王太子様、婚約者の私を毒見役と交代させるとはどういうおつもりですか?



「おい、そこ! 火が強すぎるぞ!」

 王宮の地下の厨房で、料理長の厳しい声が飛ぶ。

「タマネギは弱火で炒めるんだ。そうすれば、素材の甘さが溶け出して、より美味しいポタージュになる。そういうところで手を抜くな!」

 言われた料理人は頭を下げながら、思った。

(何だかこの頃は、病人みたいに暗い顔をして俺たちを心配させたくせに、今朝はやけに元気だ。ひょっとして、男の更年期ってやつか?)

 料理長は気合いが入っていた。王太子の命令に背き、コーデリアの頼みを聞いてやり、この国の未来のために料理に特殊な薬を入れるのである。

(昨日までの自分には、とてもできると思えなかった行為だ。自分は生まれ変わった。今日はその、記念すべき第二の誕生日なのだ!)

 料理長自慢の、今朝の特別メニューは以下のとおり。


・季節野菜てんこ盛りのオードブル(【睡眠薬】入りトマトをどうぞ)。
・カプチーノ風に泡を立てたクリーミーなポタージュ(料理長の気合い入り)。
・バターで皮をカリッと焼き上げた白身魚のムニエル(普通に美味しいです)。
・切り口の赤々しいミディアムレアの最高級フィレステーキ(天使の無毒化済みフグのレバーペーストを載せて)。
・旬なフルーツをふんだんに使ったゼリーとソルベ(コーデリア様への秘めた愛情を込めて)。
・そして王が必ず食後に飲まれるアロマチックなカフェ(危険なクーデター風味)。


 あとはいつもどおりやるだけ、と料理長は自分に言い聞かせた。

(怪しまれずに、三人がトマトを食べればすべては終わる。いや、すべてがそこから始まるのだ。とにかく怪しまれないように、怪しまれないように……)


 ◆◆◆◆◆


(怪しまれないように、いつもどおりにしよう)

 いよいよその日の朝を迎えたレオ第二王子は、日課である王宮の庭園の散歩を終えて、ことさらゆったりと一階の廊下を歩いた。

(頑張れ、コーデリアさん。あなたならきっとできる)

 第二王子は、料理長が仲間になったことをまだ知らない。だから【睡眠薬】は、コーデリアが毒見のときにこっそりサラダの皿に入れる手はずのままだと思っていた。

 第二王子は歩く速度を変えずに、食堂の前を通りかかった。
 いつものように、扉の前に衛兵が二人。
 と思ったらーー

「おや?」

 よく見ると衛兵は三人いた。しかもそのうちの一人は、衛兵隊長のコールマンだった。

(どういうことだ? コールマンは夜中に父の寝室を警護するから、午前中は寝(やす)むことになっているのに……)

「コールマン?」

 レオ第二王子が近寄って声をかけると、コールマンは敬礼をした。

「朝からどうしたんだ? 昨夜は父の寝室を警護しなかったのか?」
「いえ」

 コールマンは直立不動で答える。

「寝もうとしたのですが、眠れなかったのです。そういうときは、任務に就くことにしています」

(余計なことを)

 と、コールマンが仲間になったこともやっぱり知らなかった第二王子は思った。しかし顔には出さずに、

「ご苦労さま。だが、休めるときは休めよ」

 と言って立ち去ろうとした。すると、

「おお、コールマン。ここにいたのか」

 息せき切って、ジェイコブ王太子が駆けてきた。

「父への進言、なるべく早く頼むぞ。実はたった今、後宮へ行ってきて、コーデリア付きの女官の任を解いて、ランには王太子妃の部屋に移る準備をするようにと言付けてきたのだ。こういうことは早いほうがいいからな。だからお前も、行動は迅速を旨とするように。じゃ」

 と早口で言って踵を返そうとしたときに、

「ん? レオか」

 ようやく第二王子の存在に気づいた。

「そういや、お前にはまだ言ってなかったが、婚約は解消したよ。コーデリアのやつ、毒見役になりたかったんだってさ」

 あり得ない大嘘を、しゃあしゃあと弟に告げる。

「そしたら陛下が、例のセイユの毒見役を俺にくれるって。まあ、毒見の一族だから身分は奴隷なんだけど、俺はこういうことはきちんとしたいから、正式に妻にしようと思ってね。というわけでよろしく」

 最低の男め、コーデリアさんを毒殺しようとした報いは受けてもらうからな、と第二王子が内心で毒づいていると、

「ところで、レオ。お前、軍務を解かれて、シェナ王国史の編纂をやらされるみたいだぞ。おかしな意地を張って俺たちと同じ食事を摂らないから、陛下に愛想を尽かされたんだな。そのうち勅命が下るだろうけど、がっかりすんなよ」

 王太子は弟を見下して言った。
 と、そのときだった。
 いつもより三十分は早く、王と王妃が食堂にやって来た。
 仲睦まじく、手を握り合って。

 三人の衛兵は敬礼を、王太子と第二王子は目礼をした。

「ジェイコブ」

 グレイス二世が、鷹揚な態度で長男に言う。

「新しい毒見役を呼んで来てくれ。食事の前に、少し話をしたいのだ」


 料理長が、ワゴンを押す料理人を従えてやって来た。
 レオ第二王子の姿を認めると、腰を折って深くお辞儀をする。

「殿下、どうぞお部屋でお待ち下さい。今すぐ朝食を運ばせますので」
「いや」

 衛兵隊長コールマンをちらりと見やって、第二王子は首を振った。

「まだ三十分早い。いつもと同じ時間にしてくれ」
「かしこまりました」

 料理長は頭を下げて、食堂の中へ消えた。
 その数分後、ジェイコブ王太子が戻ってきた。
 元婚約者の、コーデリアを連れて。

(コーデリアさん!)

