
「うん……。これねぇ、ママが最後に作ってくれた服なんだよ。だから絶対に捨てるなんてできなくて、しまい込んじゃってたんだ」
「そんな。でも、茜音の両親が亡くなったのってこの2年くらい前でしょ? その間にそんなもんしか育たなかったわけ?」
いくら何でも5歳から8歳の間で服のサイズが変わらないなんてことは考えられない。
一緒に写真に写っている健が同じく小さいのでなければ、茜音も平均的な身長だったはずだ。
「あぁ、もちろんずっと着ていたんじゃなくて。確か、この服はもともと誰かに渡すものだったんだよ。事故にあったときに、先に送った荷物に入っていたものなんだって」
「そうなん? ちょい待ち?!」
そうだとすれば、本来この服を着るべきだった人物は茜音よりいくつか年上の、しかも当時の両親とは親しい交流があったのではないだろうか。しかし事故後に茜音がメディアに登場しても結局彼女を引き取る者はいなかった。
それをパズルのピースのように組み立てていくうちに、菜都実は腹が立ってきた。
「仕方ないよ。身寄りのない子を引き取るなんて大変だと思うよ。出てこられなかったのも分かる。それに、今のわたしはこうやってみんなに囲まれて幸せなんだから」
「だけどさぁ」
茜音が理解しているというコメントも分かる。それを差し引いたとしても、親友が受けてきた孤独さというのは計り知れない。
菜都実も家族の一人は失ってしまったけれど、孤独というのにはまだ程遠い。この少しくたびれた服は、茜音と一緒にいろんな時間を過ごしてきた証明になっていることも、着られなくとも処分できない理由の一つなのだろう。
結局、その日は出発の日程を決め、宿泊の予約を入れたところで菜都実は帰っていった。