日曜日のデートのため、土曜日は髪を切りに行ったり服を買いに行こうかと思ったが、朝食を食べた後にその予定を頭の中から消した。今さら俺という人間を取り繕ったところで不自然になるだけだろうし、仮に背伸びをして上手く行ったとしても、この先ずっとそれを続けて行くのは息が詰まるからだ。
 だから、土曜日は少しだけ遅れてしまっていた受験勉強を取り戻すことに費やした。
 日が明けて、日曜日。珍しく私服に着替えて九時に家を出ようとした俺を、母さんは「ちょっと待って」と引き止めてきた。まさかこのタイミングでお使いを頼むつもりじゃないだろうなと身構えていたら、眉を寄せて「もしかして、家出するつもり……?」と訊ねてきた。
 つまり俺が休日に出かけるのはそれほどの珍事であり、人並みに一般的な高校生である横井修一は「いったい息子のことを何だと思ってるんだ」と静かに憤慨した。

「冗談よ。もしかしてデート?」
「……まあ、そんなところ」
「そ、上手く行くといいわね」

 なぜか機嫌良さそうにそれだけ言うと、母親はまた奥へと引っ込んでいった。
 今のちょっとしたくだらないやり取りのおかげで、俺はいつもの調子を取り戻せたような気がする。心の中で、母さんに感謝した。
 バスに乗り込んで駅前で降りると、予定の時間よりも三十分は早かった。近くのベンチに座ってのんびり待っていると、集合時間の一分前に小走りで道心がやってきた。

「待ちましたか⁉」
「いや、今来たところ」
「あ、よかったぁ……」

 敬語が抜けているあたり、本気で焦っているのがうかがえる。
そして俺は、彼女がここに来るまでは平常心でいられたけど、その化粧が乗った顔を見た瞬間から、これがデートという非日常なのだということをハッキリ意識させられた。髪型も、いつものストレートではなく内巻きにウェーブがかっていて、おそらくこういった支度をしてきたから遅れたんだろうなということが容易に想像できた。
そして呼吸が落ち着き始めると。
「私、何か変な所とかありませんか?髪、跳ねてたりしませんか?」
 訊ねながら、俺の前でくるくる回ってくる。いつものホワイトムスクの香りが風に乗ってやってきて、鼻腔を心地良くくすぐった。

「大丈夫だよ。桜のヘアピン、すごく似合ってる。学校にも付けてくればいいのに」

 引かれないだろうという無難なところを指摘すると、道心はそっと桜のヘアピンを指先で触れた。

「わ、ありがとうございます!会長って、やっぱり私のこと見てくれてるんですね」

 そりゃあ好きなんだから当たり前だろと口にしかけたが、それこそドン引きされてしまうような気がして「あはは」と誤魔化すように笑っておいた。

「今更だけど、映画って何見るの?」
「あ、伝えるの忘れてました! 余命一年の君と出会う話っていう映画が見たいです!」

 俺でも知っている、巷の学生の間で流行りの映画だ。
 まだ上映時間まで余裕はあったけれど、それじゃあ行こうかと口にしかけたところで思いとどまった。彼女の額に汗が滲んでいて、微かに息が切れているのがわかったから。
 代わりに、シネマとは別の方向を指差す。

「そこのカフェでちょっと休憩してから行こうか」
「え、別に疲れてませんよ?」
「息切れてるのわかるよ。病み上がりなんだから、無理するな」

 道心の頬が赤くなったのがわかった。おそらくこれは、体調とは無関係のものだ。いたずらのバレた子供のように、彼女がふにゃりと笑う。

「やっぱり、ちゃんと見てくれてるんですね」
「……当たり前だろ」
「それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます」

 ポケットの中からハンカチを取り出すと、額に滲んでいた汗を拭った。
 店内に入るとコーヒーの匂いが鼻腔を通り抜ける。入店したはいいものの、もちろんこういったお洒落なお店に耐性がないため、レジ前で見せられた横文字だらけの注文表で目が回った。

「私、キャラメルマキアートでお願いします。会長はどうしますか?」
「あ、じゃあ同じので……」

 若い女の店員さんは快活な声で「かしこまりました。ご注文を繰り返させていただきます」と応対したが、対照的に道心はこちらを見て首を傾げていた。そして注文の繰り返しが終わったところで。

