十二月二十五日、聖夜。
いつも見慣れているファミレスの店内は煌びやかな装飾を施され、この日が一年の中でも特に大切な一日であることを実感させていた。
だからラストオーダーを一分過ぎて、転がり込むように入店した小さな子連れのお客様に、いつもなら「申し訳ございません。ラストオーダーの時間は過ぎています」と断るところを、今日という日だけは大目に見た。
「ご注文、繰り返させていただきます――」
ハンディターミナルで、厨房へ今日最後の注文を送る。何度もボタンを押し続けた右手の指は、そろそろ感覚を失いつつあった。
「――かしこまりました。それでは少々お待ちください」
そう言い残し、裏へと歩き出そうとしたところで「こんなに遅い時間なのに、本当にありがとうございます」と、母親からお礼を言われた。にこやかに会釈をして、家族から離れる。
「ちょっとちょっと横井くん。ラストオーダーの時間過ぎてるって」
裏で締めの作業をしていたはずの店長が、独断で動いたアルバイトの俺に慌てて注意を入れてくる。悪いことだとはわかっていた。最悪、一時間ほど残業しなきゃいけなくなるから。平時なら、俺も早く帰りたいと思った。だけど、今日は聖夜だから。
「今日の朝、突然バイトに出てほしいって無理な相談をされて泣く泣く出勤したんですから、少しの残業代くらい大目に見てくださいよ」
「それはそうだけど……」
「それじゃあ、退店したお客様のお皿、運ばなきゃいけないので。失礼します」
本当は予定なんかなかったし、電話では二言目には大丈夫ですと返事をしたけれど。
迷惑を掛けた分、なるべく早く帰れるように頑張ろうと、トレイを持ってホールへと戻った。そこでちょうど、おそらく店長との話を聞いていた後輩とすれ違い「クリスマスに家族連れに優しくできないから、そんな年になっても彼女出来ないんですよ」と、後ろで酷い罵声を浴びせられていた。
結局、タイムカードを切ったのは十一時を少し回った頃。いつもは十時過ぎには切っているから、一時間の残業。事務所で閉店作業をしていた店長には、波風を立てないように一応の詫びを入れておいた。
「横井は今まで頑張ってくれてるからな。今日はお疲れ。ありがとな」
根のところでは優しい店長だから、今回のことは不問にしてくれた。「ありがとうございます。それじゃ」と頭を下げ帰ろうとしたところで「あ、ちょっと待て」と、呼び止められる。
「なんですか?」
「もしかして横井、風音ちゃんと付き合ってるの?」
「まさか。ただの後輩ですよ」
「北峰だっけ」
「高校も一緒だったんです」
「そうか。あいつ、お前が終わるまで更衣室で待ってますって話してたぞ。あと、せっかくの休みだったんだから、人手足りないからって出勤させないでくださいって怒られた」
お節介な奴だ。
そして、いったい何の用だろう。心当たりはなかったけど、退勤する前に女子更衣室へと寄る。入るわけにはいかないから扉をノックすると、前で待ち構えていたのかというくらいの速さで、新田が更衣室から出てきた。
「お仕事お疲れ様です」
「新田もな」
「それじゃあ、帰りましょうか。一緒に」
「その前に、何か用があるんじゃないの?」
「別に。クリスマスに一人きりで帰るのもつまんないなって思ったから、待ってただけです」
「そっか。それじゃあ行くか」
特に、断るような理由もなかった。
街を鮮やかに照らす色とりどりの電飾は、まるで道行くカップルを出迎えているかのようだった。そんな場所で並んで歩いている俺たちは、きっと誰の目にもそういう風に映っているのかもしれない。
途中、コンビニに立ち寄らせてもらい、そこでホットのレモンティを買った。店を出て、手のひらに吐息を当てながら退屈そうに空を眺めていた新田に、そのまま飲み物を渡す。
「ほら、クリスマスプレゼント」
「クリスマスじゃなくても、たまに一緒に帰ってくれた時は、なんだかんだ買ってくれるじゃないすか」
「いつもは缶ジュースとかだろ?今日は五百ミリのペットボトルだ」
