「それを君に贈ろう。ハトホル神が厄除けになる。それと御父上と仲良く」
竹中が迫ってきたのでお千代さんは辞去することにした。
「さっぱり解せません。無学ゆえ私には豚に真珠かと」
洋書をそっと本棚に戻しお千代さんは一目瞭然に下宿の廊下を駆けぬけた。
「待て、君。最後に一つだけ聞きたい」
呼び止められてお千代さんは振り向いた。
「何か?」
「君はキリシタンか?」
「どうしておわかりですの?」
「さっき君は豚に真珠と言った。猫に小判とはいえぬが、聖書の言葉だ」
こくりとお千代さんはうなづき十字架を取り出した。竹中は慌てて書斎に取って返し秘儀書を差し出した。「だから厄除けが必要だというのだ」
「わかりません。私は竹中様が恐ろしゅうございます」
聞く耳を持たず走り出す。「待つんだ、君。僕は何も悪くない! 待ち給え」
釈明によれば蕁麻疹が発端だという。遊女のたしなみである高下駄。その研究に没頭する倒錯が遊女の色情因縁を呼び寄せた。連鎖的に傀儡女を誘引した。パラフィン長屋は亡者の遊郭にされたばかりか類を求めている。カフェーもんたなは窓口だ。その一切合切を淫霊が仕切っている。学院の子女が小動物を愛でる癖もだ。
「ハトホル神とやらと基督様に何の関係があるやら解せまぬ」
お千代さんはパタパタと表へ飛び出す。
「単刀直入に言う。君は狙われているのだ。どうしても裸電球を飼いたいならこの本を肌身離さず持っておきたまえ。ハトホル神は基督と合一にして鳥の王だ」
竹中が声を嗄らすがお千代さんは街灯の向こうに消えてしまった。
「あたくしが連れに参ります」
スゥと遊女が宙に躍り出た。
目井がお千代さんを呼びに行ったのでちょうど帰ってきた下宿の女将に見つかってしまったのだ。驚いて目井は泣いた。女将はパラフィン長屋を支配していた。何をしているのかと恫喝され、穢れた聖水で清め払うと脅された。徳の低い霊能者が好んで乱用する九字切りや邪気払いの類には耐性を獲得している。むしろ背く下級霊を仕置きする道具に利用するほど女将の霊圧は強い。
それで言うがままにされた。
一方、竹中はお千代さんがやがて自分の子供を身ごもるということに気づき懸命に追いかけた。橋のたもとでお千代さんを見つけ、そして帰ってきた。
お千代さんが見た目年齢よりも熟れた色香を放っていた。竹中はそれを目に焼き付け胸の内にそっとしまった。そしてこれこそ大正紳士だ、と思った。なぜその時自分が人を殺したいと思ったのか、これは何から始めたらいいというのか。竹中は自分が理解できない。魔が差したという以外に説明がつかない。
目井はお千代さんを捕らえ部屋に軟禁しようとしたが竹中はそれを断ったのだ。お千代さんは竹中のことを信頼していたし尊敬もしていた。目井はその信頼を裏切るような真似はしたくなかった。竹中は竹中なりに信頼しているし尊敬もしている。お千代さんにも自分を尊敬して欲しいと思っていた。だからあえて女将からかくまうという行動を控えた。
●罪深き思惑
青墓の目井が竹中の部屋に出るようになったのは女将の命令による。書生を亡き者にして若い男の精気を吸えという。まず夢魔として接近せよと指示した。
目井は自分のお世話係に竹中を選んだ。反体制な彼と傾奇者な傀儡女には親和性がある。取り殺すつもりが惚れてしまった。しかしどう考えてもこの二人は分が悪い。死者と生者の関係だ。カフェーもんたなの看板娘は高根の花だ。その辺は竹中も弁えているらしく身分相応の女を探していた。しかし目井が実体を纏って店を訪れてみたところ男性客の色目が違った。
目井はお千代さんが自分よりも弱いのは本当だから竹中を頼ろうと考える。竹中の気持ちが痛いほど理解できた。だが、目井が自分に期待をされかけていることは竹中もわかっていた。竹中は目井に目をつける。そしてかき抱いた。
「目井、俺が必ずお前を止めてやる」
目井は黙って竹中の手を取った。
「俺の家族を犠牲に…」
「その方がいいよ」
二人の話は続いたが、そんなのは大きな影である。
話は裸電球が盗まれる前日に戻る。
目井が竹中の妻となるべき人を探していた。自分と竹中を隔てる三途は深い。生きとし生ける者同士が結ばれる理にかなう恋はない。目井は女将に弁明しどんな制裁を受けようと二人から手を引く覚悟でいた。チャンバラ橋でたゆとっていると、岸本に阻まれた。彼は涙ぐむお千代さんを連れて、どこかへ向かっていた。
「目井さん、どうかこの子のために恨まないでください」
お千代さんは目井に向かって籠を掲げた。裸電球がピィピィと悲鳴をあげる。
目井は首を振った。
「それでは竹中様が…」
お千代さんは欄干を雫で濡らした。
