体育祭が終わって一ヶ月が経った。イベントムードの教室は幾分か落ち着きを取り戻して、教室での僕の扱いも前のように、いるかいないかわからないぐらいまで戻っていた。

「じゃあ、復習忘れるなよー」

 四限の英語が終わって、すぐさま石川が僕の前に来た。前の席の男子は毎回そこに石川が来るのを知っていて、譲ってくれているのか、すぐ仲の良い友達と他教室へ昼食を食べに出ていく。

「君が新?」

 何とも強気な声が聞こえた。声から自信に満ちている陽キャ臭を感じた。横には三人の女子。真ん中には声を発したであろう、いかにもリーダー的風貌の女子がいた。口はへの字に曲がっていて、自分の意見を曲げなさそうな面倒なタイプだとすぐわかった。両隣の女子はモブキャラだろう。真ん中の女子についてきたら、その先がたまたま僕のとこだったみたいな。こういう女子の世界ならではのいざこざを避ける立ち回りは、尊敬をする。僕はそういうのが苦手だし、その苦労も知らないけど、頑張れと応援したくなる、でもそれ以前に合わせないと生きていけないその二人は気持ち悪い。

「そうだけど?」

 僕は一瞬だけ顔を確認して、石川に目を戻した。相手にこっちの心情が伝わるように敢えて素気なく返す。

「最近、唄のノリが悪いんだよね」

 藪から棒に言ってきた。前置きとか、申し訳程度の口調もない。もう一度石川を確認した。頬杖をついて、調子は良さそうだ。その証拠に少し右の口角が上がっている。

「だから?」

 煽るように言った。言いたいことを簡潔にまとめず、明らかに僕を下に見ているように感じた。こういうのは自滅するように促すのが一番だ。

「だーかーらー」

 その僕の反応に上手く乗ってきた。僕の机に勢いよく掌を打ち教室中にその音が響く。そして僕とその女子にクラスの視線を集められた。それに気づいて、僕の耳元に口を近づける。

「あんた調子乗って、唄のことたぶらかそうとしてんじゃねえぞ?」

 昭和のヤンキーのようなダサい言葉で脅してきた。本当にくだらない。

「勘違いもほどほどにしてほしい。僕と白砂は生徒会役員ってだけだよ」

 僕はため息を大きく吐いた。

「唄がお前と仕事あるからって、最近付き合い悪いんだよ」

 僕の知ったことじゃない。唄が仕事をしているのは本当だし、お前みたいに帰宅部で放課後食べ歩きして、何も考えずにのほほんと生きているやつなんかに合わせていたら、唄が潰れる。そう、言いたかったけど、流石にそこまで僕の口も達者じゃなかった。

「さっきから聞いてるけど、それただのお前の憶測じゃん」

 来た。

「お前みたいに頭悪くて情弱なやつは、何でも鵜呑みにするし、ありもしない事実で一喜一憂すんだろ? ばかか。白砂さんがどう思ってるかなんて本人にしかわかんねえだろ。あーあ、こんな頭の弱い感情でしか動けないアホが友達にいる白砂さんかわいそうだわ。仮に白砂さんが新のこと何か思ってたところで、ただのお友達のお前ら三人に何の関係があんだよ」

 石川はこういう時に頼りになる。これを待ってた。これがなかったら僕も強気に出ていない。

 石川の口は止まらない。クラスの雰囲気はそれに圧倒されるかのように静まり返っていた。

 彼女は顔を真っ赤にして、完全に頭に血が昇っているようだった。石川はその顔を見ると、鼻で笑って、足を組んだ。舐めプを目の前で見ていると、実に清々しい。

「な、何なんだよお前」

 彼女のその言葉を無視して、石川は辺りを見回した。状況を確認するように一瞥して、さらに口角が上がる。

「最も、一番俺が言いたいのは新に対しての侮辱だよ。入ってきて頭ごなしに、しかも上から目線で、何様だ。俺から見たらお前下手に出るべきだと思うんだけど?」

 その言葉を機に静寂に包まれていた教室から小言がちらほら聞こえ始めた。何を言っているかは聞こえないけど、明らかにこの不届き者に対して言っているようには見える。三人を囲うように卑劣な言葉が覆いかぶさる。それで居心地が悪くなったのか、その言葉たちを吹き飛ばすように、何も言わずに出て行った。

