「茜音ちゃん、もう少しだよ。歩ける?」

「うん。疲れちゃったけどまだ大丈夫」

 二人が入った山林の中は薄暗く急な斜面が続いていた。

 歩けそうなところを一歩ずつ下っていくと、どうやら沢沿いに出られそうだと言うことは分かったのだけれど、どう行けばいいのかが分からないので、あちこち迷いながら進んでいく。

 ようやく二人が苦戦しながら川沿いに出たのは、もう陽も高く昇った頃だった。

「え〜、あんな高いところから降りてきたんだ」

 深い谷の上には鉄橋が架かっており、おそらくそれが二人が降りた列車が通る線路なのだろうと思われた。

「茜音ちゃん、洋服汚れちゃったね」

「うん。いいよ。洗えばいいもん」

 半袖に半ズボンという軽装な健に比べ、茜音はブラウスにジャンパースカート、足下もスニーカーとは違うので、山道には厳しかったはずだ。

 現に茜音の体力は底をつきかけていて、あと少しこの山道が続いていたら、彼女は動けなくなってしまっていたかもしれない。

「茜音ちゃん、やってあげるよ」

 河原の石の上で痛くなった足をさする茜音を見て、健が替わった。

「ありがと……」

「茜音ちゃん足細いね……」

 茜音の足を裸足にし、力を込めてマッサージをする。みるみる固くなっていた筋肉がほぐれていくのが分かった。

「すごいなぁ。痛いのが飛んでいくみたい……」

「こうやると痛いのが飛んでいくって教わったんだ……」

「えっ?」

 健の顔が赤くなっていった。

「茜音ちゃん、よく足が痛くなるって言うから、先生にどうすればいいか聞いたんだ。茜音ちゃんが元気になればいいなって……」

「健ちゃん……。ありがと……」

 ぽとりと石に落ちたしずく。健が顔を上げると、茜音は涙を堪えきれなくなっていた。

「茜音ちゃん、泣いちゃダメだよ」

「うん……。約束破ってごめんね。でも……、優しいね……」

 最初の頃、泣いてばかりだった茜音を元気付けようと、健は茜音に泣かないように約束した。でも、彼女はもともと涙もろい子だったので、あまり守られなかったけれど……。

 二人は大きな岩の上に体を横たえると、お互いの事を話し合った。

 今は同じような境遇の二人。けれどときわ園に入る前は全く違っていた。

 健の家は家族関係がうまく行っていなかったのに対し、茜音の家は正反対だったという。

 他の子達と茜音の一番大きな違いはそこだ。彼女は暖かい家庭を知っているから、自然とそれがにじみ出る。だから小学2年生という幼い年齢にも関わらず、年下からは慕われ、年上からも自然と可愛がられるようになっていた。

「そっか……。茜音ちゃんはみんなと違っていたもんね……。僕みたいに捨てられたわけじゃないもんね……」

「健ちゃん、違うよ。わたしだってひとりぼっちになっちゃって、最初は泣いてばっかりだったよ……。いろんな所からお手紙もらって、知らない人なのにお見舞いに来てくれて、一人じゃないんだって思うようになったもん。健ちゃんと一緒にいたいと思う人がいるはずだもん」

 茜音の顔が少し赤くなる。

「茜音ちゃん?」

「わたしね、健ちゃんと会えてよかった。わたしを元気にしてくれたんだよ。しゃべれなくなったのも治してくれたもん。お別れなんかしたくないよ……」

「僕だって、茜音ちゃんが来てから……、茜音ちゃんに教わったんだよ。頑張ってる茜音ちゃんが……」

 茜音の寂しそうな視線を見ると、次の言葉が出なくなってしまう。茜音が自分のことを思っていてくれていた。それだけでも気持ちが違う。

「健ちゃん、大きくなってもずっとお友達でいてくれる?」

 茜音の潤んだ目で見つめられる。

「友達だけじゃないよ。僕は……、茜音ちゃん好きだぁーーっ!」

 最後の方は叫び声になって、谷間に響いていった。

「健ちゃん……」

 茜音の方がドギマギしてしまう。それほど彼の告白は彼女の心に突き刺さった。

「言っちゃったぁ」

 彼のすっきりした顔を見ると、茜音も心の中につかえていた物が取れていく。

「健ちゃん、また会えるよね……?」

 どのみち二人はもうじき離ればなれになってしまう。

 ずっとこうしていたい気持ちもあるが、今の自分たちではそれが無理だということは分かっていた。

「茜音ちゃん、10年後、10年後の今日。大人になってここで会おうよ。そしてまた一緒に遊ぼう!」

「うん。約束だよ……」

 茜音は疲れたように目を閉じた。出会った頃からスタイルを変えていない、茜音の柔らかい髪の毛からは、ほんのり甘い香りがした。

「健ちゃん……。わたしね……、健ちゃんのこと……」

 そこまで出掛かって言葉に詰まる。彼女の気持ちを表すにはどういう言葉を使えばいいのか、茜音は思いつけなかった。

「ごめんね。わたしまだ勇気が出ない……。でも健ちゃんのこと忘れない。約束する」

 彼女の優しい視線。明日から来る辛い現実にも、彼女は耐えていけると健は確信した。