「うわああああ!」

 叫び声と共に私は顔を上げる。
 そこにはお兄ちゃんがいた。

「げっ、何でここに……」

 兄は京都の大学に通っており、京都で一人暮らしをしている。そのため、普段は実家(こっち)にいないのだが、なんてタイミングで帰ってくるんだ。

「お兄ちゃん、何しに来たの」
「朱莉こそ父さんの酒勝手に飲んでんのか? わっるいやつだなー」
 関西(あちら)に影響を受けたような中途半端な標準語で茶化される。どっかのエセ関西弁よりはマシなイントネーションだった。
 いや、そんなことを比較している場合じゃない。

「これにはね、長い訳があって。とにかく狐の神様にあげなくちゃ健人が助からないの」
「は? 神様? 健人くんがどうしたんだよ」
「説明してる暇はないんだってば。あっ、そうだ!」

 我ながら天才かと思った。この手があるではないか!

「ねえ、お兄ちゃん。お金出すからお酒買ってきて。私、今から健人を連れ出してくるから」
「何で。めんどくさいな」
「頼むから、本当に。健斗が死んじゃうの」
「えー、嘘つけ」

 嘘じゃない。でも長々と話していられないし、それこそ話したとて信じてくれるかどうかも怪しい。
 どうしたら伝わるの?
 だんだんと焦る気持ちが高まり、余裕が無くなってきた。そのせいか、私は涙目になっていた。
 ここまできて、助けられないなんて嫌だ。

「ほんと、お願い、お兄ちゃん。今はもうお兄ちゃんにしか……」
「お、おう」

 お兄ちゃんは私の顔を見て察してくれたのか「買ってきてやるよ、酒があればいいんだな」と駆け足で家を出て行った。
 私も健人の家まで急ぐ。


 
 私は幸田家までやってきた。健人のお母さんに顔を合わせて欲しいと頼み、健人の部屋の前まで行く。
 こんこん、とノックをするが応答はない。

「あのね、健人、一緒に神社行こう。神社に行けば、治るから」

《……ジ…………ド》

 微かに聞こえた言葉。だが、健人の声とは違うような気がした。
 もしや、もう取り返しのつかないほど、狸の妖怪に取り憑かれてしまったのか?

「うそ、でしょ……? ね、健人、顔見せてよ、扉、開けて?」

《ナ……ズ…………ダ………》

 扉に耳をくっ付けて、私は中から聞こえる声に耳を澄ませる。何か心がざわつくような低音、と言ったような印象。
 やっぱり、健人の声とは思えない。

《ワ……オ…………ゾ……》

 ガサついたような声は健人じゃなくなったことを証明しているようだった。
 心臓がどくどくと脈打つ。手は震え、足の力も入らない。
 
「健人じゃないの……?」

 私が嫁になりたくないとごねたばっかりに、もう健人は元に戻らないのだとしたら……そんな不安が胸を締め付ける。

「そんなこと、ないよね?」

 そうだ、顔を見てないのだから、まだ諦めちゃだめだ。決まったわけじゃない。
 私はガチャガチャとドアノブを握って押したり引いたりする。

「ね、開けてよ、朱莉だよ……私、健人ために、頑張って、色々調べたんだからね……早く、神社行こうよ、治ったら、お詫びに、たぬたぬの……」

 手遅れかもしれない悲しさと、扉の向こうにいるのがもはや妖怪かもしれないという恐怖で私の目から涙が流れる。
 私はずずっと鼻を啜る。

「……たぬたぬの、座布団……買ってよね……やくそく……」

 がちゃり。
 出し抜けに鳴った鍵の開く音に私は期待と恐怖が込み上げる。

「……健人?」

 ゆっくりと開かれた扉。そこにはフードを被って俯く健人の姿があった。私はごくりと固唾を呑む。
 人間離れしたような禍々しい雰囲気を私の肌が感じ取ると、ぞっと鳥肌が立った。

「っ! きゃああ!」

 腕を掴まれ、私は部屋に引き摺り込まれた。
 そのまま私の体は床に転がされ、健人は私の上に馬乗りになる。あのガサついた声が降ってきた。

「……オンナ」

 やっぱり、健人じゃない! これが狸の妖怪?

