「乗ったこともないのに、懐かしい感じがする……」
ここ数年で配備されたと思われる新型車両は空調も入っている。
表面の汗は拭ったけれど、歩いてきた体の火照りを冷やしてくれるのはありがたかった。
発車までしばらく時間もあるのを確認してもう一度ホームに降りる。
すると、これまでには感じなかった感覚が茜音を包み込んだ。
「これまでと違う……」
同じような地方の小さな駅には何度も降り立った。これまで知ることもなかったような地方のローカル線もこれまでに何度も乗ってきた。しかし、何かが今は違う。記憶の奥底に眠っていた感覚が感じているのか、懐かしい空気のような気がした。
もっとも、この駅には直接降りたことはないはずだ。
あの日の貨物列車はこの駅を通過したかは覚えていない。二人とも下車したわけではないし、帰りは施設の先生の車で戻っている。しかし、もし通過だとしても茜音は10年前にこの地に彼と二人でやってきている。間違いなくそう断言できる自信がわいた。
列車はそれほど混雑もなく出発した。この時期なので登山などに向かうグループ、地元の人々、夏休みとなったことで鉄道ファンなどと分かる姿もちらちら見られる。
しかし、茜音が待ち望んでいる姿を見ることはできなかった。これからのことを考えると車内で周りを見回すなど、あまり目立つのも得策ではないと、一人外を眺めていた。
すぐに小出の市街地は終わり、農村部から山間部に差し掛かってくる。細かいところまでは覚えていないはずなのに、このあたりの風景はさっき駅で感じたときよりも身近に感じられた。
きっとあの当時、このあたりを走っていた頃には二人とも目を覚まして外を見ていたからに違いない。駅の周辺以外から人家がほとんどなくなった頃、列車は大白川駅に到着する。この沿線では比較的大きな駅で列車のすれ違いができる駅だ。
隣に置いてあったトートバッグを肩に掛け、茜音は列車を降りて駅を見上げた。
「うん、ここだぁ……」
小出駅の時より、あきらかに自分の感性に訴えかけるものが大きかった。列車が発車していった方向を見つめる。あの時は薄暗くなってから二人でこの線路を歩いてきた。そしてたどり着いたのがこの駅だった。
「変わってないなぁ」
多少の変化はあったかもしれないが、雰囲気は当時とまったく変わっていない。
ホームから駅舎へ線路を渡り、駅舎の階段を上る。
そう、はっきり思い出せた。線路を歩いてきて見つけた明かりのついた駅舎に上るために、この階段を10年前に登ったことを。
当時、自分たちを保護してくれた泊まりの駅員も今は無人化されてしまっているようでその姿は見られない。
最後の切符を駅員代わりの回収箱に入れて駅舎の外に出た。
「覚えてる。ここで引き渡されたんだね……」
あれだけ長いこと空白で思い出せなかった駅前の景色を今ではしっかり思い出すことができる。ここで先生たちに引き渡されるときには、二人とも連れ戻される覚悟もすっかりできていた。すでにこの先離れ離れになってしまうことを受け入れるための約束も済ませてあったからだ。
「きっとみんな大騒ぎになってるし、ここまで来たら、もう引き返せないからね。あとは歩くしかないよ……いい、茜音?」
一度駅舎内のベンチでペットボトルから水を飲むと、スカートから伸びている自分の足に言い聞かせるようにポンと膝をたたいて立ち上がった。
最後の小休止をした駅舎を後に、片側1車線の国道を歩き始める。
「あの時は線路を歩いたんだよねぇ」
大きくなった今はさすがに無理だ。手紙を書いてくれた健も、最後の写真を送ってきた葉月姉妹も線路に沿っている国道から位置を教えてくれている。
山道なので歩く早さに個人差はある。今の茜音の足なら順調にいけば午前中にはあの場所に立てるだろう。
小出までの蒸し暑さが嘘のようだ。まだ6時台前半で、朝日は出ているが夜気が完全に抜け切れていない。
「ちょっと寒いかぁ」
今の服装はブラウスが長袖で上半身の寒さはない。足下が冷え込んできたので、最後まで残しておこうと考えていたハイソックスに履き替える。
それは学校はもちろん普段着にも使っているものではなく、レースをワンポイントにあしらって、子供用のフォーマルなどで幼い頃よく使ったもの。
菜都実たちと買い物に行ったとき、今でも履けるサイズの物を偶然見つけて購入し、今日まで保存しておいたのには訳がある。
服を作ってくれた萌も小物は分からないと証言したように、あの写真では茜音や健の膝から下が切れて写っていない。つまりスカートより下は当時立ち会った本人たちでないと分からない。
