道心莉奈は、病的なまでの頑張り屋だ。生徒会の人間以外に振るような仕事も自分で手を付けなければ気が済まないらしく、二言目には毎度のごとく「それ、私やります!」が口癖の女の子だった。
 今日も今日とて、全校生徒に配った『参加したい競技のアンケート』が昼休みに届くと、真っ先に休み時間を利用して一人でExcelに集計を始めた。放課後にやればいい仕事だが、道心の頑張りを止めるのは無粋だと思い、新田と共に仕事を手伝った。
 仕事の配分には気を使っているつもりだったけど、スポーツ大会当日が近付くに連れて道心の顔色は悪くなっているような気がした。新田から聞いた話によると、どうやら自宅でも何かしら仕事のことを考えているらしい。
 どうしてそこまで真剣になれるんだろう。ふと気になって下校中に訊ねてみると「私にできることはこれくらいしかないですから」と、当然のように笑顔で答えた。もしかすると、新しいことを提案した責任を感じているのかもしれない。
 気付けばスポーツ大会の開催が明日にまで迫っていて、当日会場の設営などを円滑に進められるように、使用するものを体育準備室に運びまとめていた。道心が無理をしないよう、なるべく俺が側についていた。決して、他意はなかった。
 そしてとうとう生徒会初仕事の日がやってきた。俺は生徒会長として開会の宣言を行った。初めは人をまとめることに不慣れだったけれど、今日という日のために何度も調整を図り問題がないことを確認した。
 そのおかげもあってか、初めてのスポーツ大会が始まって一時間は何事もなく過ぎていき、全体に指示を飛ばしている俺も暇な時間が続いた。

「いやー初戦敗退しちまったわ」

 ちょうどバスケの試合が終わった将人が、ステージ上で様子を監視していた俺のところへとやってきた。

「負けたのに楽しそうだね」
「そりゃあ、去年よりも盛り上がってるからな。見てるだけでも面白いよ」

 向こうのコートでスリーポイントシュートを決めた人がいるのか、女の子の歓声がこちらまで届いた。たしかに今年のスポーツ大会は、去年よりも盛り上がっている。

「そんで、莉奈ちゃんとはどんな感じよ?」
「忙しかったから。そういうこと考える余裕もなかったよ」
「へぇ、でも最近よく一緒に帰ってるんだろ?別の後輩の女の子と三人で。ようやく修一にも春が来たかって、クラスのみんな喜んでたぞ」
「ただの冷やかしだろ、それ。だいたい、帰るタイミングが一緒なだけだよ」

 そう、本当に他意はない。特にここ最近は道心の体調を気遣うことに神経を注いでいて、恋愛どころではなかった。言葉以外にも考えていることを察することのできる俺の親友は「まあ落ち着いたら、そのときは相談乗ってやるよ」と言ってくれた。

「ありがとう」

 それから将人は試合の観戦に、そして俺は別の会場の様子を見行こうかと動き出したところで、体操服を着た新田が慌てたようにこちらへと走ってくるのが見えた。何か、問題が起きたのだろうか。将人も彼女に気付き「あの子、最近一緒に帰ってる子だろ?」と聞いてくる。
 果たして、どうして持ち場を離れてまでここへ来たのか。その理由は、今の俺にとっては一番に危惧していたことだった。

「先輩!莉奈が……倒れた!!」
「なんだって……?」
「バレーの試合進行してたら隣で突然ふらついて、いきなり倒れたんです!」

 最悪の想像は、事前にしていたつもりだった。けれどこういうのは、ほとんどが杞憂に終わるもので、数時間後には笑い話になっているんだと期待してた。だから俺の頭の中は真っ白になって、バスケの試合の音が遠巻きに聞こえていた。

「おい!修一!!」
「……え?」

 将人に体を揺らされ我に返る。飛んでいた思考が頭の中へと戻ってきたとき、多くの生徒の笑い声と歓声が鼓膜を貫いた。

「俺が代わりに全部見とくから、お前今すぐあの子のところに行ってやれ!」
「将人……」

 思わず礼を言いそうになった自分の喉を引っ込めた。落ち着いて現在の状況を頭の中で整理し終わった時、泣いている新田の姿が真っ先に目に入った。今の精神状況じゃ、この子は自分の仕事を全うする事ができないだろう。それに、倒れた道心の穴埋めもしなきゃいけない。
 ここで俺が抜ければ、おそらく今まで上手く行っていた進行が破綻する。そしてこんな大事な時に思い出してしまったのは、このイベントを成功させたいという彼女の笑顔だった。
 あのひまわりのような笑顔のために、気付けば俺は覚悟を決めた。

