「今日は、泣き虫でもいいと思うよ。わたしもこうやってもらったからぁ……」
「なんかさぁ、むかぁし、母さんにやってもらったみたいだわぁ……」
「そう?」
「うちって、父さんが由香利が退院したときに、少しでも景色とかいい環境にってんで、あの場所に家を作って店を出したのよ。でも、由香利は病院を転々とする生活でね。母さんはいつも由香利に付きっ切りだったんだ。それは仕方ないってあたしも理解してた。それでもどうしたって我慢できなくなるときもあってさぁ。あたしたち姉妹は結局両親に最後まで迷惑ばっかりかけてんだなぁって思う。年が離れているならまだいいけど、双子だったからね。余計だわさ」
「そっか、ウィンディの場所はそう決まったんだね」
茜音はうなずいた。片手でショートカットの髪をなでながら、もう片手の人差し指で頬に残っていた涙の跡を拭う。
「菜都実もそうだよぉ。我慢する必要はないんだからねぇ」
「さんきゅ、茜音。もうしばらくこのままでいいかな?」
「うん、疲れたでしょぉ。ごめんね。一人にしちゃって……」
ところが、ふと思い出したように、菜都実が跳ね起きる。
「そうだ、こんなことしている場合じゃなかった。茜音に渡したいものがあったんだ」
「うん? なんかお願いしてた?」
菜都実がリュックの中から、コンビニの袋を取り出して渡してきたものを受け取って中身を取り出してみる。
「菜都実……、どうしてこれを……」
袋から出てきたのは、どこにでも売っている菓子パン。でも、茜音の顔はつい数分前と逆転している。
「昨日の夜中、茜音の寝言を初めて聞いてさ。『ママ、ホットケーキ作って』って。本当なら、美味しいお店も探せればよかったんだけど、時間なくて。そんなもんで許して」
「もお、それで探してくれたの?」
袋を開けて、メープルシロップとマーガリンが挟んであるパンケーキを手に取って、口に運ぶ。
「ありがとう……。あまぁい」
「茜音だって、作る気になれば楽勝でしょ?」
前からの料理の腕に加えて、自分の服まで作れるようになった茜音の家庭科の成績は説明するまでもない。
「それがねぇ……、なかなか難しいんだよ。今度お店で作ってみるから、食べて感想聞かせてくれる?」
「茜音の裏メニューに新しいのが加わりそうだわな」
二人ともすでに寝間着姿なので、菜都実に割り当てたベッドの上掛けをはずして菜都実を先に寝せると、茜音はその横に入り込んだ。
菜都実はごそごそとその茜音の胸元に顔をうずめる。
「ごめんねぇ、菜都実に比べたらぺたんこだから」
「確かに……」
「はうぅ……、やっぱりぃ」
「そんなんじゃなくってさ……、あったかい、茜音」
「ん? 冷たかったら大変だよ」
「違う違う。なんか、茜音といると安心すんの。きっとそこなんだろうなぁ。いいお母さんになれるよ、きっと」
「あはは。そうだといいなぁ。でもわたし、そんな夢を見ていいのかな……。もしかしたら、神様はずっと一人でいなさいって言っているような気もするんだぁ。それがわたしにはあっているのかもしれない……」
茜音はつぶやく。しかし、菜都実からの答えはなかった。
「疲れたんだねぇ……。明日は帰るだけだからいいかぁ」
抱きつかれている菜都実の腕をそっとはずし、上掛けをもう一度掛け直す。
「明日は寒そうだなぁ」
部屋の明かりをすべて消し、茜音も自分のベッドに潜り込んだ。
翌朝、奈良まで足を延ばすという葉月姉妹一行と朝食を一緒にとり、先に出発するのを見送ったあと、のんびりと京都駅まで歩く。
「昨日は先に寝ちゃった。でも、久々にぐっすり眠れた感じ」
「それはよかったぁ」
幸いにして昨夜降った雪はそれほど多くはなく、歩くのにも支障はなかった。建物の屋根などにはうっすらとまだ残っており、晴れた空に映える景色を作り出している。
「あ~あ。帰ったらテスト返却かぁ。追試だろうなぁ」
この旅の前には学年末の試験があったから、明日からは全教科の試験が返却される。
普段はあまり受験と騒ぐことのない茜音たちだけど、3学期は定期試験が1回だけとあり、受験を来年に控えた身としてはあまり軽視はできなかった。菜都実ともすればとても勉強に手を着けるどころの状態でなかったのは想像にたやすい。
やはり結果はあまりよくはなかったようで、最終日のあとに事情は考慮すると言われたと菜都実は笑っていた。
「でもぉ、菜都実はスポーツ系なのかなぁ? そうすると実技系だからあんまり他の成績は気にしなくても……」