ふっとこぼれた笑みと共に、白い吐息が彼女の口元から空へと上っていった。
「相変わらずの苦学生ですね」
「一人暮らしだからな」
「実家に戻ればいいのに」
「自立したかったんだよ」
正確には、一人になりたかった、が正しいのかもしれない。地元だというのにわざわざ一人暮らしを選択し、そのおかげで大学への距離は少しだけ長くなった。後悔はしていない。
「女連れ込んでるって、この前将人先輩が」
「まさか。そもそも彼女なんていないよ、俺には」
「作ればいいのに」
「勉強もレポートも、それにアルバイトだって忙しいから、今はいいよ。仮に付き合っても、一緒に遊ぶ時間がない」
「アルバイトが忙しいのは、忙しくしているから、ですね」
痛いところを突かれて口ごもる俺の目を、新田はただ黙って見つめてくる。その行為にも飽きてしまったのか、また自宅へ歩みを進めることを再開させた。
それから住宅街に差し掛かって、人通りもはけてきたタイミングを見計らって、また彼女は歩きながら先ほどの続きを始めてくる。
「恋で負った傷は、勉強や仕事じゃ癒せないですよ。先輩がやっていることは、傷口に蓋をして、なるべく見ないようにしているだけです」
「新田って、そんなに人にお節介焼くようなタイプだったっけ」
「茶化さないでください」
茶化しているつもりはなかった。ただ暗く沈んでいくこの場を和ませようとしただけで。
「先輩、今日で何連勤目ですか?」
「まだ二連勤だって」
「違います。掛け持ちしてるアルバイトを合わせて、です」
いったいこの子は、どこでそんな情報を仕入れてきたんだろう。なんて思ったけど、心当たりはあった。たぶん、将人が告げ口をしたんだ。
「スーパーのアルバイトを含めたら、たぶん十……」
「……いつか倒れますよ」
「どうせ年末年始は休業だから。そこで体力は調整するよ」
「それまでに倒れたらどうするんですか」
「……そんなこと、新田に関係ないだろ」
つい口走った俺の尖った物言いに、おそらく彼女の怒りは一瞬にして沸点まで上昇した。目を限界まで見開き、今にも怒鳴り散らしてきそうな勢いが、たぶんすんでのところでおさまった。
その代わり、スイッチが切れたように俺の胸に体を預けてくる。
「関係ないなんて、悲しいこと言わないでください……身を削っている姿を見てるのが、私は辛いんです……」
「ごめん……」
「……明日は、私が代わりに出るって店長に言ったから、先輩は家で大人しくしててください」
「……わかったよ。いつも、ありがとう」
「それと……」
ためらいがちに、言葉を区切ってくる。次に言われるセリフは、なんとなく予想ができていた。それは今までにも何度か言われたことで、そのたびに俺は申し出を断ってきたから。
「私じゃ、莉奈の代わりにはなれませんか……?」
新田の肩に手を置いて、優しく遠ざける。今度こそ心にもない言葉で悲しませたりしないように、なるべく選んで口を開いた。
「新田は、新田だよ。人は絶対に、誰かの代わりにはなれないから。それでも、いつも君に助けられてる」
「私が言いたいのは、そういうことじゃなくてっ……」
「ごめん。君だからとかじゃなくて、まだそういうことを考えられないんだ」
恋人たちが一年で一番浮かれる聖夜だというのに。いつも傷付いた心を癒そうとしてくれる優しい彼女は、ダムの水が決壊したように涙を流した。その小さな体を抱きしめることもできないまま立ち尽くしていると、地面に降り積もった雪の上に、一人分の足跡を残して走り去っていった。
「ごめん……」
大学二年、冬。
俺はまだ、道心莉奈の死を受け入れられずにいた――
なんだかんだ今の自分があるのは、将人や新田の存在が大きいんだろう。
高校受験を失敗した時や、大切な人と死別した時。人生の大きな変わり目に、必ずと言っていいほど俺の親友は寄り添ってくれていた。