「ごめん将人。閉会式のことも考えたら、ここで俺が抜けるわけにはいかないんだ。たぶん、今三人も抜けたら回せなくなる。だから新田を連れて、将人が道心の様子を見に行ってあげてほしい」

 一息に指示を飛ばす。将人は一瞬驚いた表情を浮かべたがすぐに持ち直し、「本当にそれでいいんだな?」と確認を取ってきた。

「無論だよ。ここで台無しにしたら、頑張ってくれた人たちが報われないし、何より彼女に怒られる」
「そっか。それじゃ、この子のことは任せろ」
「頼んだ」

 二人を見届けてから、まずは無線で百人一首の担当をしてくれている川原くんに指示を飛ばすことに決めた。彼に道心の穴埋めを頼んで、俺がこの場所と彼の持ち場を二つ見れば、問題さえ起こらなければなんとか回せるだろう。
方針を決めて、川原くんに無線を繋ぐ。大変だと思うけど、頑張ってもらうしかない。すると、

「取り乱してた新田先輩から事情を聞いて、もう道心先輩の持ち場を引き継いでます。バレー部の沖先輩と森田先輩が手伝いを買って出てくれたので、今三人で回してるところです。俺が元々いた場所は、体育科の先生が代わりに見てくれてますよ」
「沖さんと、森田さん?」
「道心先輩のクラスメイトみたいです」

 思い出した。放課後の教室で、新田と話していた二人だ。まさか二人が手伝ってくれているとは思わなくて、胸の奥が熱くなる。今は川原くんに礼を伝えてもらい、後で個人的にありがとうと言いに行くことにした。

「助かるよ、川原くん。何かわからないことあったら、またいつでも聞いて」
「わかりました」

 無線を切って、すぐに川原くんが元々いた柔道場へと向かった。けれどそこにいた体育科の先生に事情を説明すると、

「こっちは大丈夫だから。横井は自分の担当場所を責任もってやりなさい」
「大丈夫です。俺一人でも回せるので」
「頑張るのは結構だけど、君たち生徒会はもっと人に頼ることを覚えなさい」
「いや、でも……」

 今回は生徒会主導で前例のないことをやったんだから、最後まで責任を持ってやるべきだ。けれど、先生は腕を組んだままその場を動こうとはしなかった。

「みんなに喜んでもらおうと頑張るのは立派だ。だけど、まずは自分たちも楽しまないといけない。そのためには、生徒会の外にも頼れる仲間を作りなさい。学校は一人で頑張る場所ではなく、みんなで頑張る場であるべきだし、それは社会に出ても必要になることだよ。だからここは先生が見ておくから、君は持ち場に戻りなさい」

 厳しい言葉ではなかった。だけど俺の心に強く響いて、足りなかったものがわかってしまったことが、ただ悔しいと思った。もっと周りに味方を作っておけば、彼女が倒れることもなかったかもしれないんだから。

「ありがとう、ございます……」
「別に落ち込むことじゃない。君たち生徒会はよくやってるよ」

  頭を下げて、柔道場を後にする。
  力強く畳を叩く音と共に、札を取れたことに喜ぶ声が聞こえた。
  一番頑張ってくれた彼女にも聞かせてあげたかった歓声だった。



 図らずも俺たちの味方になってくれた人たちの協力もあって、無事にスポーツ大会は全予定を終了した。彼女がやるはずだった閉会宣言を引き継ぎ、滞りなく終わらせた後、戻ってきた将人から道心の容体を教えてもらった。

