ETERNAL PROMISE  【The Origin】




「しっかしさぁ、茜音も純情だよねぇ」

「え~、突然なによぉ、それはぁ」

 佳織の予想どおり、昼間の日焼けダメージで長時間の入浴ができなかった菜都実が、温泉を堪能して部屋に戻ってきた二人を出迎えて言った。

「だってさぁ、この前の朝だって、あんな潤んだ目して海見てたらさぁ……。どーせいつもみたいに妄想モードに入っていたんだろうけどぉ……」

 菜都実の言うとおり、茜音が坂の途中でぼんやりとしていて、遅刻しかけたことは珍しいことではない。そういう時の茜音は、大抵空想に耽っているときなのだが……。

「う、それはぁ……」

「だって、もう9年でしょう? 一人の男の子思い続けるなんて純情以外になんて言うのよ?」

「いいじゃん。それが茜音じゃん?」

「佳織……?」

 年頃の女の子三人がこういう話を始めてしまったら、それまでの恨み節などもどこかに飛んでしまう。

「だって、素敵じゃん。それって茜音の初恋でしょう? 頑張ってかなえて欲しいなぁ」

 いつも堅実派に見える佳織も、なかなか結構夢見てしまうタイプだったりする。三人の中で一番背は小さいけれど、落ち着いた雰囲気に何故か1年生からの人気が高い。

 児童施設にいた茜音の経験は二人には新鮮に映ったし、そこで結んだ約束を今もなお追い続けている姿に、二人は惚れ込んでしまったのだから。

 茜音も、やはりお年頃の女の子だ。彼女の容姿を見れば注目されないことはないし、無謀……にも、ことある毎に告白を挑んだ男子は数知れずである。

『ごめんね、私にはまだそういうこと考えられないから……』

 と、いつも相手を傷つけないように心がけてはいるけれど、茜音だってせっかくの気持ちを断ることを心苦しく思っている。

 教師には内緒で行われる校内の非公開人気ランキングでは、常に上位のポジションを誇る茜音だけに、その動向は常に注目されている。

 いつしか『難攻不落』と言われてしまっている茜音を誰が射止めるのかは学校中の男子にとって、気になるところだ。

 茜音自身、健とした10年前の約束がまだ有効なのかどうか、それが約束の日が近づくに連れて不安がどんどん大きくなってきている。

 悩んだ茜音が出した結論は、とにかく約束の日にそこに行ってみることだった。再会の約束が結実するかは問わない。とにかく自分の気持ちに決着を付けるためにはそれしかないと決めていたのだけれど……。

「でも、健君だっけ?今どこにいるかも分からないんでしょう?」

「うん……」

 施設を移り、すぐに片岡家に引き取られたりと、めまぐるしく変わる環境。茜音も連絡をすることが出来ず、今となっては彼がどこにいるのかさえつかむことが出来ていなかった。

