こうしてまんまと船長は淫魔ラモトリギンの虜になってしまった。彼は虚ろな目が透過光のように輝いた。こうしてお千代さん殺害の運命は確定路線になったと思われた。物語の時間軸は犯行前夜に戻る。夜空には満月があった。カフェーもんたなの前で二人の男女が話し込んでいた。
「本当に行ってしまうのかい? お千代さん」
竹中は信じられないという顔をした。
「早く岸本様と祝言をあげろと。その方が安全だと父が申しまして」
お千代は嘘をついた。本当はスフィンクス船長の故郷の伊豆へ渡るつもりだ。その島の金毘羅宮なら確実に悪魔から守ってくれる。
「そうか。寂しくなってしまうな。いや、こんな湿っぽい話は慶事に相応しくない。おめでとうと言わせてくれ」
竹中は破顔したが、そこに冷ややかな笑みが混じっていた。お千代は殺さねばならぬ。決行は今夜だ。その夜の満月に照らされた『カフェーもんたな』に怪しい影が現れた。スフィンクス船長だった。
お千代が店の前に出た。
「お父様。なぜ、ここへ?」
「岸本君が来ているだろう。本来なら新郎が実家へ挨拶にくるものだが、急な出航で明日、発たねばならんのだ」
「そういうことでしたら。あなた~」
お千代はスフィンクス船長を店に招き入れた。
岸本は岳父の乱入に面を食らったが、西洋かぶれ同士、馬が合うらしくたちまちスフィンクスと親交を深めた。
岸本は宴の席に竹本も呼んだ。
「私と竹中様にお酌させてくださいませ、旦那様」
「いや……もう飲んだから大丈夫だよ。明日もあることだし、そろそろ休まないか?」
竹中は口籠った。そして厠に行くと言って岸本を誘った。
「計画通り進んでいるだろうな?」
「ああ、式をあげたあとセーヌ川に突き落とす」
そういう岸本の言葉に竹中は戸惑いを感じ取った。
「いくら奴の奸計をつぶすためとはいえ、お千代さんを手にかけるのは忍びないだろう。何なら俺が彼女を殺る。」
「竹中君に任せるとは一言も言ってはいないよ。これは男同士の勝負なんだ。このくらいのことは自分で解決するさ。ところで例の件だけど、本当にうまくいくんだろうね? 僕は君のことが心配でならない」
お嬢さんの恋路は複雑で一筋縄ではいかない。
「もちろん、お任せください! 私にいい考えがあるんです」
と船頭は請け合ったが、「私は目井の幽霊を見たことがあるんですよ。彼女は目井の娘ですよ。幽霊は実在する。幽霊は死を予言します」と怯えていた。しかし船頭が恐れたのは目井ではないのだ。スフィンクス船長は知っていた。だから幽霊が苦手なのだ。船頭の幽霊嫌いがどこからきているのか見当がつくほどに。
竹中は「ああ、そういえば」と思い出していた。お月の晩、お千代さんに呼び止められたことを。あれはいったい何だったのか?
――
お待ちなさい。
「お千代か?」
「ああ……やはり貴方が殺したのだ! お兄さま! お願いですからやめて下さい! ああ」「おや? 何を言っているのだ?」
「いいえ、何でもないの。ごめんあそばせ」
「ちょっと話したいことがあるのだが……」
と振り返るとお千代さんの姿はなかった。竹中の目に一瞬だが恐怖の表情が見えたが、それも消え失せた。「今のは誰なのかね、竹さん」と問い詰めた。
しかし、答えは得られなかった。彼は首を傾げた。あれは夢だろうか。それとも幻か?「俺は酔っているようだ。悪いが先に休むよ」
「待ってください。僕が案内する」と竹中を促した。そして二人は奥へと進んだ。廊下を抜けるとベッドが四つ並んだ寝室があり、ドアを開けると洗面の水瓶が並んでいる。さらにドアを開けると風呂場だった。床に桶が置かれている。
湯舟には誰も浸かっていない。そして洗い場の椅子に血糊の跡があった。それは紛れもなく殺人の証拠。しかもそれは昨夜のものだった。――まさか……あれは……いや……違う…… と呟きながらも彼の胸は早鐘のように鳴っていた。これは悪夢だ。そうに違いないと自分に言い聞かせても動顛は鎮まらなかった。血だ。間違いない血だ。犯人はここにいて血を流したのだ。これはどういうことなのだ!? そのとき竹中が叫んだ「大変だ!……血だ! 血だよ! 竹さん! 誰かいるぞ!」
竹中はドアを蹴破るように開けたがそこには闇が広がっているだけだった。血痕も消えている。
「血だって? どこにそんなものがあったというのだね?」
「ほら。あの床の血の染みを見ろよ。まだ濡れているじゃないか!」彼は床を指して言った。確かに乾いたような跡はない。まるでたった今流れ落ちたばかりといった様子だ。