「俺がこれ言うの待ってただろ?」

「⋯⋯別に」





 今日の唄は珍しく、机に体を委ねてダラダラしていて、そんな唄を僕は小説の隙間から横目に見ていた。見ていることを悟られないように小説は捲っているけれど、全然読めていない。

「修学旅行の班決まった?」

 唄は手を目一杯前に伸ばして脱力している。

「まだ決まってないけど、どうせ石川とだよ」
「自由行動あるってね」
「そうなんだ」

 知らないふりをした。

「私とはどう?」

 またいじりだ。こうして、僕のことをドキドキさせるのが、彼女は楽しいんだろう。少し黙った。唄のぽろっと出た冗談なんて、そんな気にかけることないけど、少しその質問の先を知りたくなって、

「いいよ」

 いつもと違う返事をしてみた。僕はこういう返しをした時の唄を知らない。ただの好奇心。

 すると、返事が返ってこなかった。徐に前を見ると、呆気に取られたような表情で僕を見ていた。

「どうしたの?」
「いや、意外な返事でさ」

 その反応は僕も想像していなかった。でも今日来た女子たちの顔が脳に浮かんで、

「やっぱやめよ」

 前言を撤回した。

 え? と短く唄が声を出した。

「今日、女子三人が僕のとこにきて、唄と仲良くしすぎ、とか言ってきたから、修学旅行でそれやると唄にも被害出そうだなって」
「あ、そ、そうだったんだ。なんかごめんね。じゃあ厳しいね」

 唄は悲しそうに笑った。僕も正直二人で回りたかったけど、そんなことできる立場じゃない。そんなの関係ない回りたいなら回れよ。って石川には言われそうだし、僕自身あの女子に気を効かせるような真似はしたくない。でもそうじゃなくて、まだ僕じゃダメなんだ。隣を歩くにはまだ足りない。頭でそれを理解していたから、ヘタクソに笑い返すことしかできなかった。





 憂鬱だ。朝起きると、たまにとてつもなく学校に行きたくない時がある。誰にでもあるんだろうけど、最近はほぼ毎日で、起きると胸がズキズキと痛んだ。枕は湿っていて、目尻には水が溜まっている。ストレスが原因とかではないと思う。なんとなく、どこかで雫が残っていて、いくら考えないようにしていても、体が反応してしまっている。心が寂しくてその穴も全く埋まる気配がない。いつまでもこんなんじゃダメだ。でも、今日はいつも以上に辛かった。

 新〉今日は学校休む

 唄と石川にそうLINEを打つと、二人ともすぐ返信をしてきた。

 石川〉り
 唄〉私も休む
 新〉何で唄も休むの?
 唄〉生徒会室に誰もいないから?

 何でこういうことを平然と言うのだろう。少しもそういう展開を期待していない僕に対してでも、そういう言葉は良くない。

 新〉質問を質問で返さないで

 ちょっと棘を見せつつ、返信をした。

 唄〉ごめんごめん

 布団の中でさらにメッセージを送る。

 新〉琴さんはそれ許してるの?
 唄〉だから家には、いれないんだよね。だから今日一日、暇つぶしに協力してよ。

 ドクンと心臓が跳ねた。ずる休みをして、二人で模擬デートみたいなことを想像しなくもなかったけど、

 新〉家から出たくない

 夢は夢の中でだけで十分だ。

 数分待ってもLINEの返信は来なかった。多分、学校に行ったんだろう。

 最近、気温が下がってきていて、薄着だとたまに寒い日がある。今日もそうだ。布団にはまだ出たくなくて、このまま篭っていたかった。

 右から左にバイクの音が通り抜けて、また心臓が痛む。子供たちの声が中まで入ってきて心臓に響く。そもそもこれが心臓なのかすら怪しい。精神科ってやつに行くべきなのだろうか。でも精神科って行ったところで何をするんだ。

