眠い。
とにかく眠かった。
夢も見ないほどに深い深い眠りの中で、古槍 紙月は意識が攪拌されるような揺れを感じていた。
「――て!」
揺れ自体は、慣れたものだった。通学に用いる中古車はぎいぎいぎしぎし、よくまあ車検に通るものだという、いい加減死にかけの溜息を洩らしながら頑張ってくれたし、その頑張りを追い詰めるように通学路はせまくうねる山道だった。
「お――!」
なんなら安いからというそれだけの理由で借りているアパートは、幹線道路沿いで往来が激しく、深夜には大型トラックが走るもので、慣れないうちは随分この夜泣きに悩まされたものだった。しかし今となると、人間とは慣れる生き物だというありがたくもない言葉の通り、揺りかごの優しいリズム程度にしか感じやしない。
「―き―!」
ああ、だがそれにしても、その揺れは随分馴染みのない揺れだった。
直接紙月の体を抱き上げて、右へ左へ上へ下へ、こちらの都合などまるで気にした風でもない乱暴な揺れだった。
それにこの甲高い声は、耳に酷く響いた。
「なん……だ……?」
「おきて!」
「なん……?」
「起きてったら!」
そう、それは、確かに紙月の覚醒を促そうとする声だった。
紙月を叩きこそうとする声だった。
だが紙月にはその声に聞き覚えがない。
「起きて起きて起きてー!」
なんだっただろうか。
今日は日曜日で講義もないし、レポートはすべて終わらせてある。
遊びに行くような友達連中は生憎と卒業論文と就活で忙しいはずだった。
「お願いだから起きてー!」
卒業論文を一人手早く終わらせてしまい、就職先に関しても決まらなければうちで拾ってやるという親戚の内定があり、どこか緊張感に欠ける――友達連中に言わせれば「薄情者の裏切り者」であるところの紙月を、この何でもない日曜日に叩き起こそうなんて。
「起きて、ペイパームーン!」
だから、そう、それは紙月を呼ぶ声ではなかった。
それは老舗MMORPGである《エンズビル・オンライン》の世界を股にかけて冒険するプレイヤー、ペイパームーンを呼ぶ声だった。
現実ではついぞ音として聞いたことのないそのハンドルネームの響きに、紙月はのっそりと顔を上げた。
「あ、起きた! よかったー!」
「なん……なに? ……寝落ちしてた……?」
「あ、まだ起きてないっぽい! でもいいや、早く助けて!」
助けて?
紙月にはわからない。
頭がぐらぐらする。二日酔いとか、寝不足からじゃない、物理的に頭がぐらぐら揺れていて現状が把握できない。
わからないなら、呟きは一つだった。
「状況は?」
「スイッチ入ったね! 不明Mob二十、五かな、二十五体! 危険度小だけど、対応を乞う!」
不明Mobだって?
紙月はぐらぐらする頭をひねった。新規Mobの登場はしばらく聞いていないし、最近は狩場も安定していてレアMobだって馴染み顔になってしまったくらいだ。
どんな奴だ?