「いやっ! やめてっ!」

 抵抗するが、簡単に私の腕は床に押さえつけられる。

「オレハ……ウエテイルゾ」

 フードの中から見えた健人の顔はもはや人間ではなく〝獣〟に近かった。顔には薄く毛が生えており、私の肌に粟を生じる。

「ドレドレ……」

 健人の皮を被った狸は舌舐めずりをして、私の首筋に顔を埋めた。首に生ぬるい感触の直後、叫び声が上がった。

「グアア! イタイッ! イタイイタイイタイ! ナンダ!」

 飛び上がった健人もとい狸は舌を出して凄まじい形相をしている。私が呆気に取られていると、私の肩に誰かの腕が回された。

「俺の女を襲う輩など、痛い目にあって当然だろう? 舌を抜いてやってもいいんだぞ」
「き、久徳……?」

 首を回せば頬に唇が当たる。

「〝あの時〟に守護術をかけておいて良かった。朱莉のカラダは誰一人として抱かせない」

 私に回していた手を久徳が前に出せば、そこから真空波のようなものが放たれた。それとともに健人の体は吹っ飛び、タンスに当たる。

「グアッ!」
「妖狸程度が俺の力に及ばないことは目に見えている。早く〝出て行ったらどうだ?〟」

 久徳が何かを掴むように拳を握り上げれば、見えない手によって健人の胸ぐらが持ち上げられた。
「ウッ……!」
 苦しそうに顔を歪めた健人。だが、直後に彼の体は力が抜け、だらりと首を垂れた。気を失ったようだ。

「……フンッ、潜ったか」
 

*****


「お願い、久徳。頼むから健人を……」
 
 あれから狸の妖怪は意識下に隠れてしまったらしく、久徳がこの場でどうにかするには先ほどのように〝表〟に出す必要があるらしい。
 それ故に、私は健人を神社まで運んでもらえるように久徳を説得していたのであった。

 私の力では意識のない健人を運べない。たとえ小柄な男子でも無理だが、健人は身長およそ180cmでしかも体付きも良い。どう考えたって不可能である。
 すぐさま運ぶには久徳に頼るしかないのだ。
 手の甲で涙を拭いながら私は久徳に詰め寄った。

「これ以上は健人を放置できない……」
「……やれやれ。嫁になれと言いたいところだが、泣いている朱莉に免じて今回はキスで我慢してやろう」
「そ、それなら……」

 私は拳をぎゅっと握り、久徳と向かい合った。
 しかし、こちとら待っているというのに、久徳はやけに怪しい笑みで佇んでいる。

「フッ、勘違いしているだろうが、俺からするのではない。朱莉から俺にキスをするんだぞ?」
「ええっ?!」
「当たり前だろう。俺からしたのではいつもと変わらないではないか」

 思っても見ない展開に涙が引っ込んでしまう。
 幼馴染の部屋で吸血鬼に私から初めてのキスをするとか無茶振りすぎない?!

「ほ、ほんとに、私から……?」
「ああ、これでも譲歩した結果なんだが?」

 確かに嫁になれと言われるのとキスを一回しろとでは全く要求レベルは違う。それは勿論、キスの方がマシだ。
 いや、しかしだ。
 キスなんて、キスなんて、したことないから……!

「う、えっと……うう……」

 柄にもなく顔を赤くして照れてしまう。

「早くしないと、刻一刻と彼の命は削られていくぞ?」
「卑怯! 分かってるわよ!」

 私は火照る顔を覚ますように両手で手を覆うが、手も熱い。
 すぅーっと大きく深呼吸する。

 ええい! キス一つで健人の命が助かるのであれば、唇を唇に付けることくらい、どうってことない!

「んっ」

 背伸びをして唇を当てる。すると、即座に背中に手を回されて抱きしめられてしまった。

「……っ?!」

 ほとんど身動きの取れないまま顔を背ける。こんな顔、見られたくないのに、追っかけるように久徳の視線が付いてくる。

「可愛いな、朱莉は」
「離してってば!」
「見る見る赤くなる朱莉をもう少し眺めていたいんだ」

 説明しなくて良い! とつい大きな声が出る。
 咄嗟に健人の家にいることを思い出して、私はそれ以上何も喋らなかった。