 助言・相談・指示

 調べるとこんな言葉が出てきた。いまいちピンと来ないし、これにお金払うとなると行く気が失せる。元々行きたいとは思っていなかったけど。

 Twitterを開くと、トレンドにUS新曲『星涙』が入っていた。再来週に正式リリースなのに、この盛り上がりだ。シングルの表紙は満天の星空というシンプルなものだった。それが泣いているように見えるからだろうか。本当のところはわからない。今度、聞いてみようかな。

 Googleを開いて、何となく[星]と調べた。黒い画面に無数の光が輝く。率直な感想は物足りない。やっぱり、人間が作った光に映る星はただの人工物だからかどこにも響かない。確かに街の風景にはなんとも思わないし、この間感動したのもたまたまだ。これを見ても胸のざわつきを忘れることができない。ましてや感情移入して、浸るなんてもっての外だ。

 本当にだるい。体が鉛のように重くて、どうしても動きたくない。いつまでもこんなんじゃダメなのに、体が言うことを聞いてくれない。さっきも同じような事を思った。人間そんな簡単に変われないな。ダメだと思うだけで、行動がそれをしてしまう。僕の弱い部分が丸見えで、頑張ろうとすると、浮き彫りになるから頑張りたくなくなる。こういう思考に至っている自分にまた嫌気が差して、何一つ変われていないことにまた気がつく。



 爪が長いな。

 やっとの思いで立ち上がって、リビングにある爪切りで、爪を切った。少し深爪をするように切ると、外傷的な痛みと精神的な痛みが中和するように和らいだ。リストカットってこんな感じなんだろうか。少し試したい気持ちになった。何でこんなに追い込まれているんだろう。自分でもわからない。でも人間の心がどれだけ複雑なのかをしみじみと感じたし、『死』というものの恐ろしさもまた感じた。


 インターホンが鳴った。歩くのはやっぱりしんどくて、壁にもたれながら、やっとの想いでドアを開けた。

「おはよ!」

 ドアを開けると、眩しくてすぐドアを閉めた。

 すると無理やり開けられて、

「何で閉めるの?」

 そこには唄がいた。髪をおろしていて、服装は白で統一されていた。ダボっとした短めのトレーナーにスカート。出かける気満々の服装に怪訝な顔をするしかなかった。

「ほら、いこ! 今日行く場所は決まってるんだ」

 僕の事情はお構いなしにズケズケと近づいて、言ってきた。近い唄の髪の毛からほんのりいい香りがして、ドキッとする。痛いという感じではなくて、唄自身に僕が勝手にドキドキしていた。

「⋯⋯わかったよ、着替えるから中で待ってて」

 唄は笑顔で「うん」と返事をして、靴を揃えて中に上がった。とりあえず、リビングにある椅子に座らせた。兄の部屋を指差して。「この部屋には入らないように」とだけ言って、僕は自分の部屋で着替えた。



「お待たせ」

 何となく当たり障りのない、白い半袖のTシャツに上着のシャツを羽織って、黒いチノパンを履いた状態で唄の前に出た。

「なんか普通だね」

 眉間に皺を寄せ、何か言いたそうな顔で言ってきた。

 普通で何が悪い、と言いたいが我慢して、あははと笑ってごまかす。

「⋯⋯行こうよ」

 座り続ける唄にそういうと、気まずそうに目線を逸らした。

「その、予定、夜だから、それまではやることない、というか、何というか」

 意外と計画性のない唄。てっきりこういうのもしっかり考えて、完璧にこなすものかとか思っていた。だから、唄の気の抜けた姿は新鮮味があったし、少し嬉しくなっている自分がいた。