「せめて、その場所がどこだか分かってればいいんだけどねぇ……」

 実際、茜音が持っている情報は無いに等しい。場所の手がかりは、山奥の渓流に架かる橋という事だけ。こんな場所はそれこそ日本中にいくつあるか分かったものではない。

「うーん。どこまで絞り込めるかだよねぇ……」

 三人とも気が思いやられる。なんと言っても、現場がどこなのか見当も付かない。

 あの体験をしたのがあと1年遅ければ、茜音も場所などの記憶がはっきりしてくるのかも知れないが、当時小2で誕生日前の7歳。無理を言えるものではない。

「ねぇ、茜音!」

 突然、菜都実が隣にいた佳織の肩に手をかけながら呼んだ。

「なに?」

「ネットで、橋の情報探せないかな?」

「ほえ?」

「ほら、その橋の情報だよ。佳織出来るかな?」

「検索エンジンで探せば結構引っかかると思うよ? 試しにやってみようか?」

 佳織はすぐにスマートフォンを取り出して有名検索エンジンにキーワードを入力してみる。

「うわ~、出る出る……」

 キーワードに『橋』と打ち込んだだけでは、それこそ数千という検索結果が出てしまう。市街地を外すと追加条件を追加しても、かなりの数が表示される。

「どうするこれ?」

「とりあえず、片っ端から見ていくしかないよねぇ……」

「写真とかが載っているものを重点的に調べてみよっか」

「う~。頭いたくなりそう……」

「ほら、茜音も菜都実もスマホ持ってるんだから、自分で調べなさいよね」

 三人とも宿の無線LANの設定を間借りしているから、通信費に響くものではない。

「そっか。一人で探すこと無いんだ」

 佳織に言われ、二人は顔を見合わせ笑った。




「そっかぁ。実際に行ってみるしかなさそうだよね」

 夕食後、三人はそれぞれが調べた情報交換をしながら今後のことを話し合った。

「そうなんだよねぇ……。条件はある程度絞ってみたんだ。あとは使えるとしたらSNSで情報をかき集めるか」

 インターネットは巨大な情報を持つだけに、それを1つ1つ探していくだけでも気が遠くなるような作業だ。条件を絞って探していかないと、なかなか目的の情報を探し出すのは難しくなってしまう。

「でもさぁ……、いざ確かめに行くとなるとねぇ……」

「やっぱ、これぇ?」

 菜都実が指でジェスチャーをする。

「あぅ~。そうなんだよぉ……。先立つものがねぇ……」

 茜音はテーブルに突っ伏した。

 国内とは言え、場所次第では全国を巡ることになりかねない。交通費だけでなく遠出なら宿泊費も必要になってくるから、高校生のお小遣いだけでは限界がある。

 普段の生活では、茜音があまりお金に苦しいと思うことはない。そもそもが浪費をするタイプではないし、彼女が世話になっている片岡家も比較的裕福ではあるが、今以上の迷惑をかけることはしたくない。

