「今日は気をつけなさいよ」
「うん。大丈夫だよぉ」
「あんたの大丈夫はあてにならんからなぁ」
翌朝、すっかり体調を取り戻した茜音は、朝食に付くことができた。その席で彼女は居合わせた全員に頭を下げた。
朝食後のスケジュールは、佳織たち三人で奥只見の方へ観光に行ってくるとのことで、茜音と健の二人は再び昨日の場所に行くことを決めていた。
帰りの時間はあの駅に集合ということになっている。
三人を乗せた車を見送り、茜音は健の運転する車の助手席に乗った。
「免許取ったんだ」
「うん。仕事で必要だからね。この車はレンタカーだけど」
「お仕事ってなにやってるの?」
「今、世話になっている施設の雑用とかかな。結構男手が必要なんだ。だから昼間はそこで働いて、夜に学校に行かせてもらってるよ」
「ほえぇ、偉いねぇ」
ほどなくあの場所へたどり着く。昨日は痛む足を引きずりながら2時間以上かかったのに、車では20分ほどの距離だ。
「昔は線路側の斜面を下りたんだよね」
健が先に立って茜音の手を引く。昨日一人でこの崖を下りたときは足がすくむ思いだった。全く同じ経路なのに今日は違う。こんなにも足取りは変わるものかと茜音は愉快に思えた。
すぐに河原へ降りた。10年ぶりにこうやって二人であの時と同じ河原を歩けた。
「ここを探すの大変だったぁ」
「そうみたいだね。みんな言ってた。先月だったって?」
「うん。でも、健ちゃんが教えてくれたんだよぉ」
茜音はトートバッグの中からあの手紙を出して見せた。
「まさかとは思ったけど、よく茜音ちゃんの手に渡ったなぁ」
それを見ている間に、茜音は例の岩の上に腰掛ける。
「本当に昔の茜音ちゃんに戻ったみたいだね」
「頑張ったもん……」
昨日、ずぶ濡れになった服や靴は、佳織と菜都実の手によって一晩で洗濯と乾燥が施され、再びこの衣装での登場がかなった。
「ひとつだけ変わっちゃったかな。今はわたし片岡茜音って言うんだ。あの後少しして引き取られたんだよ」
「そうだったんだ。よかったね……」
彼の顔が少し曇った。一般の家庭に入って環境が変わった茜音に、自分が付き合いをしていけるか分からなかったし、今の家族の生活もあるだろう。
しかし、茜音は首を振った。
「でも、わたしは佐々木茜音のほうが好き。ううん。もうどっちでもいいんだぁ」
茜音はそこで一息置いた。
「健ちゃん、こっち来てくれないかな?」
「え? うん」
二人で並んだ岩の上、茜音は自分の体重を彼に預けた。
「健ちゃん……、10年前のこと、健ちゃんがここで言ったこと覚えてる?」
「もちろん。茜音ちゃんが好きだって叫んだかな」
もちろんだ。それがあったからこそ、この場所に再び立っている。
「うん、あのね……、その言葉ってまだ有効期限切れてない?」
昨日の話の続きだ。
茜音を一時さえ忘れたこともなかったのは自分も変わらない。だからこそ、昨夜から考えていた言葉を彼女には伝えたい。
「まだ僕は答えをもらってないけどね。そうでなくても、今でも僕は茜音ちゃんが一番だと思ってる。茜音ちゃんが嫌でなければ、そばに居て欲しいんだ」
彼女の顔から緊張が抜けた。
「あのね……、わたし、ここに来る前からずっと……。ううん、本当はあのときに答えは出ていたの……」
「そうなの?」
「うん。ちょっと目を閉じていてくれる?」
少し顔を赤らめた茜音の頼みなので、言われたとおりに目を閉じる。
その唇にしっとりとやわらかい感触が触れた。暖かい温度が伝わってくる。
「茜音……ちゃん……」
「これが答えだよ……。10年待たせてごめんなさい。もう、健ちゃんなしじゃ、わたし、生きていけないから……。あの日は勇気が出なくて、心配させてごめんなさい……」
言い切った茜音の大きなダークブラウンの目から涙が零れ落ちた。
「もう……、泣いても……いいよね?」
「まさか、あんなのまだ守ってたのか?」
そうだ、茜音は二人で決めた日を除いて泣かないと約束してくれたことを思い出す。
「うん……。ずっとね……。年に1日だけ、今年は昨日だけだったけど。それ以外は……、どんなに辛くても……、悲しくても……、寂しくても……。茜音、泣かなかったんだよぉ!」
嗚咽を抑えきれなくなった茜音を健はそっと抱きしめる。泣き虫だと揶揄されていた幼いあの頃のように、茜音は声を上げて泣きじゃくった。