 第二王子は、自らのパワーを送るつもりで、コーデリアを見た。
 コーデリアは、ほんの一瞬だけ第二王子と目を合わせると、かすかに顎を引いて頷いた。
 王太子とコーデリアも、食堂の中へ。

 さらに数分後。
 ランとエリナとニコラス宰相が現れた。

「どうした?」

 第二王子が訊く。ランに関しては、万が一計画が不首尾に終わった場合に、転生者の力を行使して王らを制圧するために、食堂近くに待機することになっていた。
 が、エリナと宰相は、怪しまれないために、普段と同じ行動をする予定だったのだが……

「殿下」

 ニコラス宰相が、やや血の気の失った顔で、レオ第二王子を手招きする。
 心臓の鼓動の音を聞きながら、宰相に歩み寄る第二王子。
 衛兵に聞かれない位置まで移動して、宰相が耳打ちする。

「どうやら昨夜、仙女の老婆が騒ぎすぎたようです」
「仙女が?」

 第二王子が眉をひそめる。

「騒いだとは、何を?」
「この世が変わると。すると農村が、夜明け前からお祭りムードになってしまい、農村に潜んでいたスパイが、まもなくクーデターがありそうだと王に報告しに向かっているようなのです」

 愕然とする第二王子。まったく予期しなかった方向からの危機だ。

「スパイの動きに気づいたのは、その地方の領主です。彼は我々の仲間です。そこでその情報を、早馬を飛ばして私に伝えてくれたのです」
「スパイを阻止するには、どうしたらいい?」

 第二王子の問いに、宰相は、

「それをランに相談しに行くと、エリナと一緒にいて、二人の一致した意見として、天使にお願いするというのです」
「……天使?」

 こうなってくると、第二王子には何が何だかわからない。

「天に祈るしか、方法がないと?」
「あのー、それが、本当に天使が降りてきまして」

 第二王子は口をつぐんだ。思考が追いつかなかったのである。

「詳しいことはあとで説明します。えー、その天使は、今度こそ本当に最後の最後ですよと言って、飛んでいきました。スパイを羽で撫でて、記憶をなくさせるとのことです。しかし」
「まだ何かあるのか?」
「はい。天使が飛んでいくところを、動物たちが目撃したようで、厩舎の馬や牛が興奮して暴れているそうなのです」

 第二王子は腕組みをした。しばらくそうして黙っていたが、やがて食堂のほうへ戻っていき、

「コールマン」

 衛兵隊長に声をかけた。

「今、宰相から報告を受けたのだが、厩舎で馬や牛が暴れているそうだ。何があったか調べに行ってくれ」

 やっかいな猛者(もさ)の衛兵隊長を追い払うつもりで言った。しかしコールマンは、

「では彼らを行かせます」

 と、二人の衛兵に命令を出し、自分はその場に残ってしまった。

(チッ!)

 心の中で第二王子は舌打ちした。
 ちょうどその頃、扉の向こうではーー

(フグ毒ちゃん、フグ毒ちゃん、どうしてあなたはフグ毒なの? 青酸カリの一千倍強い、とっても素敵なフグ毒ちゃん)

 心の中で、ポーラ王妃が鼻唄を歌っていた。

「ねえ、あなた」

 グレイス二世の立派な肩にもたれかかって、王妃が耳元で囁く。

「この次は、ニコラス宰相を毒殺してちょうだい。私、ニコラスの目つきがとっても嫌いなの」
「……わかった」

 妻に囁き返して、シェナ王国の国王は、長男の元婚約者に優しげな微笑みを向けた。

「コーデリアよ。お前は本当に、幸運な娘だ」

 食卓の、ちょうど王の真正面に座ったコーデリアが、無言で頭を下げた。

「この世で最高の食事を、余よりも先に食べることができる。湯気の立つ、出来立てほやほやの温かな料理をな」

 コーデリアは、再び頭を下げながら思ったーーこの恩着せがましいデブのクソジジイめ!

「本当に、どれほど幸運かわかってるかな? お前の正面にいるのは、もっとも偉大な指導者、全時代、全民族を通じて最高の統領である余と、その良き妻と、その血を引く長子なのだ。その余らのために調えられた食事を、いちばん良い状態で味わうことができるーーその幸運を、決して忘れてほしくないと余は心より願う」
「まことにそうですわ」

 王の言葉に、王妃も重ねた。

「これほどの幸運、幸福は、全時代、全民族を見渡しても見当たらないほどです。しかも陛下ほど、人民の幸福を願い、また人民に愛され、それでいて少しも自慢しない、謙虚で自分を顧みない献身的な王はいないのです。陛下が謙遜しておっしゃらないので、あえて私の口から付け加えさせてもらいました」

 食堂の隅に控えた料理人たちが、王妃の言葉にうんうんと頷く。
 すると料理長がハッとしたように、慌ててうんうんと頭を上下させた。
 王が振り向いて料理長の顔を見た。

(ヤバい!)

 料理長は一瞬ヒヤッとしたが、顔を見るのはいつもの合図だったと思い出し、落ち着いて前に進み出て言った。

「えー、それでは本日の朝食の、コース料理のご説明をさせていただきます」
 


「前菜は、季節野菜をふんだんに使ったオードブルでございます。今が旬の夏野菜を召し上がりますと、病気にならないと昔から言われております」

 料理長が極力いつもの調子で料理の紹介をしたが、今回ばかりは「病気にならない」の決まり文句も、あながち誇張ではない。
 なぜなら【睡眠薬】入りのトマトを食せば、百年間は病気どころか老化もせずに眠りこけるからだ。

「スープは、カプチーノ風に泡を立てたタマネギとニンジンのポタージュです。クリーミーで大変飲みやすくなっております」

 料理長が説明するあいだに、料理人が王、王妃、王太子の順番に配膳する。
 そして、彼らの目が光ったのは、肉料理の紹介のときだ。

「ミディアムレアの最高級フィレステーキでございます。レバーペーストを載せて、その上から赤ワインのソースをたっぷりかけてお召し上がり下さい」

 この瞬間、ジェイコブ王太子の鼻の穴がわかりやすく膨らんだのを、コーデリアは見逃さなかった。

(テメー、人が死ぬのを想像して興奮してんじゃねーよ、このサディストの変態野郎が!)