新田も、高校を卒業してから一年間は音信不通で、生きているのかも定かではなかったけど、宣言通りに北峰を合格して再び後輩になり、今は同じバイト先で働いている。俺の周りにはお節介な奴が多くて、時折亡くなってしまった彼女のことを思い出してしまうこともあるけど、やっぱり救われている部分はあった。
「なあ修一、ツマミ」
「お前がさっき全部食ったんだろ」
今日だって、年の瀬だというのにスーパーで安酒を買い漁ってきて、俺を一人きりにしないように、将人は見張ってくれている。
「コンビニまで買いに行くか?」
「もうすぐ今年も終わるし、今日は我慢するよ」
言いながら、将人はビールをもう一缶開けた。これでもう、五本目。いつもなら酔いつぶれないよう自制しているのに、いつの間にか顔は真っ赤になって、うつらうつらしていた。
「もうやめとけよ。ほら、水」
「ん、さんきゅ」
「もしかして、なんかあったか?」
ペットボトルに入った水を四分の一ほど飲み干し、また缶ビールに手を付け始めた頃に話してくれた。
「良かれと思ってやったことが裏目に出たみたいで、ちょっと凹んでんだよ」
「人生なんて、そんなことの連続だろ」
「……悪かったな、修一」
やっぱり、というよりも、最初からわかってた。年の瀬に酒を飲もうと言ってきたときから。きっとそういう理由もあったんだろうって。
「良かれと思ってやったんだろ?」
「そうだけどさ。結果的に、二人とも傷つけたから」
将人の目論見としては、さりげなく新田に気を遣ってもらうつもりだったんだろう。だけど彼女は、あの時から誰かさんの代わりになろうと頑張ってしまっているから。
たぶんそのせいで、ストレートにしか伝えることができなくて。俺も、みんなの優しさを素直に受け取ることができなかった。ただ、それだけのことだった。
「新田にはすぐに謝罪のメッセージ送っといたから」
「ほんと、悪かったな」
「もう寝とけ。明日は初詣行くんだろ?」
「いや、もう少しだけ」
なんとなく手持無沙汰になってテレビを付けてみると、ちょうど年越しのカウントダウンのタイミングだった。画面の向こうの観客と出演者は、共に新しい年を祝うため、まるで別世界の映像みたいに盛り上がっていた。こんな時でさえ、もし彼女が生きていたとしたら、あんな風に盛り上がれていたのかも、なんて考えてしまう。
きっと将人も同じことを考えていて。だから珍しく、一度だけ鼻をすすっていた。やがて、カウントダウンがゼロを刻む。こうしてまた、俺たちだけが新しい時を進んで。莉奈と別れてしまったあの日から、だんだんと遠ざかっていく。
「あけましておめでとう」
心のこもっていない儀礼のようなセリフを吐く。いつの間にか酔いつぶれていた将人には、聞こえていなかったみたいだ。そっとタオルケットを掛けて、なんとなくベランダへと出た。
雪が降り積もった、寒風吹きすさぶ真冬の世界に身震いする。最後の除夜の鐘が聞こえてきたとき、ポケットに入れていたスマホも一緒に振動した。メッセージを確認すると、こんな時間にもおめでとうと送ってくれたのは新田だった。
〈あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。先輩〉
ほっと息を吐くと、白い靄が空へと昇る。一瞬にして冷え切ってしまった指先で、返信のための文字を打ち込んだ。
〈あけましておめでとう。今年もよろしく〉
送信する前に一瞬迷って、すべての文字を一旦削除した。あまりにも感情のこもっていない文章だったから、すぐに打ち直すことに決めた。
〈あけましておめでとう。スーパーのアルバイト、一月限りで辞めさせてもらうことにした。生活費稼がなきゃいけないから、ファミレスの方にたくさん出なきゃいけなくなるし本末転倒かもしれないけど。だから、今年もよろしくな〉
今度は迷わずに、送信を押せた。
それからメールフォルダを開いて、また別の相手へのメッセージを打ち込む。