紙月は揺れる視界の中でディスプレイの灯りを探したが、どうにも見慣れた画面が見えない。
「ど、んな、やつだ?」
「こんなの!」
答えはシンプルだった。
ぐるん、と視点が急に切り替わり、暗かった視界が緑一面の明るい世界に移り変わる。
そしてそこにいたのは、汚らしい乱杭歯をむき出しに吠え立てる、緑色の小人たちだった。
「……はあ?」
小人と言っても可愛らしいものではなく、よくて獣の毛皮を腰に巻き、ほとんどは薄汚れた全裸のちいさなおっさんどもで、そしてそれがみんな手に手に粗末な武器をもってこちらに吠え掛かっているのだ。
「取り敢えず今は《盾の結界》で防いでるけど、効果が切れたら一斉に押し寄せてくるよ」
「ダメージは?」
「全然。でもペイパームーンは一度に喰らったら死んじゃうかも」
意味が分からない。
紙月のプレイしていた《エンズビル・オンライン》は、低スペックなPCでも問題なくプレイできることが売りの一つでもある老舗のMMORPGであって、まかり間違っても近未来な没入型VRMMORPGなどではなかったはずだ。
専門用語を使わずに言えば、昔ながらの画面に向かってピコピコするやつであって、ゲームの中に入り込むようなSFじみたものではなかったはずだ。
だがわからないなりに、夢現な脳にゲーム用語で平然と語りかけられれば、そういうものなんだろうかと思い始めもする。そう、それは夢の中でとんでもない無茶ぶりが平然と当たり前のものとして扱われるような、そんな感覚だった。
「ゴブリン、っぽいな」
「見た目はね。こんなリアルなの見たことないけど」
「まあ、多分無属性の雑魚だろ。そうであってくれ」
「なにに祈る?」
「今日は空飛ぶスパゲッティモンスターにでも」
いつも通りの下らない戯言を、いつも通りのチャットではなく肉声でかわして、紙月はようやく自分を抱き上げる何者かをちらりと見上げた。
それはこのくそったれなリアル・ファンタジー世界に実によく似合った、白銀の甲冑だった。
そしてそのビジュアルは、これがゲームならば紙月が他の誰よりも信頼する姿だった。
「わかった。いつものでいこう。シールド維持。前進。囲ませろ」
「オーケイ。派手に行こうか、ペイパームーン」
「そうだな、METO」
そう、それが紙月の、ペイパームーンの相棒の名前だった。
紙月は子供のころピアニストになることを勧められ、そして途中で飽きて楽器を転々としてきた細い指を持ち上げ、一番馴染んだスタイルに置いた。つまり、一周回ってある意味戻ってきた、キーボードの位置に。
ショートカットリストは変わっていない。ショートカットキーの配置は覚えている。
ファンタジーが当たり前の顔で出てくる夢ならば、そうだというならば、これも当然のように使えてしかるはずだった。
「《火球》……」
ぼ、とバスケットボールほどの火球が空に燃え上がる。火の匂いまで感じるほどのリアルな夢。
紙月は知らず笑っていた。だってそこには、あれほどまでに見たいと望んでいた光景があるのだから。
本来一つずつしか使用することのできない《技能》を同時に複数使用することができるようになる《特性》である《多重詠唱》。
熟練のプレイヤーでも《二重詠唱》か《三重詠唱》程度しか割り振らない、というより、限られたポイントの制限上割り振ることができない、特殊な《特性》。
紙月は、そこに夢を見た。
火球は、紙月の指が想像のキーボード上の想像のショートカットキーを押すたびに増えていく。
一つだけだった火球が二つに増え、三つに増え、紙月はイメージのままにショートカットキーをなぞっていく。
それにつられて火球が増える。
キーを叩くたびに火球が増える。
そのあまりの火勢に、猪突猛進といった様子だったゴブリンどももさすがに面喰い、空を舞う火球を見上げてざわめき始める。だが遅い。もう遅い。もうロックオンは済んでいるのだ。
左手がショートカットキーを叩くのと同時に、右手はゴブリンどもを指さしてクリックしては捕捉している。
そうしてショートカットキーを叩き終えた時、見上げる空は炎に包まれていた。
「……わーお」
「くふっ、くふふふふふっ、見ろ、処理落ちしないぞ!」
「空は落ちてきそうだけどね」
それを単純に杞憂とは呼べない程の光景だった。
紙月がいっそ優しくと言えるほど柔らかくショートカットキーを叩いた数だけ、火球が空を覆っていた。
火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、二十五個の火球が空を焦がしていた。
「夢にまで見たラグなし、フルエフェクト! しかもこんなリアルな!」
「あ、駄目な奴だこれ」
ゴブリンどもは遅まきながらに逃げの一手を選択していた。しかし、やはり、遅すぎる。