そしてその足下に小さなメモが残っていた。『この部屋に近寄るべからず』
『スフィンクス・メッセージ』の書きつけであった。竹中とラモトリギンは互いに見合わせた。「これを書いたのは船長だな。おそらく船長は血を流すつもりだったのだ。そしてお千代を殺した。そして部屋を出た」竹中は独り合点している。
ラモトリギンが「馬鹿なこと言わないで! お千代が血を流して死んで、誰が得をするっていうんだね?」と抗議したが彼は耳を貸さない。「とにかく警察だ。すぐに電話をしろ」と言い出した。竹中は「分かった」と受話器を手にした。警察は呼ばなかった。竹中の脳裏に警句めいた思考が閃いていた。お千代はスフィンクスの凶行を止めようとして殺されたのではないか? だとすればお千代は悪魔の正体を知っている。あるいは悪魔の手先である可能性がある。「もし、お千代さんを葬れば悪魔たちは必ず報復に来る。今度は悪魔が殺される番だ」竹中は考えた。悪魔を始末するのはいいが、悪魔を匿えば自分とて命がない。ここは一時身を引くべきだ。そして証拠を掴むのだ。しかし岸本には告げられない。「君はどう思う?」
「そうだな。悪魔が人間のふりをしているだけかもしれないな。しかし人間社会は悪魔によって破壊されようとしている。悪魔は悪魔であることを隠したまま、巧妙に立ち回っているだけだ」
こうしてラモトリギンはスフィンクス船長殺害の決意を固めた。
そして翌朝、満ち潮によってお千代の死体が流れ着くはずだった。しかしその日は満月のはずだった。それが欠けている。
そしてお千代の遺体が発見された。彼女は海に流され溺れ死んだのだ。そしてその遺体は悪魔に喰い荒されていた。しかし悪魔とは何者か。
――この世で最も醜悪なものは悪魔ではなく人であると人は言う。悪魔は人間に擬態することができるが、人を喰う悪魔などはいないだろうというのが、世間一般の考え方であろう。だが、もしも人を食べる悪魔が存在するとしたならば?――人肉を食い、皮を被って人の真似事をすることしかできない卑小な生き物こそ人ではないか?
「本当に行ってしまうのかい? お千代さん」
竹中は信じられないという顔をした。
「早く岸本様と祝言をあげろと。その方が安全だと父が申しまして」
お千代は嘘をついた。本当はスフィンクス船長の故郷の伊豆へ渡るつもりだ。その島の金毘羅宮なら確実に悪魔から守ってくれる。
「そうか。寂しくなってしまうな。いや、こんな湿っぽい話は慶事に相応しくない。おめでとうと言わせてくれ」
竹中は破顔したが、そこに冷ややかな笑みが混じっていた。お千代は殺さねばならぬ。決行は今夜だ。その夜の満月に照らされた『カフェーもんたな』に怪しい影が現れた。スフィンクス船長だった。
お千代が店の前に出た。
「お父様。なぜ、ここへ?」
「岸本君が来ているだろう。本来なら新郎が実家へ挨拶にくるものだが、急な出航で明日、発たねばならんのだ」
「そういうことでしたら。あなた~」
お千代はスフィンクス船長を店に招き入れた。
岸本は岳父の乱入に面を食らったが、西洋かぶれ同士、馬が合うらしくたちまちスフィンクスと親交を深めた。
岸本は宴の席に竹本も呼んだ。
「私と竹中様にお酌させてくださいませ、旦那様」
「いや……もう飲んだから大丈夫だよ。明日もあることだし、そろそろ休まないか?」
竹中は口籠った。そして厠に行くと言って岸本を誘った。
「計画通り進んでいるだろうな?」
「ああ、式をあげたあとセーヌ川に突き落とす」
そういう岸本の言葉に竹中は戸惑いを感じ取った。
「いくら奴の奸計をつぶすためとはいえ、お千代さんを手にかけるのは忍びないだろう。何なら俺が彼女を殺る。」
「竹中君に任せるとは一言も言ってはいないよ。これは男同士の勝負なんだ。このくらいのことは自分で解決するさ。ところで例の件だけど、本当にうまくいくんだろうね? 僕は君のことが心配でならない」
お嬢さんの恋路は複雑で一筋縄ではいかない。
「もちろん、お任せください! 私にいい考えがあるんです」
と船頭は請け合ったが、「私は目井の幽霊を見たことがあるんですよ。彼女は目井の娘ですよ。幽霊は実在する。幽霊は死を予言します」と怯えていた。しかし船頭が恐れたのは目井ではないのだ。スフィンクス船長は知っていた。だから幽霊が苦手なのだ。船頭の幽霊嫌いがどこからきているのか見当がつくほどに。
竹中は「ああ、そういえば」と思い出していた。お月の晩、お千代さんに呼び止められたことを。あれはいったい何だったのか?