〈あけましておめでとう。去年は一人だったけど、今年は将人と一緒に酒を飲んで年を越せたから、ほんの少しだけ寂しさを紛らせた気がする。本当は新田も呼びたかったけど、少し前にあいつのことを傷付けちゃったから、今回はやめといた。でも来年こそは一緒に過ごせたらと思ってるし、たぶんもう次に会った時にはいつも通り話せる気がする。というか明日の初詣は、たぶん誘うと思う。本当に、みんなに迷惑を掛けっぱなしだけど。いつかは、君がいなくなったことを受け入れて、前を向いて歩いていきたいって決めてるから。だから、安心して。
それじゃあ、おやすみ莉奈。いい夢を〉
送信ボタンを押すと、そのメールは今日も無事に俺のスマホから送られていった。
亡くなった相手に初めてメールを出したのは、大学に入学してすぐの頃だった。当時一人暮らしを始めて、生きているのか死んでいるのかわからない生活を送っていた俺は、すがる思いで莉奈のアドレスに向けてメールを送った。もう携帯も解約しているだろうし、届かないだろうと思っていたけど、そのメールはなぜかこちらに帰ってくることなく送信された。
故人にメールを送るなんて、馬鹿なことをしていると自分でも思う。天国には届かないとわかっていても、今の俺が気持ちを整理できる方法はこれぐらいしかなかったから。世間の波が携帯からスマホに変わって、メールからメッセージに変遷した後も、こうやって折を見て一方的な言葉を送っていた。
もちろんここは現実で、物語の世界のように亡くなった相手から返信が来たことなんて一度もないけど。少しの奇跡も起きないことはわかっていたから、それはそれで安心していられた。
そろそろベランダから部屋へ戻ろうと決めた時、新田からメッセージが返ってきた。
〈おやすみなさい。いい夢、見てくださいね〉
その日は、久しぶりに高校時代の夢を見た。聖夜に彼女とイルミネーションを見ながら笑い合って、無事に指輪をプレゼントすることのできた夢だった。
朝起きた時、俺は泣いていた。泣きながら、将人を起こさないように、机の上のゴミを袋にまとめていた。
いつも見慣れているファミレスの店内は煌びやかな装飾を施され、この日が一年の中でも特に大切な一日であることを実感させていた。
だからラストオーダーを一分過ぎて、転がり込むように入店した小さな子連れのお客様に、いつもなら「申し訳ございません。ラストオーダーの時間は過ぎています」と断るところを、今日という日だけは大目に見た。
「ご注文、繰り返させていただきます――」
ハンディターミナルで、厨房へ今日最後の注文を送る。何度もボタンを押し続けた右手の指は、そろそろ感覚を失いつつあった。
「――かしこまりました。それでは少々お待ちください」
そう言い残し、裏へと歩き出そうとしたところで「こんなに遅い時間なのに、本当にありがとうございます」と、母親からお礼を言われた。にこやかに会釈をして、家族から離れる。
「ちょっとちょっと横井くん。ラストオーダーの時間過ぎてるって」
裏で締めの作業をしていたはずの店長が、独断で動いたアルバイトの俺に慌てて注意を入れてくる。悪いことだとはわかっていた。最悪、一時間ほど残業しなきゃいけなくなるから。平時なら、俺も早く帰りたいと思った。だけど、今日は聖夜だから。
「今日の朝、突然バイトに出てほしいって無理な相談をされて泣く泣く出勤したんですから、少しの残業代くらい大目に見てくださいよ」
「それはそうだけど……」
「それじゃあ、退店したお客様のお皿、運ばなきゃいけないので。失礼します」
本当は予定なんかなかったし、電話では二言目には大丈夫ですと返事をしたけれど。
迷惑を掛けた分、なるべく早く帰れるように頑張ろうと、トレイを持ってホールへと戻った。そこでちょうど、おそらく店長との話を聞いていた後輩とすれ違い「クリスマスに家族連れに優しくできないから、そんな年になっても彼女出来ないんですよ」と、後ろで酷い罵声を浴びせられていた。