最下級呪文である《火球》の詠唱時間は、最大レベルである紙月からすればゼロに等しい。それをわざわざ《遅延術式》で発射を抑えたのは、単にこの光景を見たかったという、紙月の悪癖のためでしかない。
それさえ観終わったのならば、さあ、次は決まっている。
「イグニッション!」
紙月の指先が想像のキーを叩くと同時に、二十五の火球が、二十五のゴブリンに降り注いだ。
用語解説
・異界転生譚シールド・アンド・マジック
いかいてんしょうたん と読む。
・古槍 紙月
主人公その一。二十二歳。大学生。男性。趣味は資格取得。
老舗MMORPGではレア種族であるハイエルフの女性をプレイキャラクターとして使用していた。
《職業》は《魔術師》系列の最上級である《大魔道士》。
ハンドルネームは「ペイパームーン」。
・ペイパームーン
紙月の使用するハンドルネーム及び《エンズビル・オンライン》のゲーム内キャラクター。
抽選でのみ登録できるレア種族であるハイエルフの女性《大魔道士》。
もっぱら砲台役に専念し、防御はすべて相方のMETOに任せていた。
・MMORPG
Massively Multiplayer Online Role-Playing Game(マッシブリー・マルチプレイヤー・オンライン・ロール・プレイング・ゲーム)の略。大規模多人数同時参加型オンラインRPGなどと訳される。
・《エンズビル・オンライン》
紙月のプレイしていた老舗のMMORPG。
・Mob
語源は諸説あるが、基本的に敵のことを指している。
・《盾の結界》
《楯騎士》の代表的な《技能》。
低レベルのMobや攻撃を弾く不可視の結界を自分とその周囲の味方に張り巡らせる。《技能》レベルを上げれば、移動速度は低下するものの、結界を張ったまま移動できるようになる。
『《楯騎士》たるものまずもって守りこそが肝要である。味方を守れずして《楯騎士》は名乗れない。まあ《楯騎士》の死因の六割は味方の誤射だが』
・ゴブリン
現地での呼び名は「小鬼(ogreto)」。
小柄な魔獣。人族の子供程度の体長だが、簡単な道具を扱う知恵があり、群れで行動する。環境による変化の大きな魔獣で、人里との付き合いの長い群れでは簡単な人語を解するものも出てくるという。
・空飛ぶスパゲッティモンスター
空飛ぶスパゲッティ・モンスター教。
実在し、オランダでは宗教団体として認可の下りた列記とした宗教。
そもそもは、「知性ある何か」によって生命や宇宙の精妙なシステムが設計されたとする「インテリジェント・デザイン説」を公教育に持ち込むことを批判するために創始したパロディ宗教。
・METO
メト、と読む。
MMORPG 《エンズビル・オンライン》でペイパームーンとパーティを組んでいたプレイヤー及びそのハンドルネーム。
《楯騎士》と呼ばれる、攻撃手段が極めて乏しい代わりに非常に優れた防御能力を持つ特殊な《職業》。
もっぱらペイパームーンの護衛をしており、砲台役のペイパームーンと合わせて「無敵要塞」と呼ばれていた。
・ショートカットキー
いちいちメニューを開いてスキルを選んで相手を選択して、という煩雑さを回避するために、多くのゲームがそうであるように、《エンズビル・オンライン》においても、キーボードのキーそれぞれにスキルやアイテムなどを設定し、そのキーを押すだけで使用できるシステムが存在した。
これをショートカットと呼び、その割り振られたキーをショートカットキーと呼ぶ。
《エンズビル・オンライン》においては四行九列合わせて三十六個のショートカットを設定でき、またこのショートカットの組み合わせを記録して、いくつかのリストとして保存できた。
・《火球》
《魔術師》やその系列の《職業》が最初に覚えると言っても過言ではない、最初等の《技能》。
火球を生み出し相手にぶつけるというシンプルな魔法で、《技能》レベルを最大まで鍛えたところであまり得のない、本当に初期スキル。
ただし、レベル九十九まで鍛えられた《魔術師》系が使えば、いくら最初等の《技能》でも、生半な防御では耐えられないだろう。
『最初に覚える魔法はいつだってこれと決まっておる。単純故に応用が利くし、火の危険性から魔法の危うさを体感的にも学べる。それに、なにより、格好いいじゃろ?』
・《技能》
《SP》を消費して使用する特殊な行動。魔法や威力の高い攻撃などの他に、《職業》ごとに特色のある《技能》が存在する。一部のイベントやMobには特定の《技能》がなければ攻略が困難または全くできないものも存在する。
・《特性》
《技能》が能動的なものだとすれば、《特性》は受動的、自動的なものだ。選んで使用するわけではなく、覚えているだけで必要な場面で自動的に効果を発揮してくれる。勿論、《SP》など、発動するのに必要な条件がそろっていればだが。