「命に別状はなくて、ただの過労と貧血だってさ。一応検査入院ってことになって、今大学病院にいるよ。風音ちゃんも」
「そっか……」

 安心すると共に、腰が抜けて体育館の床の上にへたり込んだ。ずっと気を引き締めていたから、ようやくそれもほどくことができた。

「お前、お見舞い行ってやれよ。片付けとかバスケ部の連中募ってやっとくし」
「悪い、ありがと。あとでちゃんとお礼言いに行くよ」

 自分でも驚くほど素直に、手伝いの申し出を受け入れることができた。そして提案をしてくれた親友は肩を優しく叩いて「任せとけ」と笑ってくれた。
 先生に事情を説明して早退させてもらい、バスに乗って大学病院へと向かった。病院前に着くと新田が待っていてくれて、無事に全部終わったことを報告すると、先ほどの俺と同じように緊張の糸をほどいていた。

「横センのおかげです」
「そうじゃない。手伝ってくれたみんなのおかげだよ」
「それだって、横センと莉奈が頑張ってくれなきゃ、率先して手伝ってはくれませんでしたよ。だから、二人のおかげなんです」
「……そっか」

 こういう時、どういう反応をすればいいのか、経験のない俺にはまだわからなかった。
 病室へと向かいながら、道心がずっと学校のことを心配していたと新田が教えてくれた。今すぐ点滴を外して病室を飛び出しそうな勢いだったようで、彼女なら本当にしかねないなと苦笑する。
 病室前に着くと「私、学校に戻って後始末手伝ってきます。先輩はお疲れだと思うので、お見舞いが終わったらそのまま帰ってくれて結構ですよ」と言ってくれた。

「悪い、助かる。ありがとう」
「それと、私的には告白するなら今だと思いますよ」
「……一日入院するんだから、そんな空気でもないだろ」
「莉奈、割と元気ですよ。それに二人きりになるタイミング、今くらいしかないです。お母さんもう帰りましたし」

 今日告白する気は欠片もなかったから、今さら思い出したように心臓が大きく拍動を始めた。

「もしダメでも、私が慰めてあげますって」
「いや、もう少し関係性を深めた後でも……」
「あの子、案外モテますよ。横センより行動力のある人が、明日告白してもおかしくないです」

 それは困る。

「なので、今告白すべきです。それじゃ、私は帰るので」
「おい待てよ」
「いいえ、待ちません。行動力のない男の人は、女の子にモテませんよ。それじゃ、今日は本当にありがとうございました」

 言いたいことだけを言うと、新田は手をひらひら振って帰っていった。
一人残された俺は、急に手持無沙汰を感じた右手で潔く彼女のいる病室を三度叩いた。道心の「どうぞ」という声が、扉越しに聞こえてくる。大きく一度深呼吸をして、ドアを開いた。
道心は俺を認めると、急に表情が沈んだ。

「あ、会長……」
「ごめん、来るの遅れちゃって。閉会式とか、諸々やってたらこんな時間になった」

 ベッドの近くにあった丸椅子に座らせてもらう。彼女の真っ白な腕からは、栄養剤を体内に入れるための管が伸びていた。少しでも休んだおかげで今朝より顔色はよくなっているが、抱え込む悪癖のある彼女の表情は明るくならなかった。

「ごめんなさい……大事な時に倒れてしまって……」
「道心の責任じゃないよ。こういうのはだいたい、一番上の人の監督不行き届きだから」
「そんなことないです。会長は、悪くないです」
「どっちが悪いとか悪くないとか、気にしなくていいから。俺は怒ってないし、道心は気に病まなくていい。それより、スーパーで梨買ってきたんだ。今剥くよ」

 果物ナイフと紙皿もスーパーで買っておいたから、準備は万端だ。ただ予想外だったのは、子供の頃に母さんが簡単そうにむいてくれたのを隣で見ていたから、勝手に俺にもできるという謎の自信があったことで。
 想像していたよりもずっと不器用だった俺は、見るも無残な凸凹の梨しか用意することができなかった。不甲斐なさで固まっていると、珍しく道心が小さく噴き出す。

「会長って、可愛いところもあるんですね」
「いや、これは初めてやったから失敗しただけで、練習さえすれば次は人並みにできるようになってるから。たぶん……」
「そうですか、わかりました。それじゃあ、次を楽しみにしていますね」