中学時代は陸上で走っていたという菜都実は、高校進学の際もオファーの話はあったという。
しかしそれをすべて断り今の高校に進んでから、スポーツ好きは変わらなかったが特定の部活にも入らなかった。
「ちょっとね……。今は本当に平気なんだけど、体壊しかけてさ……。それ以来さ、無理できなくなっちゃって。医者からはもうどんなに飛ばしても平気って言われてるんだけど、怖くてねぇ。進学もまだ決めてないんだ。茜音はどうする?」
菜都実に言われ、茜音も少し考えている。
「私もまだ決めてないなぁ。そろそろ方向決めなきゃならないんだけどねぇ」
茜音もこの先どうしていくのか、今の目標は表向きの学校の進路とは直接は結びつかないかもしれない。しかしこの一大プロジェクトの結果は茜音の人生を大きく左右することは間違いない。必然的に、結果如何によっては進路すら変更される可能性はある。
「茜音も進路が決まるのは夏以降だなぁ」
「多分そう思うよぉ」
駅に到着し、帰りの切符を買う。時刻表を見上げる二人の肩をたたくものがあった。
「お疲れさん」
「あれっ、佳織……?」
二人とも目を丸くする。家族で出かけていたはずの佳織が、こんな場所にいること自体、予想もしていなかったことだ。
「帰りの新幹線途中下車して待ってたんだから。どうせ自由席でしょ?」
「うん」
久々にいつもの三人になって、ホームにあがる。
「どう、二人ともいい結果にはなったかな?」
この京都行きの話をしたときに、先にスケジュールを決められてしまっていた佳織は相当駄々をこねたらしい。
二人からもなかなか家族旅行はできないからと諭されたから、せめてもと途中下車をしたのだろう。
「うん、まぁね。佳織にも迷惑かけてすまんかったね。茜音は残念だったけど」
「そうだったの?」
「うん、ダメだった。でも、また新しいお友達できたし」
「そうかぁ。まだ半年あるから大丈夫でしょ。ずいぶん絞れてきたしねぇ」
茜音は残念な結果に終わったとしても、あまり顔には出さない。しかし、長年彼女を見ていると、その裏ではどれだけ落胆しているかと思うと、佳織は最近痛々しく思えるようにもなってきた。
しかし、それを口に出せるほどの強さは、まだ佳織にもない。
「さぁて、春休みはどこに行こうかなぁ」
そうつぶやきながら窓の外を眺めている茜音を、二人はそれぞれ違う表情で見つめていた。
「佳織、やっぱりうちのグループは三人だよ」
「え?」
唐突に出た菜都実の言葉に、佳織は声のした方を見る。
「茜音が一人で行くってのはあったけどさ、ツアコンが抜けちゃ話にならんわ。春休みはたっぷりやってもらうかんね」
それは、昨日のうちに茜音と菜都実の一致した意見だった。
「はいはい。わかりましたぁ。この分はちゃんとやらせていただきますって」
茜音の夏まであと半年弱。三人の旅はラストスパートに突入することになった。
【茜音&千夏・高2・2月】
「おはよぉす」
通学路の途中にあるT字路で乙輪香澄は彼女のことを待っていたと思われる二人に声を掛けた。
「おはよぉ~」
「また寝坊か?」
「最近寒いからねぇ、起きられないのも分かるよ」
自転車のハンドルから放した両手に息を吐き出して手をすりあわせる少女を香澄は軽く睨むと、
「失礼なやっちゃな。お邪魔虫は最後に登場してやろうという気遣いが分からないのか?」
香澄はそう言って河名千夏と西村和樹の二人の前に立った。
「だれもお邪魔虫だなんて思ってないじゃない」
「さぁどうだか……?」
「最近性格悪いぞ?」
「だって、和樹があたしの千夏を持って行っちゃうからでしょぉが」
和樹に向かって香澄は少しむくれたような声を出した。
「誰もまだ持っていってないだろうが?」
「あんたねぇ……」
「ねぇ……、そんなことやってると遅れるよ……?」
「千夏は黙ってなさい!」「おまえは黙ってろ!」
「うわぁ……」
二人に同時に言われ、思わずたじろぐ千夏。
仕方なく、言い合いをしている二人を後ろにして、千夏は学校への道を先に進み始めた。
こんな騒ぎは今日に始まったことではない。そもそも、千夏にもこの原因の一部が自分にあることも分かっているから、あまり大きな顔が出来ない。
夏休みのはじめ、和樹のプロポーズとそれに快諾した形で晴れて同級生カップルとなった和樹と千夏。
本校とは違って、もともと全校生徒が百人にも満たない分校ではそれ以前からも二人は付き合っているという噂が流れていたこともあって、周囲が特別驚くことはなかった。
