ETERNAL PROMISE  【The Origin】




 前年、新人の教員としてこの長野県の学校に派遣された祐司は、夏に開かれる地元のサマースクールの担当として派遣されていた。

 小学生から高校生くらいまでが、全国から親元を離れ地元の施設に泊まり、公民館や廃校となった学校の校舎を利用して様々な経験を体験できるような試みで、校舎を使う範囲の監督員として、祐司が選ばれていた。

「せんせー、やっぱり王子は凄いですよ」

 日程もほぼ終了し、翌日の解散式を迎えるだけとなったその日は、子どもたちのアイディアで学校のグラウンドでの飯ごう炊さんの夕食となっていた。もちろん、子供たちが自分たちで準備から自主的に用意をし、祐司の役目は食品の管理や火の管理がメインだった。

 校庭の真ん中で焚かれているキャンプファイヤーを囲んで食事をしているときに、子供の一人が言った。

「おぉ、そうか?」

 1週間の日程ともなると、自然とそれぞれにあだ名が付いてくる。王子と付けられているのも参加者の一人で、高校2年生だった。あまり背の高い方ではなく、髪型をスポーツ刈りから元に戻していると自己紹介で言っていたので覚えている。仕事ぶりを見ていると、力も強く器用だったので周囲からも頼りにされていた。

「王子凄いねぇ。もう9年も一人の女の子追いかけてるんだって」

「ほぉ。でも幼なじみだったら、そのくらいおかしくないだろ?」

「そうなんだけど、つき合ってる訳じゃないし、今どこにいるか分からないんだって」

「なるほどなぁ。それは結構凄いかもしれん」

 その場は本人もいなかったので、その程度で話は収まった。しかし、そのあとの片付けをしているうちに年少組の就寝時間となり、祐司が再び片付けの続きをするため外に出てくると、彼がまだ一人作業を続けていた。

「ご苦労さん、ここまでやればもう明日でいいだろう」

「明日は雨になりますから、今日中にやっておかないと油ものの処理は面倒ですよ。もうそんなに残ってないですから」

 彼は手を休めずに答えた。祐司も手伝い、思ったよりも早く片付けは終わってしまう。

「お疲れさん。余り物だけど飲むか?」

 アイスボックスの中に残っていた缶ジュースを渡してやる。

「すんません。ありがとうございます」

 さすがに午後からずっと力仕事では疲れているようだ。それでも最後まで任された仕事を全うするという姿勢には好感が持てた。

「さすがに、山の中は星がきれいですね」

「周りに明かりがないからな」

「こんな星空を見るのも随分と久しぶりです」

 残り火を見ながら彼の顔を見る。最初に出会ったときから感じていたのだが、彼の場合は確かに同い年の少年たちとは少し違う気がした。

「なぁ、こんなこと聞いたら怒られるんだが、女性関係にはずいぶん苦労しているみたいだな?」

「あぁ、それですか。なぜかそんな話で盛り上がっちゃいましたからね。叶うかも分からない約束の話ですよ」

 彼は苦笑して答えた。




 年頃の少年に女性の話題を聞いてもはぐらかされてしまうことも多いのに、彼は懐かしそうに笑いながら話題に乗ってくれた。

「別に悪いことなんかじゃないですよ。僕の初恋の話ですからね」

「そうか。今はその子の所在は分からないのか?」

「そうですね。今はどこにいるか分かりません。最後に会ったのは9年も前の話です。ただ、その当時にした約束があるんですよ」

「ほぉ」

「10年したら、もう一度会おうって。僕たちは施設で育ちましたから、この先どうなるかなんて分かりませんでした。だから、大人になって認められるようになるまでは別々の場所で頑張っていこうと話していたんですよ」

「そうだったのか。君たちは福祉施設で育ったのか」

 彼は頷いた。

「別々の施設に移されることが決まって、それが嫌で僕たちは二人で夜に施設を抜け出しました。回送の列車に忍び込んで山の中の河原まで行ったんですが、子供ですからそれ以上は無理で、結局は連れ戻されました。そのときに10年後の再会を約束したんです」

