【茜音・高校2年・夏・四万十川編】



「あーあ、和樹(かずき)ったら、結局来なかったじゃんかぁ」

 高校の近くを流れる静かな小川のほとり。梅雨の明けた土曜日、午前中で授業が終わってから、河名(かわな)千夏(ちなつ)は何度と無くベンチの側の石をその小川に投げ込んでいた。

 土曜の午後、人も少ない山間の小さな町では、静かな川のせせらぎだけが響き渡っている。

 遠くの畑では、ときどき農作業の人が見えるくらいで、昼間の農村地区では、車が通ることすら珍しい。

「千夏ぅ。こんな所にいたのかぁ」

 クラスメイトでもある乙輪(おつわ)香澄(かすみ)が周りの静けさをうち破って、河原の千夏に声をかける。

「なんだぁ、香澄かぁ」

「なによそれぇ? なに、また和樹との喧嘩?」

 気のない千夏の返事に、ちょっとムッとした顔になる香澄。

 すぐに自転車のスタンドを立て、千夏の場所まで河原を降りてきた。

「喧嘩じゃないけどねぇ……。今日電車で買い物に行く約束してたんだけどさぁ……」

 この山間の集落から、日用品以外を手に入れようとすると、インターネットでの通販か、鉄道で街に出るしかない。

 それも都会のように1時間に何本もあるわけでないから、時間を決めておかないと次は1時間後なんてことも普通にある。現地での滞在時間を延ばすためには、少しでも早く出発する必要があるのだけれど……。

「ははーん。さてはすっぽかされたな?」

「なによぅ! カヌー部の部室で野球の予選大会に釘付けなのは分かってるけどさぁ……。もうこんな時間になっちゃったら、今から行ってもすぐに引き返すことになっちゃうもん……」

「そうかそうか。それでも健気に待っていた千夏ちゃんはいい子だねぇ」

 言葉は強気ながらもため息を付く千夏を見て、香澄はおかしくてたまらない。

「バカにしないでよぉ!」

「だってぇ、千夏見てると可愛くてさぁ。年にしては背もちっちゃいし、童顔だし、それに胸もないしねぇ」

「胸も無いは余計でしょぉー! そりゃぁ……、香澄から比べれば、私なんて見る影もないけどさぁ……」

 最後の方は呟くようになってしまった千夏。

「めげないめげない。和樹君、それが可愛くて千夏のこといつも見てくれるんじゃない?」

 突然、少し真面目な口調になって、香澄は千夏の顔を覗き込んだ。

「そうかなぁ……。幼なじみなだけだよ……」

 さっきまでの怒った顔はどこに行ったのか。千夏の顔が寂しそうな表情に変わる。

「さ、遅くなると、家の人心配するよ。帰ろ」

「うん。そだね」

 香澄に促され、力無く立ち上がる千夏。

「自転車取りに行かなくちゃ」

 自宅から学校までの距離も長いので、大抵の生徒は自転車かバス通学。または県境をまたいでくる学生のために、学校から少し離れたところに学生寮も整備されている。

 二人が通う高校自体も、本校は別の場所にあって、山間にある校舎は分校という名前が付いている。全校生徒も八十人程度というこじんまりとしたものだ。

「香澄、お待たせ」

 自転車置き場から自分の1台を押してきた千夏は、校舎の方を一度振り向いてからペダルを漕ぎだした。