 テーブルの向かい側から、胸の内で絶叫した。

(それにしても)

 とコーデリアは思う。

(朝っぱらから、なんて贅沢な食事だろう。このフルコースが朝食だという点で、飢餓に喘いでいる国民が何万人もいる以上、この王に為政者たる資格はい)

 すべての料理が並ぶと、コーデリアは席を立ち、王たちのほうへ近づいた。
 三人の皿から、前菜、スープ、魚料理、肉料理、デザートを毒見用に取り分ける。カフェだけは、全員分の入ったポットからカップに注いだ。

(大丈夫、手は震えなかった。さすがにサラダから取り分けるときは緊張したけど、いくら死ぬほど不器用な私でも、間違ってトマトを取っちゃうほどドジではない)

 コーデリアがトマトを選ばなかったことを、気にした者はいなかった。それよりも、肉を切って皿に移すときに、ちゃんとレバーペースもどっさり載せたのを見て、三人の鼻の穴はますます大きく膨らんだ。

 コーデリアの前に、豪華絢爛な美食が並んだ。

(もし、レオ殿下やランやエリナがいなかったら)

 コーデリアはしみじみ思う。

(私の命もこれまでだった。あの日、あなたに一目惚れしましたという王太子の嘘の返信に騙され、有頂天になった私は、罠にかかったキツネのように殺されるところだったのだ)

 ジェイコブ王太子が、まさに獲物を一心不乱に見つめる肉食獣のような目を、元婚約者に向けて言った。

「いよいよコーデリアが毒見をします。陛下よ、目前に迫った王太子妃の座を捨てて、王家に真の献身を捧げるために毒見役になる決意をした彼女の志を、どうか諒とされますように」

 芝居がかった、ヘドの出るような台詞。
 志を諒とだと? ふざけんじゃねえ。
 全部テメーが書いた筋書きだろうが!
 するとグレイス二世も、息子に調子を合わせて言った。

「むろん、彼女の美しい献身は、人の住むあらゆる土地で評判となり、シェナ王国で未来永劫語り継がれるであろう。余もそれが嬉しい」

 語り継がれるのは、テメーら三人の情けない百年の眠りだーーという台詞を、コーデリアは吐き気をこらえながら呑み下した。

(フン。まんまと騙したつもりだろうが、見事に騙されたのはそっちだからな。さてと、念のために【胃薬】も服んだし、天使が無毒化してくれたことだから、とことん味わって食ってやる!)

 コーデリアはフォークを取り上げると、フルコースの順番どおりに、もぐもぐむしゃむしゃと食べ始めた。
 前菜、スープ、魚料理が、きれいにコーデリアの胃袋に消える。
 いよいよ肉料理の番ーー

(来たっ!)

 王太子と王妃の視線が交錯する。

(ついに来ました、母よ。フグ毒の素晴らしい威力をご照覧下さい)

(ああ、ジェイコブ。あなたは言いました。食後二十分から三時間で身体がしびれはじめ、手足が動かなくなり、頭痛、腹痛、嘔吐、言語障害が起こり、やがて運動麻痺から倒れて呼吸困難となり、四時間から六時間で死亡すると。そのフグ毒ちゃんの素敵なショーが、いよいよ開幕するのね!)

 目は口ほどに物を言う。その点では、この母子の目は実におしゃべりだった。

 コーデリアは、そんなサディストの注視のもと、料理長のお薦めどおりにフィレステーキに山盛りにレバーペーストを載せ、その上からたっぷり赤ワインソースをかけて、生まれてからいちばんと言っていいほど大きく口を開けて、パクリとそれを食った。

 次の瞬間だった。
 
「う!」

 コーデリアが顔面を紅潮させ、手で口を押さえた。

(む? フグ毒は無味無臭なはずだが、何かに気づいたか?)

 王太子の眉間にしわが寄る。
 料理長が身体を強張らせる。
 するとーー

「う……旨っ!」

 料理長自慢の最高級フィレステーキの味に、思わず感動して声を洩らすコーデリアであった。
 王太子と料理長は緊張をゆるめた。

(驚かせやがって。しかしこれで、毒が確実に胃に入った。あとはその作用を待つばかり。早ければ、あと二十分で効果が現れる)

 王太子が、こぼれる笑みを抑えきれずにニヤニヤすると、つられて王妃がクスッとし、それにつられた王がプッと笑った。
 その「プッ」が、王太子のツボに入り、「アハッ」と笑うと、王妃がテーブルに顔を伏せた。
 笑いをこらえる王妃のひくつきで、テーブルの上の皿がカタカタ鳴った。

(こいつらマジか? 人に毒を呑ませるのがそんなに面白いか?)

 笑ってはいけないと思えば思うほど、涙が出るほど笑ってしまう三人を尻目に、コーデリアはデザートのゼリーとソルベに舌鼓を打ち、カフェのアロマを心ゆくまで堪能した。

「ごちそうさまでした。陛下、食事に問題はございません」

「毒見」を終えたコーデリアがそう告げると、ようやく笑いの収まったグレイス二世が、うむと鷹揚に頷いた。

(息子よ。コーデリアが毒を呑んでから、十五分ほど経ったが、もう少しで効き始めるか?)