「すみません。やっぱりキャラメルマキアートと、キャラメルスチーマーにしてもらっていいですか?」と、注文内容を変更した。気分が変わったんだろうか。
 それから当然のように二人分のお金を出そうとしたが「今日は奢りとかはなしでお願いしますね」と、ハッキリ拒否されてしまう。食い下がらずに、お互いの財布から正規の料金を支払った。
 飲み物を受け取ってから近くの空席に座る。それからあらためて「私、割り勘だからって男性に幻滅するような女の子じゃないですよ」と言われた。
 わかってはいるけれど、男としての小さな見栄があるとは恥ずかしくて言えるはずもない。

「それにちゃんと割り勘の方が、次もたくさん遊べるじゃないですか。その方が、私は嬉しいです」

 まるで、次もこうして一緒に出掛けてもいいと言われているみたいだ。今、俺はにやけているような気がして、おもむろにカップを口元へと近づけた。キャラメルマキアートから立ち上る湯気で、こっそり表情を誤魔化せているだろうか。
正面に座る道心にじっと見つめられていることに気付き、首を傾げる。

「どうしたの? 何か顔についてる?」
「いえ、お気になさらないでください」

 変な奴だ。躊躇なくまだ温かいキャラメルマキアートを口に含むと、キャラメルの甘さの中に、急にコーヒーの苦みが混ざり合って、思わず顔をしかめた。そして、それを予想していたかのように口元に手を当てて笑ってくる。

「やっぱりどんな飲み物か知らなかったんですね」
「こういうところに来たのは初めてだから……」
「そういう反応をすると思っていたので、会長はこっちを飲んでください」

 道心は、受け取ってから一度も口を付けていない、キャラメルなんとかという飲み物と交換してくれた。

「緑茶も苦手な会長なので、こっちは絶対に飲めないだろうなって予想してました」
「いや、頑張れば飲めるから……」
「はいはい、冷めるので早くそっち飲んでくださいね」

 結局適当にあしらわれてしまったのが、先輩として恥ずかしい。そして俺が口を付けたカップに道心の唇が重なり、みるみるうちに体が熱くなった。本当に男はどうしようもないほど馬鹿だ。
 また誤魔化すように口に含んだキャラメルなんとかは、緊張のせいで味がよくわからなかった。



 道心が見たいと言った作品は、いわゆる王道と呼ばれるような恋愛映画だった。まずこういう作品は、主人公と出会った女の子が病気を患っている。独自な感性を持つ彼女に惹かれて行く男は、だんだんと前向きに生きるようになり、けれど最後を看取ることができずに死別する。
 彼女の母親に訃報を知らされた時、主人公の気持ちに寄り添うように周りからすすり泣く音が聞こえてきたが、すぐ隣に座っている道心はキャラメル味のポップコーンを摘まみながら、平然とスクリーンを直視していた。
 物語最大の泣き場である遺書を読み上げるシーンでさえ、残り少なくなったオレンジジュースをいつもの表情ですすっている。やがてエンドロールが流れ始め、まばらに席を立ち始める人たちが現れたが、彼女は最後の最後まで席を立たずにじっとしていた。
 照明の落ちていた映画館が、画面に映ったFinという文字が消えると共に明るくなり始める。しばらく映画を見た後、なんとなく第一声を発し辛いと思うのは、果たして俺だけなんだろうか。
 すごい泣いた、感動した。そんな感想が遠巻きに聞こえてくる横で、彼女は「はー面白かったですね!」と満足そうに伸びをしていた。会話を振ってくれたおかげで、俺も自然と「面白かったね」と答えることができた。



 他のお客さんに紛れるようにして映画館を出ると、空はどんよりとした鈍色に覆われていた。天気予報を確認せずに家を出るという失態に気付いたのはまさにこの瞬間で、あいにく今日は二人とも傘は持ち合わせていなかった。
 そうこうしているうちに、雨がぽつりぽつりと降り始める。

「ちょっとコンビニで傘買ってくるよ。待ってて」
「いえ。帰るときに、まだ雨が降ってたら買うことにしませんか? それまであそこのファミレスでご飯食べながらお話ししましょう」

 俺の返事を待たずにファミレスへと向かい始めたから、すぐに横を並んで歩いた。幸いにも、空から降ってきたしずくは少しだけしか体に当たらなかった。
 店内に入り、テーブル席へと案内される。メニュー表を眺める彼女は、外の荒れ始めた天気とは違ってどこかご機嫌な様子だった。

「悪い。天気予報確認してなかった」

 朝は正直浮かれていて、雨が降るなんていう予想がまったくできていなかった。

「大丈夫です。私、今日はそもそも天気予報を見ないでおこうと思って出てきましたから」
「どうして?」
「天気の崩れる時間とか、晴れるタイミングを事前に知っていたら、これくらいの時間にはだいたいここにいるんだろうなーっていうのが、なんとなくわかっちゃうじゃないですか。そういうのは、ちょっとネタバレされている気がして嫌だなって」
「でも、このまましばらく雨がやまないかも」

