その日はいつもより、ずっと自分が可愛く思える格好で街に繰り出した。
白いブラウスに、金のペアネックレス。
きっと彼女は銀のをしてくる。
青いスカートが風に靡いて、麦わら帽子のフリルがふわりと揺れる。
「あ、なんか今日、可愛いじゃん。」
駅のホームで彼女は案の定、私を褒めてきた。
どうしよう、わかっていたのに嬉しいことに変わりはない。
そしてまた、二人だけの世界にいるみたいになる。
でもこの世界には何十億人という人間がいて、彼女は私だけで生きてるわけじゃない。
今までより、夢から覚めるのが早くなってきてしまった。
それでも私は離したくなくて、彼女の手を取ってふっと笑いかけた。
「ありがとっ。ネックレス、つけてきてくれたんだね。」
まるで何も気にしていない、彼女を純粋に好きな少女みたいに。
彼女は照れて、顔を逸らした。
そう、それが見たかったんだよそれが。
私は自分の前でだけ変わっていく彼女が好きだ。
私が彼女を変えたみたいで!
「さ、乗ろうか!」
電車が来てすぐ、私は彼女を引っ張った。そうしたかった。
彼女の細い腕はもうそろそろ、脆くなって折れてしまいそうだったのに。
遊園地は人で溢れてかえっていた。当然だ、今日はヒーローショーが多くあって、それを見るのを心待ちにしていた親子連れから一人で来てるガチファン勢までがここに集っている。
私たちがついたのは朝の10時。
ショーまでにはまだ時間がある。
「どこかに入る?カフェとか。」
私が提案すると、彼女はこくんと頷いた。
なんとか人の波を掻き分けて入ったカフェの中で、私たちはふぅ、と大きく息を吐いた。
「いやぁほんと混んでるね。」
「本当そうですね。」
そんな会話をしながら、私はさりげなく、スマホをいじるフリをして彼女の顔をカメラでパシャリ。
「えへへ、待ち受けにしちゃった。」
すぐに設定したそれを見せると、彼女は恥ずかしそうに照れていた。
そして、彼女も同じように私に画面を見せてきた。
「私はずっと前から。」
そこには私の顔があった。
いつの間に撮ったのだろう、多分いつものカフェの時の写真だ。
私は安心して胸を撫で下ろした。
やっぱりあの時の、私のことだったんだ。
よし、まだ大丈夫。
「えへ、これでお揃いだね。」
私がそう笑って見せると、彼女もまた笑った。
私はそんな風に笑う彼女が好きだったし、こういう時に自分が笑うのも好きになっていた。
ほら、また二人だけの世界。
二人だけの時間は、ただ彼女を見ているだけで過ぎ去って行った。
周りはただのエキストラにしか見えないままショーが終わって、そのまま帰るわけにもいかず適当に遊園地を見てまわって、何度も長い針が短い針を追い越して。
私が私を追い越して。
素直になれない心を抱えたまま、気がつけば彼女の髪と同じ濃紺の空が夕陽を食い尽くしていた。
「観覧車、乗らない?」
私はずっと言いたかった言葉を吐き出すように、そう切り出した。
もう言わなければいけないと、何かが私を追い捲っていた。
「…いいよ。」
彼女は何かを察したように、空を見上げた。大きく光る観覧車が夜空には眩しくて、私はそれを直視することはできなかった。
「わ、高いね。」
彼女は窓の外に開く夜景を見下ろして、そう呟いた。まだ半分しか登ってないのに。
「そうだね、高いね。」
私もそう返した。互いに何を言葉にしたら良いかよくわからなかったみたいだ。
しばらく無の時間が続いた。
言おう。いや、やっぱりやめておこう。
言おう。いや、やっぱりやめておこう。
観覧車が半周するまでに私は何周も何往復もした。
そして、もうそれもわからなくなって、ついに言葉が出た。
「…ねぇ、あのさ。さらちゃんはさ。」
「うん。」
彼女は私から溢れる焦りを汲み取って、いつもよりずっとしっかりと聞いてくれているみたいだった。
「茶化さないで、真面目に答えて欲しいの。さらちゃんはさ、付き合ってる人はいるの?男でも、女でも。」