(まあ、慌てず、じっくり待ちましょう)

 おしゃべりな目を持つ父子が、目でそんな会話をする。

「おい、料理長」

 ジェイコブ王太子が、おもむろに命じた。

「この肉は赤みが強すぎるぞ。火が通ってなかろう。交換せよ」

 それは、事前に料理長に伝えてあった予定どおりの台詞だったが、

(あの野郎。肉料理に毒を盛ったのを白状したも同然だな)

 と、コーデリアをさらにムカつかせた。

「コーデリアよ」

 王はことさらゆっくりと、いかにも時間を引き延ばすように言った。

「美しい毒見役は、食卓の華だ。余らが食べ終わるまで、そこに座っているように」

 どうせテメーも、毒が効いてきてのたうち回るのを見たいんだろ。という言葉は胸にしまったまま、コーデリアは黙って頷いた。

「スープと魚料理とカフェは、温め直して順番に持ってくるように。肉料理は作り直せ」

 王が料理長に命じたあと、三人は、やけにのんびりと前菜をつつき出した。
 早く食べ終わってしまうと、せっかくのショーが始まる前に朝食が済んでしまうからである。

(まだかな……)

 王太子は壁の時計を何度も見た。が、見るたびに、時計の針は五分も進んでいなかった。

(そろそろ手がしびれてこないか、まだか、まだか)
 
 無意識に首を捻るジェイコブ王太子。それを見てコーデリアは思う。

 残念でした。
 死なないよーだ!

 王も、王妃も、王太子も、ついにトマトを食べた。
 コーデリアの背中を電流が駆け上がる。
 が、表情は変えない。

(【睡眠薬】はいつ効き始めるのかしら。五分後? 十分後?)

 いちばん最初に、王妃が前菜を食べ終わった。
 その前に、スープの皿が置かれる。
 右手でスプーンを持ったとき、王妃の上体が前に倒れた。

「どうした?」

 また笑いの発作か? と思いながら、王が隣の王妃を覗き込む。
 しかし、今度はひくついていない。
 代わりに深い呼吸が聞こえた。

(……イビキ?)

 と不審に感じたとき、自らも猛烈な眠気に襲われた。


 ジェイコブ王太子は目を剝いた。
 自分のすぐ横で、ポーラ王妃とグレイス二世が、立て続けにテーブルに突っ伏したからである。

(まさか、毒!?)

 頭が混乱する王太子。
 毒は肉料理に入っている。それを食べたのはコーデリアだ。父も母も食べてない。なのになぜ倒れた?
 しかも、二人は突然眠った。これはフグ毒の効き方ではない。では何だ? フグ毒以外の毒か? 料理長は何をした?

 そのとき、眠気が来た。
 頭がグラリと揺れる。
 意識が急速に、自分から離れていこうとする。
 その刹那、まるで燃え尽きようとするろうそくの炎が、消える寸前にパッと大きくなるように、思考が明瞭になった。

 これは睡眠薬だ。
 我々は睡眠薬を盛られた。
 クーデターだ。
 クーデターの噂は本当だった。
 反体制派の手は、王宮内にまで延びていたのだ。
 眠らされた我々はどうなる?
 監禁? それともーー暗殺?

 嗚呼。
 毒見役のランよ。俺が愛した初めての女よ。
 きみと夫婦になることはできなかった。
 無念だ。

 そのとき、王太子は見た。
 コーデリアが自分をじっと見つめているのを。
 その唇が、何かを語りかけていた。
 声は聞こえない。
 が、唇の形を読むことはできた。

 ざ。
 ま。
 あ。
 み。
 ろ。

 ーーざまぁ見ろ!
 コーデリアは、口に手を当てて笑っていた。

 コーデリアは誓いを果たした。
 昨日の夜、撞球室で、お前の濃い顔にゲップが出たと王太子に罵られたとき、いつか絶対ざまぁ見ろって言ってやっからな、と誓ったのである。

 ジェイコブ王太子はその誓いは知らなかった。
 が、ざまぁ見ろと言われたと理解した瞬間、

(実はコーデリアこそ、反体制派の送り込んだ女スパイだったのか!?)

 と雷に打たれたようになり、ではあの手紙は罠だったのか、と思った。
 王太子の脳に、コーデリアの手紙の文面が甦る。

『拝啓、王太子様。私の唇は魅力的。プリプリしているので、男性によく触りたそうな目で見られます。私は性格も素晴らしく良いです。いいお返事、待ってますね。あなただけを一生愛する乙女、コーデリア・ブラウン』

 俺は騙された。
 毒見役との交換のカードに使おうと計画し、偽の婚約で騙したつもりが、まんまと騙されてスパイを王宮に入れてしまったのだ……
 
「貴様!」

 コーデリアに向かって吠えた。
 が、そこで力尽きた。
 王太子は、椅子から立ち上がりかけたところで、前のめりに床に倒れた。

 王、王妃、王太子の三人が、仲良く揃ってイビキをかいた。


 ◆◆◆◆◆


 ジェイコブ王太子が床に倒れた音を、食堂の扉の向こうで、レオ第二王子は聞いた。
 ニコラス・スミス宰相も、ランも、エリナも、衛兵隊長のコールマンも聞いた。

「何だろう、今の音は」

 冷静さを装って、第二王子は言った。
 ところが心中は冷静どころではない。

 本来、第二王子は、自室で朝食を食べているはずだった。
 そこに、コーデリアから異変を知らされた衛兵なり侍医なりが、第二王子を呼びにくる。
 第二王子は食堂に駆けつけ、眠りこけた両親と兄と対面する。
 やがて侍医により、王と王太子が奇病の「眠り病」にかかったと診断され(原因不明で眠り込んだまま起きなくなれば、医者とてそう診断して寝かせておくよりない)、政治の空白をつくらないように、レオ第二王子が代理の王を勤めるーーというのが、この謀略式無血クーデターのシナリオだった。

