寝ずに石川の待つサイゼに行った。告白の結果は、LINEの調子を見るに成功したんだろう。中に入ると、。石川が奥の席で手を振るのが見えたからそっちに向かった。後ろ姿の雫が見えた気がして、目を擦った。やっぱりいない。席はあの時と同じで、それに反応するみたいに僕の心がズキズキと痛んだ。この感覚は新一が死んだ時も二年くらいあった。でも、その時のことなんてほとんど覚えていない。ポッカリと穴が空いたように、記憶がない。この感覚だけは古傷のように残り続けていた。

「おい、大丈夫か?」

 目の前には石川がいて、僕はなぜか石川の顔に安心していた。

「やっぱりオレンジか」

 石川は先にドリンクバーでオレンジジュースを入れていて、それを顔色ひとつ変えずに口に含んだ。

「キーからいい返事もらえたよ」

 知ってるよ。顔を見ればそんなの一目瞭然だし、もし振られていたら石川は僕をこんなところに呼んでいない。

 僕は無表情で水を飲んだ。

「新も恋してるだろ?」

 恋してるっていう言葉が面白かった。今時、そんな言葉遣いする人は中々いないだろうし、男子高校生が言っているのが、なお面白い。

「恋してるって言い方やめて」
「でも好きな人はいるんだろ?」

 否定できなかった。あんなことを言っておいて、いないなんて言えない。

「白砂さんだろ? 告白はいつする気なんだ?」
「しないよ」
「本当かね。いつかしたくなる時、来るぞ?」

 そんなの来ない。今の関係がいい。ただ壊すのが怖いだけというわけじゃなくて、本当にこの距離感がいい。僕はこれだけ親しくなれればいい。本当にいい。

「そんなことより、いつから榊原のことそう思ってたんだよ」

 これ以上掘られるのは気分も良くないから、僕は話題を石川のことに変えた。

「あー、一年の時に助けてもらってから、俺の勝手な一目惚れだよ」

 

 *



 一年の時、体育終わりに自販機に寄った。ただ喉が渇いて、水を買っただけなのに。

「おい、俺たちのこと抜かすとはいい度胸じゃねえか」
「いや、いなかっただろ」

 目の前にはいつの間にか、一回りも二回りもでかい高三の先輩がいて、俺の胸ぐらを掴んできた。

「おい、離せよ」
「敬語も使えねえのか」

 それは確かに俺が悪い。だが、謝らない。

「いなかったくせに難癖つけてきやがって」
「じゃあ、今ある有金全部よこせや」

 三年は元々これが目的だったんだろう。その証拠に会話にすらなっていなかった。でも体育終わりで水を買うお金しか持っていなかったから、俺は何も出すことができず、あはは、と笑うと、刺激してしまったらしく、一発殴られた。それからリンチされそうになった時、助けてくれた。

「おい、やめろよ。寄ってたかって先輩がダサいことすんな」

 声がした方を見ると、キーがいて、めっちゃ格好良かった。

「あはは、女が来たぞ!」

 でもキーは空手か柔道かは知らないけど、綺麗に男を薙ぎ倒して、俺に手を差し伸べてくれた。それで俺が勝手に一目惚れした。







「漫画じゃん」
「そうそう」

 石川は恋する乙女のように目を輝かせて話した。

「俺のことはいいんだよ。新がもし白砂さん関係で何かあったら協力するから頼れよ!」
「はいはい」

 もし、本当にもし、この気持ちが抑えられなくなって、付き合うという形を僕が欲したとしても、やっぱり僕は告白はしないと思う。







「じゃあ俺一番な!」
「だったら俺アンカー走るわ」

 文化祭が終わって、来週には体育祭を控えていた。今は次に備えてクラス対抗リレーの走順を話し合っている。クラス対抗リレーは男女関係なく全員参加の競技だから、一応耳を傾けていた。勝とうが負けようがどっちだっていい。何事もなく平凡に時が過ぎてくれれば。

「じゃあ、逆にアンカーじゃないとこで差をつけるとか?」

 次の体育の時間は隣で四組女子がバレーボールをやる。僕たちがやるバスケは上手い人が勝手に走って勝手に決めてくれるから、ボーッとしていると勝手に目が唄を追ってしまう。だからそれを気をつけなければいけない。