 それと、櫻峰高校もやはり一般のアルバイトは禁止となっている。中には無視してやっている生徒もいるが、茜音にはそこまでの度胸はない。

「ねぇ、どうしても自分で旅費を貯めるってなら、うちでやったら?」

「ほえぇ?」

 突然の菜都実の提案に一同驚く。何度か手伝いをしたことはあるが、それはあくまでお手伝いであり、報酬もケーキなどをもらって帰るくらいのものだ。

「だって、勝手は分かってるし、茜音も佳織も信頼できるし。よっぽどその辺のバイトの人を雇うよりいいと思うんだよね」

「でもぉ、アルバイト禁止だよぉ?」

 茜音が言うと、菜都実は大笑いした。

「だって、あたしんちじゃん。あたしだって他のとこなら校則違反かも知れないけど、うちの手伝いしてることになるんだもん。お手伝い賃ってことでどう?」

「それもありかぁ……」

 茜音が渋ろうとしたときには、佳織の方が先に納得してしまった。

「でしょでしょ?」

 言うが早いか、菜都実は部屋を飛び出すと、今回の旅行の主催であり、ウィンディのマスターでもある父親を連れてきた。

 茜音は最初どうしようか少し悩んだが、すぐに彼女の過去を話し、今回のアルバイトをやらせて欲しいいきさつまでを説明した。

 菜都実の父親は、彼女の話を一通り聞き終わると大きくうなずいた。

「そうか。喜んで協力させてもらうよ。君たちなら店のことも良く知ってるから心配ないしね。正直、これからオンシーズンだから店も混んでくる。人手は必要だから」

「よっしゃ。これでお金のことは解決。あとは……」

「あとは何? 菜都実」

「ウィンディでバイトするなら、仕事の合間にも情報収集できる方がいいなぁ」

「そっかぁ。どうせ休憩時間もあるわけだから、パケ代を気にしないでいたいよね」

 ただでさえ膨大な情報を扱うとなれば、通信費もできるだけ抑えておきたい。

「ん~。分かった。ちょっと考えるから待ってて」

 佳織は菜都実に自宅兼店舗の見取り図を書いてもらって、いくつか質問をしている。

「分かった。お店の客席でネット出来るようにしておくよ」

 話しを終えて佳織は自信たっぷりに答えた。




「ふ~。今日は疲れたぁ……」

 夕食とお風呂を済ませ、部屋に戻った茜音は、ごろんとベッドに仰向けになる。

 夏休みの初日と言うことで、もう少し起きていてもよさそうだったが、今日はそれよりも心地よい疲れの方が先行していた。

 あの泊まりがけ旅行を終えて家に帰った茜音は、両親に決まったことを話しておいた。

 思い出の場所探しを始めること、その旅費は菜都実の家の店でアルバイトをすることで工面するようになったこと。

 説明を受けながらも、二人とも頷いていて反対することもなかった。

 茜音の想いは、夫妻が彼女を引き取った時から知っている。

 あの駆け落ち未遂の事件も、施設から渡された茜音の紹介文には書かれていたし、彼女自身からも聞いていた。

 だから、両親は茜音に危ないことをしないという条件付きで、そのための行動には制限をしてはいない。もちろん事前の相談はすることになっている。

 それに、さすがに中学時代の茜音では外に一人で出すことを躊躇していたけれど、高校になって二人の親友を作ってからはその心配も解消されつつある。

 夏休み初日の今日は、茜音が基本の仕事を教わると同時に、佳織が先日の旅行の時に話したいろいろな問題を解決するための作業を行っていた。

 父親が大手電機メーカーに勤める佳織。鞄の中からLANケーブルと装置を取り出してはてきぱきと作業を進めて、ものの1時間ほどで、ウィンディ店内でも無線LANが使えるように設定してしまうのは朝飯前の作業だったらしい。



「健ちゃん……、いまどこにいるの……?」

 部屋にも度って、自分の机の引き出しから、きちんとフレームに入れられた、古ぼけた写真を取り出す。

 連れ戻され、離ればなれになる最後の朝、二人並んで撮ってもらった写真だ。写真では二人とも笑顔だけど、この写真を見るたび、茜音の心の奥には辛いシーンがよみがえる。

 二人とも直前まで離別を惜しんで泣いていた。そして、二人はあの河原でした約束を最後に指切りしをて笑顔を作ったときに撮られた物だから。

「はぁ…………」

 茜音の心の中の時計はそこで止まってしまっている。この針を再び動かし、心のつかえを取り除くための方法はひとつしかない。

 あの日から10年後の当日に、あの場所に立つこと。

 そこで約束が果たせても、果たせなくても、茜音がこの先に進むためにはどうしても必要なことだから。

「会いたいよぉ……。でもわたしのこと覚えてるのかなぁ……」

 写真は、茜音を寂しさの感情で包むと同時に、健との日々を思い出させてもくれる大切なアイテムだ。だからどうしても処分は出来なかった。

 二人が約束した再会までの時間はあと1年。それまでにゼロからあの場所を探し出さなくてはならない。平日は学校もあるから、決して十分な時間があるわけではない。

 約束を果たすために、残された時間とまだ場所さえ明らかにできていない茜音が焦るのも自然なことだ。

 その夜、彼女は部屋の明かりを付けたまま、いつの間に深い眠りに落ちていた。

【茜音・高校2年・夏・四万十川編】



「あーあ、和樹(かずき)ったら、結局来なかったじゃんかぁ」

 高校の近くを流れる静かな小川のほとり。梅雨の明けた土曜日、午前中で授業が終わってから、河名(かわな)千夏(ちなつ)は何度と無くベンチの側の石をその小川に投げ込んでいた。

 土曜の午後、人も少ない山間の小さな町では、静かな川のせせらぎだけが響き渡っている。

 遠くの畑では、ときどき農作業の人が見えるくらいで、昼間の農村地区では、車が通ることすら珍しい。

「千夏ぅ。こんな所にいたのかぁ」

 クラスメイトでもある乙輪(おつわ)香澄(かすみ)が周りの静けさをうち破って、河原の千夏に声をかける。

「なんだぁ、香澄かぁ」

「なによそれぇ? なに、また和樹との喧嘩?」

 気のない千夏の返事に、ちょっとムッとした顔になる香澄。

 すぐに自転車のスタンドを立て、千夏の場所まで河原を降りてきた。

「喧嘩じゃないけどねぇ……。今日電車で買い物に行く約束してたんだけどさぁ……」

 この山間の集落から、日用品以外を手に入れようとすると、インターネットでの通販か、鉄道で街に出るしかない。

 それも都会のように1時間に何本もあるわけでないから、時間を決めておかないと次は1時間後なんてことも普通にある。現地での滞在時間を延ばすためには、少しでも早く出発する必要があるのだけれど……。