靴も当時と可能な限り同じようなデザインをサイズ違いで合わせた。最後の調整で茜音の装いは10年前当日とほぼ同じになった。
再び山の中に延びる道を辿る。疲れがないわけじゃない。駅にタクシー呼出の電話番号も書いてあったけれど、使わなかった。
何より旅の最後としては当時と同じく歩いてたどり着きたい気持ちが強かった。この道を歩くのは確かに初めてだ。しかし、駅に降り立った時からゴールへの一歩ずつだと分かっている。
「山道は早く歩けないなぁ……」
歩道がないので車の気配に用心していたけど、30分ほど歩いても前後からその姿はない。同時にスマートフォンの電波表示もすでに圏外になっている。
それほど人気がない場所だという証拠だ。ならばその方が都合がいい。この先に人家がないなら、早朝と同じで顔なじみでない女子高生が一人で歩いているという状況は普通ではないと思われてしまう。
ゆっくりと、途中休んだり周囲を見ながら2時間近く歩いただろうか。GPS表示の地図は目的地に辿り着いたことを表示していた。2週間前にここに到達した葉月姉妹は、河原まで実際に降りたそうで、高く急な崖を降りられるところに目印を残してくれているという。
急なカーブを抜けたところに、その場所は突然現れた。
「あれだぁ……」
スノーシェードがかかる道から右側に見下ろした風景。
1本の赤い小さな鉄橋。なんの変哲もない小さな橋。それが10年間探し求めた物だった。
しかし、確かに真弥たちが報告してきたように道からその河原までは高い崖になっており、そこにたどり着くのは大変そうだ。
「これって、真弥ちゃんのリボン……」
しばらく周囲を探索すると、工事用の鉄の棒が路肩に突き刺してあり、そこに見たことのある小さく黄色いリボンが結びつけられていた。
紛れもなく、春先に京都で真弥が頭の両サイドに結びつけていたはずだ。最初汚れてしまったのかと思った黒い模様は、近くで見ると『茜音さんへ』と書き加えられている文字。間違いなく二人が自分のために残してくれたメッセージだった。
そこは少し戻って橋は直接目視できなくなるが、河原まで自分の足でもなんとかなりそうな経路が確認できた。
「ここ……しかないよね」
ほかの場所と比べればまだいいという程度の道なき道なので、足を踏み外せば崖を転がり落ちてしまう。しかし、葉月姉妹は上に目印をしてくれただけではなかった。途中のところどころに、真弥は自分の髪飾りのスペアだけではなく姉がポニーテールの飾りにしていたものを細く切り、手をかけられる場所に結んである。そのガイドのおかげで危ない目には遭わずに河原まで降りることができた。
「着いた……」
自然に目から零れ落ちるものがあった。
目の前にあるのは、末沢川にかかる只見線の鉄橋で、当時は立派と思っていた大きさのイメージとは違って見える。そこでこれまでと同じように目線を下ろして見上げると、頭の中に入っていた画像と見事に重なった。それ以外でもこの場所が間違いないということは、この河原を歩いているだけでも足から伝わってくる。
「ただいまぁ……」
しばらく探索しているうちに、見覚えのある大きな岩を見つけた。
「昔はもっと大きく見えたなぁ」
斜面が平らになっていたその岩に上り、そこに寝ころんで周囲を確認した。
二人で一緒に並んで座っていた場所。そして、茜音が彼から初めての告白を受けたのも、この岩の上だった。
「ここでいいやぁ」
あとは彼が現れるのを待つだけ。茜音はようやく胸のつかえが取れたような気がした。
「すみません、今朝、この写真の子が通りませんでしたか?」
茜音が現地で一息をついた頃、ようやく佳織たちを乗せた車は小出の駅に到着した。
バスを降りたと思われる小出のバス停は無人なので、次に誰かが茜音を目撃したとすれば駅が有力だと、佳織は駅に着くなり改札口の駅員に駆け寄った。
「あぁ、朝一番に来ましたね。只見線の方に行ったかな?」
夜勤明けだという改札口の駅員は佳織が出した写真を見て頷いた。
「ホントですか?」
「通学でも見たことない顔だし。夏休みに入って遊びに来ている学生さんも多いからね」
「そうでしょうねぇ」
佳織が予想したとおりだ。以前に高知から来た千夏にも話していた。
利用客の絶対数が少なく、また通学の定期利用者なら顔馴染みにもなる。逆に同じような年齢でも見たことがない顔は印象に残りやすい。