彼女はその言葉に固まって、それから少し窓の外を見て、もう一度私の方を見てゆっくりと息を吸った。
不安な間だった。
「わかった。真面目に答えよう。」
彼女はそれから瞬きを一回して、苦しそうにもう一回息を吸った。
「男がいる。」
私は目を見開いて、そして死を目前にしたように身体を震わせた。
求めていなかったけれど聴きたい言葉だった。
「そっか。お幸せに。」
肺に溜まった古い空気を吐き出すのがもう一杯一杯で、私は苦しかった。
彼女は俯いて、俯いて、俯いて…そして、それからぽた、と雫が垂れる音がした。
汗じゃなかった。
彼女は、泣いていた。
「ごめん、私、失恋したみたいで、ほんと、ごめん。」
彼女は顔を細い両手で覆い隠して、私には見せなかった。
でも声がか細くて、途切れて、かすれていた。
私は意地でも泣かなかった。
そうだ、これで良いんだ。
私たちは友達に戻るべきなんだ。
最初から分かってたじゃないか、そもそもこんないびつな、まるで共依存みたいな関係はよくない。
ならいっそ、変な期待は全部捨てて友達に戻りたい。
心の底からそう思うようにしよう。
「全然いいよ、さらちゃん。それより幸せにね。私とは友達として、仲良くしてくれる?」
「…うん。」
また不安な間があって、それから彼女は頷いた。
帰りの電車は、無言だった。
今までより世界が広く、それでいて窮屈に見えた。
私たちは帰宅する社会人たちの波に揉まれて、そのまま疲れ果てて挟まれて揺られていた。
この清々しく思いたいはずなのにもやもやした気持ちを当てる場所もなくSNSをいじっていると、タイムラインにまた画像のつぶやきが流れてきた。
『デート中。』
ちょっといつもより背伸びした小さな手と、その中に収まりきらない大きなスマホ。
私だ。やっぱり私だ。
投稿はお昼頃。私たちがカフェにいた頃だろう。
私は、それを見た瞬間、やり場のない憤りに駆られた。
そしてそれと同時に気づいてしまった。

——私たちは、愛したくて愛してるんじゃなかった。ずっと愛されたくて愛してたんだ。

分かった途端、虚しくなった。
でもその通りだった。
彼女は付き合ってる人がいながら私を愛して、私はやましい気持ちがありながらも他の人と一緒に彼女を愛した。
いいや、互いに愛してるつもりだった。
私たちはずっと寂しかった。
一人が自分を好いてくれてるくらいじゃ、ぽかりと空いた大きな心の穴には到底足りそうになかった。
だから寂しい相手をもう一人見つけて、傷を舐め合ってたんだ。
そう思うと今までの全部—深夜の秘密のガールズトークも、互いに嫉妬しあったカフェの昼下がりも、彼女がSNS上に密かに好意を匂わせてくれた初めての夏も、何より、出会った時の一目惚れさえも全部全部無駄だった気がして。
その夜は帰ってから、ボロボロに崩れた蝋人形のようにベッドで一度命を落とした。
——愛してるんだから、愛してよ。
そんな傲慢で一方的な闇が、心を覆い尽くしていく。
だって、だってこんなに好きだったんだよ。
何度もそう呟いた。
再認識するようにつぶやいて、それからふっと息を吐いた。
——もう、戻らなきゃね。
自分にそう言い聞かせた。

目を開けると朝日が差し込んで、それから視界が大きく歪んで、もう一度目を閉じる。
あれから、3日目。
不登校を脱却して以来、こんなに寝込んだのは初めてだった。
何度も認めようとして、私は彼女のことを嫌いになろうとした。
…けれど結局、彼女に嫌いなところなんて見つからない。
彼女は病弱で、儚くて、私がいないととても生きていけるような人じゃなくて、それでいてずるくて、愛らしくて、そして黒い前髪の中にいつも私を見る目を光らせているような人だった。
「ほんと、どこも嫌いじゃないじゃない。」
私は拗ねた声でそう呟いて、もう一度目を開けた。
また朝日が差し込んで、それが窓に光って、眩しくて私は目が覚めた。
——でも、私がいなきゃ生きて…いけないの?