結局、タイムカードを切ったのは十一時を少し回った頃。いつもは十時過ぎには切っているから、一時間の残業。事務所で閉店作業をしていた店長には、波風を立てないように一応の詫びを入れておいた。
「横井は今まで頑張ってくれてるからな。今日はお疲れ。ありがとな」
根のところでは優しい店長だから、今回のことは不問にしてくれた。「ありがとうございます。それじゃ」と頭を下げ帰ろうとしたところで「あ、ちょっと待て」と、呼び止められる。
「なんですか?」
「もしかして横井、風音ちゃんと付き合ってるの?」
「まさか。ただの後輩ですよ」
「北峰だっけ」
「高校も一緒だったんです」
「そうか。あいつ、お前が終わるまで更衣室で待ってますって話してたぞ。あと、せっかくの休みだったんだから、人手足りないからって出勤させないでくださいって怒られた」
お節介な奴だ。
そして、いったい何の用だろう。心当たりはなかったけど、退勤する前に女子更衣室へと寄る。入るわけにはいかないから扉をノックすると、前で待ち構えていたのかというくらいの速さで、新田が更衣室から出てきた。
「お仕事お疲れ様です」
「新田もな」
「それじゃあ、帰りましょうか。一緒に」
「その前に、何か用があるんじゃないの?」
「別に。クリスマスに一人きりで帰るのもつまんないなって思ったから、待ってただけです」
「そっか。それじゃあ行くか」
特に、断るような理由もなかった。
街を鮮やかに照らす色とりどりの電飾は、まるで道行くカップルを出迎えているかのようだった。そんな場所で並んで歩いている俺たちは、きっと誰の目にもそういう風に映っているのかもしれない。
途中、コンビニに立ち寄らせてもらい、そこでホットのレモンティを買った。店を出て、手のひらに吐息を当てながら退屈そうに空を眺めていた新田に、そのまま飲み物を渡す。
「ほら、クリスマスプレゼント」
「クリスマスじゃなくても、たまに一緒に帰ってくれた時は、なんだかんだ買ってくれるじゃないすか」
「いつもは缶ジュースとかだろ?今日は五百ミリのペットボトルだ」
ふっとこぼれた笑みと共に、白い吐息が彼女の口元から空へと上っていった。
「相変わらずの苦学生ですね」
「一人暮らしだからな」
「実家に戻ればいいのに」
「自立したかったんだよ」
正確には、一人になりたかった、が正しいのかもしれない。地元だというのにわざわざ一人暮らしを選択し、そのおかげで大学への距離は少しだけ長くなった。後悔はしていない。
「女連れ込んでるって、この前将人先輩が」
「まさか。そもそも彼女なんていないよ、俺には」
「作ればいいのに」
「勉強もレポートも、それにアルバイトだって忙しいから、今はいいよ。仮に付き合っても、一緒に遊ぶ時間がない」
「アルバイトが忙しいのは、忙しくしているから、ですね」
痛いところを突かれて口ごもる俺の目を、新田はただ黙って見つめてくる。その行為にも飽きてしまったのか、また自宅へ歩みを進めることを再開させた。
それから住宅街に差し掛かって、人通りもはけてきたタイミングを見計らって、また彼女は歩きながら先ほどの続きを始めてくる。
「恋で負った傷は、勉強や仕事じゃ癒せないですよ。先輩がやっていることは、傷口に蓋をして、なるべく見ないようにしているだけです」
「新田って、そんなに人にお節介焼くようなタイプだったっけ」
「茶化さないでください」
茶化しているつもりはなかった。ただ暗く沈んでいくこの場を和ませようとしただけで。
「先輩、今日で何連勤目ですか?」
「まだ二連勤だって」
「違います。掛け持ちしてるアルバイトを合わせて、です」
いったいこの子は、どこでそんな情報を仕入れてきたんだろう。なんて思ったけど、心当たりはあった。たぶん、将人が告げ口をしたんだ。
「スーパーのアルバイトを含めたら、たぶん十……」
「……いつか倒れますよ」
「どうせ年末年始は休業だから。そこで体力は調整するよ」
「それまでに倒れたらどうするんですか」
「……そんなこと、新田に関係ないだろ」