 だから、シナリオどおり自室に戻るつもりだったのだが、予期せぬことに、この勤王の権化のようなコールマンが警備についたため、食堂から離れづらくなった。なので宰相たちと立ち話をして、不自然に見えないようにこの場に残っていたのである。

 そうこうしているうちの、異音であった。

「人が倒れた音のようですが、にしては、声がしないのが不思議です」

 レオ第二王子を真正面に見ながら、コールマンが言った。
 第二王子は瞬時に決断した。

「僕が様子を見る。必要なら呼ぶよ」

 扉をノックする。
 待っていると、料理長が扉を開けた。
 この料理長もまた、絵に描いたような勤王家だーーと、第二王子はまだ思い込んでいた。

「失礼。変な音が聞こえたので」

 第二王子が言うと、料理長は早口に、

「不思議なことが起きました。陛下と王妃殿下と王太子殿下が、揃ってお眠りになったのです」
「何?」

 第二王子は驚いたフリをして中に飛び込んだ。そのあとからコールマン、ニコラス宰相、エリナ、ランの順に食堂へ。

 第二王子は見た。
 テーブルに突っ伏しているグレイス二世とポーラ王妃を。
 床に倒れているジェイコブ王太子を。
 おろおろしている料理人たちを。
 そしてーー

「……レオ殿下」

 私、頑張ったよ、という、泣き笑いのような顔を浮かべて立っているコーデリア・ブラウンを。

(まずい!)

 第二王子はさっと蒼褪めた。
 泣き顔、ならいい。
 でも泣き笑いはだめだ。
 なぜコーデリアは笑っている? と、衛兵隊長と料理長の胸に疑念を生じさせてしまうからだ。

「何があったのですか、コーデリアさん?」

 第二王子は必死で演技をした。ところがーー

「頑張ったね、奥さん!」

 突然エリナが走り出して、コーデリアに抱きついてしまったのだ。
 馬鹿野郎! と、思わず我を忘れて怒鳴りそうになる。国王陛下がすぐそこに倒れてるんだぞ。頑張ったね、奥さんは、どう考えてもおかしいだろ!

「……あ、ああ、毒見役を頑張りましたね、コーデリアさん。ところでこの状況は?」

 と、渾身の演技で何とかごまかそうとする第二王子。すると、つかつかとテーブルに歩み寄ったコールマンが、王の身体を無造作に揺さぶって、

「レオ殿下。こりゃあ陛下は、眠り病になりましたなあ」

 と、信じられないほど間延びした声で言った。

「あちゃー、王妃殿下と王太子殿下もだ。三人同時に眠り病だ。でも全然不思議じゃありません。こういうことは外国ではよくあると、風の噂で聞いたことがあります。しかし陛下と王太子殿下が同時に奇病に冒されたとなると、殿下に王になってもらうしかありませんなあ」

 第二王子はほっぺたをつねりたくなった。何だか夢でも見てるんじゃないかと思うほど、あまりにも都合よく物事が運びすぎている。
 そんな思いで言葉を失っていたレオ第二王子の前で、コールマンが捧げ銃(つつ)の敬礼をして言った。

「でありますから、本日ただ今より、殿下が陸海軍の総帥でもあられます。軍人はすべて殿下、いえ、新しく誕生したレオ一世陛下に忠誠を誓います。何なりとご命令を」


 いちばんの難題と思われた軍の掌握が、衛兵隊長のコメントにより、あっさりと達成されそうな見込みとなった。
 もちろん、陸軍官や海軍官の反応を見ないといけないが、グレイス二世の信任がもっとも厚かったコールマンの判断に、彼より歳下の陸軍官らが反対するとは思えなかった。

(もはや障壁はない。あとはただひたすらに、理想の政治の実現に向けて邁進するのみ)

 とはいえレオ第二王子も、まだ弱冠二十一歳の青年。
 政治以上に、熱く胸を焦がしているものがあった。

(さあ、コーデリアさんに何と言おう。今プロポーズできたら最高だが、さすがにコールマンと料理長は、王が病に倒れたばかりで何と不謹慎なと眉をひそめるだろう……)

 そんな葛藤に悩んでいると、ランがそばに来て、

「あのね、レオ王子さん。実はーー」

 と、昨夜コールマンと料理長が、電撃的に仲間になったことを告げた。

「本当か!?」

 驚きすぎて呆然となった第二王子に、コールマンがウインクをし、料理長は頭を掻いてみせた。

「まさかそんなことが……奇跡だ」

 そうつぶやいた第二王子を、光る瞳で見つめているお嬢様がいた。
 コーデリアである。
 昨夜、第二王子は、ニコラス宰相に向かってこう語った。

『遠い将来、この一連の出来事すべては、きっと伝説になる。「眠り姫」や「灰の姫」のように、人々に語り継がれていくだろう。であるならば、主役は僕やランではなく、数奇な運命に翻弄された彼女であるべきなのだ』

 コーデリアは、無事に主役としての役目を果たした。
 クーデターは成功した。
 悪役の王太子に復讐し、ざまぁ見ろと言うこともできた。
 もはややるべきことはない。
 静かに王宮を去り、実家に帰るだけ。
 そして、レオ殿下が新しい王となり、ランが王妃になるのを、陰から応援していよう。
 そう思うと、自然に涙が出て、瞳が光るのである。

「【睡眠薬】、上手に服ませましたね」

 レオ第二王子が、コーデリアに近づいて、どこかぎこちない口調で言った。

「それなんですが……」

 コーデリアも、やはりぎこちなく答える。

「私がやるのはどうしても自信がなくて、料理長さんに協力してもらいました」

 さっと第二王子が振り向くと、注目された料理長が顔を真っ赤にした。

「あ、はい、その……コーデリア様の頼みとあれば、へへへ」

 第二王子は料理長とコーデリアを交互に見た。

「ははーん。義姉(ねえ)さんは、美貌という最大の武器を使ったね」

 第二王子が不器用な軽口を叩くと、

「そんな! 必死にお願いしただけですわ。それに、もう義姉さんではありません」

 あまりに真剣なコーデリアの返答に、ランとエリナが声を揃えて笑った。

「ちょっと、笑わないでくれる? 私が真剣なのが、そんなにおかしい?」
「だって、奥さん」

 女主人を大好きなエリナが、笑いを止めようともせずに言った。

「レオ王子様、じゃなかった、愛しのレオ陛下にだけは、武器を使うような女に見られたくないって、奥さんの顔に書いてあるんですもの」

 あー、言っちゃったー、とランが口に手を当てて、なぜか自分が恥ずかしそうに身をよじった。

(い、愛しのレオ陛下って、何言ってんのよ!)

