通話先の声が一度静かになる。しかし、茜音にはどちらが話していようが関係なかった。問題はその中身だ。

 自分の生まれた時の名前を呼ばれた。これを理香に話したことはない。清人が伝えたとしても、それを茜音の心を開く鍵のように使えるのは理香が事実を確信しているからだ。

「あ、あの……、その人は今どこにいるんですか……?」

 体が震え、声がかすれる。

「JRの小海線って分かる?」

「はい。今回も最後の方に回る予定です」

「そう、そこの佐久海ノ口って言う小さな駅のそばなの。行けるかしら」

「あの……、もう一度質問してもいいですか……? 本当にその人は健ちゃんを知ってると思っていいんですよね……?」

 少しの間を空けたあと、理香の声がした。

「茜音ちゃん。本当に遅くなってごめんなさい。でも、情報を確実にしたかった。だから、私たちも彼のところに行って来たわ。そして茜音ちゃんのことを話してきた。そうしたら、間違いないってことになったの。でも、中身は分からなかったわ。内容はその人も分からないって言ってた。佐々木茜音ちゃんへの手紙になっているのよ」

「そうですか……。すぐにかけなおすので、ちょっと待ってもらえますか?」

 茜音はそう言って一度通話を切る。

 体の震えが止まらなかった。自分の名前まで一致している理香の話はほぼ間違いない。すぐにでも向かって確認したほうがいいことは分かっている。

 しかし、万が一でもそれが間違っていたとしたら、ただでさえ十分とはいえない時間において決定的なダメージを受けることになる。

 それでも彼女の中では決意が決まりつつあった。佳織が作ったスケジュールでは、この急な変更までは見込まれていない。

 スマートフォンを操作して、今からの経路検索を行う。そしてこの時間ならば、行き先を変更して今日中にたどり着くことが可能だと確認した。

「あの、理香さんですか? 茜音です」

 先ほどの電話番号にかけなおす。すぐに通話がつながった。

「茜音ちゃん、どうする?」

「あの、今日、これから向かいます。到着は夜になりますけど、構わないですか?」

「了解。私たちは行けないけど、すぐに連絡しておくわ。駅に迎えに来てもらうようにするから。あと、先方の連絡先をメールで入れておくわね」

 理香たちが同行できないという不安要素はある。でも、これまでもそんな事は何度もあった。仮に何かがおきたとしても、それを受け入れるだけの覚悟はずいぶん前からできている。

 もう一度荷物と時刻をチェックする。再び少し険しい顔つきになると大きな荷物を抱えて立ち上がり、駅の改札に向かった。

「ごめんね、佳織……」

 理香からの先方の連絡先が書かれたメールを受け取ると、そのあとは青森の空港に到着したときから電源を入れっぱなしにしてあったスマートフォンの電源を切った。これで二人からは自分の行動の把握はできなくなる。

 駅の窓口に行き、乗車券の行き先変更と新庄からの新幹線の特急券を買う。座席に座って、ようやく茜音は緊張していた体がほぐれていくのが分かった。

 列車が動き出すと、それまで張り詰めていたものが切れるように、いつの間にか眠りに落ちていた。




「おかしいんだぁ。お昼過ぎくらいから茜音と連絡が取れない」

「でも、今日のルートって山の中ばっかだったじゃん? 昨日だって何度か電波届かないところ走っているはずだし?」

 茜音が理香たちからの連絡を受けて数時間、ようやく佳織も様子が変だということに気がついた。それまで定期的に送られてきていた茜音からの途中駅の通過連絡がぱったり来なくなったから。

 あまりにも連絡が来ないので、電話での連絡を試みた佳織にしても、圏外のメッセージを繰り返すのみ。

 当然、茜音が自分から電源を切ってしまったことなど知らされていない二人には、ただ連絡が来ないという状況しか分からない。

「そう考えたんだけど、いくらなんでも間が開きすぎだと思うのよ」

「そんじゃ、昨日の夜に充電し忘れたか?」

「それだけならいいんだけどね……。あれで茜音結構かわいいからなぁ……」

 自分が把握できないことが起きると、最悪のケースを考えてしまうのは昔からの佳織の性格でもある。

「誘拐でもされたかもって? 大丈夫だって。きっと電池切れか寝てるんでしょ。あ、でも寝てたら探せないじゃん。ダメだなぁ」

「とりあえず、電池切れだと思って今夜か明日までは様子見るか。明日になってもなんの連絡も無かったら探しに行く準備だけはしておくわ」

「佳織も心配性なんだから……」

 菜都実は画面を覗き込むのをやめて仕事に戻った。

 しかし、茜音がこのときの二人の想像を超えた行動に出ていたのを知るのは、数日経ってからのことだった。