 俺の言葉に呼応するように、外の雨脚が強まったような気がした。

「その時は、雨がやむまでここでお話ししましょう」
「夜までやまなかったら?」

 今のは少し、心配のしすぎだったかもしれない。けれど彼女は「その時は、二人で雨に打たれながら傘を買いに行きましょう」と笑顔で答えた。それ以外の選択肢がないことに遅れて気付き、苦笑してしまう。
 俺は少し、完璧なデートにしなければいけないと、気負いすぎていたのかもしれない。
 彼女の注文したミートソースのスパゲッティと、俺の注文したハンバーグのランチがテーブルへと運ばれてくる。それから自然と、話題は先ほどの映画へ移り変わった。

「会長、泣いてませんでしたね」
「道心も泣いてなかった」
「一応、小説の方は読了済みだったので」
「その時は泣いたの?」

  フォークとスプーンを使い、パスタを綺麗に巻きながら道心は首を振った。

「物語自体は好きなんですけど、最後の展開だけは悲しいなと思うんです」
「亡くなるところ?」
「遺書を読むところです」

 一度巻き取ったパスタを口に入れて、咀嚼し飲み込んだ。

「私は、本当に伝えたいことは、生きているうちに伝えたいんです。そういう風に、生きていきたいと思うんです。だから私が仮に病気を患ったとしても、その時そばにいてくれる大切な人に遺書は残しません。感じたことや思ったことは、包み隠さず言葉にした方がいいですから」
「そっか。悔いのない人生にしたいんだね」
「なるべく、ですけどね。亡くなっちゃったら、多かれ少なかれ悔いは残りますから」

 しかし自分の価値観を話し終えた後になって、彼女は「まあ、本当にそんな事態に陥った時、自分がどういう行動をするかなんてわからないですけど」と締めくくった。つまり、彼女の考えるデートと一緒で、その時の価値観で行動したいということなんだろう。

「ところで先輩の感想はどうですか?」
「俺は、物語の主人公のように強くはなれないと思ったよ。大切な人が病気になってしまったら、平常心ではいられなくなると思う。それでも、なんとかして大切な人のために尽くそうとするかな」

 くさいセリフだと思った。けれど道心は笑わずにいてくれた。

「出会ったことに、後悔はしないんですか?出会わなきゃよかったって、思いませんか?」
「思わないよ」

 どうしてですか?そう問いかけるように、俺の瞳を真っすぐに見つめてくる彼女。俺は、偽りなく本心を答えた。

「だって、出会ってしまったから。過去は変えられないし、そんなくだらないことを考えて時間を浪費するぐらいなら、大切な人が少しでも後悔しないような人生を送らせてあげたい」
「そうですか」

 俺の答えに満足したのか、どこか納得した表情でオレンジジュースをストローで吸い上げた後「会長らしいですね」と呟いた。俺は、一応そういう人間だと思われているらしい。
 それからは世間話をしながら、目の前に並べられたご飯を食べていった。お互いに注文した料理が皿の上からなくなっても、外の天気は相変わらずの雨で。けれどやっぱり、彼女はそのどんよりとした雲でさえも楽し気に見つめていた。
 こんな風にいつまでも彼女と一緒にいられるなら、雨でも悪くはないのかなと思う。
 しかし一時間後には、あんなに激しかった雨もすっかりやんで、曇天の隙間から光が差し込み始めた。雨が止んだら、ここを出なければいけない。この後の予定は、何も決めていなかった。
 雨が降り続けてほしいと思ったのは、俺にとっては生まれて初めての経験だった。

「会長、追加で注文頼んでもいいですか?」

 外に気を取られているうちに、道心は再びメニュー表を開いていた。手のひらを上に向け、どうぞとジェスチャーする。俺も追加でチーズケーキを頼んだ。デザートを食べている時、俺らの間に会話はなかった。
 追加で頼んだものも胃の中へと収まり、グラスの中の飲み物もなくなって、いよいよという頃合いになった時、彼女はあらたまったように手のひらを膝の上へと置いた。

「大事な話があります。聞いてくれますか?」

 思わず、背筋を正してしまう。
ついにここで、俺という人間の判断が下される。ごくりと生唾を飲み込む。心臓の鼓動が急速に速まっていくのを感じた。緊張で、頷くこともできずに固まっていると、彼女は場を和ませるように「ふふっ」と笑みをこぼし「と思ったんですけど、もう少し静かな場所に行きましょうか」と、場所をあらためることを提案してくれた。