 祐司は驚いた。それを実行したのは小学2年生だという。大人であれば駆け落ちと言われてもおかしくない行動だ。

「そんなことがあったのか。今はその子の行き先は分からないのか?」

「ええ、僕もそのあとに何度か移りましたし、彼女も施設を移ったか、里子か養子で家庭に入ったかは分かりません。普通には再会できないでしょう。だから、再会できるとしたら来年、昔に約束した場所に行って、彼女がそれを覚えていれば会えると信じてます」

 祐司はうなった。彼の話自体は物語などでは語られてもおかしくない。しかし、実際にそれを実践しているのはなかなかいるものではない。

「なるほどな。それまではその子一筋ってことか」

「そうですね。僕にとっては人生を変えてくれた恩人ですから」

「そうか……」

 しばらく考え込んでいる祐司を彼は不思議そうに見ている。

「探してみるか……」

「えっ、探せるんですか?」

「申し訳ないが約束はできない。こんな仕事をやってるくらいだから、児童福祉施設の関係者とも知り合いなんだ。君のいるところも含めて、主な市町村にある施設なら登録されているから、入所者は名前で探し出せるかもしれない」

 実際にできるかどうかは分からないが、彼がそれだけ一生懸命に行動しているのを聞けば、祐司の性格として放っておけなくもなっていた。力になれるかは分からない。それでも何かの協力はしたいと考えていた。





 翌日、予報通り天気は雨となり、各地からそれぞれの親が迎えに来るのを祐司と彼は見送っていた。

「そうか、君はお迎えがないんだっけな」

「仕方ないですよ。大丈夫です。駅まで歩けばいいだけですから」

「この雨だ。全員送り出したら駅まで乗せていくから待ってなさい」

 しばらくして、担当した生徒たちが全員いなくなると、祐司は車を持ってきた。

「乗ってくれ。駅まで送ろう」

 車は会場だった校舎を出発した。

「昨日の話だけど、うまくいくといいな」

「はい。僕はあの場所をもう一度訪ねたことがあるので知っていますが、彼女は覚えているかどうか……」

「とにかく、昨日言ったとおり、調べられるだけ調べてみる。彼女の名前とか教えてくれるか?」

 そう言っている間に、車は小さな無人駅に到着した。


「もし彼女に連絡が付くか、会うことができたら、これを渡してもらえませんか。この日付が過ぎたら処分して構いません」

 彼はそこで1つの封書を祐司に渡した。そこには一人の女の子の名前と来年の日付が書かれている。

「佐々木茜音さんと言うのがその子の名前か?」

「そうです。歳は同い年です。僕は詳しいことは分かりませんが、元々はしっかりした家のお嬢さんだったはずなので、今でもそれなりの品格はあると思います」

「それは君の希望的観測も入ってるだろ?」

「もちろんですよ」

 二人は笑うと、彼は何度も礼を言って車を降りていった。




「そうだったんですね。健ちゃん……」

 祐司の話を聞いていた茜音は、渡された封筒をもう一度見つめた。

「その時に預かったのがその封筒で、その中の話はなにも知らない他人がその場所に行っても分からないと言っていた。茜音ちゃんにしか分からないと。だから開けずに持っていたんだが、ひょんなことから、その条件にぴったりの子の話を持ちかけられて、是非渡さなければならないと思ってね」

