「うーん、よく寝たぁ……」
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。ここ最近は寝不足が続き、昨夜も結局一睡もできなかった。とにかくこの場所に来られたということで、気が緩んだのかもしれない。
「まだ来てないんだぁ……」
日はすでに高く上がり、到着したときよりも周囲は数段明るくなっている。あの当時、眠っていた岩の上はずっと日が照っていた気がするけれど、この時の流れで午前中は日陰ができるようになっていた。
周囲を見渡したが、目の届く範囲には誰も見当たらない。ただ川のせせらぎの音が響いているだけだ。
「ダメなのかなぁ……」
昼を過ぎて午後になっても、状況は変わらなかった。
時折、崖上の道路を車が通る音がする。その音が止まらないか耳を傾けたりしたが、自分たちくらいしかこんな場所には用が無いのが当然で、通り過ぎてしまうものばかりだ。
道路から降りてくる通路と、昔自分たちが下りてきた線路から来ることも考えられる。時々その両方を見に行ってみたけれど、どちらにも人の気配を感じることはできなかった。
山の中の日が落ちるのは早い。結局それらしい人影が現れることもなく、その日も暮れようとしていた。
「8時が最後かぁ……。寒くなってくるなぁ……」
1日の本数が少ないこの路線では、午後8時過ぎに、朝降りた大白川駅の最終を迎える。
あの時も暗くなってしまい、途中、列車を見送ったあとで駅にたどり着いた時、周囲は月明かりのみだった。今日もそのことがあるので、終電を見送った後に駅まで戻ってみることを考えていた。
「はぁ……」
何度となく出てくるため息をつく。時間が遅く暗くなるにつれ、ある決断を下さなければならなくなってきたと思いはじめてきた。
家を出るとき、一昨日の夜眠れない中で書いた1通の手紙。それを机の上に置き、部屋の中をこれまでになく整理してきた。もしかしたら自分がこの部屋に戻ってくることは無いかもしれない。
身寄りが無い幼い自分を引き取ってくれ、ここまで育て上げてくれた両親へのお礼。本来ならこんなに暖かい環境にいることはできなかった上、自分の無茶を許してくれた。
きっと、佳織たちとの出発が食い違ったことで、あの手紙は発見されているだろうし、両親は茜音の気持ちも分かっているだろう。
万が一帰らなくても探さないで欲しいとは書いたものの、きっと数日間連絡を入れなければ探しに来ることは間違いない。そのときに自分は顔を見せることができるのか。
あの当時から茜音は健との約束は守るつもりではいたものの、彼女を取り巻く環境は決して良好なものではなかった。
新しい施設に移ってからというもの、大人の都合による環境の変化はまだ心の傷が癒えていない幼い子供には、自分の居場所すら見つけることすらできなかった。何度となく両親の元に逝こうと考えたこともあった。
そんな中で突然やってきた話は、彼女を引き取りたいという話がほぼ決まったということだった。それまでにも幾度も自分を引き取りたいという話はあちこちからあったと後に聞かされていた。しかし、なぜかそれまでは実現しなかった。
結局、今の片岡家に引き取られたことで、ここに来ることもかなえられた。
本来なら、仮にこの10年越しの物語が残念な結果に終わったとしても、これからのことを考えて、戻らなければならないのは頭の中では十分に理解している。しかし、約束の日まで1年を切り、そして半年を切ったあたりから、茜音の中に変化が生じてきた。
この傷を背負ったままで、この先を歩いていくことができるのか。長い時間を悩んだ茜音が最終的に出した答えは『ノー』だった。
叶わなかった理由は何でもいい。ただこの日が来ることを信じ続けていたものを失った後に、再び動き出せる自信は茜音にはもう残っていなかった。
このまま戻れば、幼い時のようにまた病院で精神的な治療を受けることになるかもしれない。
でもそれを受けるくらいなら、最後くらい自分の望んだ場所で、今度こそ静かに終わらせてほしい。
だからこそ、親友二人には無礼を承知で計画や行き先も告げず、ひとりで抜け出してきたのだから……。