三人が店に降りていくと、菜都実の父親でもあるマスターは数人の常連客としゃべりながらコーヒーを煎れていた。
「もう休んでいいよ。しばらく茜音の仕込みだから」
「あいよ」
マスターはオープンキッチンになっている厨房を外して客席でくつろぐことにしていた。
「茜音ちゃん、今日はあれ出せるの?」
「はぃー。10食分は出来ると思いますぅ」
マスターの問いに茜音が答える。
「あれ、あっと言う間になくなっちゃうからなぁ……。増やすわけにはいかないんだろうなぁ……」
「はぅ……ごめんなさいです。これ以上量が多くなるとうまく作れないんですぅ」
あれと言っているのは、普段は店のメニューにも大きくは載せていない茜音手作りのグラタンのことで、茜音が橋探しの協力をしてもらっているお礼にと材料から選んで作っている先月からの不定期メニューだ。
数あるオーブン物メニューの中でも一つだけ、彼女が一人でソースから仕込み時間をかけて作るため、茜音の仕事が土日など休日で朝から入っているときしか作れない。
そして1回に作れるのが10食程度という超限定。茜音が手を込めて作っているだけあってその味はホテルのレストランにも負けないと言われ、あっと言う間に口コミで広がってからは、常連でさえなかなか口に出来ないと言うプレミアまでついてしまった。
「佳織はなんか手持ちのレシピはないわけ?」
「茜音のあれを食べちゃったらちょっと勝ち目ないなぁ……。デザート系ならまだ行けるかもしれないけど……」
佳織も腕が悪いわけではない。マスター不在の時は店のメニューはほとんど作ることもできるし、自分でもおまけ程度に付け合わせなどは即興で作ったりはしている。
「まぁ幻の限定メニューがあると言ってもらった方が店としてはお客さん増やせるし?」
「はぁ……。ごめんなさいですぅ……」
「茜音が謝ることじゃないでしょうが」
用意した10皿に中身を取り分けて冷蔵庫に入れておく。これで準備は整った。
「いらっしゃい。今日はいるよ」
マスターが入り口の方に声をかけた。どうやらまた一人お客さんが来たらしい。
「はぅ! テーブルセッティングまだしてないよぉ」
「いけねっ! マスターのんびり構えている場合じゃないっしょ」
慌てて食器をかかえて空いているテーブルからセッティングを始めようとしたが……、
「いらっしゃいませぇ……って、あれ? 生徒会長ですかぁ?」
「はぁ?」
茜音の気が抜けたような声につられて、菜都実も思わず振り返る。
「あれ、片岡さんじゃん。なんでそんな恰好してるんだ? バイトは禁止だぜ?」
生徒会長と呼ばれた方もまさかドタバタ気味の店員が茜音たちだとは気がついていなかったらしい。
坂口清人、茜音たちも通う桜峰高校の生徒会長を務めている3年生。立場上、堅くしなければならないところはある。
だからといって周囲に耳を貸さなかったり威張る様子もなく、締めるところだけ締まっていればいいというポリシーなのか、本人の髪型なども、よくスポーツ選手にあるような風になびくようなセットであり、おまけに本当に分からない程度に染めてまでいるという状態。
顔も眼鏡ではカッコが付かないからコンタクトにしたという話も残っているくらいで、今風にさっぱりしたところが女子などにも人気がある。後からの佳織のコメントでは特定の彼女無しというデータが付け加えられている。
「かいちょー、ここはあたしんちですけど? なにか?」
菜都実が作業を中断して茜音のところにやってきた。こんなところで変なごたごたを起こしたくない。
「彼女たちは菜都実の手伝いに来てもらってるだけだからね。アルバイトとは呼べないな。それに、そんなことでは君の言っている人たちには会わせられないよ」
まずい空気になりかけたのを、マスターがうまくフォローしてくれる。
「まぁ、バイトをやるななんて今どき時代錯誤だからね。別にどうするつもりもないすよ」
「さすが会長!」
菜都実に続いて茜音もようやく表情を元に戻した。
「でも、誰かに会いに来たんですか? こんなお店に来ることなかったはずなのに?」
テーブルのセットを続けながら佳織が聞いた。佳織と茜音が店を手伝い始めてから3ヶ月近くになる。その間に彼の姿を見ていればもっと前から話題に上がっていても不思議ではない。
「彼はここ最近、急に来るようになってな。なんか訳ありそうだったんで話を聞いて、今日来るように言っておいたんだ」
マスターの声が後ろから聞こえた。