「どの辺まで行ったか分かりますか?」
「さぁ、そこまでは見てないなぁ。車掌が戻ってくれば聞いてみることもできるけどなぁ」
「いえ、それだけでも助かります。ありがとうございました」
佳織は車に戻ってきた。
「やっぱり、駅から只見線に乗ってるって。どこまで行ったかは分からないけど」
列車に乗ったとすれば、この先の沿線に沿っていることは間違いない。8時前の発車を考えれば、すでに降りてしまっているだろう。それでも見当はずれの場所に行ってしまったかもしれないという懸念は消えた。
「とりあえずさ、1駅ごとに様子を見ながら行きますかね」
あわてて飛び出したので、朝食のことも考えずに来ていた。駅前では食料を確保できるコンビニすら見つからないので、一度国道17号に戻り朝食の他これからのことも考えて大量に買い込んだ。
JR只見線は、冬場は並走する国道が豪雪のために通行止めになってしまうことから、この付近の集落をつなぐための唯一の交通機関になる。
そのおかげで廃止が免れているという説もあるが、過疎の山の中を走るため、その本数は極端に少なく、朝7時台の次は13時台というダイヤだ。
只見線の存在に気付き、途中でスケジュールを考えた佳織もその13時の列車に合わせればいいのではと考えていたのだが、茜音は夜行バスを使うという強行策で1番列車に合わせたことになる。
せっかくの機会なのだから朝から現地にいたいという気持ちも理解できる。しかし、二人にはそれだけではないような気がしてならなかった。
小さな駅は道路を走っているとうっかり見落としてしまうような無人駅も多い。幸いにして茜音が降りそうな場所は無かったが、それでも神経質にはなる。
「……え、本当に? その駅で間違いない?」
それまで電話でずっと連絡をしていた菜都実の声が変わった。
「分かった。すぐに行ってみる。ありがと!」
「誰に電話してたの?」
カーナビと地図の両方を見ていた佳織が後部座席の菜都実を振り返った。
「佳織、大白川駅の先だって。そこから車で20分ぐらいの場所」
「それで間違いないわけ?」
菜都実はすぐにスマートフォンで地図を検索する。
「茜音と最後まで場所の詳細を確認していた真弥ちゃん。茜音からも間違いないって言ってたって」
菜都実は夜が明けると同時に、これまでの旅で知り合っていた人たちへのコンタクトを取り続けていた。
もう少し走ると携帯電話の通話エリアもギリギリになってくる。その直前で菜都実は最後の連絡先にあたっていた。
冬の京都で知り合った、葉月美弥、真弥の姉妹。今の電話で分かったのは、茜音に最新の現場情報を知らせたのが真弥だったという事実。そして、茜音のためにその場所には目印も残してきたということ。
状況から考えて、ほぼ間違いなくその場所へ向かったと思われた。
車でカーブとアップダウンの厳しい国道を走り、1時間ほどするとこの沿線にしては大きめな駅が見つかった。
駅前のスペースに車を置き、再び佳織が駅舎の中に入っていく。列車のすれ違いができる駅で、駅員がひとり、きっぷの回収や駅舎の掃除をしていた。
佳織は掃除をしていた駅員に駆け寄った。
「すみません。今朝の列車でこんな子降りませんでしたか? 小出から来ているはずなんですけど」
再び写真を見せて駅員に尋ねる。ネームプレートを見ると、小出駅の係員だと分かる。
「そうですか。この駅は昔は泊まりの係員もいたのですが、ご覧の通り数年前に無人になってしまって、私もこうして各駅を巡回しながら掃除をしているのですよ」
中年の駅員はそう言いながら、茜音の写真をまじまじと見ている。
「この女の子、本当に今日ここに来ているのでしょうか?」
「そのはずなんですが……」
彼は壁に掛かっているカレンダーを見て納得というように呟いた。
「そうか、今日で10年か……」
「えっ?」
佳織はもちろん、後ろで様子を見ていた菜都実もその言葉に反応した。
「知ってるんですか、茜音を……?」
「失礼しました。茜音ちゃんと言いましたね。10年前の夜にそんな子が突然やってきて、話を聞くと施設を抜け出してきたと。複雑な事情があったようで、一晩泊めてあげたことがあったなぁ。そうですか、あの子もこんなに大きくなったのですね」
間違いなく、彼は全ての発端を知っている数少ない証人だった。その本人が証言しているのだから、場所は間違いなくここになる。
「あの、もう一人、同じくらいの男子は見てませんか?」
「さぁ、どうでしょう。他に見てないか聞いてみますよ」