――
お待ちなさい。
「お千代か?」
「ああ……やはり貴方が殺したのだ! お兄さま! お願いですからやめて下さい! ああ」「おや? 何を言っているのだ?」
「いいえ、何でもないの。ごめんあそばせ」
「ちょっと話したいことがあるのだが……」
と振り返るとお千代さんの姿はなかった。竹中の目に一瞬だが恐怖の表情が見えたが、それも消え失せた。「今のは誰なのかね、竹さん」と問い詰めた。
しかし、答えは得られなかった。彼は首を傾げた。あれは夢だろうか。それとも幻か?「俺は酔っているようだ。悪いが先に休むよ」
「待ってください。僕が案内する」と竹中を促した。そして二人は奥へと進んだ。廊下を抜けるとベッドが四つ並んだ寝室があり、ドアを開けると洗面の水瓶が並んでいる。さらにドアを開けると風呂場だった。床に桶が置かれている。
湯舟には誰も浸かっていない。そして洗い場の椅子に血糊の跡があった。それは紛れもなく殺人の証拠。しかもそれは昨夜のものだった。――まさか……あれは……いや……違う…… と呟きながらも彼の胸は早鐘のように鳴っていた。これは悪夢だ。そうに違いないと自分に言い聞かせても動顛は鎮まらなかった。血だ。間違いない血だ。犯人はここにいて血を流したのだ。これはどういうことなのだ!? そのとき竹中が叫んだ「大変だ!……血だ! 血だよ! 竹さん! 誰かいるぞ!」
竹中はドアを蹴破るように開けたがそこには闇が広がっているだけだった。血痕も消えている。
「血だって? どこにそんなものがあったというのだね?」
「ほら。あの床の血の染みを見ろよ。まだ濡れているじゃないか!」彼は床を指して言った。確かに乾いたような跡はない。まるでたった今流れ落ちたばかりといった様子だ。
そしてその足下に小さなメモが残っていた。『この部屋に近寄るべからず』
『スフィンクス・メッセージ』の書きつけであった。竹中とラモトリギンは互いに見合わせた。「これを書いたのは船長だな。おそらく船長は血を流すつもりだったのだ。そしてお千代を殺した。そして部屋を出た」竹中は独り合点している。
ラモトリギンが「馬鹿なこと言わないで! お千代が血を流して死んで、誰が得をするっていうんだね?」と抗議したが彼は耳を貸さない。「とにかく警察だ。すぐに電話をしろ」と言い出した。竹中は「分かった」と受話器を手にした。警察は呼ばなかった。竹中の脳裏に警句めいた思考が閃いていた。お千代はスフィンクスの凶行を止めようとして殺されたのではないか? だとすればお千代は悪魔の正体を知っている。あるいは悪魔の手先である可能性がある。「もし、お千代さんを葬れば悪魔たちは必ず報復に来る。今度は悪魔が殺される番だ」竹中は考えた。悪魔を始末するのはいいが、悪魔を匿えば自分とて命がない。ここは一時身を引くべきだ。そして証拠を掴むのだ。しかし岸本には告げられない。「君はどう思う?」
「そうだな。悪魔が人間のふりをしているだけかもしれないな。しかし人間社会は悪魔によって破壊されようとしている。悪魔は悪魔であることを隠したまま、巧妙に立ち回っているだけだ」
こうしてラモトリギンはスフィンクス船長殺害の決意を固めた。
そして翌朝、満ち潮によってお千代の死体が流れ着くはずだった。しかしその日は満月のはずだった。それが欠けている。
そしてお千代の遺体が発見された。彼女は海に流され溺れ死んだのだ。そしてその遺体は悪魔に喰い荒されていた。しかし悪魔とは何者か。
――この世で最も醜悪なものは悪魔ではなく人であると人は言う。悪魔は人間に擬態することができるが、人を喰う悪魔などはいないだろうというのが、世間一般の考え方であろう。だが、もしも人を食べる悪魔が存在するとしたならば?――人肉を食い、皮を被って人の真似事をすることしかできない卑小な生き物こそ人ではないか?