それでも二人は交際をするにあたり決めていたことがある。
和樹が腕に故障を抱え、少年時代から続けていた野球の部活をやめるとき、一緒にマネージャーを辞めた千夏との間には一時悪い噂が広まった。
今度は二人が交際していることに対して、いつ言いがかりの対象になるか分からない。
二人が住んでいるこの山間の小さな町では、どんな噂も学校の中だけでは収まらなくなってしまう。
二人は相談した結果、次の定期テストでこれまで以上の結果を出すと言うことを誓い合って、夏休みだけでなく、平日も放課後は図書室、休日も時間を作っては二人で頑張っていた。
その結果、夏休み明け2学期の中間テストでは二人とも本校生徒を含めたランキングで学年上位に付けたため、少なくとも教師たちの間でも二人の交際はおおむね好意的に受け止められている。
それに、二人ともこの交際については非常にオープンだったから、それまで例の噂により千夏を避けていた人たちも見直して戻ってきた人もいて、一時期感じていた千夏への疎外感は薄れてきつつあった。
順調かと思えるような二人の交際だったけれど、その一方で、二人の間では解決できない千夏を悩ませることが出来てしまった。
千夏の一番の親友であり、理解者でもある香澄のことだ。
「うー、関係が複雑だもんなぁ」
まだ別の話題で言い合いをしている後ろをちらりと見やり、ため息をつく。
そもそも千夏と和樹の出会いは小学校の入学前までさかのぼるような古いもの。しかし学校に入ると和樹は千夏と距離を置くようになってしまい、しばしば千夏をからかうような場面さえあった。
全てがさらけ出された今となっては、和樹の照れ隠しだったことも分かって「あの頃の悩みは何だったの?」というものとして千夏の中では消化されている。
当時はそんなことを考えられる余裕も知識もなく、すっかり和樹に嫌われてしまったと落ち込んでいた千夏の前に転校してきたのが香澄である。
香澄は千夏から事情を聞くと和樹からの防波堤どころか反撃に乗りだし、結果的に千夏への風向きは穏やかになったのだけど、このときから千夏と和樹の幼なじみ・千夏と香澄の親友・香澄の和樹見張り役という3つの関係が成り立つようになり、当時は安定したバランスを保つために悪い事ではないと三人とも納得はしていた。
しかし時間が経ち、環境が変わってくると、そのままの関係性が保てるとも限らない。
『香澄って、まだ和樹のこと狙ってるのかなぁ……』
そんな思いが千夏の頭の中をよぎってしまう……。
「そんなこと無いよね……」
「なにが無いんだ?」
「うわぁ」
自転車置き場から教室へと向かう廊下。独り言で呟いたところに、いつの間にか横に来ていた和樹に声を掛けられる。
「なにびっくりしてるんだよ……」
「だってぇ、急に出てくるから……」
まさかそのまま話すわけにも行かず、とっさにごまかした。
「もう喧嘩は終わったわけ?」
「最初からしてないだろ?」
「うー。着いちゃった……」
教室に到着したのはホームルーム開始直前。遅刻にはならなかったのはよかったけれど、登校の時間に何も話せなかったことにちょっぴり不満も残る。
定期試験も近いので、授業時間はそれなりに集中しなければと理解していても、そんな気分にはなれずに1日が終わってしまう。
「困ったなぁ……」
和樹からの帰りが少し遅くなるとの連絡で、千夏はいつもの図書室ではなく、学校のそばの河原に座っていた。
彼女のお気に入りの場所であり、どちらかの帰りを待つときに一番よく使う場所。特に何かがある場所ではない。それでも待ち合わせはここと決まっている。
「千夏お待たせ」
「あ、おかえり」
「悪い。暗くなっちゃうな……」
自転車を立ててある土手の上の道に戻る。二人で暗くなってきた道を家の方にゆっくり進んだ。
「千夏、次のテスト大丈夫か?」
「なんで?」
「だって、今日だって元気なかったように見えるし。なんかあったのかなって思ってさ」
まさか読まれている? 一瞬ヒヤッとした千夏。
「なんでもない……。アレが来てるから気になってるわけで……」
「そうか。毎月大変だなぁ」
「うん、私結構重いから……」
彼は自転車の速度をさらに遅くしてくれる。
「今度の学年末さぁ、キープできそうか?」
「たぶん大丈夫だとは思うけど……」
付き合うようになってもうすぐ半年が経つ。その間にたくさんデートもしたし、その分二人で時間を作っては一緒に勉強もこなした。