彼は駅舎ではなく、二階にある食堂の方に階段を上がっていき、しばらくして再び降りてきた。
「もう一人はまだ来ていないようです。直接車で向かってしまったかもしれないな。二人とももう免許も取れる年頃でしょう」
「分かりました。帰りに寄るように言っておきます」
「無事に見届けてやってほしいです。あの二人は本当に純粋でしたから」
彼はそう言って笑うと、佳織と菜都実を見送ってくれた。
「間違いないんだ」
再び車での移動を開始する。真弥が話してくれた小さな目印を見逃さないように慎重に車を進めていった。
「あ、あれだ」
菜都実は真弥のヘアアクセサリーの現物を見ているので、電話越しにそれを残してきたと聞いて、黄色いリボンをすぐに見つけだした。
車をすぐそばに停め、数時間前の茜音と同じようにその目印が間違いないものだと確認した。
「茜音いる?」
「わかんない。でも、この足跡新しいよ」
路肩の土に残っている足跡はまだ付いたばかりで崩れていない。
「間違いなくこの下にはいるでしょ。でもあたしたちが出る幕じゃまだないわ。せっかくのシーンに邪魔が入るのは嫌だろうし」
「でもさぁ、茜音物騒なこと書いてたじゃん」
「少なくとも今日中は大丈夫でしょ。茜音だって今日は何も起こさないはず。とりあえずここで待機って感じかな」
「それもそっかぁ」
しかし、その判断が甘かったことに、後で二人は思い知らされることとなった。
「うーん、よく寝たぁ……」
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。ここ最近は寝不足が続き、昨夜も結局一睡もできなかった。とにかくこの場所に来られたということで、気が緩んだのかもしれない。
「まだ来てないんだぁ……」
日はすでに高く上がり、到着したときよりも周囲は数段明るくなっている。あの当時、眠っていた岩の上はずっと日が照っていた気がするけれど、この時の流れで午前中は日陰ができるようになっていた。
周囲を見渡したが、目の届く範囲には誰も見当たらない。ただ川のせせらぎの音が響いているだけだ。
「ダメなのかなぁ……」
昼を過ぎて午後になっても、状況は変わらなかった。
時折、崖上の道路を車が通る音がする。その音が止まらないか耳を傾けたりしたが、自分たちくらいしかこんな場所には用が無いのが当然で、通り過ぎてしまうものばかりだ。
道路から降りてくる通路と、昔自分たちが下りてきた線路から来ることも考えられる。時々その両方を見に行ってみたけれど、どちらにも人の気配を感じることはできなかった。
山の中の日が落ちるのは早い。結局それらしい人影が現れることもなく、その日も暮れようとしていた。
「8時が最後かぁ……。寒くなってくるなぁ……」
1日の本数が少ないこの路線では、午後8時過ぎに、朝降りた大白川駅の最終を迎える。
あの時も暗くなってしまい、途中、列車を見送ったあとで駅にたどり着いた時、周囲は月明かりのみだった。今日もそのことがあるので、終電を見送った後に駅まで戻ってみることを考えていた。
「はぁ……」
何度となく出てくるため息をつく。時間が遅く暗くなるにつれ、ある決断を下さなければならなくなってきたと思いはじめてきた。
家を出るとき、一昨日の夜眠れない中で書いた1通の手紙。それを机の上に置き、部屋の中をこれまでになく整理してきた。もしかしたら自分がこの部屋に戻ってくることは無いかもしれない。
身寄りが無い幼い自分を引き取ってくれ、ここまで育て上げてくれた両親へのお礼。本来ならこんなに暖かい環境にいることはできなかった上、自分の無茶を許してくれた。
きっと、佳織たちとの出発が食い違ったことで、あの手紙は発見されているだろうし、両親は茜音の気持ちも分かっているだろう。
万が一帰らなくても探さないで欲しいとは書いたものの、きっと数日間連絡を入れなければ探しに来ることは間違いない。そのときに自分は顔を見せることができるのか。
あの当時から茜音は健との約束は守るつもりではいたものの、彼女を取り巻く環境は決して良好なものではなかった。
新しい施設に移ってからというもの、大人の都合による環境の変化はまだ心の傷が癒えていない幼い子供には、自分の居場所すら見つけることすらできなかった。何度となく両親の元に逝こうと考えたこともあった。