私はふと、心の中で自分にそう問い直す。
考えたくもない答えが、そこに浮かんでくる。
——そんなことない。彼女は自分がいなくなってもっと多くの友達に支えられてて、それで、きっと私もその中に、入っていれば良いくらいなのかもしれない。
私はゆっくりとベッドから上体を起こす。
自然と身体の痛みは消えていた。
昨夜まであんなにもがいて、何度も何度も四肢に絡みついた蔦を払おうとしたのに。
もう、嘘みたいに、腕が軽い。
そっか。彼女と私は最初から、友達以上の何者でもなかったんだ。
彼女はずっと私がいなくたって生きていけて、私と仲良くしてくれていたのは間違いないけれどそれはただの…友達、として。
きっとそう。
胸に引っかかってた何かが、何故か納得したその考えにパリン、と砕けていく。
「戻るんじゃないや。ずっとそうだったんだね。ごめんね、苦しませて。」
私は誰もいない枕に向かって微笑んで、そしてそのまま自分の腕を撫でた。
枷が外れて、もうその後にベッドから出るのは容易いことだった。
「まゆ!どうしたの全く!」
「いや、全然平気なの。それより朝ごはんね。」
あまりの清々しい姿に母親は驚き倒し、私は何事もなかったかのように食事をする。
食器を片付けて、カーテンを開けて、朝日を全身に受けて、大きく伸びをして——
その時だった。
携帯が、机の上で大きく鳴いたのは。
『まゆちゃん、明日もう一回会えない?話したいことがある。』
彼女だ。
今更何を話すのだろう、と思ったが、もう私の中に突っぱねる理由もありはしなかった。
だって、私たち友達だもん。
『いいよ〜』
私は心の底から楽しそうな文体にすることを心がけてそう送った。
あたかも、ここの2日間、寝込んだことなんて無かったかのように。
『何なら今日でも良いけど。何もないし』
私は余裕ぶって、そう送ってみた。
でも本当に今日は何もなくて、あとシャワーさえ浴びてしまえばいつも通りに会えるような状態だったのだ。
『や、今日は私が無理。ごめん。』
彼女の返事はこうだった。
私はこの姿を、足枷が解けてすっとした私の姿を早く見て欲しかったのに。
あーあ、残念だなぁ。少しそう思ってしまう自分に気づいて、私はひとりでに笑った。

結局、ゲームと宿題の力を借りれば1日なんてすぐに潰れた。
今日は夏休み最終日。
友達になったさらちゃんと楽しく喋って終わろう!
…なんてそんな妄想は、彼女と会った瞬間に崩れ果てた。
彼女は私と違って、まだあのことを引きずっているようで、駅で会って手を軽く振ったきり俯いたまま何一つ喋ってくれない。
少し違和感を覚えた。
そしてその違和感は、席についていつものコーヒーとフラペチーノを注文し終わってから、彼女の一言と共に解けたのである。
「別れた。あいつと別れた。」
彼女はぼそ、ぼそぼそ、とそう呟いた。
受け入れたはずなのに、相変わらず耳に引っかかるその声。
そして、私の心の底には大きく驚きがはじけた。
「そっか。そうなんだね。」
でも何故だろう、上手く言葉が出てこない。
別になんともないのに。
「あの後すぐ振ったの。」
「その子、最後に何か言ってた?」
「いや、LINEブロックしたし知らない。」
彼女はまるで先生に叱られてる小学生みたいに、ぽつ、ぽつ、としか言葉を紡がなかった。
私の中には不思議とひとつの期待が垣間見えたが、それをグッとおさえる。
もう一度、とはもう望まないから。
でも彼女は、その一言を発しようとはしなかった。
じゃあ何故私にそんな、「彼氏と別れた」なんて報告をしたかというと、それが彼女の言っていた「話したいこと」なんだろう。
その先にあるものが「話したいこと」なんじゃなくて。
または、まだ私が彼女のことを好きでいると彼女は思っていて、その一言を、私達が特別になる一言を私から言って欲しかったのかもしれない。
…え、なんで?
私は片眉を上げた。
何故彼女の中には、私がもう、彼女と友達でいることを受け入れてしまったかもしれないという考えがないのだろう。
その少し考えが至らないような行為に、言ってしまえば自惚れた彼女に、私は初めて少し嫌悪感のようなものを覚えた。
「ねぇ、まゆちゃん、ずっと一緒にいて。お願い、一緒にいて。」
カフェで私の瞳を見つめながら懇願する彼女に、私はどう返したら良いかわからなかった。
私たちがすれ違ってしまったのは確かで、それをどうすれば良いのか。
実を言うと、私にはそれを受け入れる余裕があった。
そしてそれを受け入れられるほどの自惚れた心もまたあった。
なのに、私は受け入れることも、拒絶することもできなかった。
何故って?怖かったからだ。
ここで、「じゃあ付き合おう」だとか、「じゃあ一緒にいよう。私も愛してるよ。」だとか、そういう甘ったるい言葉を口にするのは簡単だし彼女はそうして欲しいのかもしれない。
けれど私はその先が怖くて仕方ないのだ。
だって、もしこの先私と彼女が恋人のような仲になったとして、そのあとはどうする?
『恋人の行く末は、結婚か別れか』
こんな言葉を聞いたこともある。
同性婚がうんたら、そういう問題はあとにして、私は彼女ととてもそういう仲にはなれそうな気がしないのだ。
となると、私たちの結末は別れ。
そんなのは嫌だ。
別れるくらいなら友達として彼女と一緒にいたい、という気持ちもあったが、それよりずっと、「傷つきたくない」という心の方が私の中には大きく膨らんだ。
だって昨日まであんなに傷ついたのに!