「ありがとうございます。でも、健ちゃんは本当に私のことを探せていないみたいでしたか?」

 紛れもなく本人と会話を交わした人物である。せっかくなので、いつも不思議に思っていたことを聞いてみた。

「どうも、それはなかったみたいだね。ネットの環境も施設では自分専用には持てないと言っていたし、夜学に行っているみたいだったからね」

「そうなんですか……」

 恐らく、昼間は働いたあとに定時制の学校に通っているということだろう。それでは自分たちのように夜にネットで長時間検索というものはできなかったに違いない。

「でもな茜音ちゃん、彼は茜音ちゃんと再会することを本当に楽しみにしている。その手紙の中身を見て、彼に会いに行って欲しい」

「はい。もちろん行くつもりです」

 座卓に置かれていたはさみを取り、封筒を明かりにかざす。中の便せんが切れないことを確認して封を切った。

「うん……、そうだよ。ここだよ……」

 中の写真に思わず涙が頬を流れ落ちる。

「間違いないんだね?」

「はい……。ここを探していました……」

 茜音の反応を見た二人は、安心したようにその場を外してくれた。

 そのとき、それまで沈黙していた茜音のスマートフォンにメールの着信があった。

「誰だろ……。真弥ちゃん?」

 受信メールを開くと、同じ日に旅行に出ていた葉月真弥からのメールであり、添付で写真ファイルが付いていた。

 『大変です茜音さん』と本文には書かれている。あとはファイルを開けと言うことなのだろう。

 2つ添付されている写真の1つ目を見た瞬間、茜音は凍り付いた。

「はうぅ」

 茜音は気が遠くなって、その場に崩れ落ちた。

「大丈夫?」

「はいぃ。すみません。もう大丈夫ですぅ」

 異変に気づいた早月に手際よく介抱してもらったおかげで、茜音はすぐに気を取り戻した。

 お風呂をいただいたあと、パジャマ姿で縁側に腰掛けて外を見ている。

「疲れて、気が張っていたのよね。恥ずかしがることじゃないわよ」

「同じ日に同じ情報が入るとは思わなかったですよぉ」

 真弥が携帯に送ってきたのは、まさに茜音が訪ねなければならない目的地だった。1つ目は健からの手紙に書いてあった場所の写真。

 もう1つは記憶の底に沈んでいた、あの日の二人を保護してくれた駅の写真だった。

 健からの手紙の中には、約束の日に当たる今年の日付が書いてあった。

 幸いなことに、それは茜音が予定していた日と同じで、これだけの情報がこのタイミングで集まったのは運命かもしれないと思った。

 あとはこの情報を元に当日出発すればいい。

 祐司から、健の連絡先のことを聞かれたときに、彼女はこう答えた。

「健ちゃんの気持ちは十分伝わりました。いまここで連絡先を聞いてしまうと、この約束の日の意味が薄くなってしまいます。この日にこの場所で会えるかどうか。それが答えだと思っていますから……」

 そんな茜音に、大宮夫妻は何かを感じ取った様子だった。




「茜音ちゃんって、本当に最近では珍しい子ね」

「そうですか?」

 早月は隣に座る茜音の髪をなでた。湯上がりでまだ髪がほのかに湿っている。黒い髪に月明かりがかすかに反射して光っていた。

「本当にそう思うわ。茜音ちゃんは普通の人ができないようなことをたくさん経験している。辛いこともたくさんあったのに、それを素直に受け止めて頑張れる茜音ちゃん。本当に素敵だと思う」

「そんなに凄いことなんかしてないですよ。ただ、わたしには他の選択肢がなかったんです。わたしのことを本当の意味で知ってくれているのは、健ちゃんしかいません。健ちゃんに会えなかったら、あの約束をしなかったら、今頃ここにはいなかったかもしれません。本当に真っ暗で、何も聞こえなかった……。そんなわたしのことを一人だけ見捨てないでいつも一緒にいてくれたから」

