「そろそろ行かないと」

 瑞季《みずき》先輩は左腕につけた僕の知らないオシャレな腕時計をチラッと見た。

「あ、はい」
「そんなに畏まらなくたっていいのに」

 瑞季先輩はふふっと眉をひそめながら言った。
 瑞季先輩のその可愛らしくも美しい笑顔と大人らしさを感じる泣きぼくろに思わず魅了されてしまう。

 学校までは橋を渡り終えてあと十分ほどだ。
 僕らは示し合わせるわけでもなくほぼ同時にコンクリートの道を踏み出した。

 チリチリ かつっ、コツッ チリチリ かつっ、コツッ

 すっかり履き慣れた革靴の音と、まだ履き慣れない革靴の音を鳴り響かせながら僕らと車輪は風の中を行進する。

 二人の間は僕の愛用自転車が埋めてくれる。邪魔な気がして、でも丁度いい気がして、そんな距離にいる。

 橋を渡り終えて、少しすると桜の花びらが浮かぶ小川に会った。
 おそらくさっきの川と合流するのだろう。

 行進している間、ぽつりぽつりと降りはじめた雨のように先輩と僕は会話を刻んでいた。時々休憩をはさみながら僕らは会話の形を探す。

 小川を避けて、右手には住宅が建ち並び、左手には遥か先の地平線に浮かぶビル群が望める。

 会話の間にそんな景色を眺めながら緩やかな坂を登っていた。

 瑞季先輩と交わす会話はなんでもないような学校の話。この人と話していると、どんな会話も不思議に心地よく感じる。

「あおい君はなにか部活に入るつもりはあるの?」

 ぼんやりと会話の切れ目の中でどこにでもあるような日常を感じていると、またぽつりと僕らのお話が始まる。
 
「いえ、特には。それに家の家事があるので部活に時間はあんまり割けないと思いますし」
「そっか。っていうか家事できるんだ……なかなかやるなぁ」

 むむむと眉根をひそめながら顎に手を当てるその姿はなんだか可愛く感じてしまう。

「瑞季先輩は家事できないんですか?」

 つい悪戯心が働いてしまい笑いながらからかうと、瑞季先輩はぷくりと頬を膨らませた。

「うるさい、料理以外はできるよっ」
「すいません、調子乗りました」

 苦笑しながらそう返すと、瑞季先輩は息を吐いた。

「まったく、先輩をからかうなんて生意気だねっ君は」

 瑞季先輩はキリリとした表情でそう言うと、今度はニヘラと無邪気に笑った。

 話し方からも大人な雰囲気を感じさせるが案外子どもらしく笑うんだな、と内心そのギャップに心を弾ませてしまう。

 ……また、僕らのやりとりは休憩に入った。


「そういえば、なんであおい君はあの橋を歩いてたの?」

 今度は数メートル先を歩く見覚えのある制服を見つめていると、隣で歩く瑞季先輩はそんなことを聞いてきた。

「……はい?」

 それはもちろん学校に行くためなのだが、いったいどういう意味なのだろうか。

 そうやって内心首を捻っていると先輩は慌てて言い直した。

「ごめんごめん、言い方が悪かったね。こあの橋って『自転車降りなさい』って怒ってる看板があるわけじゃないでしょ? だから……」
「ああ、なるほど」

 看板が怒るという表現に少し苦笑しながらも、言っていることはわかるので僕はすぐに理解した。

「たしかに乗ったままこの道を進んでもいいんですけど、万が一人にぶつかってしまうと危ないので」

 人が三人、横に広がっても少し余裕のあるような橋だが、やはりぶつかる危険性はある。

 それにこの時間だと朝の散歩をしているおじいちゃんおばあちゃんにぶつかってしまうかもしれないのだ。
 
「君は、やっぱり優しいんだね」

 先輩はにこやかに大人な笑顔を浮かべてそう言った。

 僕にだけ聞こえる声でそう呟かれたその言葉は、菜の花と一緒に風に乗せられ、水面を揺らした。

「……そんなこと言っても、なにも出ませんよ」

 微苦笑を浮かべながら、照れ隠しになるようそう言った。

「なーんだ、クランキーでも出てくるかと思ったのに」

 おいしいチョコ菓子が貰えないとわかったからか、先輩はそっぽを向いて、拗ねたような口をきいた後あははっと子どもっぽく笑った。

「そこはもっと高価なものでもいいんじゃないですか?」

 僕と先輩の笑い声が揺れる鈴と叩かれるカスタネットみたいに混ざって響く。

 いつのまにか随分と会話のやりとりが滑らかになっていた。

 一度ぽつりと会話を刻み始めると、すらすらさらさら流れ出す。そしてまた休憩する。

 僕らはそれの繰り返し。


「あれ、もう学校か……」

 いつの間にか朝日に照らされる校舎が、脇にそびえる木の間から見えていた。

 話に夢中になっていたからか学生がついさっきより多くなっていることにも気がつかなかった。

 名残惜しそうな先輩の様子に少しだけ心を浮つかせる。

「……ほんとだ」

 僕も意識することなく声音を落としてしまった。

 さっきまで会話に夢中になっていたから気づかなかったが、反対側の歩道や前を歩く数人の生徒から探るような視線を向けられている気がする。

 なぜか考えると、すぐに答えが浮かんだ。

 瑞季《みずき》先輩といるからだろう。

 瑞季先輩は目にした誰もが目を瞠るほどの美人だ。
 そしてこの性格からして同学年の友達も多いだろうし、知り合って間もないがきっと学年問わず人気なんだろう。

 今更僕は入学後五日目にしてとんでもない先輩と登校していることに気がついた。

「……先輩、僕自転車置きに行きたいので先に行きますね、じゃあっ」

 なにか変な噂をされるのは先輩にとってあまり良くはないだろう。

 そう考えて、僕はそんなセリフを吐き、数メートル前まで迫っていた門に向かって自転車を連れ駆け出した。


「ああ、うん。じゃあ、また放課後」

 先輩のそんな声はチリチリと早く回る車輪の音が隠してくれた。