そんな中で突然やってきた話は、彼女を引き取りたいという話がほぼ決まったということだった。それまでにも幾度も自分を引き取りたいという話はあちこちからあったと後に聞かされていた。しかし、なぜかそれまでは実現しなかった。
結局、今の片岡家に引き取られたことで、ここに来ることもかなえられた。
本来なら、仮にこの10年越しの物語が残念な結果に終わったとしても、これからのことを考えて、戻らなければならないのは頭の中では十分に理解している。しかし、約束の日まで1年を切り、そして半年を切ったあたりから、茜音の中に変化が生じてきた。
この傷を背負ったままで、この先を歩いていくことができるのか。長い時間を悩んだ茜音が最終的に出した答えは『ノー』だった。
叶わなかった理由は何でもいい。ただこの日が来ることを信じ続けていたものを失った後に、再び動き出せる自信は茜音にはもう残っていなかった。
このまま戻れば、幼い時のようにまた病院で精神的な治療を受けることになるかもしれない。
でもそれを受けるくらいなら、最後くらい自分の望んだ場所で、今度こそ静かに終わらせてほしい。
だからこそ、親友二人には無礼を承知で計画や行き先も告げず、ひとりで抜け出してきたのだから……。
『わたしが見つけられなくて、健ちゃんを悲しませるなんて絶対にしたくない!』
誰にも言えない心の叫びを内に秘めながら、それでも特定できないことに焦りが膨らんでいく。
タイムリミットを直前に控えた先月、偶然にも複数の決定的な情報をつかむことができた。
ついに、どこに行けばいいか分からない状態からは開放されたが、やはり問題はそれだけではなかった。
長期間を経ての再会。互いに以前の二人の気持ちでいられたのか。自分の中では変わっていなくとも、彼の心の中までは分からない。
少なくとも会うことができれば、結果に関わらず気持ちのけりをつけることができると思っていた。
「やっぱ、無理だったのかなぁ……」
夕日が沈み、稜線を赤く染めた山並みを見ながら茜音はつぶやいた。
最後に情報をもらった時に少し分かったのは、彼が働きながら学校に行っているという事実。
すでに仕事を持っているのなら、予定を空けることができなかったのかもしれない。ますます自分はどうしたらいいのか余計に分からなくなってくる。
今回は着替えすら持ってきていないし、宿も取っていなかった。これから暗く寒くなる山の中で一晩を過ごさなければならないと思うと、佳織たち本体と同行でなかったことに悔やんだ瞬間もある。
「でも……、これがわたしたちの本当の姿だったのかもしれないなぁ……」
不思議に怖さは無かった。あの当時も周囲は暗かった。駅まで歩いて助けてもらったからよかったものの、本来はこうやって暗がりの中に取り残されるはずだったのだから。
「……ほぇ?」
いつの間に再びうとうとしていたらしい。
どこか遠くで自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「茜音ぇー! 意地張ってないでもう出てきなさい!」
小さく聞こえる叫び声は聞き覚えがあった。胸の中がぎゅっと締め付けられる思いだった。
「仕方ないかなぁ……。時間切れかぁ……」
こんな所まで探しにきてくれた……。そんな二人には顔を出して詫びなければならないと思い直す。
すっかり暗がりに慣れてしまうと、月明かりだけでも足元ぐらいは見ることができる。
「あっ……」
乗っていた岩の上から河原の砂利の上に立ち上がろうとしたとき、茜音の足に激痛が走った。何とか持ちこたえようとしたが、そのままもつれるように川の中へ倒れこむ。
「いたぁ……。そっか、そうだよね……」
過度の疲労がたまると、手足の筋肉が痙攣硬直してしまい、しばらく動かすことができなくなってしまう茜音の昔からの癖だ。
診察してもらっても治療が必要な病気ではないという。最近は出ることはなく、時折症状が出たとしても旅行直後に足を攣る程度のものだった。
今回のはこれまでに無いくらい重傷のようだ。足だけならまだいい、今回は身体全体が痛くなり、気が付くと手の自由も利かない。
「しょうがないかぁ……」
前兆はあった。ここに来るまでに何度か軽く痛みを感じていた。それでも途中で止まるわけにも行かず、休憩を挟みながらも無理を押して歩き通した。
ここのところの体調の不十分さや、これまで張り詰めていたことにより溜め込んできたものが一気に噴出したのだろう。
手足が使えないため、川に落ち込んでしまっても起き上がることもできない。幸い頭は出ているので息はできたのがせめてもの救いだ。しかし、そんな状況で長くいられるものではない。