・多重詠唱
《魔術師》系列の覚える《特性》の一つ。
ふつうは《技能》は一度に一つしか使えず、連続して使用するにも決められた《詠唱時間》や、再度使用するまでのクールタイムである《待機時間》が存在する。
しかしこの《特性》を覚えると、一度に複数のスキルを同時に使用することができるようになる。攻撃しながら回復、また単体魔法を複数の敵に対して使用、とにかく火力を注ぎこみたい、などの利用法があるだろう。
とはいえ《技能》に割り振れるポイントには限りがあり、多重詠唱は同時に使用したいスキルの数だけ取得しなければならないため、精々二つか三つがまともに運用できる限度のようだ。
まかり間違っても最大数である三十六個を埋める奴はそうそういない。
『時間には限りがある。わしらの手にも限りがある。だから効率よく使うには工夫がいるな。口で詠唱しながら右手で魔法陣をかけ。左手はどうした。何なら指ごとに違ってもいいぞい。おぬし自身が魔法となるのだ! わし? わしはゆっくりでいいわい』
・処理落ち
コンピューター、この場合はゲーム上で、何らかの要因で処理が遅れたり、停止してしまうこと。
入力が多すぎたり、描画が膨大であったりする場合に、動作が遅延したり、画面がちらついたりする。
・ラグ
ゲームなどで、処理が遅れてしまうこと。処理落ちのこと。
・フルエフェクト
《エンズビル・オンライン》においては、PCの処理能力の低さなどから描画が間に合わず処理落ちする事例が多々あった。
そのため、攻撃時のエフェクトや《技能》のエフェクトなどを任意でオン・オフできるようになっていた。
・《遅延術式》
《魔術師》系列の覚える《特性》の一つ。
《技能》を選択し、《詠唱時間》が終了した段階で一時的に《技能》の発動を停止させる。これによって好きなタイミングで、しかも即座にスキルを発動できるようになり、ボス戦の前に大技を貯めておくなどということができる。
処理の関係から多重詠唱と併用してしまうが、まさか三十六個フルで使用するプレイヤーがいるとは思わずそのままの仕様で世に出てしまった。
『何事も速いばかりがいいことではない。時にはゆっくりと時を重ねることも、え? なに? 講演の時間? こういうときに役立つ魔法がないもんかねえ』
・イグニッション
点火を意味する英単語。叫ぶ意味は特になく、効果もない。
なんとなく盛り上がっちゃって叫んじゃっただけなのであった。
とにかく眠かった。
夢も見ないほどに深い深い眠りの中で、古槍 紙月は意識が攪拌されるような揺れを感じていた。
「――て!」
揺れ自体は、慣れたものだった。通学に用いる中古車はぎいぎいぎしぎし、よくまあ車検に通るものだという、いい加減死にかけの溜息を洩らしながら頑張ってくれたし、その頑張りを追い詰めるように通学路はせまくうねる山道だった。
「お――!」
なんなら安いからというそれだけの理由で借りているアパートは、幹線道路沿いで往来が激しく、深夜には大型トラックが走るもので、慣れないうちは随分この夜泣きに悩まされたものだった。しかし今となると、人間とは慣れる生き物だというありがたくもない言葉の通り、揺りかごの優しいリズム程度にしか感じやしない。
「―き―!」
ああ、だがそれにしても、その揺れは随分馴染みのない揺れだった。
直接紙月の体を抱き上げて、右へ左へ上へ下へ、こちらの都合などまるで気にした風でもない乱暴な揺れだった。
それにこの甲高い声は、耳に酷く響いた。
「なん……だ……?」
「おきて!」
「なん……?」
「起きてったら!」
そう、それは、確かに紙月の覚醒を促そうとする声だった。
紙月を叩きこそうとする声だった。
だが紙月にはその声に聞き覚えがない。
「起きて起きて起きてー!」
なんだっただろうか。
今日は日曜日で講義もないし、レポートはすべて終わらせてある。
遊びに行くような友達連中は生憎と卒業論文と就活で忙しいはずだった。
「お願いだから起きてー!」
卒業論文を一人手早く終わらせてしまい、就職先に関しても決まらなければうちで拾ってやるという親戚の内定があり、どこか緊張感に欠ける――友達連中に言わせれば「薄情者の裏切り者」であるところの紙月を、この何でもない日曜日に叩き起こそうなんて。
「起きて、ペイパームーン!」
だから、そう、それは紙月を呼ぶ声ではなかった。
それは老舗MMORPGである《エンズビル・オンライン》の世界を股にかけて冒険するプレイヤー、ペイパームーンを呼ぶ声だった。
現実ではついぞ音として聞いたことのないそのハンドルネームの響きに、紙月はのっそりと顔を上げた。
「あ、起きた! よかったー!」
「なん……なに? ……寝落ちしてた……?」
「あ、まだ起きてないっぽい! でもいいや、早く助けて!」
助けて?