「わたし、もう疲れました。この後は、目井様に助け出されて、もう自由に出来なくなるのかもしれません」
岸本がぐいっとお千代さんの首を回す。
「竹中が言ってただろ、お前が俺の妻だって。お前のことを心配しているから、お前が自分についてくることはないと」
そう告げると、お千代さんは目井の方を見た。
「竹中様がこちらに参ります」
息を弾ませながら危ない橋を渡ってくる。そして岸本は聞こえるように言う。
「だからさ、目井。俺達、付き合わないか?俺も、お前もな」
お千代さんは竹中に向かって叫んだ。「目井様はこちらです!」
「そんな…」
ばったり出くわしたとたんに目井は頬を濡らした。
竹中は驚いて目井に問う。
「お前って、俺の妻になってくれないのか」
目井は、涙がこみあげてきて顔が涙に濡れているのに気づいた。そしてありったけの声で叫んだ。
「わたしは、わたしは、死んでもいい!わたしは、わたしは、わたし、わたしは、お千代様に、お許しをいただいて、死んでもいい」
その後、お千代さんは二人の愛の告白を受けて、そして涙声だったことに気がつくと、岸本を連れて立ち去った。目井と竹中だけが残された。お千代さんは竹中の部屋に上がって顔をあげた。
「なんですか、竹中様、なんだかお辛そうだけど」
それを聞いた竹中は笑い出して、目井はその顔をじっと見て、そして言った。
「これは、愛の告白、愛の言葉です。私はあの二人に幸せになって欲しいと、愛を伝えました」
●ラモトリギンの篭絡
「お困りのようですね」
ふわりとスカートを翻して少女が舞い降りた。碧眼に腰まである紅毛を背中で纏め、海軍水兵の服装を纏っている。そのような西洋娘は知らぬ。
ただ常人は虚空から出たり消えたりはしない。青墓の目井は同類だと悟った。
「どちらさまでしょう?」
探りを入れるも女はカマトトを見破った。「スフィンクス船長の下手人です」
「えっ?」
目井はぎょっとした。「図星でしょう。首を差し出せば竹中が助かる」
少女はスカートを風に吹かせながらニヤニヤと宙で笑っている。
「なんですか、いきなり。私はそこまで悪党ではありません。それにお千代さんが悲しみます。女将も納得するかどうか」
目井は懸命に否定した。「ああら、貴女の目は泳いでる。本当はお千代さんを苦しめている元凶を始末すれば丸く収まると…」
「いいえ!断じて、そんな」
打ち消せば打ち消すほどに目井の気持ちはゆらいでいく。
竹中が迫ってきたのでお千代さんは辞去することにした。
「さっぱり解せません。無学ゆえ私には豚に真珠かと」
洋書をそっと本棚に戻しお千代さんは一目瞭然に下宿の廊下を駆けぬけた。
「待て、君。最後に一つだけ聞きたい」
呼び止められてお千代さんは振り向いた。
「何か?」
「君はキリシタンか?」
「どうしておわかりですの?」
「さっき君は豚に真珠と言った。猫に小判とはいえぬが、聖書の言葉だ」
こくりとお千代さんはうなづき十字架を取り出した。竹中は慌てて書斎に取って返し秘儀書を差し出した。「だから厄除けが必要だというのだ」
「わかりません。私は竹中様が恐ろしゅうございます」
聞く耳を持たず走り出す。「待つんだ、君。僕は何も悪くない! 待ち給え」
釈明によれば蕁麻疹が発端だという。遊女のたしなみである高下駄。その研究に没頭する倒錯が遊女の色情因縁を呼び寄せた。連鎖的に傀儡女を誘引した。パラフィン長屋は亡者の遊郭にされたばかりか類を求めている。カフェーもんたなは窓口だ。その一切合切を淫霊が仕切っている。学院の子女が小動物を愛でる癖もだ。
「ハトホル神とやらと基督様に何の関係があるやら解せまぬ」
お千代さんはパタパタと表へ飛び出す。
「単刀直入に言う。君は狙われているのだ。どうしても裸電球を飼いたいならこの本を肌身離さず持っておきたまえ。ハトホル神は基督と合一にして鳥の王だ」
竹中が声を嗄らすがお千代さんは街灯の向こうに消えてしまった。
「あたくしが連れに参ります」
スゥと遊女が宙に躍り出た。
目井がお千代さんを呼びに行ったのでちょうど帰ってきた下宿の女将に見つかってしまったのだ。驚いて目井は泣いた。女将はパラフィン長屋を支配していた。何をしているのかと恫喝され、穢れた聖水で清め払うと脅された。徳の低い霊能者が好んで乱用する九字切りや邪気払いの類には耐性を獲得している。むしろ背く下級霊を仕置きする道具に利用するほど女将の霊圧は強い。
それで言うがままにされた。
一方、竹中はお千代さんがやがて自分の子供を身ごもるということに気づき懸命に追いかけた。橋のたもとでお千代さんを見つけ、そして帰ってきた。