誰も文句のつけようがない理由付きで一緒にいられるわけだから、二人とも勉強時間も一種のデート感覚ではあったのかもしれない。
「だったらいいけどさぁ……」
その原因の一部は和樹にあるんだよと言いたいところだが、本当にそうなのか確信が持てないために口に出すことはできない。
1月も終わりに近づき、冬至に比べれば日は長くなっているけれど、山間の日没は平地より早い。二人が走っているような道は車もほとんど来ない代わりに、街灯も少ないから、前に集中しなければならない。
「ねぇ和樹……」
「なに?」
少し遠慮がちに口を開いた。
「和樹は私のこと好き……だよねぇ……?」
「なに言ってんだよ。決まってんじゃないか」
突然の意外な質問に、彼の方が驚いた声を出した。
「そうだよねぇ……」
「どうした? 不満でもできたか?」
「ううん。そんなことは全然ない!」
「そんなことで悩んでるんだったら、心配無用だぞ?」
「そうだよね……」
「おい、どこまで行く?」
「へ? あー、着いちゃった……」
一緒に帰るときはいつも千夏の家まで送ってくれることになっている。前を見てはいたのに、どこまで進んでいたのか考えるのを置き去りにしていたらしい。
「そんじゃ、また明日な」
「うん、気を付けて帰ってね」
彼が見えなくなるまで見送るのは千夏が自分で決めたこと。その日も自転車のライトが見えなくなるまで庭先で見送っていた。
「……うん、ありがとぉ」
『千夏もせっかく頑張ったんだから、誰にも取られないようにね。まぁ、香澄はそこまで酷いことはしないと思うけど』
「うん。私もそう思うんだけどね……。美佳ちゃんの方が客観的に見えるかなぁって……」
家族も寝静まった深夜、千夏は同じクラスの美佳に携帯のメールを送った。彼女は千夏に悪評が立ったときも立場を変えずにいてくれたし、和樹との一件を知って最初に応援してくれたのも彼女だ。
美佳は今日の千夏の異変をちゃんと感じていたらしい。すぐに電話をかけてきてくれた。
『まぁ、千夏の心配し過ぎと思うけどさ。 半年も経ったから倦怠期にでも入ったのかな?』
「それならいいんだけど……」
『とにかくさ、和樹は今千夏の彼氏なんだから、自信もって?』
「うん。ありがと……」
『あたしらみんな千夏のことは応援してるんだから、頑張りなよ?』
「うん。おやすみ」
電話を切って再び参考書に目を落とした千夏。
「あ~あ……。こんなんじゃ勉強もはかどらないよぉ……」
いつの間にか時計は日を越えたことを示している。
「やばっ!」
慌てて今夜中に手を着けると計画していたところまでは進める。試験直前という時期ではないけれど、余裕がある内から始めないと後で懲りることは何度も経験済み。約束した成績を維持するために、千夏も睡眠時間を削っている。
「なんだかなぁ……」
眠気覚ましにコーヒーを入れようと1階のキッチンに下りていく。一人分のお湯を湧かすのも面倒だったから、ポットのお湯でインスタントコーヒーを作る。昼間であれば最低でもドリップなのだけど、こんな時間では仕方ない。
「うー、やっぱ保温のお湯じゃなぁ……」
熱いお湯ではなかったので、味が落ちるのは仕方ない。眠気覚ましには本当はブラックといきたかったけれど、あまりの味に冷蔵庫から牛乳を出して大きなマグカップに継ぎ足し、グラニュー糖のスティックを2本一気に入れてかき混ぜた。
「太るなぁ……」
味のごまかしと同時に、夜中に甘い物を摂るのは悪いと分かってはいても、今眠ってしまう訳にはいかない。
もっとも千夏は周囲の平均からも十分にアンダーサイズだ。和樹からも心配不要とは言われるものの、それは彼女も年頃だ。他人には分からない自分のリミットというものがある。
「よーし、今日は終わり」
一段落ついて時計を見ると、時間は既に冬場の日の出まで4時間を切っている。
「さぁ寝よ寝よ」
慌ててベッドに入るけれど、今度は先ほどの激甘コーヒーのおかげで目が冴えてしまっている。
「ダメだこりゃぁ……」
今さら再び机に向かい教科書を広げる気にはならない。
枕元の小さな明かりを付けて、机の上に飾ってある2連の写真たてを手元に引き寄せる。
「茜音ちゃん元気かなぁ……」
昨年の夏休み、千夏は遠く横須賀から来た片岡茜音という同い年の少女と出会った。兄から紹介されたその彼女は、それまで千夏がイメージしていた都会の高校生という苦手意識をあっさりと打ち砕いた。