紙月にはわからない。
頭がぐらぐらする。二日酔いとか、寝不足からじゃない、物理的に頭がぐらぐら揺れていて現状が把握できない。
わからないなら、呟きは一つだった。
「状況は?」
「スイッチ入ったね! 不明Mob二十、五かな、二十五体! 危険度小だけど、対応を乞う!」
不明Mobだって?
紙月はぐらぐらする頭をひねった。新規Mobの登場はしばらく聞いていないし、最近は狩場も安定していてレアMobだって馴染み顔になってしまったくらいだ。
どんな奴だ?
紙月は揺れる視界の中でディスプレイの灯りを探したが、どうにも見慣れた画面が見えない。
「ど、んな、やつだ?」
「こんなの!」
答えはシンプルだった。
ぐるん、と視点が急に切り替わり、暗かった視界が緑一面の明るい世界に移り変わる。
そしてそこにいたのは、汚らしい乱杭歯をむき出しに吠え立てる、緑色の小人たちだった。
「……はあ?」
小人と言っても可愛らしいものではなく、よくて獣の毛皮を腰に巻き、ほとんどは薄汚れた全裸のちいさなおっさんどもで、そしてそれがみんな手に手に粗末な武器をもってこちらに吠え掛かっているのだ。
「取り敢えず今は《盾の結界》で防いでるけど、効果が切れたら一斉に押し寄せてくるよ」
「ダメージは?」
「全然。でもペイパームーンは一度に喰らったら死んじゃうかも」
意味が分からない。
紙月のプレイしていた《エンズビル・オンライン》は、低スペックなPCでも問題なくプレイできることが売りの一つでもある老舗のMMORPGであって、まかり間違っても近未来な没入型VRMMORPGなどではなかったはずだ。
専門用語を使わずに言えば、昔ながらの画面に向かってピコピコするやつであって、ゲームの中に入り込むようなSFじみたものではなかったはずだ。
だがわからないなりに、夢現な脳にゲーム用語で平然と語りかけられれば、そういうものなんだろうかと思い始めもする。そう、それは夢の中でとんでもない無茶ぶりが平然と当たり前のものとして扱われるような、そんな感覚だった。
「ゴブリン、っぽいな」
「見た目はね。こんなリアルなの見たことないけど」
「まあ、多分無属性の雑魚だろ。そうであってくれ」
「なにに祈る?」
「今日は空飛ぶスパゲッティモンスターにでも」
いつも通りの下らない戯言を、いつも通りのチャットではなく肉声でかわして、紙月はようやく自分を抱き上げる何者かをちらりと見上げた。
それはこのくそったれなリアル・ファンタジー世界に実によく似合った、白銀の甲冑だった。
そしてそのビジュアルは、これがゲームならば紙月が他の誰よりも信頼する姿だった。
「わかった。いつものでいこう。シールド維持。前進。囲ませろ」
「オーケイ。派手に行こうか、ペイパームーン」
「そうだな、METO」
そう、それが紙月の、ペイパームーンの相棒の名前だった。
紙月は子供のころピアニストになることを勧められ、そして途中で飽きて楽器を転々としてきた細い指を持ち上げ、一番馴染んだスタイルに置いた。つまり、一周回ってある意味戻ってきた、キーボードの位置に。
ショートカットリストは変わっていない。ショートカットキーの配置は覚えている。
ファンタジーが当たり前の顔で出てくる夢ならば、そうだというならば、これも当然のように使えてしかるはずだった。
「《火球》……」
ぼ、とバスケットボールほどの火球が空に燃え上がる。火の匂いまで感じるほどのリアルな夢。
紙月は知らず笑っていた。だってそこには、あれほどまでに見たいと望んでいた光景があるのだから。
本来一つずつしか使用することのできない《技能》を同時に複数使用することができるようになる《特性》である《多重詠唱》。
熟練のプレイヤーでも《二重詠唱》か《三重詠唱》程度しか割り振らない、というより、限られたポイントの制限上割り振ることができない、特殊な《特性》。
紙月は、そこに夢を見た。
火球は、紙月の指が想像のキーボード上の想像のショートカットキーを押すたびに増えていく。
一つだけだった火球が二つに増え、三つに増え、紙月はイメージのままにショートカットキーをなぞっていく。
それにつられて火球が増える。