 こんなことを気にしなければいけなくなったのはあの一件のせいだ。

 文化祭のシンデレラで榊原に代役の練習を頼んでいたのが功を奏して、劇は唄の代わりとして出たらうまく行ったそうだ。ここまでは良かった。でもその後が問題だった。僕の行動が陽キャたちの耳に入ったそうで、変に絡まれ始めたんだ。それで最近では休み時間、外を眺めていると「何、黄昏てんだよ、新くん!」などと馴れ馴れしく腕を肩に回して話しかけてくるようになった。本当にうざいし、やめてほしい。触られる度に陽キャたちのうるさい情緒が僕に触れてくるのを感じた。

「じゃあ誰にするか」

 でもやっぱり最近は唄が目に入ってきてしょうがなくて、廊下とかで会うたびに笑ってくれるし、手を振ってくれる。それを途轍もなく嬉しく感じている自分がいた。その行動は前からあったのに、あれ以来自分が浮ついているのが明らかにわかる。

「じゃあ新は?」

 石川の声が僕の耳を奇妙なほど綺麗に通過する。それで、「え?」と、教室に響き渡る声を漏らしてしまった。その声に陽キャ二号が「今日は元気じゃんか」と言った。教室は笑いに包まれる。石川のせいで、僕はこのクラスから注目された。「それいいじゃん」陽キャ三号の合いの手で拍手が巻き起こった。

「じゃあアンカー決定!」

 僕の「やらない」という声はクラスの雰囲気に飲み込まれ、黒板のアンカーの文字の下に僕の名前が刻まれた。

 石川を全力で睨んだが、石川はいやらしい笑みで返してきた。石川が何を考えているかわからないけど、本当に最悪だ。



「あ、新くん」
「うん」

 生徒会室での関係も過ごし方も特に変わっていなくて、

「アンカー走ることになった」

 こういったしょうもない報告も適当に挟んでいた。

「え? 新くんが?」

 唄のペンが止まった。それで僕の小説を取り出す手も止まる。顔を前へ向けると、唖然とする唄の姿があって、「え、なに?」と聞くと、

「新くんそういうことするんだ、と思って」

 唄は一人歩きをしていた魂を体に戻したかのようにビクッと動いて、その失礼な反応の説明をした。

「僕も驚いてるよ。僕の高校二年はこれのせいで、忘れられない年になりそう」

 生徒会に入って、USと知り合いになって、体育祭のメインイベントでアンカーを務める。僕の平凡な人生の中で唯一の花がついた年になることだろう。どんな花かはわからない。転けるとか一位からビリとか、燻んだ汚い花いならなければいいが⋯⋯。

「⋯⋯実は、私もアンカーなんだ」
 次は僕の動きが先に止まった。「え、なに?」と、唄は悪戯っぽく言ってきて、

「いや、女子でアンカーは流石に驚いたというか、何というか」
「私だってやりたくなかったよ。でも男子は最初に差をつけたいからって、みんな序盤で走っちゃうから、女子で一番早い私がアンカーを走るしかなかったんだよね」

 やりたくないと言う割には満更でもなさそうな顔。運動が得意なのは知っていたし、当然足も速いんだろう。

「本番、負けないからね」

 唄は僕に笑って、そう言ってきた。

「僕も負けない」

 意地でもないけど、とりあえずそう返した。






 体育祭当日。僕と唄は生徒とは離れた席で、おじさんや先生たちと、同じ列に座らされた。周りの人たちは各役員とかPTAとかよくわからないけどお偉いさんらしい。

 開会式は着々と進められていく。その年の体育祭スローガンを言うのは生徒会長のようで、それだけを言いに、唄が壇上へ登る。唄は凛としてそこに立った。その姿があの演説の時の姿と重なった。あの時が懐かしい。こんなことになるとは思ってもいなかった。住む世界が違うとか、関わっちゃいけないとか。僕はずっとそんな自分の作り出した価値観の殻に篭っていた。実際思っているより、特別な人なんていない。特別に感じる人は自分に持っていないものを持っているから。それは努力した証でもある。全てじゃないけど、全て才能で済ませるのは相手に失礼だ。唄と出会って、見てきたからそう思えた。

「今年のスローガンは『粉骨砕身』当たって砕けろ! でも、怪我するな! です。みなさん、今日一日頑張ってください」

 体育祭実行委員が決めたスローガン。運動部の脳筋が決めそうないいスローガンだ。唄が言うと、正直インパクトに欠ける。でも今日はそんなのどうでもいいのか、校庭に並んでいる生徒たちはその一言を機に大盛り上がりして体育祭が始まった。