幼くして事故で両親を亡くし、今は養父母に育てられるというという境遇におかれながら、まっすぐに前を向き、児童施設に入所していた頃に誓った再会の約束を10年近く経った今でも覚えている。
それだけでなく、その場所を探し出すべく、たった一人でこの四国の山奥までやってきたのだ。結局彼女の目標は達することは出来なかった。
しかし当時、千夏が和樹との関係に悩んでいることを知ると、すぐに周囲を動かして、二人が素直になれる状況を作り出してくれた。今でも千夏は茜音が自分たちのキューピッドであると信じて疑わない。
一見すると童顔と言われる千夏と変わらない茜音が、自分とは比較できないほど大人だったこと。それでも自分と二人だけの時に寂しそうな弱さを見せてくれた茜音とはすっかり打ち解けて、これまでの同性の誰よりも深い関係を築き上げている。
時々交わされるメールなどで、茜音があちこちに出歩いていることや、そこであったこと、現地の写真などを送ってくれることから、その後も精力的に活動していることは分かる。
自分たちを結んでくれたキューピッド自身は、まだ目的を達成できずにいることは申し訳なく思っている。自分たちが与えてもらった分のお返しをしたいとは思っていて、春休みには茜音の手伝いをするために上京する計画もしている。
「でもなぁ……」
千夏は再びため息をつくと、もう一枚の写真を見た。
幼なじみの和樹、一番の理解者である香澄と三人で一緒に写っている数少ないショット。あの日の庭先で、茜音に撮ってもらったもので、香澄はいつもの顔だが、自分たちは恥ずかしそうにしている。
この頃は二人ともまだお互いに想いが通じたという嬉しさの方が上回っていたし、悩みなどは何もないと思っていた。
千夏の中に違和感を覚え始めたのは先月くらいからだった。
まず、和樹の態度が少し自分との距離を置いたように感じられた。表面上は以前と変わらない。登下校も一緒にするし、放課後の勉強も、休日のデートもこれまでと同じ。でも、何かが変わったように感じた。千夏はそこに大きく気持ちを割くことはなかった。それは結果を知ることによっては自分を悲しませてしまうことにもなりかねないから……。
しかし、そんな状況で過ごしていれば、些細なことでも気持ちが大きく揺らぐきっかけになってしまう。
他の高校よりも少し遅め、地域の新年祭や学校見学会と合同で行われる学校祭。受験を考慮するため、3年生は有志のみの参加となるので、実質千夏たち2年生が中心となる。
千夏はその実行委員に選ばれることは無かったのだけど、和樹はなぜかそこに入ってしまった。
結局、その期間は登下校も一緒に出来なくなることも多くなっても、千夏はその気持ちを抑えることにしていた。学校祭は地区と合同で行われる新春の楽しみでもある。その実行委員を務める和樹を自分の感情だけで引き止めることは出来ないと。
しかし、そんな千夏にも我慢の限界というものもある。その最初のきっかけは、偶然見かけてしまったある光景からだった。
千夏が学校帰りの買い物を済ませ、家に帰ろうとした時、和樹と香澄が楽しそうに話しながら店を回っているところだった。なにも悪いことをしているわけではない。それでもとっさに千夏は身を隠し、その様子を見ていた。どうも自分のときより二人の会話が弾んでいるように彼女には見えてしまった。
それでも、二人でいるときの和樹の態度には変化はなく、彼女もこの期間だからということで気にかけないようにはしていたものの、その1回だけではなく、期間中何度か同様のことがあった。それどころか、香澄とのツーショットがあちこちで目撃されてくると、千夏にも和樹との関係が終わったのかと聞いてくる者まで現れた。
そこまで来ると、いくら我慢強い千夏とはいえ心中穏やかではいられない。
もちろん、毎年楽しみにしている、その年の学校祭も、期間中の委員は基本的に運営側にいるため、和樹もフリーの千夏と一緒にいられる時間というのはほぼなく、結果的に千夏はクラス出店の担当日以外は家にいた。
そんなことが積み重なり、ついに千夏が堪えきれなくなる時がやってくる。
学年末試験も終わり、自己採点でもなんとか目標値を達成できた千夏は、一緒に帰ろうと和樹を捜したが、どこにも見あたらない。
仕方なく一人で教室を出ようとしたとき、外から帰ってきたクラスメイトに呼び止められると、小さい声で耳打ちされた。
