「今日は1万円、か」
福沢諭吉の顔が描かれた紙切れ1枚。
ため息しか出なかった。
今日の私の価値は1万円だ。
高校生の私には、この1万円が価値のあるものなのか、ないものなのか分からなかった。
この冷たい風の中、デコルテが見える白ニットを着て、黒のミニスカートを履いているんだけどなぁ。
風邪を引くんじゃないかってほど、とてつもなく寒い。
それなのに、今日の男から見た私の価値は1万円。
『ホテル代も俺が出すんだから、今日はこれで勘弁してよ』
そう言って、ホテルを出るときに男から手渡されたものだ。
名前も知らない男と体の関係を持って、お金という対価をもらっていた私。
男は快楽を得ることが出来て、私はお金が手に入る。
利害一致。
いや、利害なんて一致していなかった。
そもそも私に利益なんてない。
だって私は、こんな紙切れは欲しくもなかったからだ。
ただ、私は愛して欲しかった。
嘘でもいいから、私のことを『好き』だと言って抱いてほしい。
私は異性からの愛情が欲しい。
だけど、男は“都合のいい女の子”としか私を見ていないのは分かりきっていた。
分かるから、私も相手の名前を覚える気もない。
期待することもない。
だから、回数を重ねるたびに心が虚しくなっていくのを痛感する。
それでも私が男と体を重ねる理由。
それは、いつか私を本気で愛してくれる人と出逢いたい。
その一心だった……。
私は、ぼーっと眺めていた福沢諭吉が描かれた紙切れを財布の中にしまった。
財布を鞄の中にしまい、次は携帯を取り出す。
画面が明るく光る携帯。
出会い系アプリを起動させた私。
溜まっているメッセージに私は順番に返信をしていった。
『今日会える?』
『暇してるよー』
『今、駅前にいるんだけど会いたいな』
相手のメッセージの内容に適当に合わせて、自分の要求を伝えていく。
さっきの男の関係は終わり。
次に私と関係を持ってくれるのは誰だろう。
形だけの“愛”をほんの数時間だけ注いでくれるのは誰だろう。
そう考えながら、クリスマスツリーの近くにあったベンチに腰掛けた。
静かにベンチに腰掛けていると、携帯を持つ指先があっという間に冷えていく。
ベンチに触れるお尻や脚も冷えていく。
無駄な時間を過ごしているっていうことは分かっていた。
だけど、壊れかけの空っぽの心を、一瞬でもいいから埋めてくれる人を待っている私がいた。
ピロンっ。
機械音と同時に、携帯の画面が光った。
私はメッセージを確認する。
『駅前にいるの? ちょうど俺も駅の近くにいるから会えるよ』
トーク画面に表示されている名前は“駿”。
顔写真も見たことないし、電話で声も聞いたことがない。
数回メッセージのやりとりをしたことある男の人。
私は、この寒い中、時間を無意味に過ごすのは嫌だったから“駿”と会うことにした。
『駅前のクリスマスツリーの近くのベンチに座ってるよ!』
『服装は?』
『白のニットに黒のミニスカ履いてるっ』
『了解だよー』
返信が来なくなったことを確認してから、私は携帯を鞄にしまった。
冷え切った指先に、はあ、と息を吹きかける。
こんなんで手が温まるわけがないよな。
温まると思い込んでいるだけ。
そう。
思い込んでいるだけなんだ。
私は駅前を歩く人たちを見渡した。
恋人同士なのか腕を組んで歩く男女に、スーツを着た男の人。
高いヒールを鳴らして、緩く巻いた髪の毛をなびかせている人。
腕を絡ませ歩く男女は本当に恋人同士なのだろうか。
スーツを身にまとう男性は、営業帰りのサラリーマンなのだろうか。
綺麗な服を身にまとう女の人は、これからどこに行くのだろうか……。
私は街歩く人たちを、自分と同じような人種だと勝手に決めつけた。
他人に興味がない。
だけど、人の温もりを求めたがる。
そんな汚れ切った人間。
そう思ってしまったのは、自分が汚れ切っている人間だからなんだろうな。
……それにしても。
「遅いなぁ……」
ぼそりと呟いた言葉は誰にも拾われることない。
そう思っていると、目の前に影がさした。
「君が朱里ちゃん?」
そう言って目の前に現れたのは、高身長の爽やかな男性。
私は慌てて口角をあげて笑顔を作った。
「もしかして、駿さんですかぁ?」
「そうそう! 待たせちゃってごめんね」
猫なで声を出す私に、顔の前で申し訳なさそうに手を合わせる駿さん。
私を待たせて申し訳なさそうな態度は合格。
この昼間に私服姿ってことは、仕事は今日休みなのか?