つい口走った俺の尖った物言いに、おそらく彼女の怒りは一瞬にして沸点まで上昇した。目を限界まで見開き、今にも怒鳴り散らしてきそうな勢いが、たぶんすんでのところでおさまった。
その代わり、スイッチが切れたように俺の胸に体を預けてくる。
「関係ないなんて、悲しいこと言わないでください……身を削っている姿を見てるのが、私は辛いんです……」
「ごめん……」
「……明日は、私が代わりに出るって店長に言ったから、先輩は家で大人しくしててください」
「……わかったよ。いつも、ありがとう」
「それと……」
ためらいがちに、言葉を区切ってくる。次に言われるセリフは、なんとなく予想ができていた。それは今までにも何度か言われたことで、そのたびに俺は申し出を断ってきたから。
「私じゃ、莉奈の代わりにはなれませんか……?」
新田の肩に手を置いて、優しく遠ざける。今度こそ心にもない言葉で悲しませたりしないように、なるべく選んで口を開いた。
「新田は、新田だよ。人は絶対に、誰かの代わりにはなれないから。それでも、いつも君に助けられてる」
「私が言いたいのは、そういうことじゃなくてっ……」
「ごめん。君だからとかじゃなくて、まだそういうことを考えられないんだ」
恋人たちが一年で一番浮かれる聖夜だというのに。いつも傷付いた心を癒そうとしてくれる優しい彼女は、ダムの水が決壊したように涙を流した。その小さな体を抱きしめることもできないまま立ち尽くしていると、地面に降り積もった雪の上に、一人分の足跡を残して走り去っていった。
「ごめん……」
大学二年、冬。
俺はまだ、道心莉奈の死を受け入れられずにいた――
なんだかんだ今の自分があるのは、将人や新田の存在が大きいんだろう。
高校受験を失敗した時や、大切な人と死別した時。人生の大きな変わり目に、必ずと言っていいほど俺の親友は寄り添ってくれていた。
新田も、高校を卒業してから一年間は音信不通で、生きているのかも定かではなかったけど、宣言通りに北峰を合格して再び後輩になり、今は同じバイト先で働いている。俺の周りにはお節介な奴が多くて、時折亡くなってしまった彼女のことを思い出してしまうこともあるけど、やっぱり救われている部分はあった。
「なあ修一、ツマミ」
「お前がさっき全部食ったんだろ」
今日だって、年の瀬だというのにスーパーで安酒を買い漁ってきて、俺を一人きりにしないように、将人は見張ってくれている。
「コンビニまで買いに行くか?」
「もうすぐ今年も終わるし、今日は我慢するよ」
言いながら、将人はビールをもう一缶開けた。これでもう、五本目。いつもなら酔いつぶれないよう自制しているのに、いつの間にか顔は真っ赤になって、うつらうつらしていた。
「もうやめとけよ。ほら、水」
「ん、さんきゅ」
「もしかして、なんかあったか?」
ペットボトルに入った水を四分の一ほど飲み干し、また缶ビールに手を付け始めた頃に話してくれた。
「良かれと思ってやったことが裏目に出たみたいで、ちょっと凹んでんだよ」
「人生なんて、そんなことの連続だろ」
「……悪かったな、修一」
やっぱり、というよりも、最初からわかってた。年の瀬に酒を飲もうと言ってきたときから。きっとそういう理由もあったんだろうって。
「良かれと思ってやったんだろ?」
「そうだけどさ。結果的に、二人とも傷つけたから」
将人の目論見としては、さりげなく新田に気を遣ってもらうつもりだったんだろう。だけど彼女は、あの時から誰かさんの代わりになろうと頑張ってしまっているから。
たぶんそのせいで、ストレートにしか伝えることができなくて。俺も、みんなの優しさを素直に受け取ることができなかった。ただ、それだけのことだった。
「新田にはすぐに謝罪のメッセージ送っといたから」
「ほんと、悪かったな」
「もう寝とけ。明日は初詣行くんだろ?」
「いや、もう少しだけ」