「和樹と香澄が校舎裏で妙な雰囲気だった」
これを聞いて、気にならないわけがない。足早に昇降口を出て校舎裏に回ってみる。
「いたぁ……」
本当は堂々と話かけていけばいいのだけれど、確かに空気はそんな明るいものではなさそうだ。
気づかれないように校舎のくぼみに身を隠し、しばし様子を見守ることにする。こんな事をしていることに、良心の呵責はある。それ以上にその場を素通りできないような雰囲気があった。
二人の話す声が小さいのと、その場所から離れていることで、内容までは聞こえない。
「あっ!」
思わず小さな声が出る。
千夏の視線の先で、香澄は普段見せたことのないような泣き顔になり、それを和樹が受けとめる。なにも知らなければ、二人がただならぬ関係だと思われても不思議ではないだろう。
『ドサッ……』
思いがけない音に二人がハッと振り向く。完全に我を忘れてその場にしゃがみ込んだ千夏の肩から落ちた鞄がたてた音だった。
「千夏! 違うんだぞ」
まだ動けないでいる香澄をその場に残し、和樹は千夏の元に駆け寄ろうとした。
「来ないでぇっ!!」
何とか立ち上がった千夏は、鞄を拾い上げると、大きな声で叫んだ。
「もう、もう……、和樹なんて知らないっ!!! バカぁっ!!!」
何か後ろで叫んでいる和樹の声は耳に入らなかった。
その後は何も考えることは出来なかった。一度も後ろを振り返ることなく、千夏は学校を逃げるように飛び出した。
「千夏……」
残された二人が呆然としているところに、どこから現れたのか、クラスのメンバーが数人二人を囲んだ。
「ちょっと、どういうこと? 千夏泣きながら出ていったわよ?」
「ちょっとあからさますぎたんじゃない? 千夏の気持ちも考えずに」
「はぁ?」
それぞれ浴びせられる非難の言葉に、和樹は逆に訳が分からないような顔をした。
「何考えてんだおまえら……?」
「しゃーないわね、あたしから話すわ」
香澄はため息を付いて口を開いた。
「千夏、帰ってないんですか?」
夜、昼間の一件をどう千夏に説明すればいいかと和樹が頭をひねっていると、母親が入ってきた。
夜になっても千夏が一度も学校から帰ってこないし、連絡もないと。
それどころか持っているはずのスマートフォンに連絡をしようにもつながらない。何か心当たりがないかと彼女の家から連絡が入ったというのだ。
学校での一件の後はいつもの待ち合わせ場所を含めて何カ所かを回っても姿を見ていなかったのけれど、こんな暗闇の中に自分の恋人が一人でいるかと思うと、いてもたってもいられない。
「千夏んちに行ってくる!」
すぐに家を飛び出し、夜の道を急いだ。
見慣れた家に飛び込むと、すでに心当たりがありそうなメンバーへの連絡は終わっていたようで、和樹の登場は逆に「そこでもなかったか」という落胆の空気が強く感じられた。
まだ学校への連絡や警察沙汰にはしていないらしく、千夏の家族だけが居間で心配そうに集まっているだけだ。
「今日の午後から見ていないんだね?」
千夏の兄の雅春に尋ねられて、和樹はうなずく。
「そうか……。それじゃどっかに行ったとしたら、かなり遠くまでいけるのか……」
雅春はうなった。
「なんか、手がかりはあるんですか?」
「千夏の自転車が江川崎の駅に置いてあった。となると駅からどこかに行ったと思うほうが自然なんだけど、千夏は家出が出来るような度胸のある子じゃない。しかも一人でなにも持たずにだ。どこかに行くあてがあってそこに行ったとしか考えられない。ただ、何も言わずに突然行くには理由がないんだよな……。昔、二人で足摺まで行ったときみたいに?」
千夏の無断遠出というのは今回が初めてではない。中学3年生のときに、やはり和樹と二人で早朝から二人だけで足摺岬まで出かけていたという前科がある。しかし今回のように一人きりでどこかに消えてしまうということはなかった。
だからこそ、今回も和樹と二人で出かけているだけだとの希望があったのに。
「原因はきっと俺のせいです……。俺が千夏のこと放っておいたから……」
和樹はつぶやく。家族がみな自分のほうを向いたので、仕方なくここ数週間のことを話し始めた。
今日の午後、行方不明になる直前のことを話し終えたとき、雅春は大きくため息をついた。
「なるほど……。あれもとんだ早とちりだな……。しかし、千夏も年頃だ。それならばどこかに行ってしまいたいと考えるなんてこともあり得るだろう……。まったく、心配させるやつだな……」