「そうか、凄いわね。私たちなんて18の時に何やってたかしら。茜音ちゃんに先生になってもらわなくちゃね。『あかね』かぁ……」

「は、はい?」

 いきなり呼び捨てにされたようで、茜音は拍子抜けた声を出してしまう。

「あぁ、ごめんごめん。今日遅れたのはね、病院に行っていたからなの。3ヶ月ですって」

「わぁ。おめでとうございます。あ、でも、そんな大事な日に押しかけちゃって、それに荷物も持ってもらったり……」

 おなかを撫でながら早月は微笑んだ。

「いいの。来るって分かったから明日朝の予定を今日にしたのよ。茜音ちゃんが運んできてくれたニュースだと思う。だからね、あかねって名前、女の子だったらいいかもなぁって思ってね」

「わたしと同じだと苦労するかもしれませんよ?」

「そうかもしれないわねぇ。でも、茜音ちゃんはそれ以上にいいものをたくさん私たちに教えてくれたわ。今でもこんな純粋な子がいるんだって。理香が言ってたのよ。見た目は少し幼く見えるかもしれないけど、最近まれに見るいい子だってね。だから、理香も本当に間違いないか必死だったわ」

 茜音が休んでいる間に、理香からの連絡が入ったそうで、早月は茜音の目的地探しの旅が終わったことを伝えていた。

「今夜はゆっくり休んで。明日帰るの?」

「そうですねぇ。もう、帰る分しかお金残ってませんし」

 茜音がここへ来る際に迷ったのは、時間の関係と、彼女の資金が底をつきかけていた事情もあった。

 学校に差し障りない限りウィンディでの仕事を手伝い、貯金を積み上げてきたが、今年の春以降は最後の追い込みで出費がかなりかさんでいた。

 今回の計画も最初の飛行機、その後の鉄道での移動、宿泊費と日程は短いながらも、貯金をギリギリまで使い込む予定になっていた。

 だから、この大宮夫妻のところで失敗した際に、再び北に向かうことができなかった。茜音の予算としてはもはや今回の帰路の分と、本番の旅費分しか残っていない。それも、このあと数日間バイト漬けになるという前提付きだ。