「ははーん。さてはすっぽかされたな?」

「なによぅ! カヌー部の部室で野球の予選大会に釘付けなのは分かってるけどさぁ……。もうこんな時間になっちゃったら、今から行ってもすぐに引き返すことになっちゃうもん……」

「そうかそうか。それでも健気に待っていた千夏ちゃんはいい子だねぇ」

 言葉は強気ながらもため息を付く千夏を見て、香澄はおかしくてたまらない。

「バカにしないでよぉ!」

「だってぇ、千夏見てると可愛くてさぁ。年にしては背もちっちゃいし、童顔だし、それに胸もないしねぇ」

「胸も無いは余計でしょぉー! そりゃぁ……、香澄から比べれば、私なんて見る影もないけどさぁ……」

 最後の方は呟くようになってしまった千夏。

「めげないめげない。和樹君、それが可愛くて千夏のこといつも見てくれるんじゃない?」

 突然、少し真面目な口調になって、香澄は千夏の顔を覗き込んだ。

「そうかなぁ……。幼なじみなだけだよ……」

 さっきまでの怒った顔はどこに行ったのか。千夏の顔が寂しそうな表情に変わる。

「さ、遅くなると、家の人心配するよ。帰ろ」

「うん。そだね」

 香澄に促され、力無く立ち上がる千夏。

「自転車取りに行かなくちゃ」

 自宅から学校までの距離も長いので、大抵の生徒は自転車かバス通学。または県境をまたいでくる学生のために、学校から少し離れたところに学生寮も整備されている。

 二人が通う高校自体も、本校は別の場所にあって、山間にある校舎は分校という名前が付いている。全校生徒も八十人程度というこじんまりとしたものだ。

「香澄、お待たせ」

 自転車置き場から自分の1台を押してきた千夏は、校舎の方を一度振り向いてからペダルを漕ぎだした。




 二人とも自転車に乗ってゆっくりと川沿いの道を川上に向かって走る。

 小川は少し先に行くと本流に合流する。普段から見慣れてしまっているけれど、その本流は日本最後の清流と呼ばれる四万十川(しまんとがわ)だ。

 毎年たくさんの観光客が訪れるこの川も、千夏たちには、昔からの身近な遊び場という感覚でしかない。

「香澄ごめんね……。あたっちゃって……」

「いいって。でも、和樹は絶対に千夏のこと特別視してるって……」

「そうかなぁ……。香澄の時と態度違うよ?意地悪だし……」

「男の子ってそういうもんだと思うけどなぁ。きっと千夏可愛いから照れてるのかもしれないよ?」

「もう、またからかうんだからぁ」

 香澄も千夏も、この山間の町では数少ない高校2年生。

 街中の喧噪とは遠く離れたこの場所で、二人が出会ってからもう十年以上のつき合いになる。

 二人だけではない、学校も少ないので、他からの合流も少なく、小学校の頃からみんな顔なじみになるのだけど……。

 香澄は学年の中でも比較的流行を取り入れたがるような子で、髪型や、制服なども校則ギリギリにしているし、女性として恵まれた体格と、なによりもあっけらかんとした性格が周りから好かれている。

 一方の千夏といえば香澄とは逆に、それこそ学校紹介のパンフレットからそのまま抜け出したような容姿をしている。

 セーラー服のスカーフもきちんと前でまとめられている。

 スカート丈も膝上10センチ近い香澄と、膝が隠れている千夏とでは、明らかにイメージも違った。

 身長も150センチ程度の小柄で、肩まで掛かる黒髪と、その同年代よりも幼い顔が彼女の魅力でもあるのだけど、それに本人が気づいていない。

 もっとも、彼女としては顔よりも女らしさが足りない身体の方に少々不満のようだけど……、こればかりはどうしようもない。

 そんな対照的な二人は、小学校の頃に泣かされてしまった千夏に代わり、香澄がやりこめてくれたことから始まっている。それ以来、千夏と香澄は「実は姉妹なのでは?」と言われるほどの関係を築いている。