事情が見えてくれば、千夏の失踪にも理由がつく。
「ただ問題は、こんな冬場にどこに行くかだ。千夏の性格からして、野宿をしているとは考えにくい。ただでさえ制服姿だ。あてもなくフラフラしてれば駅員や警察に話を聞かれていてもおかしくないのに、その連絡もないと……」
この事態を一番冷静に分析しているのは妹の性格を知り尽くした兄のようだ。
「行くとしたら……、東京ですか……?」
ぼそりと呟いた和樹に再び視線が集まる。
「千夏が地元を離れて、駆け込める場所なんかそうそうあるわけありません。となると、今年の夏に来た茜音ちゃんとこが一番可能性が高いんです。よく連絡を取っている話もしていましたし」
「確か茜音ちゃんは横須賀だったな? この時間なら飛行機はもう終わってる。緊急事態だと思えば、あの茜音ちゃんが何も連絡してこないというのはおかしい。そうなると新幹線か夜行か……」
時計はすでに夜10時半を回っている。高知から東京への飛行機の最終便は7時前。到着が8時だとすれば、何らかの連絡があってもいい。それがないとすればまだ移動中だと考えるほうが自然だ。
「とりあえず、一番可能性の高い茜音ちゃんに連絡してみましょう。明日から学校はしばらく休みだし」
「そうだな。明日から学校は休みだったよな? 明日いっぱい待ってみて、何も手がかりもなければそこで警察だな……」
一同はそこで大きくため息をついた。
「はぁ……、これからどうしよかなぁ……」
自宅が大騒ぎになっているとは知らず、寝台列車の個室から千夏はぼんやりと車窓に流れる夜の瀬戸大橋を眺めていた。
綺麗にライトアップされている景色を見ていると、ここに一人でいること自体が切なくなってしまう。
暖かい時期なら、以前に出かけた太平洋側ではなく、この瀬戸内海を見に来てもいいかもしれない。
ただ、観光地としても名高いこの場所に一人で来るというのも自分の惨めな姿をさらすだけだと思うと、その考えも変わってくる。
腕時計を見ると、もうすぐ夜の10時。
和樹に啖呵をきって学校を飛び出したのはいいのだけど、家に帰るのも、それどころかこの町にとどまること自体も今の千夏には嫌に思えた。
学校を飛び出し、しばらくあてもなく自転車をこぎ、ふと見ると駅前に来ていた。
そして今に至る。あまり深いことを考えずに列車に乗り、無人駅からの乗車証明を持って、精算するために降りた窪川駅の窓口で思わず口にしてしまった……。
「まだ東京に向かう電車はありますか?」
窓口で切符を買うときに、そこで止められなかったのには、千夏にとって幸い、探す方としては不幸なことに、いくつかの偶然が重なっている。
まず、2月の金曜日であったことだ。
金曜日だから、翌日の学校がないこと。また制服であっても、受験シーズン中だから、上京して受験というシチュエーションは普通に考えられること。
そんな時期に、普段から制服を崩すこともなく整えていて、緊張しつつもはっきりと行き先を告げた千夏をまさか家出人と思う人はいない。
「新幹線だと厳しいけど、夜行寝台なら個室で行くこともできますよ。明日の朝到着になりますが、大丈夫ですか?」
「構いません。それでお願いできますか?」
これも時間が良かったのか、悪かったのか。高松から1日1本だけ出ている寝台特急に坂出で乗り継ぎに間に合う時間だったので、窓口係員はその経路で切符を作成してくれた。
料金もそれなりにかかった。偶然にもそれを上回る額を持ち合わせていたので、そのまま家に帰ることもなく出発することに成功していた。
とにかく、地元から一度離れたいの一心だったから、スマホの電源を最初から切ってしまっていた。これなら位置を見つけだされることもないと……。
高知駅を通過し、寝台への乗り換え駅である坂出駅に到着したときには、それまでの気持ちも少しは落ち着いてきた。
東京に行くことはこのまま乗ればいい。
しかし周りの見立てとは逆で、現地での宿泊などの計画も持ち合わせていない。
それに、今の自分の服装は制服だ。どんな事をするにも目立ちすぎる。
列車に乗ってすぐに車掌が来て検札があったけれど、まだ荷物を片付けている途中だったし、これまでと同じように受験生と見られたのか、服装を疑問視されることもなく扉は閉まった。
「仕方ないか……。すぐに帰ることもできるよ……」
ここまま帰っても何も状況は変わらないし、かえって情けなく見えてしまう気がする。