キーを叩くたびに火球が増える。
そのあまりの火勢に、猪突猛進といった様子だったゴブリンどももさすがに面喰い、空を舞う火球を見上げてざわめき始める。だが遅い。もう遅い。もうロックオンは済んでいるのだ。
左手がショートカットキーを叩くのと同時に、右手はゴブリンどもを指さしてクリックしては捕捉している。
そうしてショートカットキーを叩き終えた時、見上げる空は炎に包まれていた。
「……わーお」
「くふっ、くふふふふふっ、見ろ、処理落ちしないぞ!」
「空は落ちてきそうだけどね」
それを単純に杞憂とは呼べない程の光景だった。
紙月がいっそ優しくと言えるほど柔らかくショートカットキーを叩いた数だけ、火球が空を覆っていた。
火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、火球が、二十五個の火球が空を焦がしていた。
「夢にまで見たラグなし、フルエフェクト! しかもこんなリアルな!」
「あ、駄目な奴だこれ」
ゴブリンどもは遅まきながらに逃げの一手を選択していた。しかし、やはり、遅すぎる。
最下級呪文である《火球》の詠唱時間は、最大レベルである紙月からすればゼロに等しい。それをわざわざ《遅延術式》で発射を抑えたのは、単にこの光景を見たかったという、紙月の悪癖のためでしかない。
それさえ観終わったのならば、さあ、次は決まっている。
「イグニッション!」
紙月の指先が想像のキーを叩くと同時に、二十五の火球が、二十五のゴブリンに降り注いだ。
用語解説
・異界転生譚シールド・アンド・マジック
いかいてんしょうたん と読む。
・古槍 紙月
主人公その一。二十二歳。大学生。男性。趣味は資格取得。
老舗MMORPGではレア種族であるハイエルフの女性をプレイキャラクターとして使用していた。
《職業》は《魔術師》系列の最上級である《大魔道士》。
ハンドルネームは「ペイパームーン」。
・ペイパームーン
紙月の使用するハンドルネーム及び《エンズビル・オンライン》のゲーム内キャラクター。
抽選でのみ登録できるレア種族であるハイエルフの女性《大魔道士》。
もっぱら砲台役に専念し、防御はすべて相方のMETOに任せていた。
・MMORPG
Massively Multiplayer Online Role-Playing Game(マッシブリー・マルチプレイヤー・オンライン・ロール・プレイング・ゲーム)の略。大規模多人数同時参加型オンラインRPGなどと訳される。
・《エンズビル・オンライン》
紙月のプレイしていた老舗のMMORPG。
・Mob
語源は諸説あるが、基本的に敵のことを指している。
・《盾の結界》
《楯騎士》の代表的な《技能》。
低レベルのMobや攻撃を弾く不可視の結界を自分とその周囲の味方に張り巡らせる。《技能》レベルを上げれば、移動速度は低下するものの、結界を張ったまま移動できるようになる。
『《楯騎士》たるものまずもって守りこそが肝要である。味方を守れずして《楯騎士》は名乗れない。まあ《楯騎士》の死因の六割は味方の誤射だが』
・ゴブリン
現地での呼び名は「小鬼(ogreto)」。
小柄な魔獣。人族の子供程度の体長だが、簡単な道具を扱う知恵があり、群れで行動する。環境による変化の大きな魔獣で、人里との付き合いの長い群れでは簡単な人語を解するものも出てくるという。
・空飛ぶスパゲッティモンスター
空飛ぶスパゲッティ・モンスター教。
実在し、オランダでは宗教団体として認可の下りた列記とした宗教。
そもそもは、「知性ある何か」によって生命や宇宙の精妙なシステムが設計されたとする「インテリジェント・デザイン説」を公教育に持ち込むことを批判するために創始したパロディ宗教。
・METO
メト、と読む。
MMORPG 《エンズビル・オンライン》でペイパームーンとパーティを組んでいたプレイヤー及びそのハンドルネーム。
《楯騎士》と呼ばれる、攻撃手段が極めて乏しい代わりに非常に優れた防御能力を持つ特殊な《職業》。
もっぱらペイパームーンの護衛をしており、砲台役のペイパームーンと合わせて「無敵要塞」と呼ばれていた。
・ショートカットキー