それにもうひとつ、私は彼女が怖くて仕方がなかった。
彼女には多くの友達がいて、多くの親しい人がいる。
弱くて脆い故に相手に、「自分がいないといけないんだ」と思わせる力のようなものが彼女の中にはあるのかもしれない。
実際、彼女の中ではきっと「友達」であった私も、恥ずかしいことにそう思い込んで酔っていた。
なら、今後同じようなことがあってもおかしくはないのではないだろうか?
だからこそ、彼女は毎朝たくさんの「おはよう」を貰っているのではないだろうか?
私は怖くて、どうしようもなくて、結局その日は「そっか、そっか」と彼女から漏れ出る彼氏の愚痴やら何やらを聞き流したまま。
そのまま帰路に着いた。
電車の中、帰宅するサラリーマンや学生たちに揉まれながら、私はため息を吐く。
——やっぱり、世界はこんなに広いのに、何故私は今までそれにすら気づかなかったんだろう。
そして今日のことを思い返して、彼女の顔を思い出す。
彼女はまだ、寂しいままなのだろうか。
だからあんなに必死に、私に「もう独りだよ」と教えてくれたのだろうか。
わからないな。
心の中に再び現れるモヤを振り払おうと、私はお留守になっていた片手でSNSを開いた。
そしてそこで、彼女の心の声を見てしまうのだった。
『ごめんね。まぁお幸せに。』
誰かに対する返信のようだ。
タグ付けされているアカウントに飛ぶと、すぐにその投稿を見ることができた。
『彼女に振られた。なんか理由もよくわかんない。俺、何が悪かったんだろ。』
私は目を見開いて、息を呑んだ。
なんてことをしてしまったんだ、私は。
罪悪感に押しつぶされそうになって、何とか立っている状態になって、そのまま電車に大きく揺られて、よろけてドアに激突した。
私は自分の勝手で彼女を好きになって、振られて、そして自分の勝手で彼女をまた友達として認識するようになった。
そして今まで気づかなかったほどに世界は広すぎて、その裏では、私によって傷つく人があってしまった。
自分はそんなつもりじゃなかったのに。
私はますます混乱して、ドアにもたれかかる。
怖い。私は独りになった彼女を抱きしめるのが怖い。そうしたくはない。
けれど、人を傷つけてまで手に入ってしまったものを捨てるべき?
私はどうすればいいの?
だって私あんなに好きだったのに、今はもうそんなんじゃない!
あんなに苦しんで、あんなにもがいてやっと抜け出せたのに。
今更そんな半端な気持ちじゃ受け入れられそうにないよ。
あまりに深すぎる沼に片足をはめてしまった私は、もうそこから抜けられそうにはなかった。
でも私は思い切ってそこに潜る勇気も持ち合わせていない。
だから、結局うやむやにしたまま、心の中にわだかまりを抱えたまま、私たちは夏休みを終えることとなってしまった。
8月31日。
風に残った暑さはまだ、いたずらに私たちを苦しめるばかりだった。


『そういえばさらちゃんと何かあったの?』
彼女のLINEを見返している時、ふと別の通知が鳴った。
同じクラスの友達からだ。
『なんで?』
『いや、まゆちゃんいつも、さらちゃんの話になると話題逸らすじゃん。偶然?だったらごめん。』
バレちゃってたか。
私はどう返そうか、と少し悩んで、それからまた親指を動かす。
『偶然だよ。なにもない。心配ありがと』
本当は、そんなことない。
あの夏の思い出が今でも私の足を引きずって離さないのに。
『そっか〜!なら良かった!そういえば今度、うちの演劇部の公演のチケット渡すためにわざわざ駅まで来てくれるみたいだからまゆちゃんも会うと思うよ〜!久しぶりに会って話して、仲直りでもしたら?』
えっ、と声が漏れ出た。
そんな、会うだって?