「お疲れ」

 生徒たちに火をつけた張本人は隣の席にスッと座った。唄はその生徒たちの様子を眺めてクスッと笑って「楽しもうね」と微笑んだ。

 体育祭を楽しいと思ったことはないけど、もしもアンカーで一位でも取れたら楽しかったって言えるのかもしれない。そんな夢物語を勝手に想像して、逆に気が重くなった。

 スケジュールに余裕はないようで、間も無く最初の学年別一〇〇メートル走が始まった。

「見てよ」

 唄が指差した先には坊主の野球部がぶっちぎりで駆け抜けていた。

「すごいね」

 目眩く走る人は変わって、一グループが走るたびに校庭は歓声に包まれる。唄はこの状況を本気で楽しんでいた。

 何で僕はこんなに落ち着いてるんだろうか。つまらないわけじゃないけど、この激昂の渦にはついていけない。

「新くん、なんか肝座ってるね」

 その言葉は中々に傷つく。僕だけ浮いているのはわかるけど、うきたくて浮いているわけじゃない。

 最初の種目が終わって、唄も落ち着いたのか椅子に座り直した。

「唄は楽しそうだね」
「もちろん!」

 まだ何も出ていないのに前髪から垣間見える額には汗が光っている。

「唄は何に出るの?」
「私は台風の目と障害物走とリレーだよ」
「いっぱいでるね」
「新くんは?」
「⋯⋯リレー」

 迂闊だった。僕のクラスでの立ち位置と唄のクラスでの立ち位置の差を忘れていた。

「ごめん、わかってた」

 唄は申し訳あるように言った。要するに、ただいじられただけ。

「じゃあ、聞かないでよ」



 

 

「四十分後にまた集合してください」

 先生によるアナウンスで昼食の時間になった。僕が座っている位置は生徒も競技の様子も全部見える位置。こうしていると、テレビでスポーツ観戦しているような感じで、客観的に体育祭を見ることができる。元々テレビとかでアツい場面も静観するタイプだからこれはこれで悪くない。

 昼は生徒がハメを外しすぎないように監視の役割も兼ねて、生徒会はここを動いちゃいけないんだとか。だから膝の上に弁当を広げた。

「美味しそう」
「いつも通りだよ」

 横目で唄の弁当を見ると、熟練された卵焼きが目に入った。綺麗に折り畳まれた断面にプロのような丁寧さを感じる。

「その、卵焼き琴さんが作ったの?」
「そうそう、ほらあそこ」

 唄の指差した方向には琴さんがいて、琴さんは何やら楽しそうに金髪の女性と話していた。体育祭を見にきた親御さんでごった返すレーン横。琴さんは保護者たちに埋もれてすぐに見えなくなった。

「唄、ご飯食べよ!」

 後ろから高い声がした。振り向くと、唄といつも一緒にいる取り巻きの一人がいた。

「生徒会は監視しないといけないから、ごめんね」

 唄はその子に手を合わせてすぐに断った。

「いいよ。僕が見てるから食べてきな」

 まさか僕の口からこんな優しい言葉が出るとは。前なら多分二人のやり取りを眺めているだけだったと思う。

「誰だっけ。でも気が利くじゃん」

 唄の取り巻きが僕にそんなことを言ってきた。余計だし、僕を見て自分の方が上だと感じたのか、上から目線な口調だ。

「どうも」

 久しぶりの味わった感覚。こんなにムカつくものだったのか。

「じゃあ、任せてもいい?」

 唄は申し訳なさそうに言ってくれた。こういうところも好感が持てて、唄以外の女子と関わると唄の良さが際立つ。

「行ってらっしゃい」
「行ってきます!」




 
「ぼっち飯か?」

 後ろから声が聞こえた。米村先生の声だとすぐにわかったから、無視した。

「唄はどうした?」

 僕は沈黙を貫いて、最後の唐揚げを口に頬張った。

「⋯⋯まあいいや、どうだ? 最近の唄の様子は」

 先生は僕の隣にある唄の椅子に座った。

「普通ですよ」

 とりあえず、弁当を食べ終えることができたから質問の意図がわからなかったけど、流すように答えた。

「副会長を新にした理由わかったか?」

 この人は何なんだ。⋯⋯正直、今でも僕じゃなかったらもっと上手くやっていた気がする。僕はもらうばかりだったし、僕だから唄に負担がかかってるんじゃないかって、思うこともある。それが考えすぎだったとしても唄は変わらず、今みたいに自分を酷使するような選択をしていたはずだ。