「でもさぁ、小学校の頃、千夏をいじめてたのも、その裏返しだと思うけどなぁ」

「そっかなぁ……。男の子なんて……」

「千夏はいいお兄さんいたからねぇ……。あんな人が目の前に現れたら、私コロって行っちゃうなぁ」

 千夏には大学生の兄がいる。今は下宿をしているので一緒に住んではいないけれど、小さい頃から千夏の遊び相手であり、今でも良き相談相手だ。

「お兄ちゃんに比べたら、和樹なんて……」

「そりゃぁ、和樹が可哀相だよ。比較対照になってない! 千夏の初恋がまだ来てないのもそのせいかねぇ……」

「はぁ……」

 またため息を付いてしまう千夏。彼女も分かっている。兄以外の男性となってしまうと、まだ親しく付き合える自信がない。

「千夏もそろそろブラコンから卒業しないとね」

「ブラコンなんかじゃないもん!」

 香澄は千夏の頭をくしゃくしゃと撫で、

「さぁさぁ。今夜和樹に連絡しておくから、明日デートしておいでよ」

 二人がそれぞれの家に別れる所で、香澄が振り向いて言った。

「いいってばぁ」

「まぁ、先は二人に任せるね。バイバイ!」

「うん、またね……」

 一人になって、夕暮れになった道を自転車で急ぐ。山間の町は日が落ちるのも早い。うっかりしているとすぐに暗くなってしまう。

「もう……、香澄ったら……」

 一人になると、やはり今日買い物に行けなかったことがちょっと残念に思える。ただ和樹との長いつき合いで、こんなことはしょっちゅうだ。

 しかし、最近の彼女の中に生まれる気持ちが何なのか、はっきりと表現できない。

「千夏、なにぶつぶつ言ってんだ?」

 自宅の前まで来たとき、突然後ろから声をかけられた。

「わ、お、お兄ちゃん!?」

「なにそんなに慌ててるんだよ」

 庭先の車から、高知市内の大学に行っているはずの兄、雅春(まさはる)が顔を出した。

「お兄ちゃん、帰ってくるって言ってなかったじゃない?」

「俺も夏休みだし、一度とりあえず帰ってくることにしたんだ。それに……」

「それに?」

 千夏の顔を見て、ふと思い出したように雅春が考え込んだ。

「いや、ちょっと千夏に相談したことがあってな」

「ふーん、変なの。まぁいいや、もうすぐご飯だと思うよ」

「俺もそう思う。早く自転車入れてきちゃえよ」

「うん」

 千夏が納屋の軒先に自転車を置き、家の扉を閉める頃には、辺りはもう暗闇に沈んでいた。




「へぇ、じゃ最初は四万十川なんだ」

「うん。今のところね。むこうで案内してくれるって。写真も何枚か送ってくれたし」

「あたし、四国は行ったことないんだよなぁ……」

 ウィンディでの昼下がり、ランチタイムも終わり、店の中に残っているのも少しばかりの常連さんとなったので、茜音(あかね)菜都実(なつみ)佳織(かおり)の三人は奥のテーブルで遅いランチにしているところだった。

 テーブルの上には、佳織が持ち込んだタブレット端末が置かれている。

 先日の佳織の即席工事のおかげでウィンディの店内でも無線LANが使えるようになって、どれだけ写真をダウンロードしても通信費は気にする必要がなくなった。

「案内って、自分で動ける感じじゃないんだ。その辺はどうなの?」

「んー。残念だけど、私たちが勝手に行って勝手に帰ってくるわけには行かなさそう」

「なんで?」

 菜都実の質問に、佳織は画面をタップすると、ブラウザの画面を見せた。そこには四国のバス路線などが表示されている。

「この通り、この辺なんかと違って、電車もバスも多くないんだよ。しかも茜音が行きたいような条件の場所には路線すらあるかどうか……。鉄橋だから鉄道はあるにはあるんだけど、それも1時間に1本あるか。あちこち途中下車したら山の中で野宿しなくちゃならなくなるのは確実ね」

「ありゃー」

 菜都実は小さい頃からあまり地元から離れたことがないと言っていた。

 まだ車を運転できない彼女たちにとって、電車やバスは大切な交通手段。それが無い場所にはあまり縁がなかったのだろうが、少し地方に行けば、車がないと全く身動きがとれない場所はいくらでも存在する。