 穴があったら入りたい、とコーデリアは下を向いて、ドギマギした顔を懸命に隠した。

(愛しの……レオ陛下?)

 では僕は、あれほど彼女に無愛想にしてきたけど、嫌われてはいなかったのだなーーと、少し自信が出てきたレオ第二王子。

「レオ陛下ね。そう、その自覚を持たねば」

 新しいシェナ王国の「国王」が、エヘンと咳払いをした。

「さあてと、これから忙しくなる。まずは王に即位しないといけないが、王妃がいないと格好がつかない。コーデリアさん、お願いしてもいいかな?」

 震えを帯びた新国王の声。
 コーデリアが、顔をわずかに上げた。

「……お願い、とおっしゃいますと、私が、陛下とランさんの結婚の見届け人になればいいんですの?」
「何言ってんのよ!」

 間髪入れずにランがコーデリアの肩を叩くと、力加減を間違えたため、コーデリアがくるっと回ってしまった。

「あ、ごめんなさい。つい」

 謝るランを、切ない目つきで見つめるコーデリア。するとランは、

「私は働かないで美食を食べたいだけで、王妃になんか絶対なりません。新しい王室で、毒見役として雇ってくれたらそれで十分」
「じゃあ、王妃って?」
「コーデリアさん」

 レオ一世が、磨き上げられた床に片膝をついた。

「僕は今日かぎりで、女嫌いを卒業します。あなたが好きです。結婚して下さい」

 コーデリアに言葉はなかった。
 突然、光が生じ、全世界がまばゆく光ったように見えた。
 そして彼女は、瞬時にすべてを理解し、すべてを受け入れた。
 
(そうだったのね。では私も自覚を持たねば。この国を建て直そうとする、心優しい新国王を、私は全身全霊で支えていかねばならない)

 重大な責任に身震いする新王妃。
 ふと床に目がとまる。
 だらしなく寝そべって、イビキをかいている元婚約者。

(あなたに感謝はしないけど、こうして幸せになれたからーー)

 ざまぁ見ろとは、もう言わない。
 その代わりに、私たちの愛する祖国が生まれ変わったさまを、百年後にどうぞご覧あそばせーーとコーデリアは、温かいもので満たされた胸の内で言った。


 こうして、この一連の出来事は伝説になった。
 まさに、「眠り姫」や「灰の姫」のようにである。

 新国王レオ一世の改革により、国民の生活は格段に良くなった。
 奴隷は解放され、税を減らされた農民の労働意欲は飛躍的に向上し、経済がぐんぐん成長した。
 レオ一世がコーデリア王妃とともに視察に訪れると、涙を流した農民が押し寄せて、抱きついたりひれ伏したりしたほどである。

 むろん、すべてがうまく行ったわけではない。
 新たな法律によって贅沢を禁止された貴族の中には、グレイス二世の治世のほうが良かったと不満を抱く者もいた。
 また軍が縮小されたため、職を失った軍人が、暴力事件を起こすこともたびたびあった。

 とはいえ、国が明るくなったのは間違いない。
 レオ一世により、シェナ王国は近代への扉が開かれたのである。
 新しい世を謳歌した人々の例をいくつか挙げよう。

 女官のエリナは、学校に通うことになった。
 彼女は勉強が好きになり、首席で卒業すると、自分自身が先生になった。
 エリナ先生が授業を脱線して語る「コーデリア王妃物語」に、若い生徒たちはキラキラと目を輝かせた。

 転生者ランは、厚生大臣兼労働大臣兼初代女性活躍大臣になった。
 最初は「嫌だ、毒見役がいい」などとごねたが、働いてみるとなかなか面白かった。それに、一日中ゴロゴロして食べるより、仕事で腹をすかせて食べるほうが旨いということにも気づいたのであった。

 またそれを見て、天使も天で胸を撫で下ろした。

 衛兵隊長コールマンは、軍人を退役した。
 農民になったのである。
 生きていれば奇跡があるということを教え、自殺を思いとどまらせてくれた少年と、同じ道を歩みたくなったのだ。
 労働して収穫を得ることは、楽しかった。彼は五十半ばにして天職を見つけたのである。

 料理長は引き続き王室に仕えた。
 が、以前とはメニューをがらりと変えた。
 豪華絢爛な美食は食卓から消えた。
 代わりに、節約料理の考案に情熱を燃やし、コーデリア王妃推薦で出版されたレシピ本『王室シェフのお手頃クッキング』は、貴族にも平民にも解放された元奴隷にもウケて空前の大ベストセラーとなった。

 仙女の老婆は語り部になった。
 彼女はシェナ王国中を旅した。
 訪れた町や村で、人の集まる辻に立ち、レオ一世王とコーデリア王妃のロマンスとクーデターと毒殺未遂事件の秘話を、身振り手振りを交えて臨場感たっぷりに語った。
 もちろん、仙女の活躍を生き生きと描き出すことも忘れなかった。
 そうして、自分もまた「伝説」の一部となったことに、彼女は深い満足と喜びを得たのである。