「さむぅ……」
周囲は暗闇で気温も下がってきている。山間の川の水は雪解け水やそれが地下水となって湧き出したものが多いから、水温は平地の川に比べればぐっと低い。そんなところに全身が浸かってしまっては体温は一気に奪われてしまう。
「なんか、わたしらしいかもぉ……」
一人苦笑する。こんな状況に追い込まれながらも、不思議と茜音は落ち着いていた。今の水音を聞いても、この暗闇では菜都実たちでもすぐに降りてくるのは困難だろう。
明日の朝まで自分の体が無事でいられるとは思えなかった。大親友に惨めな姿をさらすことになるのは申し訳ないが、これも自分で選んだ道だったから……。
「でも……、振られても……、いいから……、もう一度……、会いたかった……な……。健……ちゃん」
星を見上げている内に眠くなってきたのは、夜のせいなのか自分が冷たくなっていくからなのか、もうよく分からない。
薄れる意識の中、最後に茜音が覚えていたのは、いくつかの光とともにやってくる、自分の名前を叫ぶ懐かしい声だった。
ぼんやりとした視界に茶色の天井が見える。
「よかった……。目を覚ました……。大丈夫……?」
「あ、あれぇ……」
茜音はまだ回っていない頭で自分の置かれている状況を理解しようとした。
記憶の最後とは違って、体がほかほか暖かい。それに倒れこんだのは真っ暗な川の中だったはず。
今は枕元の明かりがつけられた薄暗い部屋の中らしい。それに布団の中に寝せられている。
そして、あの時は周囲に誰もいなかった。
しかし今は枕元に、佳織の従兄ではない同い年くらいの少年が心配そうな顔で自分の横に座っていた。
「苦しいところとかはない?」
「う、うん……」
どうやらあのまま天国に行けた訳ではなさそうだと茜音は考えた。それとも、これもまだ自分の夢の中なのか……。
暗くてあまりはっきり見えなかった、彼の顔をもう一度よく見ようとした。
「茜音ちゃん、無理しないでくれよ……」
「へ……。け、健ちゃん?」
「他の誰があんなところに行くと思う?」
思わず間抜けな声を出してしまった。彼は茜音の顔を見ようと、明かりの中に入ってくる。
「来て……、くれたの……?」
「遅くなってごめん。もっと早く来られていればこんなことにはならなかったのに」
間違いない。ずっと聞きたかった懐かしい声だった。声変わりをして幾分低くなってしまったようだが、茜音の記憶の鍵を開けるには十分だ。
「会い……たかったよ……ぉ」
手を伸ばそうとするも、まだ少し影響が残っているようだ。それでも暖められたおかげで動かせる。
体を起こそうとしたとき、彼は慌てたように顔を背けた。
「どうしたの?」
「茜音ちゃん、着替え洗濯してくれてるみたいだから、その間、これ着てくれないかな?」
彼は折り畳まれている浴衣と、今回自分で持ち出さなかった下着を入れている袋を腕を伸ばして渡してくる。
「え? はうぅ~! あっち向いててぇ~」
自分の状況が少しずつ分かってくると、茜音は裸にバスタオルと毛布を巻きつけただけの状態で寝かされていたのだから。
部屋の暖房と周りに湯たんぽをいくつも入れてくれていたので気が付かなかった。
浴衣を着て落ち着いたところで、改めて彼を見つめた。
「変わってないね、茜音ちゃんは」
「うん……。健ちゃんもあんま変わってないね」
「見た目はね。目が悪くなっちゃったし、忙しくて床屋にも行けなかったんだけどさ」
茜音がこの再会に備えて頑としてヘアスタイルを変えなかったように、健も同じことを考えていたようだ。
細い縁のメガネをかけている変化はある。ヘアスタイルは聞いていたスポーツ刈りではなく、昔のように特に髪型をセットしてはおらず、自然に伸ばしている。
ただ、少々伸びすぎでボサボサになってしまっているのを恥ずかしそうに笑っていた。
「そんなのいいんだよぉ。助けてくれたんだね……」
あのあと、彼が助けてくれなければこうして言葉を交わすことはない。
「お、茜音起きたか」
部屋の中から音がし始めたので気が付いたのだろう。ふすまを開けて菜都実が入ってきた。
「菜都実……。ごめん……」
「あとで、たっぷりお説教してやるから。ご飯食べる?」
口調とは反対に涙ぐんでいる菜都実をみて、ようやく本当に助け出されたのだと理解した。
「う、うん」
まともに固形物を口に入れたのは、強行出発した当日の夕食以来だ。それ以降は空腹も感じなかったし、そもそも何かを食べられるような精神状態ではなかった。