お千代さんが見た目年齢よりも熟れた色香を放っていた。竹中はそれを目に焼き付け胸の内にそっとしまった。そしてこれこそ大正紳士だ、と思った。なぜその時自分が人を殺したいと思ったのか、これは何から始めたらいいというのか。竹中は自分が理解できない。魔が差したという以外に説明がつかない。
目井はお千代さんを捕らえ部屋に軟禁しようとしたが竹中はそれを断ったのだ。お千代さんは竹中のことを信頼していたし尊敬もしていた。目井はその信頼を裏切るような真似はしたくなかった。竹中は竹中なりに信頼しているし尊敬もしている。お千代さんにも自分を尊敬して欲しいと思っていた。だからあえて女将からかくまうという行動を控えた。
●罪深き思惑
青墓の目井が竹中の部屋に出るようになったのは女将の命令による。書生を亡き者にして若い男の精気を吸えという。まず夢魔として接近せよと指示した。
目井は自分のお世話係に竹中を選んだ。反体制な彼と傾奇者な傀儡女には親和性がある。取り殺すつもりが惚れてしまった。しかしどう考えてもこの二人は分が悪い。死者と生者の関係だ。カフェーもんたなの看板娘は高根の花だ。その辺は竹中も弁えているらしく身分相応の女を探していた。しかし目井が実体を纏って店を訪れてみたところ男性客の色目が違った。
目井はお千代さんが自分よりも弱いのは本当だから竹中を頼ろうと考える。竹中の気持ちが痛いほど理解できた。だが、目井が自分に期待をされかけていることは竹中もわかっていた。竹中は目井に目をつける。そしてかき抱いた。
「目井、俺が必ずお前を止めてやる」
目井は黙って竹中の手を取った。
「俺の家族を犠牲に…」
「その方がいいよ」
二人の話は続いたが、そんなのは大きな影である。
話は裸電球が盗まれる前日に戻る。
目井が竹中の妻となるべき人を探していた。自分と竹中を隔てる三途は深い。生きとし生ける者同士が結ばれる理にかなう恋はない。目井は女将に弁明しどんな制裁を受けようと二人から手を引く覚悟でいた。チャンバラ橋でたゆとっていると、岸本に阻まれた。彼は涙ぐむお千代さんを連れて、どこかへ向かっていた。
「目井さん、どうかこの子のために恨まないでください」
お千代さんは目井に向かって籠を掲げた。裸電球がピィピィと悲鳴をあげる。
目井は首を振った。
「それでは竹中様が…」
お千代さんは欄干を雫で濡らした。
「わたし、もう疲れました。この後は、目井様に助け出されて、もう自由に出来なくなるのかもしれません」
岸本がぐいっとお千代さんの首を回す。
「竹中が言ってただろ、お前が俺の妻だって。お前のことを心配しているから、お前が自分についてくることはないと」
そう告げると、お千代さんは目井の方を見た。
「竹中様がこちらに参ります」
息を弾ませながら危ない橋を渡ってくる。そして岸本は聞こえるように言う。
「だからさ、目井。俺達、付き合わないか?俺も、お前もな」
お千代さんは竹中に向かって叫んだ。「目井様はこちらです!」
「そんな…」
ばったり出くわしたとたんに目井は頬を濡らした。
竹中は驚いて目井に問う。
「お前って、俺の妻になってくれないのか」
目井は、涙がこみあげてきて顔が涙に濡れているのに気づいた。そしてありったけの声で叫んだ。
「わたしは、わたしは、死んでもいい!わたしは、わたしは、わたし、わたしは、お千代様に、お許しをいただいて、死んでもいい」
その後、お千代さんは二人の愛の告白を受けて、そして涙声だったことに気がつくと、岸本を連れて立ち去った。目井と竹中だけが残された。お千代さんは竹中の部屋に上がって顔をあげた。
「なんですか、竹中様、なんだかお辛そうだけど」
それを聞いた竹中は笑い出して、目井はその顔をじっと見て、そして言った。
「これは、愛の告白、愛の言葉です。私はあの二人に幸せになって欲しいと、愛を伝えました」
●ラモトリギンの篭絡
「お困りのようですね」
ふわりとスカートを翻して少女が舞い降りた。碧眼に腰まである紅毛を背中で纏め、海軍水兵の服装を纏っている。そのような西洋娘は知らぬ。
ただ常人は虚空から出たり消えたりはしない。青墓の目井は同類だと悟った。
「どちらさまでしょう?」
探りを入れるも女はカマトトを見破った。「スフィンクス船長の下手人です」
「えっ?」
目井はぎょっとした。「図星でしょう。首を差し出せば竹中が助かる」
少女はスカートを風に吹かせながらニヤニヤと宙で笑っている。
「なんですか、いきなり。私はそこまで悪党ではありません。それにお千代さんが悲しみます。女将も納得するかどうか」
目井は懸命に否定した。「ああら、貴女の目は泳いでる。本当はお千代さんを苦しめている元凶を始末すれば丸く収まると…」
「いいえ!断じて、そんな」
打ち消せば打ち消すほどに目井の気持ちはゆらいでいく。