もう彼女の口から出る言葉の断片にすらも触れたくないのに。
『そっか!楽しみ〜』
自然と打った文字は、嘘で塗れていた。
そして私はふと、こんなことを思った。
——そっか、私たち、もう半年も会ってない…そして、これからも。それが続くことを、私は願ってしまっている。


夏休みが明けてすぐに期末考査があって、時はすぐに流れていった。
気づけば中学3年生が、もう半分終わっている。
そして友達に戻った私たちはある種の気まずさを抱えながら、それでも他と馴染めずに、ただ水の中に混じった油の泡みたいに集まるしかなかった。
「私さぁ、貴方と同じように上の高校にあがりたいのね。だから、行くよ。同じ塾。」
ある日、帰りの電車の中で彼女はこう呟いた。
私は、彼女が前向きに変わったみたいでただそれが嬉しかったけれど、もう前みたいに表立って大喜びはできなかった。
「や、私も上がれるかわからんよ。」
私は冗談まじりに笑う。
「いやいや、貴方は行けますよ。ねぇ。」
彼女も同じようにする。
また二人だけの世界に入ってしまいそうで、私は怖くて思わず目を逸らした。
彼女といると、私は不思議と自分が好きになっていく。
「まゆちゃんは、私とは違うからさ。」
「でもずっとまゆちゃんと一緒にいたいんだ。」
「まゆちゃんがどう思ってるかは知らないけどさ。」
「でもやっぱり、一緒にいられたらなって思うんだ。」
彼女の口から途切れ途切れに這いずり出てくる言葉が、どうしても心の端に残って離れない。
自分をこんなに愛してくれていて、でも彼女は私がどう思っているか不安で、そんな怯えている姿もまた可愛らしくて。
でも、もう私は彼女を好きにはなれない。なりたくない。
なのに、自分はこんなことをして、突き放すわけでもなくただ彼女の不安と自分の優越感を食い物に突っ立っているだけなのだ。
そして、そんな自分が嫌いになっていく。
「私もだよ、さらちゃん。だから一緒に頑張ろ。」
私は半分本当で、半分嘘の言葉を吐いた。
でも、彼女のあの言葉が、私を振り向かせるために必死に吐いた嘘だとわかってしまうまでに時間はさほど要さなかった。
いや、本当にそう思っていたのかもしれない。
けれど、私たちの間に出来た、針で突いたような小さな傷は、やがて少しずつ枝を成して、確実に拡がっていくのだった。
後期中間考査。私たちが、互いに劣等感を抱えて、それも必死で、なんとか自分の生きる価値を見つけようとして挑んだ戦いは、互いの中のわだかまりをさらに大きく、固くしたものとなった。
「さらちゃーん、どうだった?」
私が笑顔で尋ねると、彼女は俯いた。
彼女は私と同じ塾にこそ通い始めたものの前期末考査が終わったあたりから徐々に教室に来なくなり、一方で私は高校に向けて徐々に保健室に通う回数を無くすように努めていっていた。
もうその差は、数字として既に現れ始めていた。
「そっか…でもまださ!学年末があるから!そこで一緒に頑張ろ!ね!」
私は心の底から優越感を覚えて、快くそう言い放った。
彼女のことが好きな自分。
いや、私のことを好いてくれている彼女に優しくしてあげてる自分。
教室に「来られない」彼女とも仲良くして、差別のない目で見てあげられる自分。
もう自分でも気づき始めていただろうが、私は自分が生きることにずいぶん必死だった。
「数学、問題集3周解いたのに。」
彼女が心底落ち込んでいるように呟いたので私は心が躍ってつい口を滑らせた。
「えーすごい!私より解いてんじゃん!」
私は自分の失言に気づかなかった。
彼女が、自分よりも遥かに低い点数を取っていることは知っていたのに。
それなのに私は、あんなに笑顔で、彼女の心を無意識に殺めようとした。
だからかもしれない、彼女がぼそりと、小さな抵抗を見せたのは。
「でも、英語はまぁまぁ…」
彼女が見せてきた回答用紙には、私と同じ数字が書かれていた。
私は驚いて、それと同時に自分の口元の酸素が薄くなっていくことに気づいた。
彼女は私よりずっと授業にも出ていないし、塾でも真面目に勉強はしていないように見えた筈だった。
同じ点数というだけで、なぜか私の心には焦りが灯った。
そしてその焦りは、「嫌い」という文字に変換されていって、少しだけ私の心を毒した。
何承認欲求発動しちゃってんの、やっぱり寂しい子なんだね。
なんてそんな強がりな心が少しずつ私の頭の中に見え隠れしていった。

保健室での私と彼女の待遇もまた、私たちの道を決定的に枝分かれさせていった。