「これじゃぁどうしようもないね……」

 肩をすくめる菜都実。彼女一人だったら、そんな場所には絶対に行きたがらないだろう。

「まぁ、それで情報提供してくれたお兄さんが案内してくれそうな話にはなっているんだけどねぇ」

「ほぉ?」

 そこで、茜音は発端を話してくれた。彼女が登録してあるSNSでの情報を集めてしばらく、あちこちからの情報が集まってきた。

 関東近辺から、北は北海道、南は九州までと場所は様々。とてもではないが一度に全部行ききれるような数ではないし、全部を回っていたら、あと1年では足りない。

 そこで可能性が高そうな所に狙いを絞ることにしていた。

 東京近辺で、彼女たちがすぐに行けそうな場所は既に夏休みに入ってからの数日を使って回っていたが、それらしい物は見つけられなかった。

 結果として、茜音も自分が住んでいる周辺でなさそうだと言うことは分かってしまったのだけれど……。

 そこで、渓流の多い、また橋も多い地区を調べていくと、いくつかの候補に絞れそうではあったものの、そのどれも茜音がすぐに日帰りで行けるような場所ではない。

 最初に決めた、高知県、四万十川周辺もその1つだった。たまたまその話を読んでいた高知市在住の大学生のお兄さんが案内役を引き受けてくれるということで、今回の出発が決まった。

「そっかぁ。あたし達も行きたいけど、ちょっと急だったね……」

「そうだねぇ。もう少し早く決まれば良かったんだろうけど……」

「茜音、気を付けなよ? メールだけじゃ人なんて分からないんだから」

 菜都実の言うことにも笑ってばかりはいられない。残念ながらネットを介する犯罪も多いだけに、情報を鵜呑みにするわけには行かない。

 今回の話は、茜音も何度かやり取りをして、状況を考えた結果問題なさそうだと決めたことだった。

「何か分かったら連絡するから。心配しないで」

「そうよ、茜音は修羅場くぐり抜けてきてるんだから、大丈夫だって」

「あぅ、なによそれぇ?」

 そんな二人に見送られ、茜音はその週末、朝1番の飛行機で高知へ飛び立った。




「暑いねぇ」

「そうだなぁ」

「まだ来ないのかなぁ……」

「着くの早すぎたからなぁ……」

 出迎える飛行機の時間が10時頃ということもあり、朝早く自宅を出発した千夏と雅春だったが、思っていたような高知市内の渋滞に巻き込まれることもなく、予定の時間より1時間も早く到着していた。

 夏休みの高知竜馬空港の1階の到着ロビーは、地元への帰省客で普段よりも数倍混雑する。

 出迎える側も人数が増えるので、顔を合わせたことがない同士を見つけるというのも難しい話ではあるのだけれど……。

 羽田との便は通常時期で8往復程度。混雑時に10往復程度だから、ある程度落ち着けば探し当てることは出来ると経験上では分かっていたけれど。

 雅春は、今日横須賀からはるばるやってくる少女がくれたメールのプリントを見た。そこには、便名や、彼女の特徴などが書いてあった。SNS上で顔はもう分かっているし、なるべくその写真に近い服装で行くと結ばれている。