いちいちメニューを開いてスキルを選んで相手を選択して、という煩雑さを回避するために、多くのゲームがそうであるように、《エンズビル・オンライン》においても、キーボードのキーそれぞれにスキルやアイテムなどを設定し、そのキーを押すだけで使用できるシステムが存在した。
これをショートカットと呼び、その割り振られたキーをショートカットキーと呼ぶ。
《エンズビル・オンライン》においては四行九列合わせて三十六個のショートカットを設定でき、またこのショートカットの組み合わせを記録して、いくつかのリストとして保存できた。
・《火球》
《魔術師》やその系列の《職業》が最初に覚えると言っても過言ではない、最初等の《技能》。
火球を生み出し相手にぶつけるというシンプルな魔法で、《技能》レベルを最大まで鍛えたところであまり得のない、本当に初期スキル。
ただし、レベル九十九まで鍛えられた《魔術師》系が使えば、いくら最初等の《技能》でも、生半な防御では耐えられないだろう。
『最初に覚える魔法はいつだってこれと決まっておる。単純故に応用が利くし、火の危険性から魔法の危うさを体感的にも学べる。それに、なにより、格好いいじゃろ?』
・《技能》
《SP》を消費して使用する特殊な行動。魔法や威力の高い攻撃などの他に、《職業》ごとに特色のある《技能》が存在する。一部のイベントやMobには特定の《技能》がなければ攻略が困難または全くできないものも存在する。
・《特性》
《技能》が能動的なものだとすれば、《特性》は受動的、自動的なものだ。選んで使用するわけではなく、覚えているだけで必要な場面で自動的に効果を発揮してくれる。勿論、《SP》など、発動するのに必要な条件がそろっていればだが。
・多重詠唱
《魔術師》系列の覚える《特性》の一つ。
ふつうは《技能》は一度に一つしか使えず、連続して使用するにも決められた《詠唱時間》や、再度使用するまでのクールタイムである《待機時間》が存在する。
しかしこの《特性》を覚えると、一度に複数のスキルを同時に使用することができるようになる。攻撃しながら回復、また単体魔法を複数の敵に対して使用、とにかく火力を注ぎこみたい、などの利用法があるだろう。
とはいえ《技能》に割り振れるポイントには限りがあり、多重詠唱は同時に使用したいスキルの数だけ取得しなければならないため、精々二つか三つがまともに運用できる限度のようだ。
まかり間違っても最大数である三十六個を埋める奴はそうそういない。
『時間には限りがある。わしらの手にも限りがある。だから効率よく使うには工夫がいるな。口で詠唱しながら右手で魔法陣をかけ。左手はどうした。何なら指ごとに違ってもいいぞい。おぬし自身が魔法となるのだ! わし? わしはゆっくりでいいわい』
・処理落ち
コンピューター、この場合はゲーム上で、何らかの要因で処理が遅れたり、停止してしまうこと。
入力が多すぎたり、描画が膨大であったりする場合に、動作が遅延したり、画面がちらついたりする。
・ラグ
ゲームなどで、処理が遅れてしまうこと。処理落ちのこと。
・フルエフェクト
《エンズビル・オンライン》においては、PCの処理能力の低さなどから描画が間に合わず処理落ちする事例が多々あった。
そのため、攻撃時のエフェクトや《技能》のエフェクトなどを任意でオン・オフできるようになっていた。
・《遅延術式》
《魔術師》系列の覚える《特性》の一つ。
《技能》を選択し、《詠唱時間》が終了した段階で一時的に《技能》の発動を停止させる。これによって好きなタイミングで、しかも即座にスキルを発動できるようになり、ボス戦の前に大技を貯めておくなどということができる。
処理の関係から多重詠唱と併用してしまうが、まさか三十六個フルで使用するプレイヤーがいるとは思わずそのままの仕様で世に出てしまった。
『何事も速いばかりがいいことではない。時にはゆっくりと時を重ねることも、え? なに? 講演の時間? こういうときに役立つ魔法がないもんかねえ』
・イグニッション
点火を意味する英単語。叫ぶ意味は特になく、効果もない。
なんとなく盛り上がっちゃって叫んじゃっただけなのであった。