「あらーまゆちゃん!疲れちゃった?そりゃ疲れるわよ、だって最近頑張ってるものね。休んでいく?無理したらまた折れちゃうから。」
たまに行く保健室で、養護の先生は私を暖かく迎えてくれた。
そして頭を撫でて、ベッドまで付き添ってくれた。
一方で、その隅に住み着く幽霊には冷たい目を見せた。
「ちょぉっと、教室教室!大丈夫疲れてないから!いけるいける!」
黒いフードを被った幽霊に、彼女は励ますようにそんな言葉をかける。
でもその裏に垣間見えた言葉は、私にも彼女にも容易く読み取れた。
だからこそ私は自分が努力していることを誇りに思って、彼女のことを寂しい、悲しい、努力しようとしない、そんなふうに認識し出した。
なのに彼女は私よりずっと、ずっと「できる」子だった。
たまに来る授業では「や、わからんけど。」と言いながら必ず答えを導き出して、そして自信なさげに笑う。
それが段々、彼女のことを遠ざける理由になっていった。
私は認めたくなかった。
この気持ちが「嫌い」なんじゃなくて、もっと他の言葉で表せる幼稚なものなんだって。
それはまるで自分のお母さんが目の前で他の子を褒めて、拗ねている子供と同じみたいだって。
だから私は彼女にもっと、もっと笑顔を見せるようになっていった。
内に秘める、軽く(なみ)した嗤いを隠しながら。
「ねぇ、まゆちゃん。」
もう頬に触れる風が痛いほど冷たくなってしまった冬休み、屋上で彼女は空を見上げてぼやき出した。
彼女はやったのに忘れた課題の提出について、それと授業に出ないことについて、ついさっき先生にまた咎められたばかりだった。
「もし私が、今ここから飛び降りたらさ。まゆちゃんどうする。」
脅すような口調ではなかった。
むしろ乞うように怯えた声で、そして私の顔を見るのが怖いようで遠くを見つめていた。
私は彼女はここで死ぬわけなんて、そんなわけなんてないんだと心の中で嗤った。
だって貴方、赤点は持ってるけど、先生には嫌われてるけど、でもそれ以上にもっと色々なものを持ってる。
私が描きたいような絵も描けて、ネットでは私よりずっと多くの人に愛されて、それなのに努力をしようとしない。
努力をしようとしないくせに、たまに私が欲しいようなものを簡単にかっさらって行って、それなのに「私は何も持ってない」って泣くんだ。
そして、その泣き声を聞いた人が集まってきて、私が欲しかったものを全部与えるんだ。
自分のほうが成績は上だし、自分のほうが先生には本当に好かれているのに、私の心は彼女にしか行かないみたい。
私は大きく息を吸って、それから彼女の顔をしっかりと見て答えた。
「さぁ、ここから逃げると思う。」
私は自分でも震えていることに気づかなかった。
「なんで?」
彼女は悲しそうにまた問う。
私は声を張って言った。
「だって罪に問われたくないから。」
彼女ははっと目を見張って、私の目をしっかり見て、それから目に溜めたものをこぼさないようにして、消えそうな声でつぶやいた。
「そっか。」
そして逃げるように、その場から走り去っていった。
後悔はない。
私はもともとこう言うつもりで、何故かというと彼女が本当は「死にたい」だとかそういうことを言いたいんじゃないということを知っていたからだ。
彼女には素直にそう言わせたかった。
こんなにきつい言葉だって、彼女を変えるためのものなんだ。
…というのが、私の口実だった。
でも徐々に、徐々にそういう口実も意味をなさなくなっていった。
自分はもうとっくに気づいていた。
私は、ただ優位に立ちたいだけだと。
そしてそれゆえに虚勢を張っていることもよく知っていた。
張ったものは伸びて、伸びて、伸びて、そしていずれ破れる。
私の心も、限界に近づいてきていた。

冬休み、もうそろそろ私たちの最後の戦いが近づいてきていた。
学年末考査。
ここで全てが決まる。
私が、彼女が、附属の高校に上がれるかどうか。
高校は義務教育じゃない、ゆえに外れた道のその先は確約されていない。
私は必死になって、机に張り付いた。
高校に上がりたいし、それがずっと夢だった。
不登校になった瞬間に叶わないと思っていた夢がもうそこに、手の届くところにあるのなら、それを掴みたいと思った。
けれど何より…彼女に負けたくなかった。
来てないくせに。
努力なんてしてないくせに。
私の中には明らかに彼女に対する蔑みがあった。
どうせ今も遊んで、愛されて、ネットに絵をあげていいねでもいっぱいもらってるんでしょ。
でも私は違う!
私は違うんだ、私は努力してるんだ!