菜都実はすぐにおかゆといくつかおかずを持って来てくれた。
「健君がさぁ、茜音に食わせるんだっておかず残してあったんで豪華だぞぉ。ま、今日はもう夜中だから二人ともゆっくり休めば。茜音の服は今乾かしてるから明日にはできるよ。ま、お邪魔虫は消えるわぁ」
「菜都実ぃ……」
何か言いたげな茜音を残し、親友は部屋を出て行った。
食事をしながら、茜音は健から事の成り行きを聞いた。
「まさか川の中で倒れているとは思わなかったよ」
「そのつもりはなかったけどねぇ」
水の音がしたので、佳織と菜都実がぎょっとして例の小道に駆け寄ったとき、1台の車が猛スピードでやってきて停まった。
二人はそれが茜音が待ち続けていた人物だと気づくまでに時間はかからなかった。
挨拶も抜きにして、すぐに下の川で何かが落ちたような音がしたことを話す。
同い年と分かっていてもさすがは男性だ。異常を感じた佳織の従兄弟と二人で懐中電灯を手に、残り二人を尻目に崖を一直線に下りていく。
佳織たちが到着したときには、すでに健は水の中から意識のない茜音を引き上げた後だった。
体はすっかり冷え切っていて何度かゆすってもたたいても目を覚まさなかったけれど、脈も息もまだしっかりしていたという。
健はなぜ茜音が川に落ちていたのか、すぐに理由が分かったようだった。
「食事終わったら、マッサージしてあげるからね」
「うん。上手になった?」
「さぁ。僕は茜音ちゃん専属だから」
「うん。じゃぁ下手でいい」
崖の上までは健が背中に負ぶって運び上げた。とにかく急いで暖めなければならない。
距離がある病院よりもまずは佳織が前もって予約してあった旅館まで大急ぎで運ぶことになった。
2台の車は暗闇の中を来たときの数倍のスピードで山を駆け下りる。
事情を話して浴場を開放してもらい、男性二人は外で待機になった。佳織が十分に体温が戻ったことを確認して、バスタオルと毛布で体を包んで菜都実が運んで寝かせた。
あとは茜音が目を覚ますまで健が一人で付き添うことになったという。
「心配かけちゃった……。ごめんなさい……」
菜都実が持ってきてくれたものをきちんと平らげた。健がお膳を返してくると、茜音は再び布団に横になっていた。
「大丈夫?」
「うん、疲れたよ……。やっぱ足が動かなくなっちゃうほどのことはあったねぇ」
健は浴衣のすそを少し捲り上げ、痛みが激しかった茜音の両足のふくらはぎから揉み解していく。
「川から持ち上げたときに、石みたいに固かったんだ。だからこれで落ちちゃったんだなって分かったんだよ。他の人じゃ分からないかもしれないけど」
「そうかもしれないねぇ」
不思議なことに、あれだけ固かった両足から一気に痛みが抜けていく。そうやって両手両足と痛むところを揉み解してもらうと、ようやく茜音は自分で座れるようになった。
「本当にありがとぉ」
「うん、今日はもう遅いから寝ようか。みんな呼んでくるね」
「ううん。いいの。今日はずっとこっちにいて……」
「でも……」
念のため隣の部屋に行き扉をノックしてみたが、中からはなんの返事も無く寝てしまっているようだった。
仕方なく、茜音の隣になるように自分も布団を敷く。
「一緒の布団でいいのにぃ」
「昔とは違うんだから。二人とも大きくてはみ出しちゃうよ」
「そっかぁ」
少し残念そうな茜音は、せめてもと言って手をつないだ。
「あのね……、もうダメって思ったとき、不思議に怖くは無かったよ」
「そうなんだ」
常夜灯だけに暗くした室内で、茜音は話し始めた。
「いろいろやったなぁって思って。死んでもママやパパのところに逝くんだってずっと小さいときから分かってたから。でもね、最後に会いたかったよ。振られてもいいから……」
「茜音ちゃん……」
「健ちゃん……」
「なに?」
「わたしってやっぱり頼りないのかな……。健ちゃんには邪魔な子なのかな……」
最後のほうは、声が詰まっていた。つないでいる手がかすかに震えている。
「茜音ちゃん……」
答えなど決まっているのに、どう表現していいのかしばらく考えてしまう。言葉の代わりに握っている手に力を入れる。
10年の間に茜音に何があったのか。
今の言葉だけでも想像を絶する苦労してきたことは間違いない。それをねぎらえる適切な言葉がすぐに見つからない。
「茜音ちゃん、これからは一緒に頑張ろうよ」
茜音の返事は無かった。
横を向くと、すでに茜音は再び寝息に変わっていた。ただし、さっきとは違い安心しきった寝顔だ。