「まあ、いいんじゃない? 暇つぶしてから行こうよ」

 とは言いつつも、家には何もない。僕も一人でいることが多いから、複数人で遊ぶようなものはなくて、早く家を出たい。

「ゲームとかないの?」

 唄はキョロキョロして、リビングを漁り始めた。

「ゲームするの?」
「したことないからしてみたいなって」
「ゲームなんてないよ」

 唄は急に動きを止めて、振り向いた。そして口を膨らませ、不満をあらわにする。そんな顔をされてもないものはないからどうしようもない。唄はリビングを歩き回ってさらに何かないか探し続ける。だから好機だと思って「家から出ようよ」と言った。

「新くん一人の時、何してるの?」

 僕は学校以外ずっと一人だ。何なら石川がいなければ学校でも一人。その質問に僕のほとんどの時間があてはまった。外を眺める、鳥の囀りを聞く、YouTubeを見る、星を眺める、音楽を聴く。何から答えていいかわからない。でも、強いていうならやっぱり、

「小説読んでる」

 これだと思った。

「何がそんなに楽しいの?」

 何も楽しくない。ずっとそうだ。趣味といえば響きがいいけど、趣味と言ったら、それは小説を趣味にしている人に申しわけない。昨日読んでいた佐野徹夜の『アオハル・ポイント』が目に入った。答えづらい質問から目を背けるためにじっと見つめた。

「時間があっという間に過ぎてほしい」

 意図して発した訳じゃない。でも、どこかにある本音が漏れ出てしまったのは事実で、こんな無気力な内の自分を唄の前で出してしまった。ただ、そのことに後悔が上乗せされて、また『アオハル・ポイント』に目が移った。

 唄はブッと吹き出して、視界に入っていない唄の顔が思い浮かんだ。唄はごめんごめんと言ってから続けた。

「なんか、いつも私が見てる新くんが急に出てきてびっくりしちゃった」

 唄は涙袋に溜まった水を指でなぞって、やっぱり笑っていた。

「どういうこと?」

 唄は僕の疑問に不可解な笑顔を上乗せして、口を開いた。

「新くん、今日は自分に嘘をつかないで、何でも話して? そういう日にしようよ」

 唄のその言葉は見抜かれている感覚があった。でも僕がいつも嘘をついているような言い草はよく分からない。じゃあ嘘のない本当の自分ってなんなんだ。

「私は今日そのつもりで来たんだ。そしたら何も考えず、来ちゃって、ライブの時間も全部忘れてた」

 唄は僕がさっきまで見ていた『アオハル・ポイント』を手に持って、後ろに隠した。僕が逃げる道を無くすようにして。

「尽力する」

 精一杯の答えを出した。唄はそんな僕に笑顔で返してくれた。

「いつもの家での生活でいいよ。私も自分の家みたくするからさ」

 何となく言いたい意味がわかった。それは琴さんの前の唄ってことじゃなくて、電話越しの唄をここでしてくれるってことだろう。僕はバッグに入っていた本を取り出して、床に座って読んだ。

「早く歌ってよ」
「乗り気だね」

 あのペンダントを首から下げて、喉を唸らせる。そして歌い始めた。せっかく集まったのにこんなんでいいのかって思うけど、やっぱり心地良くて、この時間が僕の楽しみだったからこれでいいとも思った。『星涙』のリリースが決まってから唄の声の調子もみるみる良くなっていた。でも、僕は三曲目で止めた。

「唄ってなんでそんな歌うの?」

 唐突な疑問だった。僕が小説を読む理由は不純かもしれないが一応ある。でも、唄のそれは僕が小説を読む理由とは明らかに違う気がした。

「世のため、人のため。歌はみんなを癒すし、元気にする?」

 床の一点を見つめ、徐にまた続ける。

「ちょっと早いけど、会いに行こうよ。今日は私に歌を教えてくれたその人に会いに行くために来たんだ。私はその人のおかげで歌が好きになったの」

 その人の話をする唄の顔はどこか遠くを見ていて、不自然なほど明るい声で、でも震えている、見せたことのない声色をしていた。