「よく頑張ったのねぇ。今日からぐっすり眠れるわね」

「はいぃ」

 その晩は客間に布団を敷いてもらい、茜音もこれまでの疲れと、張っていた緊張もなくなったためか、床に入ったとたんに朝までぐっすり眠ってしまった。




 翌朝、目を覚ましたときには日もすっかり上がり、祐司はすでに出勤したあとだった。

「ご、ごめんなさいぃ……」

「いいのよ。祐司さんは朝早いから。緊張から解放されたのだから、ゆっくり寝かせてあげてってね」

 シンプルながらも和食の朝ご飯を用意してくれていた早月。ありがたくいただき、泊めてもらったお礼にと後片付けや家の掃除を手伝うと、そろそろ帰る時間となった。

「あとは来月の本番ね。頑張ってね」

「はい。応援してくれた人がたくさんいますから」

「でも、絶対に思い詰めないようにね」

「わかりました……」

 身支度をしていると、早月がやってきて、是非茜音の三つ編みを結わせて欲しいと言い出した。

「これでも、私も高校までは同じような髪型していたから得意なもんよ」

「そうなんですかぁ?」

 今はショートカットの早月。想像してみると、確かに自分と同じ髪型でもそれほど違和感はない。

「きれいで柔らかい髪ねぇ。私のは堅くてダメになっちゃって、大学に入るときに切ったのよ。でも結ってなくても、茜音ちゃんは十分美人よ?」

「これは、会うまではやめられないんですよ。昔からずっとこれだったから。変えるかは今度会ったあとに決めます」

「なるほど、茜音ちゃんの目印なのね。……よしできた」

 手早く両方の髪を結い終えた早月は、愛おしそうに茜音を見ていた。

「本当にありがとうございました」

「掃除まで手伝ってもらっちゃってありがとう。是非また来てね。今度は彼氏君付きかな?」

「はい、そうなるかもしれませんねぇ。早月さんも頑張ってください」

「ええ、次の時は三人家族でお迎えするわ」

 駅まで送ってくれるという早月だったが、まだ午前中だったので、この場所を歩いてみたかった。早月は簡単な地図を書いてくれ、庭先で姿が見えなくなるまで見送ってくれた。

 鳥の声が聞こえる静かな山道を下っていく。車で上ってきたときにもそれなりに時間がかかったように感じた。下りでも徒歩ではなるほど時間もかかる。

 坂を下りきって、大きな橋を渡る。幅30メートルほどの川は千曲川の上流で、河原の看板を読んでみると、鱒や鮎の他、山女魚や岩魚も釣れるようだ。

 駅が見える場所まで来て時計と早月が書いてくれたメモにある時刻表を確認する。ついさっき行ってしまったようで、次まではまだ1時間近くあった。

 茜音は荷物を待合室に置くと、身軽になって川に戻った。

 河原の石に腰掛け、あらためて昨日渡された手紙を取り出した。

「あそこなんだぁ……」

 それと昨夜送られてきたメールの場所はちゃんと一致している。真弥たち葉月姉妹は実際にその場を見つけてきたわけだ。

 もちろん、彼女たちはそれが答えの場所だとは知らなかったはずで、茜音の話でイメージした場所とのあまりの一致に慌ててメールをしてきたようだ。

 そんな彼女には、昨夜のうちに見事な正解を見つけてくれたことを感謝する返事を送信してあった。

 当初では2日後にその場所を通過する予定ではあった。ただし時間も夕方だったし、その頃には疲れもたまっていただろう。果たして見つけられたかどうかの自信はない。

 そう考えれば他力本願ではあったけれども、今回2つの情報には素直に感謝していた。




「茜音ちゃん」

 急に後ろから声をかけられて振り向く。

「あれぇ、理香さんですかぁ?」

 そこに立っていたのは、他ならぬここへの情報をくれた平川理香である。

「早月に話を聞いて急いで飛んできたの。よかったねぇ」

「はいぃ。本当にありがとうございました」

 理香は何度も頷くと続ける。

「これから清ちゃんとこに行くんだけど、乗っていく?」

「いいんですか?」

 清人のところに行くならば、確実に地元までの道。せっかくの誘いなので素直にそれに甘えることにした。

 昨日の昼に連絡をもらったときに、理香と清人は一緒にいたはずだ。茜音の結果が出たことで迎えに来てくれたのだろう。

 駅まで戻り、置いてあった荷物を車に積み込む。

「ずいぶん不用心ねぇ。いくら田舎でも……」

「大丈夫なんですよぉ。駅の椅子にワイヤーロック巻いてあるし、ファスナーのところには鍵かけてありますから。それに、こっちには盗まれても大した物入ってないですし」

 車は峠を登っていき、清里を通過する。もう急ぐ旅ではなくなったので休憩でソフトクリームを食べたりしながらの行程となった。

 途中で連絡を絶っていた佳織へのメールを再び送信した。長い話はあとで話すとして、とにかく茜音が帰っていることと、もう待たなくていいことを伝えておく必要があった。

「とにかく、本当に良かったわ。これで茜音ちゃんの旅も終わったわけで」

「正確に言うなら、最後の旅が残っていますけどね」

「そうか。でも大丈夫でしょ」

「だといいんですけどねぇ」

「こらこら」

 いつの間にか、茜音は助手席で静かな寝息を立ててしまっていた。




「理香さん、茜音は?」

 茜音がまだ助手席で寝ているのを確認し、理香はウィンディの前に車を停めて一人中に入っていった。

 佳織がすぐに奥から飛び出してくる。茜音が連絡を絶ってから気が気ではなかった彼女は、茜音からの帰路途中の連絡に驚いて、帰ってくるのを今か今かと待ちかまえていたのだ。