なのに…彼女は、私よりずっと持ってる。
私は暗闇の中でもがきながら問題集を解いていた。
息が苦しくなって、指が震えて、それでも答えを書いて、解答を開いて。
不正解。
簡単な問題な筈だった。
私は握っていた赤ペンを落として、そしてそのまま机に頭を何度も打ちつけた。
鈍い打撃音が何度も響いて、額が血と涙で滲んで、喉が叫び声に掠れていく。
「どうしたの!何、どうしたのまゆ!」
飛び出してきた母に抱き抱えられて、私は大声をあげて泣いた。
恐怖と不安に絶叫した。
「私だって頑張ってる!頑張ってるのよ!なのになんで出来ないの!ねぇ!なんで出来ないのよ!!!」
壁に跳ね返った言葉が自分の耳をもつんざく。
「あいつは出来るのに!なんで私には出来ないのよ!!!こんなに頑張ってるじゃん!!!!ねぇ!!!!!」
母の鼓膜が破れかかろうと、母の気道が締まりかかろうと構わず私は叫び続けた。
暫く叫んで、私は彼女の肩に顔を埋めて、そして静かに上がった呼吸で必死に酸素を吸っては吐いた。
彼女は私を抱きしめたまま赤子を寝かせるように身体を左右に揺らして、頭を撫でるだけだった。
「でも、だって、私、さらちゃんと一緒に、いたいのに」
「なんで?なんで一緒にいたいの?」
彼女は途切れ途切れの私の言葉を遮った。
私はその答えがすぐには見つからなかった。
もう、わからなくなってしまっていた。
努力する私、努力しない彼女、強い私、脆い彼女、劣等な私、そして優秀な彼女。
私の頭にあったのはたったのそれだけで、好きとか嫌いとか、そんな単純な言葉は見つかりそうになかった。
自分でも自分がいかに苦しいか、わかっていた。
苦しさから逃げようとして勉強をしても、張った虚勢が邪魔してうまくできない。
それでも私は何故か彼女と離れられなくて、まるで抜けられない沼に足を取られたみたいにいつまでもいつまでももがき続ける。
息が苦しい。
苦しいよ。
「離れな。苦しそうだよ。」
彼女はそれだけ言った。
呼吸が止まって、目を大きく開いて、天井の眩しい照明が真っ白になって。
私の心は、静かに、ぽきりと折れて、そしてそのまま亀裂は、二度と塞がらない奈落へ。
私は藤原さらという存在を、不自然に避けるようになった。

「はぁ?大丈夫でしょまゆちゃんは。いけるいける。絶対上行けるから。」
これは塾の先生の言葉。
「大丈夫だよ、まゆちゃん今頑張ってるし授業も出てるじゃん。高校には上がれるよ。」
これは担任の先生。
「お前がいけないことはないだろ、だって今のところ赤点ないし。」
これは父親。
身の回りの誰からも太鼓判を押されたように、私は心に渦巻く暗闇の未来とは逆方向に進んでいった。
学年末考査。
私は、中学1年生の時とほぼ同等の点数を取って、附属高校への切符を手にしたのだった。
大好きなコスメを10000円分買った。
努力が報われた、最大限にそう思える結果だった。
その一方で光の中に落ちた影は、より深く黒を増していった。
藤原さらは、通信高校に進むことになった。
それと同時に絵の予備校に行くとも聞いた。
彼女がとても楽しそうだと誰かから聞いたけれど、私は望んでなかったくせに、なんてまた軽蔑した。
もうそうするしかなかった。
「絵の学校に進むんだって〜!」
「えーすごいなにそれ、かっこいい!」
誰かがそう噂してるのを聞いて、私は唾を吐くように鼻で笑った。
きっと彼女だって私と同じくらい望みを持てば、一緒に上がれた筈。
なのにそうしなくて、自分がそうしなかったのに未だ強がっている彼女が惨めに見えた。
例えるならSNSに自撮りを載せる女子、または体重を載せる男子、またはプリクラを載せるカップル。
彼女と同じように見えた。
「そういえば私、また彼氏できたんだ。」
彼女はある日、私をつかまえて得意げにそう言ってきた。
また強がっちゃって。
心に苛つきが宿って棘が刺さる。
「そう。おめでと。」
私はそれだけ言って、彼女の手を振り払った。
彼女の手を振り払った後に、何故か後悔して、そしてもう一度彼女の手を握り直して私は笑顔を作った。
「でも、私とも仲良くしてよ。」
暫く話していなかったからだろうか。
彼女はとても嬉しそうな顔をして、それから大きく頷いた。
その顔にまた優越感を覚える自分が嫌いだった。
卒業式はあっという間だった。
私や多くの生徒にとっては卒業式であってそうではなかったけれど、彼女にとっては本当に卒業だった。
「あの、また会ってくれる?学校変わるけど。」
最後、道を別つ直前、彼女は私の手を取って引き寄せた。
相変わらず冷たくて骨ばった手。
私はその手を温かい、柔らかな両手で包み込んで優しく微笑んだ。
「勿論!」
彼女の笑う目が、喜ぶ声が、最後まで私の脳裏に突き刺さって止まなかった。
そしてそれ以降、私たちの行く先が交わることはなかった。