 いつの間にか元気になった彼女は、可食部の少なくなってしまった梨をつまんで口の中に放り込んだ。

「無理して食べなくてもいいよ。後で俺が食べておくから」
「会長が頑張ってくれたので、残すわけにはいかないです。それに美味しいですよ、心がこもっていて」

 俺も一つ食べてみたけれど、凸凹していて舌触りの悪い普通の美味しい梨だった。二人で一つ残らず胃の中へと入れた。

「体、大丈夫?倒れた時に頭とか打たなかった?」
「もういっぱい寝たので平気です。頭はたんこぶができたくらいですよ」
「そっか」
「頑張りすぎたから、限界が来ちゃったみたいで。本当に、ご心配をおかけしてすみません」
「これからは無理せずに、辛かったら俺を頼ってくれていいから。いや……俺じゃ頼りないかもしれないけど、新田とか川原くんもいるし」
「いえ、会長はすごく頼りになる人です。今日だって最後まで会長がいてくれたから、無事に終わらせることができたんです」
「みんなが手伝ってくれたんだよ。道心のクラスメイトの、沖さんと森田さんも手伝ってくれたんだ。後でお礼を言いに行かなきゃ」
「それも、会長の人望があるからですよ。だから自信持ってください。私、そんな先輩のこと好きですよ」

 好きと言われて、心が揺れた。だけど今の好きは、先輩として、生徒会のメンバーとして好きだという意味で。決して俺の期待しているような意味ではないんだろう。
 空っぽだった自分を変えて、いつか彼女の隣に並べるような人になりたいと思ったのは、たぶんあの演説を聞いた時からだ。だけど今は、隣にいたいというよりも、ずっと彼女のことを守ってあげたいという思いに変わっていて。
 心の中に芽生えていた恋心は、いつの間にか押さえていられないほどに肥大化していた。
 俺は、気付けば点滴の管が繋がれた彼女の手を握っていた。想像していたよりもずっとひんやりとした、それでいて心の落ち着く手のひらだった。
 俺は、彼女の綺麗な瞳を真っすぐに見つめた。

「俺も、道心のことが好きだ」

 宝石のような瞳が揺れたのがわかった。ずっと見ていたいと思うほどに綺麗だけど、一瞬のうちにそれが笑顔の宝箱に隠されてしまう。

「はい。ありがとうございます」
「違うんだ」
「何がですか?」

 まぶたが再び開いた時に覗いたのは、半分戸惑いの混じったような瞳だった。

「俺と、付き合ってほしい」

 その告白の瞬間は永遠にも感じられて。気付けば俺は呼吸すらも忘れてしまうほど、夕焼け色に染まる美しい姿に目を奪われていた。
 赤みを帯びた唇が、まるで時間をスローモーションにしたかのように、ゆっくりと開いていく。

「……私で、いいんですか?」
「君がいいんだ」

 一瞬の迷いもなく即答した。そんな俺の想いに、彼女は。

「ごめんなさい」

 頭の中が、消しゴムで擦ったように白く霞んでいく。
 だけど、次の彼女の言葉で俺はなんとか精神を持ち直した。

「ここで、今すぐ返事はできないです」

 突然降ってきた蜘蛛の糸を必死に掴むように、気付けば彼女の手を強く握っていた。

「返事は、いつでもいいから。本当に、いつでも」
「いえ、月曜にはちゃんと返事します」

 つまり、明日からの土日を挟んでから、ということだ。地獄のような落ち着かない休日になりそうだなと思っていた時。

「明日は退院の日なのでダメですけど、日曜日に一緒に出掛けませんか?」
「え、デート……?」

 咄嗟に浮かんだ馬鹿みたいな単語をそのまま口にしてしまい後悔していると、俺の緊張を解くように道心が「ふふっ」と笑みをこぼした。

「そういうことです。私、まだ会長のことをよくわかってないので。日曜日に、たくさん教えてください」
「わ、わかった。デートプラン、ちゃんと考えとくよ」
「そんなに気を張らないでください。映画を見て、ご飯食べに行くだけでいいですから」

 これはもしかすると、想像していたより脈があるのかもしれない。いや、逆に普段の俺の振舞いを見て、彼女が幻滅する可能性もあるわけで。どちらにせよ、肩の荷を簡単に下ろすことはできなかった。
 その後、面会時間が終了し「それじゃあ、また日曜日に」と挨拶をして別れた。病院を出てからスマホを起動させると、数分前に新田からメールが届いていた。

〈告白、上手く行きましたか?〉

 隠すことでもないと思ったから、先ほど決まったことを教えると、親指を立てている絵文字だけが送られてきた。