ファミレスを出てから、おそらく当てもなく彼女は歩き出し、俺はただ黙って後ろを着いていった。もしかすると、告白の断り方を考えているんじゃないかと思い始めたのは、駅周辺から離れ住宅街に差し掛かった頃で。もうすでに日は沈みかけていた。

「あそこにしましょうか」

 道心が指を差したのは、東屋のある小さな公園だった。遊具は何もなく、雨上がりだから遊んでいる子どもたちもいない。東屋の木製のベンチは、あんなにも雨が強かったというのに奇跡的に濡れておらず、彼女はそこへ腰を落ち着けた。

「会長も座ってください」
「あ、うん……」

 頭の中は最悪の想像ばかりが巡っていて、まるで予防線を張るように一人分の空白を開けて隣に座る。それから約十分、辺りには風の音と鳥の鳴き声だけが響いていた。彼女は何も話さず、俺は何も話せない。
 この異様に長い空白の時間だけで、この後に俺が言われる言葉が想像できてしまった。だから、ようやく彼女の息を吸う音が耳に届いた時、俺は心の中で死刑宣告を受け入れるような気分で、覚悟を決めてしまっていた。

「私、きっと会長よりも長生きができないんです」

 果たして彼女の発した言葉は、俺がまったく想像をしていなかったもので。一瞬、何を口にしたのかも忘れかけてしまった。
あらためて、頭の中で反芻する。道心は、俺よりも長生きができないと言ったんだ。
俺は、問い返した。

「……それって平均寿命の話?それだと一応、女性の方が長かった気がするんだけど……」
「子供の頃から、心臓がよくないんです」
「……心臓?」
「病気を患ってるんですよ、私。体も、実はそこまで強くなくて」

 はっきりと道心の口から真実を聞いたというのに、俺の頭はその事実を受け入れることを拒否していた。だけどこんな時に思い出すのは、彼女が倒れたスポーツ大会の日のことで。あぁ、だから倒れてしまったんだと、次の瞬間には納得してしまっていた。

「……もしかして、もう長くないのか?」
「お医者様からは、高校を卒業できても、二十歳は迎えられないかもしれないって言われてます」
「それは、手術すれば治るような病気じゃないの……?」
「服薬治療で延命することはできても、完治する方法は現状見つかっていないらしいです」

 彼女は、こんな笑えない冗談を言う女の子じゃない。だからこれまでに話したことは、すべて偽りない事実で。女子高生が抱えるには重すぎる事情があることも知らずに、ただデートを満喫していた自分が途端に恥ずかしく思えた。
 理不尽な出来事に、その場で項垂れてしまう。夢であってほしいと願っても、さっきまでの幸福な時間を含めて今日という日は紛れもない現実だった。

「……ごめん。そんな事情も知らずに、一人で勝手に盛り上がってた」
「私が話さなかったのが悪いんです。心配させないためにも、伝えておくべきでした。今は、本当に反省してます」

 とても申し訳なさそうに、頭を下げてくる。
 それから再び顔を上げた時、彼女はまっすぐに俺の目だけを見つめてきた。

「病気のことがなかったとしたら、私は会長の告白を受けていたと思います。一生懸命なところとか、一緒にいて安らぐところが、私は大好きです」
「そっか……」
「嬉しくないですか?」

 決して誤解されたりしないように、すぐに首を振る。そんなことを言われて、嬉しくないはずがない。だけど目の前に立ちふさがる問題があまりにも大きすぎたから、ただ楽観的にありがとうということができなかっただけだ。

「本当のことを言うと、このデートは会長に病気のことを話すかどうか決めるためのものだったんです」
「だから今日はあの映画にしたの?」
「いえ、それは先輩をデートに誘った後、上映してる映画にたまたま知ってる作品があったから選んだだけです。でも、どういう反応をするんだろうって、ちょっとだけ怖くもありました」

 たとえば俺が病気の子とは付き合いたくないと思う人間だったら。もしそれを彼女に話していたとしたら。彼女は傷付き、迷うことなく自分の体のことは話さなかったのかもしれない。