**
「ちょっとまゆちゃーん、おそーい!はーやーくー!」
駅の上り階段、私は重たい荷物を背負って歩く。
その先には笑って手招く部活仲間。
私は、高校に上がって自分を変えようと這い上がってきた。
あれ以来誰かひとりと一緒にいるのが怖くなって、多くの友達を作った。
入ったのは演劇部。
もともとネットで劇をしていたものだから、入ってすぐに馴染めたし可愛がられた。
保健室には一切行かなくなり、その分休み時間は友達と話したり、演劇部の作業をすることに費やすようになった。
完全な健常者。
自分が思い描いた、理想の青春生活。
なのに私は、ずっと、ずっと後悔していた。
あの日別れたこと、あの日偽りの心で手を取ったこと。
私が彼女に毒されて、依存して、心を病んでいったのは確かだった。
けれど彼女は、私の中で確かに、大きな存在だった。
あんなに近くて、分かり合えて、好きだった人は今までもこれからもずっといなかった。
…もっと、いい方法があったかもしれない。
今更、そんな心が少しだけざわつく。
階段を猛ダッシュして、駅の改札を潜り抜けて、ホームまでの下り階段を誰が1番速く降りられるか競走したりして。
「わーいいっちばーん!」
先に走り終えた友達の背中を、後から追う。
「ちょっとまってはやー!荷物軽いでしょー!不公平不公平!」
あえて大きい声でそんなふうに叫んでみて、だはは、なんて大声で笑って、私もバランスを崩しながら勢いよく階段を駆け降りた。
その瞬間。
ホームの隅に、幽霊が見えた。
私は自分の足が氷みたいな何かに包まれて動かなくなっていくのを感じた。
「あー!さらちゃん久しぶりー!チケットだよね!」
みんなが、駆け寄っていく。
さっきまで私と笑い合ってた友達が。
私は遠くから、それをただ見つめていた。
「はぁい、これうちの公演のチケット。まじでめっちゃ楽しみ〜!絶対来て!」
差し出されたチケットを受け取る細い手。
藤原さらは確かに、そこにいた。
「ありがと。みにいくね。」
彼女は笑ってそれをポケットにしまう。
「あ、そうそうまゆちゃんもいるの!話したら?」
みんなが彼女の背中を押して、接近していく二人の距離。
私は耐えきれなくなって後退りした。
「ごめん、私トイレ!」
そう叫んで、さっき下った階段をのぼっていった。
その後も公演前の楽屋で、次の公演で、何度でも顔を合わせて喋るチャンスはあったけれど、私は彼女のことを遠ざけた。
『勇気出ない。話したいのに、やっぱダメ。』
未だフォロー、ミュートしたままの彼女のSNSにはそう書かれていて、それを見るたびにまた無視してやろう、なんて優越感を覚えてしまう。
私は何も変わっていなかった。
あの日から時が止まったまま、ずっと。
彼女は私を追いかけ続けて、私はそれをいいことに遠ざけ続ける。
イタチごっこが、延々と続いていく。
でももう私は自分の中に潜む悪魔に気づいていて、だから尚更後悔していた。
後悔して、後悔して、後悔して…
そして、彼女と私がどうしてこうなってしまったか、自分の中に溜まりすぎた思い出を抱えきれなくなって、そうやって書き始めたのが、この小説だった。
告白のシーンまで書き終えて、後悔が自分の中から溢れ出してきた。
最低だ、自分は最低だ。
久しぶりに彼女とのLINEを開いた。
『ねぇ、俺って関わらないべき?』
長らく既読をつけなかったメッセージが虚しく残っていた。
『やっほー、久しぶり!』
私はそう打って、静かに消す。
『ううん、そんなことないよ。仲良くして』
そう打ってまた消す。
いつかの恋心を抱えていた時と同じことをしているのに、指は悴んで赤いまま。
もう優越感に浸りたくはなかった。
『今なにしてる?』
私は悩んだ末にそう打って、送信ボタンを送った。
送信中…
私は鼓動を何度も飲み込んで、その文字を見つめた。
けれど、いつまで経っても言葉は届かない。
不思議に思って彼女のアイコンをタップしてみる。
私は息を呑んだ。
—投稿はありません。
あったはずの思い出が、全て消えていた。
そして私は静かに、彼女が初めて示した拒絶反応を悟った。
嗚呼、そっか。貴方は変わったんだね。
頬に涙が伝っていく。
依存から抜け出した彼女は、自らの道を歩み始めていくのだろう。
なら…
私も、そうしなければ。
私も変わらなければ。
私は青い鳥のアプリを開いて、そしてミュートしたアカウントを表示する。
「ばいばい。」
掠れた声でそう呟いて、静かに、ブロックボタンを押した。
自然と後悔は残らなかった。
私はもう、過去に何も置いてこなかったから。
携帯を伏せて、指で涙を拭って、そして眠りにつく。
私も、彼女も、気がつけば大人になっていた。


最初は、ただ一目惚れだった。
それなのに私たちはいつから誰かを澄んだ目で愛せなくなったのだろう。
それを教えてくれたのは、いつだって彼女だった。