「貴女も本当は竹中とお千代さんの結婚を願っているんでしょう。岸本は西洋的でお父様の受けもいい。家督を譲るには相応しいと誰もが思う。それに彼はフランス留学を志している。ルサンチマンを気取る竹中より文化的で世間体もいい。しかし、岸本の魂胆は貴女も存じているはず」
胸中を見抜かれて目井は動揺した。「ええ…ええ。岸本様はセーヌ川に浮かぶ白鳥の島でお千代さんと祝言をあげる約束です。しかしそれは…ああ、想像だにおそろしい」
「そう。島の守護神は白鳥。涅槃の女神ネメシスの化身にして、太陽神に寝取られた女。岸本はそれを承知で船を騙し取ろうと企んでいる。お千代さんは奸計の道具にされて幸せといえるでしょうか」
目井は少し考えて「死ぬよりましかと…竹中様はお千代さんを殺そうと企んでいます」
「それはどうして?」
少女が身を乗り出す。
「諸悪の根源は蕁麻疹です。女ものの高下駄に執着している。女将が好事家を狂わせたのです。そもそも遊郭は舟遊びから始まりました。朝廷をも惑わす傾きおどりはまかりならぬ、とおふれが出たのです。それで幕府は舟をとりあげました。遊女は葦簀で囲われたおかで奉行に管理されることになりました。女将はカフェーもんたなに出入りする書生に目をつけて船の略取を企んだ。竹中様はお千代さんを女将に渡すぐらいならいっそのこと自分の手で…」
「噴飯ものだわ。さすが幽霊ね。生かすことを考えない。可笑しい」
「何がです!」
きゃらきゃらと失笑されて目井は憤慨した。
「だってそうでしょう。女将だか何だかしらないけどたかが悪霊ふぜい。退治てくれる神は履いて捨てるほどいる。竹中が本気で詣でれば相応の加護恩寵を賜るはず」
煽られて目井は反論した。「竹中様が金毘羅様にお参りすれば。最初は私もそう考えました。しかし加持祈祷程度で怯む女将ではありません。本当ならお千代さんが金字島の神前で竹中様と契りを結ぶべきでしょう。しかしクリスチャンのお千代さんが改宗するのは難しいと考え竹中様はお千代さんを岸本様に譲ることにしたのです。万が一、それに失敗した場合は、ああ…竹中様は愛する人の魂を天の御国に送る腹積もりです。基督様のところなら安全ですし竹中様もいつか会えるとお考えです。その前に私が竹中様にお参りを説得します」
「笑止。ルサンチマンが神仏に平伏するもんですか。だいいち、そんなファンタシィが実現するとお思い? わたしは太陽神ホルスの使い。悪霊は退散せねばなりません。わたくしがスフィンクス船長を亡き者にしてさしあげましょう。さすれば船頭は失われ舟は抵当に入ります。債権者はエジプト王国です」
少女はスカートをはためかせて夜風に消えた。
●革命の前払い
目井は、スフィンクス船長のもとに走った。詳細を包み隠さず話すと「そうか…」と悟った態度をとった。
「落ち着いている場合ではないでしょう。ラモトリギンが貴方様を…」
「わかっている。取立てに来たのだろう。竹中はそれを承知で娘に鈴をつけたのだ」
差し出された冊子に見覚えがある。「これはハトホルの…」
「色魔の使い手は君の話で腑に落ちた。女将だ。だからあの男はわざと…」
「お千代さんはそれをどうしてお父様に?」
目井は納得がいかない。
「君が思うほど愚かな教育はしてない。私を囮にするためでなく色魔を呼び寄せるためだ。だがその前に大義は護らねばならぬ。君に見せたいものがある」
薄暗い船倉の奥へ奥へと目井は案内された。ぼうっと青白い燐光が照らす一角に目井は親近感をおぼえた。厳重に梱包された箱や壺がある。
「今、ほほ笑んだな。中身はご明察どおりだ。私はこれを有効活用する」
船長はハトホルの秘儀書を紐解いた。
「しかし…そんなことをすれば戦争になってしまいますよ」
目井は船長の企みに戦慄した。
「やはり幽霊は幽霊か。死体の数を増やす方向に考える。ああ、気を悪くしないでくれ。事実を述べたまでだ。故に私はこれを有効活用したい」
「貴方様は王家を裏切るのですか?!」
目井は自分でも何を言っているのだろうと戸惑う。異国の内情、しかも人間同士の諍いなどどうでもいい話だ。
「王家を護りたい一心だ! 異国の駐留を疎ましく思う国民は多い。だからこそ太陽神はこれを民に授けた。やがて大きな戦争が起きる。日の本も無傷では済まないだろう。私はイスラームと東洋を橋渡す名目でこの船を買った。エジプト政府は無心を快諾してくれた。船が召し上げられたら万々歳だ。積荷も英国に渡る。それが戦乱を収拾し世界に変革を起こし、君主制は倒れるよ」
目井は目を丸くした。「貴方様は恩人を裏切るのですか?!」
すると船長は「君は何もわかってない。しかし今、君がここで見聞きし、起きていることは未来に大きな影響を及ぼすのだ」
彼はそういうと船倉を閉めた。
西暦千九百五十二年、青年将校団が蜂起したが、ファルーク一世一族は財産一式を積み込み、軍に見送られながら豪奢なヨットで出航することになる。
●アブラメリンの鈴
外は真っ暗だった。横浜の海は星空をちりばめている。
目井は長い髪と衣服を夜風で梳かした。
そして女流詩人、東瀬早絢の「枝垂れ月」を諳んじた

私は光り輝く世界を知っている。月が一つに、地球が終わるまでに世界は回り続ける。そして太陽が昇ったら地球が終わることを、誰もが知っている。

「そうか、わかった。君の言う通りかもしれん。君が見たもの、そして手を取り合っていることを思うだけで私は君に同情した。君は私たちには見えていない、光り輝くことを知らず生きている」

「でもね、私たちには見えないものを今、見えなくなっております。私は太陽なんて知らないから」
目井は涙が出てきた。

「私は先行きが見えなくなりました。私が太陽の代わりに生きたように、竹中様もまた私が人間の代わりに生きたように、地球のままなのです。だから今、どうでもいいから私は貴方の話を聞いております。でも、私が宇宙を見て、貴方が知っているのは光の国ではなく、それでも宇宙は美しいところを示す世界だと言いたいのです! それで」

長いあいだ見たことのない景色の中にいる。目井はそれだけで胸が苦しくなった。

すると、船長は続きを話した。
「私は、人間は宇宙があるように出来ていると言い間違えている」
目井は驚きはしたが、怒りもしなかった。人間がいいように動いていると思えば、それが美しい。

「人間の国の歴史の中には、それらがあるそうだ。私はその記録を目にするだけで心が躍る。人間から進化した、というのを私は聞いたこともない。ただそういう歴史があって、その歴史に人間が関わっているということだけでも、目井の話は大きいようだ。人間とは全くもって違う、私たちが知らない歴史があるらしい。人と宇宙が繋がっているのを人間を見てみたい。私はそう思っている」

目井は驚いたが、何だか面白く見えた。船長は続け、

「私と君の交わした会話が繋がっている、その部分だけは信じてもいいと思う。そして次に繋がったそれは、おそらく君も知っているだろう。人間の歴史を」

今度はこっちの番だと思いながら聞き流す。