「仕方ないなぁ」
つないでいた手を茜音の布団の中に戻してやり、健も目を閉じた。
「今日は気をつけなさいよ」
「うん。大丈夫だよぉ」
「あんたの大丈夫はあてにならんからなぁ」
翌朝、すっかり体調を取り戻した茜音は、朝食に付くことができた。その席で彼女は居合わせた全員に頭を下げた。
朝食後のスケジュールは、佳織たち三人で奥只見の方へ観光に行ってくるとのことで、茜音と健の二人は再び昨日の場所に行くことを決めていた。
帰りの時間はあの駅に集合ということになっている。
三人を乗せた車を見送り、茜音は健の運転する車の助手席に乗った。
「免許取ったんだ」
「うん。仕事で必要だからね。この車はレンタカーだけど」
「お仕事ってなにやってるの?」
「今、世話になっている施設の雑用とかかな。結構男手が必要なんだ。だから昼間はそこで働いて、夜に学校に行かせてもらってるよ」
「ほえぇ、偉いねぇ」
ほどなくあの場所へたどり着く。昨日は痛む足を引きずりながら2時間以上かかったのに、車では20分ほどの距離だ。
「昔は線路側の斜面を下りたんだよね」
健が先に立って茜音の手を引く。昨日一人でこの崖を下りたときは足がすくむ思いだった。全く同じ経路なのに今日は違う。こんなにも足取りは変わるものかと茜音は愉快に思えた。
すぐに河原へ降りた。10年ぶりにこうやって二人であの時と同じ河原を歩けた。
「ここを探すの大変だったぁ」
「そうみたいだね。みんな言ってた。先月だったって?」
「うん。でも、健ちゃんが教えてくれたんだよぉ」
茜音はトートバッグの中からあの手紙を出して見せた。
「まさかとは思ったけど、よく茜音ちゃんの手に渡ったなぁ」
それを見ている間に、茜音は例の岩の上に腰掛ける。
「本当に昔の茜音ちゃんに戻ったみたいだね」
「頑張ったもん……」
昨日、ずぶ濡れになった服や靴は、佳織と菜都実の手によって一晩で洗濯と乾燥が施され、再びこの衣装での登場がかなった。
「ひとつだけ変わっちゃったかな。今はわたし片岡茜音って言うんだ。あの後少しして引き取られたんだよ」
「そうだったんだ。よかったね……」
彼の顔が少し曇った。一般の家庭に入って環境が変わった茜音に、自分が付き合いをしていけるか分からなかったし、今の家族の生活もあるだろう。
しかし、茜音は首を振った。
「でも、わたしは佐々木茜音のほうが好き。ううん。もうどっちでもいいんだぁ」
茜音はそこで一息置いた。
「健ちゃん、こっち来てくれないかな?」
「え? うん」
二人で並んだ岩の上、茜音は自分の体重を彼に預けた。
「健ちゃん……、10年前のこと、健ちゃんがここで言ったこと覚えてる?」
「もちろん。茜音ちゃんが好きだって叫んだかな」
もちろんだ。それがあったからこそ、この場所に再び立っている。
「うん、あのね……、その言葉ってまだ有効期限切れてない?」
昨日の話の続きだ。
茜音を一時さえ忘れたこともなかったのは自分も変わらない。だからこそ、昨夜から考えていた言葉を彼女には伝えたい。
「まだ僕は答えをもらってないけどね。そうでなくても、今でも僕は茜音ちゃんが一番だと思ってる。茜音ちゃんが嫌でなければ、そばに居て欲しいんだ」
彼女の顔から緊張が抜けた。
「あのね……、わたし、ここに来る前からずっと……。ううん、本当はあのときに答えは出ていたの……」
「そうなの?」
「うん。ちょっと目を閉じていてくれる?」
少し顔を赤らめた茜音の頼みなので、言われたとおりに目を閉じる。
その唇にしっとりとやわらかい感触が触れた。暖かい温度が伝わってくる。
「茜音……ちゃん……」
「これが答えだよ……。10年待たせてごめんなさい。もう、健ちゃんなしじゃ、わたし、生きていけないから……。あの日は勇気が出なくて、心配させてごめんなさい……」
言い切った茜音の大きなダークブラウンの目から涙が零れ落ちた。
「もう……、泣いても……いいよね?」
「まさか、あんなのまだ守ってたのか?」
そうだ、茜音は二人で決めた日を除いて泣かないと約束してくれたことを思い出す。
「うん……。ずっとね……。年に1日だけ、今年は昨日だけだったけど。それ以外は……、どんなに辛くても……、悲しくても……、寂しくても……。茜音、泣かなかったんだよぉ!」
嗚咽を抑えきれなくなった茜音を健はそっと抱きしめる。泣き虫だと揶揄されていた幼いあの頃のように、茜音は声を上げて泣きじゃくった。