 さて。
 文字によらない口承文学は、人から人へと伝えられるうちに、話の筋が変わってしまい、元の形がわからなくなるケースが多い。
 幸いこの話は、仙女によって書き留められていたので、ほぼ起きたとおりの事実を後代の人間も知ることができる。

 ところが。
 仙女を始めとして、事件の当事者のほとんどが世を去った八十年後、この話がある民話収集家の手で文章化され発表されたとき、元の形ではなく、変形した筋が採用された。
 タイトルは『王太子様、婚約者の私を毒見役と交代させるとはどういうおつもりですか?』。文字数は九千字弱。小説としたら短いが、シェナ王国に伝わる民話は、だいたいどれもこの程度の長さにまとめられている。
 
 したがって、人々はそちらを事実と思うようになったが、仙女の残した文章と比べると細かい点がだいぶ違う。たとえばコーデリアとジェイコブ王太子が知り合うきっかけが、事実は手紙であったのに対し、『王太子様ーー』では単に一目惚れとだけ書かれている。煩雑になるのを避けるため、手紙の部分は省略されたのだろう。

 ほかにも省略されたエピソードは多い。婚約破棄されたコーデリアの大逆転に焦点が当てられているため、衛兵隊長や天使や仙女の活躍についてはまったく触れられていないーー仙女にとってまことに残念なことに。

 だがこれは仕方がない。文字数が1万字以下なら、主要な登場人物は二、三人に絞ったほうがよい。ヒーローとヒロインと敵役、そのくらいがすっきりする。
 そして『王太子様ーー』では、ヒロインに感情移入しやすいように、コーデリアの一人称一視点で書かれている。そうなると必然的に、コーデリアの知り得なかった事実は省かれるため、仙女の行動や内面などは物語中から排除されたのだ。

 すると『王太子様ーー』を読んだ人々の中には、事実を知らないために、さまざまな点で疑問を口にする者も出てきた。

 たとえば、

「レオ第二王子ってどんな人だったの?」
「転生者ランの出自や性格は?」
「毒見の一族ってどんな人たち?」
「コーデリアの家族は文句を言わなかったの?」
「本当に百年眠って老化もしなくて死なないことなんてあるの?」

 などである。
 そこで今回、主として仙女の残した文章を資料とし、このような形で『王太子様ーー』を長編化させていただくことになった。これをお読みいただくと、現在普及している話ではわからなかった背景などが明らかになり、さまざまな疑問も解消されるであろうと思う。

 結果として、分量は十倍以上になった。また、できるかぎり事実を再現することを主眼としたため、神の視点を採用し、ほとんどの人物の内面を描写することになった。
 これは、一人称一視点とは異なり、感情移入を妨げる書き方ではある。あまりに視点が移動すると、読者の中には混乱し(またはイライラし)、読みにくさを感じる人もいるだろう。これは「視点の揺れ」と呼ばれ、現在の小説作法では避けるべき書き方だとされている。

 が、しかし、仙女の「語り」はこのようなものだったと思われる。すなわち、自由自在に登場人物の内面に入り込み、場面は移動し、時間軸も前後に飛び、なかなかクライマックス(コーデリア毒殺未遂事件)に迫らずに聴衆の期待感を煽り、九千語で語れる話を九万語にも引き延ばしたであろうと。

 また。
 さまざまな疑問とは別に、『王太子様ーー』に関して、ある不満が述べられることがあった。これはなかなか重要な問題を含むと思われるので、一言触れておきたい。

 その不満とは、

「王太子にされたことに対して、コーデリアの復讐が甘すぎる。全然ざまぁしてない。女主人公はマゾじゃないの?」

 というものだ。
 なるほど、とは思う。悪いやつが単に眠らされただけではスカッとしたカタルシスを得られず、期待を大いに外されて、読んで損したと感じたのだろう。
 難しいところではある。確かにあの王太子は、もっと悲惨な目に遭わされてしかるべきゲス野郎だ。小説ならそのほうが良いに違いない。が、これは史実なので、残念ながら結末を変えるわけにはいかなかった。期待外れだった方は、どうかその点を汲んでご了承いただきたい。

 その代わり、と言ってはなんだが、最後に百年後に起こったことを付け足して、この物語を終えたいと思う。それを読めば、「本当に百年眠って老化も死にもしないの?」という疑問や、「復讐が甘すぎる」という不満にある種の答えが得られるであろう(ただし、残酷なシーンが苦手な方は、読まないほうがいいかもしれない)。

 では、口上はこのくらいにして、続きを。


 ジェイコブ王太子は目を覚ました。
 そして、前夜の記憶がないことに気づいた。

「はて、俺はいつ寝たのだろう?」

 起きた場所はベッド。しかし見覚えがない。白いシーツを被せただけの粗末なベッドである。掛け布団も、えらく薄くて貧弱だ。

「あ、本当に、百年ぴったりで起きた」

 ジェイコブ王太子を見下ろして、見覚えのない女が言う。

「先生、第三号の患者さんが起きました」

 女の声に、白衣を着た男が近づいてきた。患者? ということは、俺は事故にでも遭って意識をなくし、この病院に運ばれたのか? それにしても、何だか安っぽい病院だ。王宮のそばには、もっと立派な病院があったはずだが……

「やあ、王太子。気分はどう?」

 やあ王太子だって? ジェイコブの頭が混乱する。ここはどこだ。シェナ王国であるはずがない。きっと外国だ。しかも王家を敬うことを知らない、非文明国に来てしまったに違いない。

「何とも言えない気分かい? きっと腹が減ったろう。それより喉が渇いたかな? 百年飲まず食わずの患者は、なんせ我々も診たことがないんでね」

 外国語ではないのに、意味がわからない。
 ジェイコブ王太子が無言でいると、

「まあ、急に食べても胃が受けつけないだろうから、お粥でも用意しよう。すぐに食べられないようなら、これを読んで。グレイスとポーラは先に起きて、もう読んだから。ちなみにこの文書を読むことは、レオ三世国王陛下の御命令だから、ゆめゆめ逆らわないように」

 あまりの無礼さに逆に怒ることもできずにいると、はい、と文書を渡された。
 表紙の真ん中に、「王太子様、婚約者の私を毒見役と交代させるとはどういうおつもりですか?」とある。

「何だこれは?」

 思わず声が裏返る。その瞬間、グーと腹が鳴った。
 医者と看護師が手を叩いて爆笑した。

 ジェイコブ王太子は無視した。そんな、無礼な医者に笑われたことよりも、「毒見役と交代」という衝撃のフレーズに心を掻き乱されていた。

(そうだ、思い出したぞ。ランはどうなった? それからコーデリアは? 結局あいつはフグ毒で死んだのか?)