「お兄ちゃん、どんな子かなぁ……。横須賀から来るんでしょう……?」

「そんなに心配する程じゃないよ。スマホで写真見せただろ?」

「うん……」

 妹の千夏には周りも心配するほどの人見知りの癖がある。とりわけ同世代の子にその傾向があった。

 田舎ののんびりした空気の中で育ってきた千夏には、中学校の修学旅行で行った都市部の空気やそこの雰囲気になじむことがどうしても出来なかった。

 それに、その時に会った同年代の子たちとの出会いが、あまり良い物ではなかったというのも、彼女のその問題を助長してしまった。

 そんなことで、兄から横須賀から訪ねて来るという女の子を案内の手伝いを頼まれたとき、素直にはうなずけなかった。

 「そういう子じゃない」と説得され、半分仕方なく空港までやってきたのだ。

「この便だな……」

 また1本、羽田からの便の到着が表示される。出迎えと帰省客のごった返す中で、二人は目的の人物を探すことになった。

「お兄ちゃん、あの子かなぁ?」

 千夏が兄のシャツの袖を引っ張る。

「お、そうかもしれないな。ちょっと待ってろ」

「私も行くぅ」

 到着のロビーから待合い室へのガラスの自動ドアを出たところで、高校生くらいの少女が一人、誰かを待っている様子だった。

「片岡……さんですか?」

「え? は、はぃ。あ、よろしくお願いします。片岡茜音です」

 突然話しかけられて、びっくりした様子の彼女は、すぐに状況を理解したらしく、頭を下げた。

「高知まではるばるお疲れさまです。河名雅春です。こっちは妹の千夏。おい、おまえも挨拶しろ」

「あ、あ、うん。千夏です……。初めまして……」

 千夏は慌てて答える。

 『似ている』が千夏が思った茜音の第一印象だった。

 空港の前の駐車場まで歩いていくとき、千夏の不安が少しずつ抜けていくのを感じた。

 千夏が恐れていたような、千夏流「都会の女子高生」というイメージは茜音には全く当てはまらない。

 身長も自分とほとんど変わらない。黒髪をストレートに下ろし、左右のこめかみを中心に細い三つ編みを垂らしている髪型。服装だって、オフホワイトの半袖ブラウスにマリンブルーのフレアスカート。三つ折りにしたレースソックスにキャンバス生地のスニーカー。比較的幼げな印象のする千夏と並んでも遜色がない。

 都会の雰囲気どころか、これなら地元に戻っても浮いてしまうことはないだろう。

 千夏は、茜音を出迎えるように言われたときに、「横須賀の高校生」との情報だけで、違うイメージのレッテルを貼ってしまったことを、心の中で詫びた。




「そうなんですかぁ。それじゃ千夏さんの気持ち分かりますよ。確かにそういう子もたくさんいますから」

 空港から車に乗って、千夏の「都会の子嫌い」話を聞いた茜音は、苦笑いして答えた。

 雅春が驚いたのは、行きの時のように助手席に座るのではなく、千夏が後部座席に茜音と並ぶように乗り込んだこと。

 口には出さなかったけれど、SNSで茜音を知ってから、「この子なら千夏を変えられるかもしれない」という直感が外れていなかったと確信した。

「でも、茜音さんみたいな服装している子って少なくないですか?」

「うーん、そうだねぇ。あまり多くないと言えばそうかも……」

「やっぱり……。いじめられたりしません?」

「そんなことないよぉ。あと、あんまりそういう場所が悪いところには行かないから。それに、わたしはそういう流行にあまり興味ないし……」

 茜音の友達の中には、菜都実のように比較的流行に敏感な周りも多いけれども、茜音は昔からあまり流行りと関係ない服装をしているので、それが逆に目立ってしまうこともある。