なんとなく手持無沙汰になってテレビを付けてみると、ちょうど年越しのカウントダウンのタイミングだった。画面の向こうの観客と出演者は、共に新しい年を祝うため、まるで別世界の映像みたいに盛り上がっていた。こんな時でさえ、もし彼女が生きていたとしたら、あんな風に盛り上がれていたのかも、なんて考えてしまう。
きっと将人も同じことを考えていて。だから珍しく、一度だけ鼻をすすっていた。やがて、カウントダウンがゼロを刻む。こうしてまた、俺たちだけが新しい時を進んで。莉奈と別れてしまったあの日から、だんだんと遠ざかっていく。
「あけましておめでとう」
心のこもっていない儀礼のようなセリフを吐く。いつの間にか酔いつぶれていた将人には、聞こえていなかったみたいだ。そっとタオルケットを掛けて、なんとなくベランダへと出た。
雪が降り積もった、寒風吹きすさぶ真冬の世界に身震いする。最後の除夜の鐘が聞こえてきたとき、ポケットに入れていたスマホも一緒に振動した。メッセージを確認すると、こんな時間にもおめでとうと送ってくれたのは新田だった。
〈あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。先輩〉
ほっと息を吐くと、白い靄が空へと昇る。一瞬にして冷え切ってしまった指先で、返信のための文字を打ち込んだ。
〈あけましておめでとう。今年もよろしく〉
送信する前に一瞬迷って、すべての文字を一旦削除した。あまりにも感情のこもっていない文章だったから、すぐに打ち直すことに決めた。
〈あけましておめでとう。スーパーのアルバイト、一月限りで辞めさせてもらうことにした。生活費稼がなきゃいけないから、ファミレスの方にたくさん出なきゃいけなくなるし本末転倒かもしれないけど。だから、今年もよろしくな〉
今度は迷わずに、送信を押せた。
それからメールフォルダを開いて、また別の相手へのメッセージを打ち込む。
〈あけましておめでとう。去年は一人だったけど、今年は将人と一緒に酒を飲んで年を越せたから、ほんの少しだけ寂しさを紛らせた気がする。本当は新田も呼びたかったけど、少し前にあいつのことを傷付けちゃったから、今回はやめといた。でも来年こそは一緒に過ごせたらと思ってるし、たぶんもう次に会った時にはいつも通り話せる気がする。というか明日の初詣は、たぶん誘うと思う。本当に、みんなに迷惑を掛けっぱなしだけど。いつかは、君がいなくなったことを受け入れて、前を向いて歩いていきたいって決めてるから。だから、安心して。
それじゃあ、おやすみ莉奈。いい夢を〉
送信ボタンを押すと、そのメールは今日も無事に俺のスマホから送られていった。
亡くなった相手に初めてメールを出したのは、大学に入学してすぐの頃だった。当時一人暮らしを始めて、生きているのか死んでいるのかわからない生活を送っていた俺は、すがる思いで莉奈のアドレスに向けてメールを送った。もう携帯も解約しているだろうし、届かないだろうと思っていたけど、そのメールはなぜかこちらに帰ってくることなく送信された。
故人にメールを送るなんて、馬鹿なことをしていると自分でも思う。天国には届かないとわかっていても、今の俺が気持ちを整理できる方法はこれぐらいしかなかったから。世間の波が携帯からスマホに変わって、メールからメッセージに変遷した後も、こうやって折を見て一方的な言葉を送っていた。
もちろんここは現実で、物語の世界のように亡くなった相手から返信が来たことなんて一度もないけど。少しの奇跡も起きないことはわかっていたから、それはそれで安心していられた。
そろそろベランダから部屋へ戻ろうと決めた時、新田からメッセージが返ってきた。
〈おやすみなさい。いい夢、見てくださいね〉
その日は、久しぶりに高校時代の夢を見た。聖夜に彼女とイルミネーションを見ながら笑い合って、無事に指輪をプレゼントすることのできた夢だった。
朝起きた時、俺は泣いていた。泣きながら、将人を起こさないように、机の上のゴミを袋にまとめていた。