 表紙をめくって文書を猛然と読む。驚きの連続。
 読み終わったとき、ようやく「元王太子」は、自分の置かれている境遇を理解した。

「……そうか。王位は、レオによって簒奪されたのか」

 現在の国王はレオ三世とか言っていた。とすると、やつの孫が、資格もないのに王の椅子に座っているらしい。

 ジェイコブはカッとなった。
 正統な王位継承者は俺だ。
 しかも、この医者の話では、父も母も百年の眠りから覚めたという。
 ならば、三人揃って国民の前に姿を現そう。そして憎むべき簒奪者の孫に、王位を返還するよう命じるのだ!

「言っとくけど」

 医者の声には、ぞっとするような冷たさがあった。

「これを読ませたのは、王太子、あんたが自分の悪事を恥じて、反省するためだから。私は悪い人間でした、これからは心を入れ替えますーーそう書いてある紙にサインしなければ、我々はどんな医療処置もしてはならないことになっている」
「ふざけるな!」

 ついにジェイコブが爆発した。

「貴様は死刑だ! 貴様の一族もだ! 俺は王位継承者だぞ!」
「落ち着けよ、王太子。それは百年前の話だ。百年のあいだに、この国がどれだけ進歩し、科学技術が発展したかを聞いたら、あんたらは何もできない過去の亡霊に過ぎないと悟るだろうよ」

 ジェイコブはベッドから立ち上がり、医者を突き飛ばした。

「ヘイ、王太子。どこへ行く?」
「外だ」
「外へ出てどうする?」
「王位の正統性を訴える。調べれば、俺が正しいことがわかるはずだ」
「まあ、一部の貴族や軍人は、あんた方を崇拝し、今日の『復活』を待ち望んでいたようだがね。でもあんた方は、このままじゃ彼らに会えないよ」

 ジェイコブは病室のドアの前で振り返った。

「どういう意味だ?」

 医者は肩をすくめた。

「百年のあいだに、この星の環境は激変したんだ。恒星から出る電磁波が強烈になってね。現代の医療処置を受けないと、大変なことになるよ。誰かと会うどころじゃない。そういう意味さ」

 ジェイコブは、医者の目をじっと見つめた。

「サインしないと処置しないんだろ?」
「ああ」
「それで、父と母はサインしたのか?」
「いや」
「なら俺の返事はこうだ」

 ジェイコブは唾を吐いた。
 医者は、ゆっくりとハンカチを出して顔を拭いた。

「グレイスとポーラは一階のホールにいる。お前も合流して行け。チャンスは与えたんだ。後悔するなよ」
「早く国外に出ることをお勧めする。死刑が執行される前に」

 病院のホールで、グレイス二世とポーラ王妃が待っていた。

「息子よ」

 グレイス二世は、険しい顔で言った。

「まだ逆転の目はある。諦めるな。我々への忠誠を失っていない人民に会いに行こう。もし軍をこっちにつけることができたら、勝利は間違いない」
「陛下。陛下を崇拝している貴族や軍人が大勢いるそうです。彼らを焚き付けましょう」
「急いでちょうだい。その人たちのところへ行けば、きっとまともな食事が食べられるわ。犬の食べるような病院食じゃなくて」

 元国王と元王妃と元王太子は、鼻息荒く病院の外に出た。

(しかしこれが……本当にシェナ王国か?)

 町のあまりの変わりように、ジェイコブは言葉を失った。建物は木からコンクリートに。人々の服装は明るい派手な色合いに。また土が剥き出しだった道路はすべて舗装され、その上を、不気味な機械が人を乗せて動いている……

「危ない。あの鉄の塊にぶつかったら、馬に蹴られたどころじゃないぞ」

 グレイス二世が言ったときだった。
 ジェイコブは、腕がかゆくなった。
 掻いた。
 皮がめくれて指に血がついた。
 はっとして腕を見る。
 腕は、真っ赤に火膨れしていた。

「熱い!」

 ジェイコブは初めて気づいた。
 ほぼ同時に、グレイスとポーラも気づいた。

「火傷よ!」

 叫んだポーラの唇は、血を吸ったヒルのように膨れ上がっていた。

「医者が言っていた電磁波とは、これか?」

 言うと同時に、グレイス二世は地面に倒れて転げ回った。

「熱い! 熱い! 全身が焼ける!」

 ジェイコブは痛みに朦朧とした頭で、必死に考えた。

(まだ間に合うか? 病院に戻って医療処置を受けたら、命は救かるか?)

 ジェイコブはよろめく足で、病院目指して進んだ。
 一歩、また一歩……
 一歩ごとに、電磁波は深く身体を刺し、細胞の中の水分を、ぶくぶくと沸騰させた。

「ああ、目が見えない。病院はどこだ? 俺は救かるのか?」

 ジェイコブは前のめりに倒れた。
 全身が焦げた。
 黒ずんだ皮膚からプスプスと煙が上がっても、元王太子の指先は、病院に向かって虫のように動いていた。

        《完》

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