「今さらですけど、会長はどうして私のことを好きになってくれたんですか?」

俺は彼女と出会った時から今までの出来事を、最初から順番に回想していった。そしてその瞬間は、驚くほどあっさりと見つかった。

「一目惚れだった」
「一目惚れ、ですか」

 彼女の声色の変化から、照れているのが伝わってくる。

「こんなことを話すのは情けないのかもしれないけど、あの時の俺は空っぽだったんだ」
「空っぽ?」
「ただ漠然と生きてたんだよ、俺は」

 それを一度は新田にも指摘されたから、この自己評価はおそらく間違っていなかった。

「生徒会も、内申点を稼げればいいっていう理由だけで入ったんだ。でも、俺の後に演説をした女の子は、違った。信念があって、真っすぐで、一生懸命だった。こんな時にしか言えないけど、俺はあの時、心を打たれたんだ。同時に、思った。君の隣にいられる人でありたいって」
「……それはさすがに褒めすぎですよ、会長」
「でも、事実だから」
「悔いのないように生きたいから、精一杯背伸びをして頑張っていただけです」
「そうやって背伸びをしてる姿も、その人の一部だと俺は思う。頑張るって、案外大変なことだから。君のおかげで、空っぽだった人生に一つずつ大切なものを詰めていきたいって、思えるようになったんだ」

 たとえ疲れて背伸びをやめてしまったとしても、俺は道心のことを好きでい続けるんだろう。いつの間にか、彼女は今にも泣き出しそうな顔をしていた。

「……それより、こんなに話したんだから、道心もそろそろ教えてよ」
「やっぱり、話さないとダメですか?」
「どうしても嫌って言うなら、無理には聞かないけど」
「一目惚れではなかったですって言ったら、傷付きませんか?」
「もう言ってるじゃん。ちなみに、その予想はしてたから、今さら傷付かないよ」

 お世辞にも、贔屓目に見ても、あの時の俺は異性に好意を持たれるような人間じゃなかった。だからといって、今の自分は以前までの俺とは違うなんて自惚れたことは言えないけど。それでも道心が俺のことを好きになってくれた理由があるはずだから。
 その理由を知ることが出来たら、何か一つだけでも自分に自信を持つことができるかもしれないって、思った。だから俺と同じく恥じらいながら話そうとする彼女のことを、ただ沈黙して見守った。

「……放課後の教室で、私のために怒ってくれた時、です」
「そっか、あの時か」

 彼女も俺と同じく、精一杯背伸びをしていた瞬間を見て好きになってくれたんだ。その事実が知れただけで、これからも頑張ろうと思える理由になってしまった。

「それに会長ってあんまり怒らないし、誰にでも優しいから」
「それって褒めてる?」
「でも私にはちょっとだけ多めに贔屓してくれて、いつも見守ってくれていて。そういうのを実感するたびに、あぁ私って会長のことが好きなんだなって思うんです」

 やばいと思ったけど、押さえられなかった。今まで大事な話をしていたはずなのに、気付けば口元から嬉しさが漏れ出てしまっていた。幸いだったのは、今がすでに日も暮れた時刻だったということで。
 見られなくてよかったと、ほっと胸をなでおろしていた。
 お互いに思いを打ち明け合って、顔が赤くなるような話をした。これがごく一般的な男女だったら、今日からあらためてよろしくお願いしますと言って、手を繋いで彼女の家へと送ったりするんだろう。
 けれど一時だけ忘れかけられた現実は、ちゃんと向き合わなきゃいけないもので。お互いにそれを理解していたから、中途半端な空気にしたりせず、この時だけは真剣に向き合うことに決めた。

「横井先輩」

 初めて彼女が名前で呼んでくれる。小さな手のひらが、そっと俺の左手に重ねられた。

「……いずれ横井先輩を悲しませることになる私が、こんな私でよければ付きあってください、なんて我儘は言えないです」

 それは、遠からず死別という形で別れることが確定しているかもしれないからで。
それでも俺は構わない。なんて、言葉にするのは簡単だけど。俺らの関係に名前を求めれば、少なからず彼女が負い目を感じてしまうのは明らかだった。
けれど俺だって、ここで距離を置いたら、それこそ一生後悔してしまうから。
落としどころなんて、たぶん最初から一つしかなかったのかもしれない。それを理解していたから、重ねてくれていた手を、気付けば握り返していた。

「……だからもし先輩が嫌じゃなければ。無理やり、私のことを奪ってくれませんか……?」

 そう言うや否や、道心は蠱惑的に、唇をやや斜め上に突き出して目を閉じてくる。
 大切な人が少しでも後悔しないような人生を送らせてあげたい。さっきファミレスで伝えた言葉が、頭の中をリフレインする。その気持ちは、今でも変わらない。
それなら、俺がやるべきことは一つしかなかった。
 彼女の両肩に手を置く。きつく塞がれたまぶたから、涙が一筋こぼれ落ちるのが見えた。俺が告白しなければ、こんな風に傷付くことはなかったのかもしれない。だけど、もう伝えた言葉は取り消せないから。
 俺は、道心莉奈の唇を自分の唇でふさいだ。