慎重な千夏にしては珍しく成り行き任せの選択をすると、乗り換えの時間を利用して購入した夕食代わりの駅弁をお腹に入れ、読みかけの雑誌を読んだりしている内に、時間は過ぎていった。
『はい、片岡です』
「茜音ちゃん?」
『うん、千夏ちゃんだよね。元気だった? どうしたの?』
耳に当てているスピーカーからいつもの聞き慣れた声が聞こえてきたので、千夏はほっとした。
「ごめんね、こんな遅くに……。あの……、茜音ちゃん、明日の土曜日ってお休み……?」
車内の放送も終わり、廊下の照明も落とされ、千夏も個室の照明ではなく枕元の明かりだけにしたところで、彼女は東京に近い唯一の友人でもある片岡茜音に携帯から電話を掛けた。
『ほえぇ? うーん、学校は午前中で終わるけど……。どうしたの……』
「そっかぁ……。それじゃ無理だねぇ……」
『ちょっと待って、千夏ちゃん今どこにいるの? なんでこんな時間に列車に乗っている音がするわけ?』
千夏は思わず苦笑した。さすが全国を駆け回って旅をしている茜音だ。電話越しに聞こえるかすかな線路のつなぎ目の音に気づかれてしまったのだろう。
『千夏ちゃん、ちゃんと教えて? こんな時間だし、今は寝台の中でしょ? たぶんサンライズ瀬戸だよね?』
とっさに答えられなかったのを茜音は無言の返事ととったらしく、瞬時に千夏が乗りうる列車まで言い当ててしまった。
「うん、茜音ちゃんの言うとおりだよ……」
茜音に嘘を付いていても仕方がない。千夏は窓から見えた通過駅の名前を言った。
『なるほどぉ。明日からテスト休みなんだぁ、いいなぁ……。こっちでどこに泊まるの?』
とにかく東京に向かっていることを理解した茜音が尋ねる。
「ん……と、それが……」
『まさか、決めずに出て来ちゃったってわけ?』
最初、あきらかに呆れかえったような声を出した茜音だが、すぐにくすっと笑うと、
『あはは、仕方ないねぇ……。分かったよ。うちに泊まれるようにしておくね』
茜音はそれ以上詮索することなく、東京駅から地元への乗り継ぎを教え、連絡する事もあるからスマートフォンの電源を切らないように頼んできた後は「おやすみぃ」と以前と変わらない声で電話を切ってくれた。
「ありがとう茜音ちゃん……」
千夏は昼間の興奮から来た疲れで、個室のベッドに横になって目を閉じようとした。
翌朝、熟睡とはほど遠い千夏が目を覚ますと、列車は終点まで1時間を切るところまで来ていた。
旅行の用意などしてきていない千夏はトイレ以外に部屋の外に出ることなく、備え付けの浴衣からハンガーにかけてあった制服をもう一度着込む。
昨夜の電話で東京駅からの行き方を教わったメモをもう一度確認した。
スマートフォンの画面を見ても、大量に来ていてもよさそうな自宅などからの着信表示もない。もし、着信があっても無視すればいいと決めていた。
茜音の家に厄介になるのであれば、二つ手前の横浜駅で下車した方が早いのだけど、東京駅までの切符を持っていると言うことと、到着する時間が早いので、茜音と合流するまでの時間を地元で潰すのは何かと不便かもしれないと教えてもらい、東京駅まで乗り通すことになった。
朝の7時過ぎ、定刻で列車が駅に滑り込み、メモを見ながら乗り換えの表示板を確認していると、千夏は後ろから肩を叩かれた。
「千夏ちゃん、おはよぉ。お疲れさまぁ」
「へ? 茜音ちゃん、なんで?」
昨日の電話では彼女は学校のはずで、午前中の学校が終わり次第合流すると言う打ち合わせだったから、こんな時間に東京駅にいるわけがない。
「やっぱりぃ……。旅行の用意もしてないって言ってたから、ひょっとしてって思ったんだ。制服で一人ウロウロしてるとあとで厄介なことになるかもだし」
「学校休んでくれちゃったの……?」
この時間に茜音がここにいると言うことは、間違いなく学校には間に合わない。それに制服だけでなく学校用の荷物を持っていないということは、このあと登校する予定もない……、いや、自宅を出るときから自分を出迎える意思表示をしていたことになる。
「1日ぐらいいいよぉ。ちゃんと両親にも話してあるからぁ」
「ごめんね……」
これで午前中の時間を潰す必要がなくなったし、茜音が一緒ならば方向音痴の自分が迷う心配もない。
横須賀線で座ることが出来ると、千夏は張りつめていた糸が切れたように茜音に寄りかかって寝てしまった。
「大変だったねぇ……」
そんな千夏を茜音は微笑ましい気持ちで見ていた。