「⋯⋯僕じゃなくてもよかったと思います」

 そんなこと言いたくなかったけど、見栄を張ろうとも思えなかった。先生の考えていることが僕には全くわからない。

「そんな言うなら教えてくださいよ、僕にした理由⋯⋯」

 先生を見つめると、先生は僕から目を離したかったのか校庭を見て口を開いた。

「US関係のことは新じゃなきゃ知らなかったんだ。そう考えれば新にしなければいけない理由の一つになり得るだろ?」

 やっぱり真っ直ぐ答える気はないようで、それっぽいことを言ってきた。

「それは偶然です。たまたま拾って、たまたまペンダントの持ち主を知っていただけ。別に唄が僕に言いたくて言ったわけじゃないです」

 先生は顔を顰めてから、僕の肩に手を置いた。

「代わりに一つありがたい話をしようか」

 得意げな表情で先生はそう言い出した。

「いや、話逸らさないでください」

 先生の手をどかした。

「偶然の対義語って何か知ってるか?」
「⋯⋯必然ですか?」

 やっぱり強引に誘導される。

「だよな。でも、私は偶然も必然も考え方によると思うんだよ。例えば唄が会長になったのは必然だと思うか?」
「わからないです。でも、偶然ではないと思います」
「私は必然だと思う。じゃあ唄が会長になった理由を知ってるか?」
「知らないです」
「それを知ると知らないとだと、天と地ほどの差がある。何となくなら偶然。理由があればそれは必然。じゃあ新が副会長になったのは必然か、偶然か、どっちだと思う?」
「先生の強制的な力が働いたので、必然ですか?」
「でもそれは飽くまで必然のように見えるだけで、私のこの行為に明確な理由がなければただの可能性であって偶然だ」

 この先生特有の言い回しはいつも何もわからない。大事なところは言ってくれない。

「何が言いたいんですか?」

 だから答えを直接聞いた。

「要するに何となくでしたことは、偶然のように見える。でもそこに少しでも意思がある時点で必然とも言えるんだよ。私がこの学校に来た理由。それは必然だ。もし私に権力があって、ここに異動する理由があったのなら、それも必然だよ。私じゃなくてもいい。この世は思っている以上に必然の連続だ。社長も投資家もユーチューバーも儲けている人は必然だ。偶然なんかじゃない。ちゃんと理由はある。新は自分の頭で考えて、その必然を探すんだ」

 唄がすごい理由。すごいのは偶然じゃないって言いたいのか。明確にはわからない。

 先生の言いたいことが目の前にあって、掴もうとするけど掴めなくて、その真意は近いようで、遥か遠くにある気がした。先生の言いたいことは概念的なものでその核のことは全く教えてくれない。

「それでちゃんと答えがわかったら、その時に答え合わせをしよう」

 先生は意味深な言葉を発してから立ち上がって、僕の前から去っていった。不十分すぎる話の内容に深いようで結局は僕任せなんだ。先生の歩く後ろ姿を見ていると、この後に迎えるリレーを思い出した。憂鬱で仕方なくて、先生に対する不満はそれですぐに上書きされた。






「新、頑張れよ!」

 背中を軽く叩かれた。石川はその後軽くさすって、緊張を解こうとしてくれた。

 僕は靴紐と鉢巻きを心を締める気持ちで固く結んだ。決して転けず、最悪順位維持。というか、それが限界だと思う。抜かすのは無理だからせめてそれだけ。固唾を飲んで、息を大きく吐いた。

 その瞬間、スターターピストルの合図で一斉に六人が走り始めた。

 女子の甲高い声援と、男子のドスの効いた圧力で、走者はどんどんスピードを上げていく。クラス全員で走るリレーということもあって、バトン渡しはそんなに上手くいかないものの、高校生という運動神経が人生の中でトップに達する時期。皆の足の回転は途轍もなく速かった。どんどんバトンは繋がって、自分の番が近づいてくる。心臓の鼓動が大きくなるのを感じて、呼吸が激しくなった。クラス全員の気持ちを背負っている気がして、ミスは許されないこの状況に体が恐怖を覚え始めている。震える足をギュッと掴んで、深呼吸をする。深呼吸をする自分が焦りを隠そうとしていることに気づいて、余計に緊張が心を埋め尽くそうとしてきた。逃げ出したい。僕の役目じゃない。僕はこんな事をするほどできた人間じゃない。ネガティブなオーラが僕を包んでいく。明るい未来が想像できなかった。