「疲れたみたいでぐっすりよ。とにかく、詳しい話は本人から聞くといいわ。とにかく無事に帰ってきたことだけは知らせておかないとと思ってね」

「分かりました。本当にご迷惑かけます」

 理香の車が行ったあと、佳織はがっくりと椅子に座り込んだ。

「疲れたぁ。でも、本当に無事でよかった……」

 彼女の目からは涙も流れている。昨日もほとんど眠れなかったと話していた。

「まぁ、怪我もなく帰ってきたんだからいいじゃん。ね、無事だって言ったでしょ」

 菜都実は言って、佳織に水を差し出す。こう言いつつも、菜都実も茜音の動向は心配で仕方なかったはず。ほっとした顔が無言でそれを表していた。

「とりあえずさ、帰ってきたってことは、なんか答えが出たってことでしょ。うちらも今夜はゆっくり寝られるわな」

「そうねぇ。今日は家に帰るわ」

 佳織も作戦室からタブレットを片付け、その日は閉店後の片付けもそこそこに、二人とも仕事を引き上げる。

 茜音の旅とともに、二人のサポートの役目もこの日をもって終わりを迎えたのだった。

【茜音・高3・あの夏から10年】



「茜音、入るよ…?」

 菜都実は茜音の部屋のドアをノックした。

「うん……」

 小さな返事が聞こえる。ノブを回して扉を開けると、部屋の奥にある窓から外を眺めている茜音の姿があった。

「戻ってきたんだって?」

「うん……」

 茜音は昨日、予定より早く東北と信州からの旅を切り上げてきた。

 いつも目いっぱいのスケジュールを組んで飛び回っていた彼女が、突然何も言わずに切り上げてくるなど、これまでのことを考えれば、菜都実と佳織には信じがたいことだったけれど、落ち着いて考えると、それ以上探し回る必要がなくなったから以外に理由は見当たらない。