仕事の休憩時間に抜け出してまで私を求めてきたんじゃないだろうし、合格。
高校生ながらにも、男を見定めていた私。
「これから何したい? 一応、車はあるけど、初対面の人の車に乗るのは怖いかな?」
女の私に対して、男としての気遣いは合格だった。
ひとつ言うなら、私を寒い中待たせておいて、『温かいところに入る?』とかの心を掴むような気遣いができていない点は不合格。
アドバイスをするなら、『カフェでゆっくり温まろう』って言えば、大抵の女は心ときめくだろうね。
でも、私は演じた。
可愛くて、男から求められるような女の子を……。
「駿さんなら、車でも大丈夫だよっ」
「そう? じゃあ、おすすめのカフェがあるんだよ。行く?」
前言撤回。
……こいつは女心を分かっている。
合格だ。
「行くっ!」
「決まりだね。車は駅の裏に停めてあるから」
「駿さん~。車に着くまで、手、繋いでもいい?」
「ん? いいけど……」
「寒いから、駿さんが温めてっ」
語尾にハートマークが付いているんじゃないかってくらい、作った声を出す私。
そんな私に駿さんは手を差し出してきた。
ほら、大抵の男は、こういえば手を差し出してくれるんだから。
私は差し出された駿さんの腕に自分の腕を絡めながら、手を繋いだ。
これだけ密着すれば、駿さんもドキドキして私を求めるようになるはず……。
……そう思ったのに。
私の手は簡単に振りほどかれた。
「そんなに寒いなら、これ着て?」
そう言って、駿さんは自分の着ていたコートを脱いで私の肩にかけた。
思いがけない行動に、私は驚いて駿さんの顔を見つめる。
にこやかに微笑んでいる駿さんの目は、コートのように私を包み込んでくれるような、そんな温かな目だった。
どきんっ。
胸が高鳴ると同時に、ぎゅっと胸が掴まれたような気がした。
なに、これ。
こんなの、知らない。
知らないけど、知りたい。
私はもう一度、駿さんの手に自分の手を絡めようとした。
だけど、さっきとは違う。
自分の手が震えているんだ……。
怖いの?
もしかして、私、振り払われることが怖いとか考えているの?
そんなはず……。
大丈夫、さっきだって手を繋ぐことくらいできたんだもん。
伸ばしかけの手。
そんな手に気が付いたのか駿さんは、私を見て楽しそうに笑った。
「俺と手、繋ぎたいの?」
「えっと……」
「いいよ」
そう言って駿さんは私の手をぎゅっと握った。
温かくて大きい手。
細くてきれいな手だけど、男の人の手だ……。
どきんっ。
また、私の心臓が鼓膜に響いた。
「朱里ちゃんって、なんで、あのアプリやってるの?」
唐突な駿さんの言葉。
だけど、この質問は何十回と聞いた。
男と会うたびに、世間話のように聞かれる質問。
いつもの私だったら、なんて答えていただろう。
でも、なんとなく、駿さんは他の男と違うような気がするから。
私は自分の思いを、そのまま話した。
「好きな人が欲しくて。それで、その人に愛されたいから、だよ」
「それなら、出会い系とかじゃなくて、ちゃんとしたマッチングアプリとかやれば……」
そこまで言って駿さんは言葉を止めた。
きっと、察してくれたのだと思う。
「年齢制限があるから……。私、まだ17歳だもん」
ぎりぎりマッチングアプリはできない年齢だ。
だからマッチングアプリは未知の世界。
どんな男の人がいて、どんな感じの会話が通用するのか分からない。
だから今は、この出会い系アプリで、本気の恋愛を探したいんだ。
そんな私の手を引き、駿さんは歩いた。
先ほどまで鬱陶しかった青空が、少しだけ輝いて見えるような気がしたのを今でも覚えている。