 苦しい。



「新くん、頑張ろうね」



 その言葉だけが僕の耳を通って、頭にしっかり届いた。右を見ると僕と同じく屈んでいる唄がいた。唄が掛けている赤い襷。僕の体には青い襷。同じものを背負っているはずなのに、唄は笑顔だった。その顔を見ると、不安は少し取り除かれて、その余白に、楽しもう。という気持ちが割り込んできた。

「もうすぐだよ」

 唄は後ろを振り向いて、指を差した。僕の前の走者、陸上部女子が丁度バトンをもらっていた。そしてすぐレーンに並ばされた。

 二番手でもらっていたクラスの女子はぐんぐんとスピードを上げ、トップに躍り出る。それと同時にインコースに立ち位置を変え、クラスが一番になったことを肌で実感した。僕以外は見た目から速そうで、爽やかなテニス部や、黒く焼けたサッカー部、陸上男子。まともに走ったら絶対に勝てない相手ばかりだ。でも幸いだったのが、他クラスとは差が開いている。もしかしたら勝てるかもしれない。竦む肩を上げ下げして、硬くなる体をなるべく解した。手を後ろに引いた。足を前に出す。ズシッと重いバトンが手に触れた。ギュッと握りしめ、切羽詰まった緊張感を背中で感じて、腕を振った。

「齋藤! 行け!」

 その言葉を聞いて足がフワッと軽くなった。バトンをさらにグッと掴んで、全力で足を回した。迫ってくる運動部。もうそこまできているかもしれない。後ろを振り返ったらおしまいだ。とにかく腕を振って、地面を蹴って、前に進むことだけを考えた。そのことに夢中で周りなんて一切見えなかった。コーナーを曲がり終えて、あとは直線。そう思った時、綺麗な顔が横目にチラついた。汗がアクセサリーのように反射して見えた。僕が最後見たままの順位なら二番手でバトンをもらっていたんだろう。少し見えたその顔を振り払うように、一段階スピードを上げた。呼吸なんてしていなかったと思う。前にゴールテープが見えた。ただがむしゃらにこの渡されたバトンを持って、一位でゴールする。それだけを考えて、僕はそのままそのテープを切った。

 Ⅰ

 リレー後、クラスメイトが駆け寄ってきて、てんやわんやだったけれど、それも一時の話。

 閉会式が終わって、もう日が落ち始めている。テントや、シートやらの片付けで忙しく人々が動いていて、さっきまでの光景が嘘のように思えた。今日のために準備していたのに、終わったら一瞬で、僕はそれに哀愁と名残惜しさを感じてしまっていた。

 そんな一日に黄昏ながら僕は体育祭の余韻が残る校庭を眺めていた。

「お疲れ様」

 ぼーっとする僕の頬に冷たい感触。情けない声を上げて、椅子から立ち上がると両手にペットボトルを持つ唄がいた。

「ありがと」

 運動後に飲むアクエリは塩分を欲している体にちょうどいい美味しさだった。

「新くん、唄」

 少し遠くから暖かい声が聞こえて、そっちを見ると琴さんがいた。僕は軽く会釈をして唄を見た。唄は斜め下を見て、琴さんを見ようとしない。

「二人ともお疲れ様。リレー良かったわ」

 優しく微笑んで、琴さんはそう言った。

「ありがとうございます」

 何て言えばいいのか分からず、あっているか分からない返答をした。でもそんな僕より唄は気まずそうで反応すら示さない。

 琴さんは唄を見て、苦笑を浮かべた。


「じゃあ、私はもう帰るわね。新くん、唄のことよろしくね」

 琴さんが見えなくなるまで、僕はその悲しげな背中を見続けた。

「唄、僕は何があったのかよく知らないけど、家族は大事にしなね」

 返事はなかった。今、唄がどんな顔をしているのかは分からない。僕からしたら家族と呼べる人がいるだけでいいなって思う。僕の知らない家族というものは、いつも一緒にいるからこそ上手くいかないことや、ありがたさよりもしんどいことが際立つものなんだろう。でも僕はそれすらも味わえない。家族という掛け替えのない存在にそんな態度は取らないでほしい。

 もし、死んでしまったら感謝の言葉なんて絶対に届かない。後悔はしてからじゃ遅い。唄には僕のような経験をしてほしくなかった。だから、琴さんを大切にしてあげて欲しかった。