 ところが、今日になっても何も知らせてこない茜音に、二人には不安が走った。

 そっとしておいたほうがいいということは分かっている。しかしそこはもう1年も一緒になって、その場所を探してきただけに、そのまま放って置くことも出来なかった。

 家で用事を済ませてからバイトに行くという佳織の代わりに、菜都実が一人で茜音の家を訪ねることになった。

「そっか……。やっぱね……」

「うん……。びっくりさせてごめん…」

 そこで初めて、茜音は菜都実の方に振り向いた。

「どうした? ずいぶんやつれてんじゃない……?」

 長い間ずっと捜し求めていた情報を手にしたのだから、満面の笑みであってもおかしくはなかった。

 しかし今の茜音はそんな様子も無く、疲れきっているように見える。それだけならまだいい。これまでの茜音らしい無邪気とも言える元気のかけらさえ見当たらない。

「ねぇ、茜音、ひとつだけ教えて。場所は分かったの?」

 菜都実はこれまで自分が考えていた最悪のシナリオでないことをどうしても聞いておきたかった。

「うん……。分かったよ。ちゃんと約束の日がいつだってことも……」

「そっか……。彼の消息も分かったの?」

「ううん。そこまでは逆に聞かなかった。でも、きっと……、その日にそこに行けば会えるんだと思う……」

 それでも浮かない顔をしている茜音。

「それなら、茜音のこれまでの苦労はちゃんと報われるんだよね?」

「たぶん……」

 何が原因でふさぎ込んでしまっているかは分からないが、この場ではそれ以上聞き出すことは無理だと思った菜都実。

「分かった。じゃ、落ち着いたら学校にはちゃんと来るんだぞ?」

 微かにうなずいた茜音を残し、自宅でもあるウィンディへ帰る。

「どうだった?」

 ランチタイムからの切り替えの手伝いも一段落して、隅っこの席で休んでいた佳織が聞いた。

「うーん、よく分からないんだわ。場所も日付も分かったらしいんだけど、なんかそれにしちゃ全然元気ないんだよね。なんか心ここにあらずって感じで……」

「なるほどぉ……」

 佳織はすでにその原因に心当たりがあるようだ。

「なんなんよ? 佳織には分かるっていうんかい?」

「そんなの単純じゃん……」

「はぁ?」

 あっさりと答える佳織をますます分からないという顔をした菜都実。

「茜音さ……、不安なんだよあの子……」

「不安?」

「そう。これまでは思い出の場所を見付けなきゃならないっていう使命感に燃えてたじゃん? でも、よく思い出して? 茜音の目的ってそれだけじゃないでしょ?」

「そっかぁ……。告らなきゃならないもんなぁ……」

「そゆこと。茜音にとっては初恋なわけでしょ? それなのに相手とは10年間も会っていないし、OKしてもらえる確約もないわけ……」

「それに、場所が分かったところで、本当に来てくれるかどうかも分からないと……」

 ようやく茜音の様子に納得がいったという感じの菜都実。

「んでもさぁ……、それは茜音が心配症なんじゃないの?」

「それならいいんだけどねぇ……」

 その晩、二人の携帯に茜音からメールが入った。 その短い内容には、沈黙をしてしまった事への詫びとともに、昼間二人が話していた心配事がにじみ出るような書き方だった。

「やっぱ茜音も普通の女の子だったね……」

 あまりに予想通りの反応に、佳織は苦笑した。そして、この後どうしたものかと考え込むことになってしまった。




「なるほど……。それは良かったんだか、突然すぎたんだか……」

 数日後、ようやく学校に出てきた茜音は、今回の旅行中の出来事を話した。

「あまりにも唐突だぁなぁ……。でも、なんか情報はもらえると思ってたんだろ?」

「ううん。全然。本当に、もしダメだったらそのあとどうしようって、そればっか考えてた……」

 確かに、今回の旅行は期限直前ということもあり、テスト休みと学校を無理に休んで信州・東北のこれまで回っていないところを駆け抜けるという超強行軍になるはずで、だからこそ茜音が一人で出発した。

 いわば彼女にとっても背水の陣だった。

 残る二人もネットでの情報を逐次旅先の茜音に送り続ける役目もしていたのに、突然連絡が途絶え、動きが分からなくなったと思ったら、次には日程をすべて切り上げ、帰路についたという。

 最後の探索の旅が無駄でなかったことがようやく分かったのだが、二人が思っていたとおり、茜音の不安はその次に向けられていた。

「そんでもさぁ、来週末でしょ? もう悩んでいる時間もないような気もするんだけど?」

 菜都実が言うように、その日はもう次の週末に迫っている。これまでの流れで行けば、当日その場所に行くだけで目標達成だ。しかしなかなか単純にものごとは進まない。

「そうなんだけどね……」

「まぁ茜音の場合、別格だよ。思い入れの深さが違いすぎるし……。でも茜音、これで何もしなかったら、それこそこれまでの時間何やってたのって事になっちゃわないかな」

「そうだよねぇ……」

 もちろん、茜音もそれは十分に承知している。

 昨年までの9年間は思い出を引きずりながらも、どうしたらいいかを考える日々だった。その場所を探しに行くにしても、自分の知識と経験だけでは広範囲に出かけることは出来なかったし、自分一人で全国を渡り歩くということも、さすがの茜音の両親と言えども許してもらえることではなかった。

 最後の1年に突入し、菜都実や佳織を巻き込んでの日々。彼女たちの協力に応えるためにも自分は行かなければならないことも分かっている。

「茜音……」

 言葉を発しなくなった茜音に、佳織はやさしく声をかけた。

「茜音、もう今日はまっすぐ家に帰りな。そしてよく考えて。茜音が健君に会いに行こうと行かなくても私たちは気にしないから……」

「佳織……」

 一応シフトが入っていると渋る茜音を、二人は家まで送り届けることになった。

「ごめん……。情けないなぁ……。本当は胸躍らせていなきゃいけない時間なのにね……」


 そして、翌週に入ると、教室の中では妙な空気が流れ始めた。もちろん原因は一つしかない。

 昨年の秋以来、学校中で知らない者はいない物語の終結の日が目の前に迫っているというのに、肝心のヒロインであるはずの茜音の様子がどんどんおかしくなっていくのに、佳織と菜都実を除く周囲は戸惑いを隠せなかった。