 ただ、彼女は別に構わないと思っていた。

「あとねぇ、流行に流されちゃうと、みんな同じになっちゃって面白くないもん」

「そっかぁ。お兄ちゃん、私もそう考えればいいよねぇ?」

「そんなのは千夏の好きにすればいいだろ?」

「うん、でもぉ……」

 呆れたような雅春と、だだをこねるような千夏の会話を聞いているうちに、茜音が吹き出しを堪えられなくなったようだ。

「なぁにぃ? そんなにおかしいかなぁ」

「ううん、ごめんなさいっ……。いいなぁって。わたし一人っ子だから……」

 事故後も病院や施設、片岡家に引き取られてと、物理的に完全な一人きりになることは少なかったけれど、やはり家族を失ったという事実は、彼女の心の中に影を残している。

 ときわ園に入ったときにも、なかなか心を開くことが出来ず、よく寂しくなって泣いていたものだ。

「これで、もう少し女っ気が出ればなぁ? ちっとはもてるだろうに……」

「これで何が不満ないのぉ?」

 茜音だけでなく千夏もどちらかと言えば、最近人気の流行とは服装も体型も違っている。服装は変えられるけど、体型はどうしようもない。これは望む方が無駄な話だ。

 空港から約3時間。三人を乗せた車は、千夏の家のある、山間の集落に到着した。

「なんも無いところだけど……、我慢してね……」

 千夏が少々申し訳なさそうに呟いたけれど、茜音は首を横に振った。

 やはり彼女の家は都会であり、常に人工物に囲まれているし、自動車の音も絶えず聞こえてくる。

 しかし、ここでは三人が乗ってきた車を降りてしまえば、聞こえてくるのは川のせせらぎと、セミや鳥の声だけだ。

「なんか、こういうところだと嫌なことみんな忘れられそう……」

「でも、それはたまに来るからだよ……」

 それは千夏から漏れる本音。人間というのはときどき違う環境に憧れるものだ。都会に住む者は田舎の暮らしに憧れるし、逆もしかりだ。

「そっか……。でも千夏ちゃんはどうなの? ここの暮らしは嫌?」

「うーん。私はどうなんだろう……。大好きって訳でもないけど、今の私には都会暮らしはきっと出来ないよ……」

 生まれてからずっと育ったところに愛着のない者はいないだろう。何もないところだけれど、千夏はこの場所が嫌いではなかったから。




「よかったら、川の方行ってみる? なにもないけど、景色だけは保証できると思うよ」

 まだ夕食の時間までは少し時間がある。茜音に対する警戒心が解けていた千夏が誘ってきた。

「うん、おねがい!」

 二人はもうすぐ夕焼けに染まり始める道を河原に急ぐ。

「ここだよ。と言っても川しかないけどね……」

「うわぁ……」

 目の前に広がる風景に茜音は言葉を失った。

 木立の間を抜けると、そこは急に少し開けた場所になっていて、さっきから聞こえていたせせらぎを発している川が現れる。

 川をはさんだ反対側にも畑があるから、軽トラックが通れるほどの幅の簡単な橋が渡されている他は何もない。

 茜音が住む横須賀ではもう見ることが出来ない自然のままの河原だった。

 水は澄み、涼しげな音を立てて流れている。夕方でなければすぐにでも裸足になって足を浸したくなるような魅力がある。ここに菜都実がいれば一番にはしゃぎ出すのではないだろうか。

 さすが四万十川に注ぎ込む支流の一つと言うだけあり、濁りはほとんどない。川底まできちんと見える川を見たのは「あの日」以来だったように思える。

「もう少し下ると本流とぶつかるの。まだ上流だから写真で見るような広い川じゃないけどね」

 茜音は川面を見つめたまま黙り込んでいた。

 彼女の記憶にあるあの場所とは確かにここは一致しない。それでも、この川の流域であれば、もしかしたら見つかるかも知れないと期待をさせてしまうような雰囲気がそこにはあった。

「茜音ちゃん?」

 千夏に言われてハッと現実に戻ってくる。彼女が心配そうに見つめてくれていた。

「ご、ごめんね。なんか懐かしく思えちゃって。でも、ここに来たことはないはずなのに」

 間違いなくこんなに遠くまで来たとは思えない。もちろん景色も違う。でも……。

「河原の景色で綺麗なところは他にもたくさんあるよ。同じような景色だから。でも、私にはここが一番気に入ってる。小さい頃はよく真っ暗になるまで遊んで、気がついたら怖くなったときもあったよ」

「そっかぁ。少し山奥に入れば関東でもこういう場所はあるけれど、みんな違った……」

 これまで少しずつ訪ねていた場所は、昼間が多かった。

 そう、あの日はこのくらい薄暗くなるまでふたりでいろいろ話していたのだと。そのイメージが離れずに脳裏に残っている。

「茜音ちゃんの場合は普通の場所じゃダメなんでしょう?この辺は川の周りが高くないからあまり大きな橋はないんだよ」

「はぅ? どうしてそれを……?」

「お兄ちゃんから茜音ちゃんのこと聞いてるよ。私、最初はそんなこと真剣に考えてるって変な子だなって思っちゃった。でも、茜音ちゃんを一目見て変わった。この人だったらお兄ちゃんの言っていたことも本当かも知れないって」

「千夏ちゃん……」

「ごめんね。でも、都会の人っていうのと、まさか恋愛小説にあるような事を本当に思い続ける人がいるって、最初は信じたくても信じられなかった……本当にごめんなさい」

 真剣な顔で頭を下げる千夏。その手をそっと握る。

「謝らないで? わたしも言われるよ。茜音は珍しいって。でも、あと1年で約束の日が来ちゃう……。今時変だと思うよ? 10年も前の約束を信じてるって……。でも、わたしにはそれしかなかったから……。他に何もなかったから……」

 そこまで言うと、茜音は口をつぐんでしまった。

「茜音ちゃん、もう暗くなるよ。帰らなくちゃ」

 何かを思い出し、耐えるような表情をしながら固まってしまった茜音を見かねて、千夏はそっと声をかけた。