 自分が原因で、悪いことだとは分かっていながらも、ついには周囲の目が気になって教室にいることができなくなり、保健室での自習に切り替えたほどだった。




 最初は仕事を休ませて考えるように勧めていた二人も、せめて仕事中は気を紛らわせることが出来るかもしれないという茜音の訴えで、ここ数日は時間が許す限り店の手伝いをしてもらっている。

 そして、残り2日となったとき、夕方のお店に一人のお客がやってきた。

 まだ夜のメニューに変えるための準備をしているところで、テーブルのセッティングを変える作業をしている後ろで、店の扉が開いた。

「いらっしゃいませぇ……。あれー、萌ちゃんだぁ」

「こんにちはぁ」

 入り口に立っていたのは、今ではすっかり茜音と仲が良くなった大竹萌だ。プライベートでも遊びに行く回数も増え、時々こうやって店にも双子の姉の美保と一緒に顔を出してくれる。しかし、今日は萌一人だけ、しかも大きめの袋を抱えている。

「こっちどうぞ。なんか大変そうだねぇ……」

 大事そうに抱えている袋はそれほど重くはないらしい。

 萌は店内に他の客が居ないことを確認すると、茜音を呼んだ。

「ほぃ? なに?」

「茜音さん、今週末でしたよね……?」

「う、うん……」

「話は佳織さんから聞いています。でも、今日は説得しに来たんじゃないです。ただ、渡したい物がようやくできあがったんで届けに来ただけです」

 きょとんとする茜音に萌は持ってきた紙袋を渡した。

「すみません。ラッピングもしていなくて……。でも間に合うかどうか分からなくて……。やっと今朝出来たんで、急いで持ってきました」

 茜音は手にした袋の中身をのぞき込むとはっとして顔を上げた。

「これは……」

 茜音はもう一度それを見ると、静かにそれを取り出した。

「服?」

 ただならぬ気配を感じた佳織と菜都実も二人の元にやってきて、袋から取り出された物を見る。

「もう着られないって思ってたのに……。自分じゃ作れないから……」

 その服を全員見たことはある。しかし、それは目の前にあるものとは比べ物にならないほど小さいもの。

 萌が持ってきたのは、それを今の茜音のサイズに起こしなおしたものだった。

 白いレースの付いたブラウスと、淡いブラウンの生地をベースにしたシンプルなジャンパースカート。

 ブラウスは既製品で済ませたのかと聞けば、いいものが見つからずオリジナルをコピーして起こし直したという。

 確かに萌が遊びに来たときに、熱心に見て携帯電話のカメラで写真も撮っていったのは覚えていて、当時は「参考です」というコメントを聞いていたけれど、それがこんな形になってくるとは思ってもみなかった。

「いろいろ思うことはあるかもしれませんけど、やっぱり当日は昔に戻って話したいんじゃないかって思って、思い出せる限り作ってみたんです」

「うわぁ……」

「すげぇなぁこれ」

 二人もその出来映えに驚いているが、一番驚いているのは当の茜音だった。

「これ……、本当に着ていいのかなぁ……?」

「もちろんですよ。たぶん大丈夫だと思いますけど、サイズとか見てもらえませんか?」

 萌に言われ、茜音は再び奥に戻っていった。


「しかし、当日の衣装としては最高の準備だなぁ」

「茜音さん、あの服が凄い気に入っているって言ってて、でも手に入らないから無理だって言ってたんです。本当は、もう1着頼まれていたんですけど、こっちを優先しちゃいました」

 どうやら、本来頼まれていたものの順番を繰り上げて、茜音にも内緒で作ってしまったようで、急ごしらえながらも、なんとか間に合ったという感じらしい。